両家顔合わせで嫁の母を平手打ちした姑――その場で本当の正体を知り、姑は青ざめた

第2部

     

「健造君、そしてみよこ様。私はあの31年前の融資の担当者として、もう一つどうしてもここで明らかにしなければならない事実があります」

白石さんの眼鏡の奥の瞳が、これまでにないほど冷徹に、そして確信に満ちて光り輝いた。その視線は畳の上に崩れ落ちているれ子と震える優馬へと向けられた。

「れ子さん、そして剣造君。よくお聞きなさい。31年前、神谷茂蔵様が再木不動産を救う際、白石銀行を交えて作成した特別信託契約。そこには単なる土地や資金の提供だけでなく、万が一制約違反が発生した場合の極めて厳格な法的特約が記されているのです」

白石さんは眼鏡のブリッジを静かに押し上げ、書面の一行を指でなぞった。

「万が一、乙(再木家)が甲(神谷家)に対する人道的な品格を著しく欠き、制約違反が認められた場合、甲の唯一の相続人である高橋美子様の申し立てのみによって、再木不動産の全発行株式の51パーセント、すなわち絶対的経営権を即座にかつ無条件で無償譲渡するものとする」

「な……」

れ子の喉から引きつった悲鳴のような音が漏れた。

「経営権……株式の無償譲渡だと……? 何よそれ。そんな馬鹿げた契約あるわけないじゃない。白石さん、あなた元銀行員でしょう。そんな出たらめな紙切れ一枚でうちの会社を乗っ取ろうとするなんて。立派な犯罪よ。詐欺よ」

れ子は髪を振り乱し、狂ったように叫んだ。それまでの「名家の上品な奥様」という化けの皮が完全に剥がれ落ち、地獄の亡者のように醜い顔をして畳をバンバンと両手で叩きむしる。

「大体あの美子とかいう女、最初からこれが目的でうちの優馬にあの娘カノンを近づけたのよ。そうに決まっているわ。人の気にうちの会社の財産を丸ごと騙し取ろうとするなんて。この詐欺師揃い、泥棒猫よ!」

「れ子、いい加減にしろ! 黙れ! 黙れ!」

剣造さんが畳に額を擦りつけたまま、喉を引き裂くような声でれ子を一喝した。だがれ子の暴走は止まらない。

「剣造さん、あなたこそしっかりしてよ。どうしてこんなボケた老人の言うことを真に受けているの? 白石さん、あなたも70でしょう。頭がおかしくなったんじゃないの? うちが大得意様だからって裏切るなんて許さないわよ」

「れ子さん」

白石さんの声は驚くほど静かで、それゆえに恐ろしいほどの冷徹さを帯びていた。

「私は元銀行員としてこの契約書の原本を同行の役員金庫に保管していた当事者です。美子様が神谷家の正当な後継者であるという公的書類もすでに手元に揃っている。これが法的に十割有効な契約書であることは、明日になれば再木不動産の顧問弁護士が一番よく理解するでしょう。美子様がその気になれば、明日臨時株主総会が開かれ、健造君は社長の座を追われ、あなた方の役員報酬も全ての資産も一瞬で差し止められるのだよ」

「嘘……嘘よ……」

れ子は力なく首を振り、壁に背を預けたままずるずると畳の上に滑り落ちた。個室の中はただ引き戸の向こうで降り続く雨の音だけが静かに響いていた。

そんなれ子の狂気じみた罵詈雑言に対し、私は一言も言い返さなかった。晴れ上がった右頰は赤く熱を持ち、ズキズキと痛むはずだった。だが私の背筋はまるで凛とした一輪の百合のように美しく伸びていた。この瞳は怒りに燃えることも怯えることもなく、ただ冬の湖のように透き通っており、目の前でみにくく取り乱すれ子を静かに哀れみすら込めて見つめていた。その圧倒的な沈黙こそが、何よりも重くなってれ子の薄っぺらい言葉を全て虚空に消し去っていく。

「お母さん……もうやめてくれよ……」

それまで黙り込んでいた優馬さんが頭を抱えて畳につっぷしたまま、ガタガタと震える声で叫んだ。

「白石さん……本当なのか? 本当に僕たちの会社はお母さんの一言で全部美子さんのものになっちゃうのか」

「事実だ。優馬君」

白石さんは冷酷に事実を告げた。

「君たちが『貧乏人』と見下し、その尊厳を踏みにじった美子様こそが、君たちの生死を握る本物の支配者だったのだよ。いや、支配者という言葉は正しくないな。君たちをずっと影から黙って生かし続けてくれていた本物の恩人だ」

カノンはそんな優馬さんの無様な姿をただ冷やかな目で見つめていた。その瞳からはもう涙すら流れていなかった。ただ自らの保身のために母親の暴挙を黙認し、今また自分たちの会社のために怯える男への深い軽蔑だけが宿っていた。

「れ子……」

剣造さんが涙と油汗で濡れた顔をゆっくりとあげ、妻であるれ子の服の裾を弱々しく引っ張った。

「茂蔵様はな、俺たちの会社を乗っ取るためにこんな特約を作ったんじゃないんだ。俺が富と権力に目をくらまされ、人としての品格を失って傲慢な怪物になってしまった時、会社を、そして俺自身を正しい道に戻すための最後のブレーキとしてこの契約を残してくださったんだ」

剣造さんの大粒の涙が畳を濡らしていく。

「それなのにお前は……お前は俺たちの命の恩人の娘に向かって何ということをしてくれたんだ……」

剣造さんの絶望の言葉が個室の中に重く沈み込んでいく。だが驚愕の事実はこれだけでは終わらなかった。

白石さんは私のケースからもう一つの書類、古びた茶封筒の中からさらに別の真実を取り出そうと静かに手を伸ばした。

「れ子、お前は自分がなんと恐ろしい口を叩いたのか本当に分かっているのか」

畳に両手をつき、涙と油汗で顔をぐしゃぐしゃにした剣造さんが喉をからして叫んだ。その声はもはや怒りではなく、神罰を目の当たりにした罪人のような底知れない畏怖に満ちていた。

「な、何よ健造さん。さっきから神谷だの昔の恩だのって。いくらあの人がうちを救ってくれたからって、今更そんな大昔の話を持ち出して私たちを脅すなんて卑怯じゃない」

れ子は必死に自分の崩れかけた虚栄心を守るように言い返した。だがその声は微かに震えており、目元からは隠しきれない動揺が漏れ出している。

剣造さんはそんなれ子を振り返ることすらせず、血走った目で私が着ている着物の袖を見つめた。

「美子様……恐れながらお尋ねいたします。あなたが今日その身にまとっていらっしゃるそのお着物、それはお母様であられた静子様のご礼の時の唯一の形見でございますね」

剣造さんの震える問いかけに、私は静かに目を伏せた。そして晴れ上がった右頰の痛みに耐えながら、優しく慈しむように相色の有紋付き麦わら色の袖をそっと撫でた。私は何も語らない。ただその静かな仕草こそが何よりの回答だった。

「やはり……やはりそうだったのか……」

剣造さんはまるで胸を刃物で突き刺されたかのように絶叫し、畳に何度も頭を打ちつけた。

「あなた一体どうしたのよ。その着物が何だって言うのよ」

キーキーと狂ったように叫ぶれ子に対し、剣造さんは涙を流しながら一文字ずつ絞り出すように語り始めた。

「れ子、お前は美子様のお母様が28年前にどうして亡くなられたか知っているか」

「え? そ、そんなの病気か何かでしょう? 私に関係ないわよ」

「大ありだ。お前が今『カビ臭い安物雑巾以下』と踏みにじり、お茶をかけたそのお着物。これはな、神谷家が俺たち再木家を救うために命と引き換えにして残した最後の遺品なんだよ」

個室の空気がさらに一段と冷たく凍りついた。優馬さんもカノンも、剣造さんの言葉の重さに息を飲んで立ち尽くしている。

「31年前、茂蔵様は我が家を救うためにご自分の財産のほぼ全てを現金化し、白石銀行に預け入れてくださった。だがそのわずか2年後だ。茂蔵様の最愛の妻であられた静子様が重い心臓の病に倒れられた。一刻を争う大手術が必要だったんだ」

剣造さんは拳を握りしめ、畳を血がにじむほど強く叩いた。

「当然手術には莫大な費用がかかる。だが神谷家にはもう一円の蓄えも残っていなかった。なぜなら神谷家の全財産は俺たち再木不動産を生かすための保証金として銀行の金庫にロックされていたからだ。もしその金を解約して手術費用に当てていれば、再木不動産への融資は引き上げられ、うちはその瞬間に倒産していた」

「そんな……それじゃあ……」

優馬さんが真っ青な顔で絶句した。

「俺はそれを知って慌てて茂蔵様の元へ走った。『お願いですから保証金を解約して奥様の手術代に使ってください。うちはどうなってもいい。倒産しても構いません』と畳に額を擦りつけて泣き叫んだんだ。だが茂蔵様は何とおっしゃったか。れ子、お前は分かるか?」

れ子は口を小さく開けたまま、カタカタと顎を震わせることしかできなかった。

「茂蔵様は優しく俺の肩を抱き、こうおっしゃったんだ。『健造君、君の会社が潰れれば、そこに働く何十人もの社員やその家族が路頭に迷う。私の妻の命は天命に任せよう。だが君の会社の社員の命は君の手の中にある。ここで保証金を解約してはならない。私は君を信じているよ』と」

剣造さんの大粒の涙が畳にポタポタと落ちていく。

「茂蔵様はご自分の妻の命よりも、俺たち再木の会ったこともない社員たちの生活を優先してくださったんだ。その結果静子様はまともな治療も受けられず、冷たい市民病院のベッドで静かに息を引き取られた。その静子様が美子様に残された唯一の遺品が、そのお着物なんだぞ」

剣造さんの告白は料亭の個室にこれ以上ない残酷な真実として響き渡った。れ子が「カビ臭い雑巾以下」とあざ笑い、平手打ちを見舞い、冷たいお茶をかけ、土下座を要求したその着物。それは自分たちが今、再木家として贅沢な暮らしを享受できているその命の犠牲そのものだったのだ。

「そんな……嘘……そんなの作り話よ……」

れ子は頭を激しく振りながら自分の両手を見つめた。自分がさっきまでどれほど恐ろしい大罪を犯していたのか。その事実の重さに彼女の薄っぺらいプライドは粉々に砕け散ろうとしていた。

その時、ずっと静かに控えていた女将の静さんがゆっくりと立ち上がり、凛とした声で告げた。

「嘘ではございません。静子様が亡くなられる前夜、私はこの明月庵の布団の中で静子様からそのお着物を託されました。静子様は痩せ細った手で私の手を握り、『いつか美子がとつぐ日が来たら、この着物を仕立て直して着せてやっておくれ。私にできる唯一の親孝行だから』と微笑んでいらっしゃいました。みよこ様が今日そのお着物を召されてここに来られたのは、神谷家としての誇りと、亡きお母様への深い愛情があったからに他なりません」

静さんの凛とした証言がれ子の最後の言い訳を完全に叩き潰した。

「ああ……」

れ子の口から魂の抜けたような枯れた声が漏れる。彼女は自分がただ「貧乏人」をいじめていたと思っていた。だが実際は自分たちの命の恩人であり、その恩人の母親の命の象徴を自らの手で踏みにじっていたのだ。

「僕は……僕はなんてことを……」

優馬さんが頭を抱えてその場に崩れ落ちた。彼は母親の暴挙を黙認し、カノンに「形だけでも土下座しろ」と言い放ったのだ。自分がどれほど卑劣で、どれほど恩知らずな男だったのか。その自責の念が優馬さんを激しく苛んでいる。

静まり返る個室の中で、仲人の白石さんが静かにけれど決定的な一撃を放つために書類を手にした。

「れ子さん、そして剣造君。これで全てが明らかになりましたね」

白石さんの眼鏡の奥の瞳が凍りつくような冷徹さで光り輝いた。静まり返る個室の中で白石さんが手にした書類を広げる音がやけに大きく響いた。

「これは31年前、再木不動産が救済融資を受ける際、神谷茂蔵様と再木健造君、そして白石銀行との間で交わされた特別信託契約書の原本です。健造君も当然この内容を覚えているね」

畳に額を擦りつけたまま剣造さんはただ獣の呻き声のような声を漏らすことしかできなかった。

「覚えているか。ならば私が代わりに読み上げよう」

白石さんは重々しく、そして一言ずつを叩きつけるように読み始めた。

「再木不動産は甲(神谷家)から受けた多大なる恩義を忘れず、常に社会的・人道的な品格を保持しなければならない。もし乙またはその一族がその富を傘に着て不当に他人を侮蔑し、品格を著しく欠く行為に及んだ場合は、その事実を持って制約違反とみなすことができる」

白石さんは一度読む手を止め、冷ややかにれ子を見つめた。

「制約違反が認められた場合、甲の申し立てに基づき白石銀行の立ち合いのもと、以下の措置を即座にかつ無条件で実行するものとする。第一に、再木不動産本社ビルが立つ駅前一等地の底地使用契約を即時解除する。第二に、神谷家が担保として提供している全財産の引き上げを行い、それに伴い白石銀行は再木不動産に対する全ての融資を期限の利益喪失として即座に全額回収する」

「な、何よそれ……」

れ子は立ち上がろうとしたが足に力が入らず、濡れた畳の上で無様によろめいた。

「期限の利益回収ってどういうことよ? 健造さん、はっきり言いなさいよ」

「ということだよ、れ子さん」

白石さんが感情の一点すら交えない声で冷酷に事実を告げた。

「再木不動産が今進めている複数の大規模開発プロジェクトは全て我が白石銀行をはじめとする金融機関からの融資で成り立っている。神谷家という絶対的な担保と信用を失い、さらに融資の一括返済さえを求められれば、君たちの会社は明日——いや、この瞬間に資金ショートを起こして破産する。もちろんこの本社ビルも君たちが住んでいる豪邸も全て差し押さえだ」

「そんなこと……銀行が許すわけないわ。私たちは大得意様なのよ」

「許すも何もこれは契約だ。それに融資の引き上げを決定するのは銀行の役員会ではない。神谷家の唯一の相続人である高橋美子様だ」

白石さんはそう言うと、私に向かってまるで本物の女王に対するかのようにうやうやしく再礼をした。

「美子様。31年前の契約に基づき、神谷家の代理人としてお尋ねいたします。再木一族があなたに対して平手打ちを見舞い、亡きお母様の形見であるお着物にお茶をかけ、さらに土下座を要求したあの暴挙。あれは神谷家に対する明らかな侮辱であり、契約書に記された不義理そのものでございます。これを持って制約違反と見なし、再木不動産への全ての支援を打ち切り、融資の即時回収手続きを進めてよろしいでしょうか?」

白石さんのこれ以上ない最終宣告が個室の中に重く響き渡った。個室の中は息をすることすらためらわれるほどの静寂に包まれた。

れ子は口を小さく開けたまま完全に魂が抜けたように固まっていた。自分が「貧乏人」と見下し、その尊厳を踏みにじっていた相手。その相手の一言で自分が今まで築き上げてきた贅沢な暮らし、自慢のブランドバッグ、大粒のダイヤモンド、そして社長夫人というキラビヤカな地位の全てが一瞬にしてゴミ屑のように消え去ろうとしているのだ。

「ああ……」

れ子の喉から言葉にならない枯れた声が漏れる。

「僕は……僕はどうなるんだ……」

それまで黙り込んでいた優馬さんが狂ったように自分の髪をかきむしりながら叫んだ。

「僕の将来は……再木不動産の次期社長としての僕の人生はどうなっちゃうんだよ。カノン……カノン、頼むからお母さんを止めてくれ。僕たちは結婚するはずだったろう。家族になるはずだったろう」

優馬さんは膝立ちのまま這うようにしてカノンの足元へとすり寄ろうとした。その目は血走り、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになったあまりにも情けない姿だった。だがカノンはそんな優馬さんを冷たく見下ろした。その瞳にはかつて彼に向けられていた温かい愛情のかけらはもう一ミリも残っていなかった。

「家族……よくそんな言葉がその口から出せるわね、優馬さん」

カノンの声は静かだったが、鋭い刃物のように優馬さんの胸を突き刺した。

「私の前でお母さんが頰を叩かれた時、あなたは何て言った? 『形だけでも土下座をすれば幸せになれる』『親戚に紹介するのも恥ずかしい』。そう言ってあなたのお母さんと一緒になって私のお母さんを侮辱したじゃない。自分の保身のために私たちがどれだけ傷つくかも考えずに」

カノンは優馬さんが伸ばしてきた手を汚いものを見るかのように冷酷に振り払った。

「あなたのような卑怯で親の操り人形で、大切な人を守る覚悟も品格もない人とこれ以上同じ空気を吸うことすら私には耐えられません。私たちの結婚は完全に破談です。二度と私の前に現れないで」

「カノン……そんな……嘘だろう。カノン……」

優馬さんは畳の上につっぷして慟哭した。個室の中の全員の視線が静かに一人の女性へと集まった。高橋美子。晴れ上がった右頰の痛みに耐えながら、彼女はただ静かに座っていた。れ子が発狂し、優馬が泣き叫び、剣造が畳にひれ伏する中、私は一言も声を荒げず、ただ冬の湖のように透き通った瞳で目の前の光景を見つめていた。その圧倒的な沈黙こそが、何よりも重く恐ろしい威厳となって再木家の人々を支配していた。

ついにれ子は自らの現実から逃れられなくなった。彼女はカタカタと全身を激しく震わせながらゆっくりと私の方へと向き直った。その目はこれまでに見たこともないほどの絶望と剥き出しの恐怖に満ちていた。

「みよこ様……お願いいたします。どうか、どうか再木家をお救いください」

静まり返った個室に響き渡ったのは、再木不動産の社長であり優馬さんの父親である剣造さんの魂を削り出すような懇願の声だった。剣造さんは高級な下手のスーツが汚れることも厭わず畳に額を擦りつけ、大粒の涙を流しながらひれ伏していた。その光景を見てれ子は金縛りにあったようにその場に立ち尽くしていた。

「ああ……」

口を小さく開けたままカタカタと全身を激しく震わせている。れ子がこれまでの人生で一番の誇りとし、自慢の種にしてきた再木不動産の社長夫人という地位。そして大粒のダイヤモンド、高級車、誰からも羨まれるキラビヤカな贅沢三昧の暮らし。その全てが、自分が「貧乏人の和菓子屋」と見下し、平手打ちを見舞った高橋美子という女性のたった一言の申し立てによって、明日の朝には跡形もなくゴミ屑のように消え去るのだ。

「そんな……嘘よ……健造さん。しっかりしてよ。どうして私たちがこんな女に頭を下げなきゃいけないのよ。銀行だってうちを潰すわけがないわ。私たちは名家なのよ」

れ子は未だに受け入れがたい現実に反響乱になりながら剣造さんの肩を掴んで揺さぶった。

「黙れ! この愚か者が!」

剣造さんはれ子の手を恐ろしい力で振り払うと、血走った目で妻を睨みつけた。

「お前が……お前のくだらない虚栄心とそこ地の悪い傲慢さが俺たちの全てを滅ぼしたんだ。お前が『カビ臭い雑巾』と笑ったお着物は、神谷家が俺たちを救うために命と引き換えにして残した世界に二つとない形見なんだぞ。お前が頰を叩き、土下座を要求した美子様は、俺たちが一生をかけても恩を返しきれない命の恩人の娘なんだ」

「あ……」

れ子の顔から完全に血の気が引いていく。夫から浴びせられた言葉はれ子の薄っぺらいプライドを粉々に粉砕するのに十分すぎる威力を持っていた。

「れ子さん」

それまで冷徹な視線を向け続けていた仲人の白石さんが静かに、けれど決定的な一撃を放つように言った。

「31年前の契約書に『神谷家の不義理及び品格を著しく欠く行為があった場合、白石銀行の立ち合いのもと即座に融資を全額回収する』とはっきりと記されています。美子様が神谷家の代理人として融資の引き上げを白石銀行に申し立てられた場合、我々は明日——いや、今この瞬間にでも再木不動産を破産手続きへと移行させます。もちろんこの駅前一等地の底地契約も即時解除。あなた方の自宅も自社ビルも全て差し押さえです」

「差し押え……」

れ子の喉から枯れた声が漏れる。

「そんな……私どうなるの? どこに行けばいいのよ……」

「路頭に迷うのだよ、れ子さん」

白石さんは感情を一切交えない冷酷な声で事実を告げた。

「全てはあなたがご自分の手で引き起こした結末だ」

個室の中は息をすることすらためらわれるほどの重圧に包まれた。優馬さんは畳の上につっぷしたまま狂ったように髪をかきむしり、声を殺して泣いている。剣造さんは畳に額を擦りつけたままびくりとも動かない。ついにれ子は自らの犯した罪の重さと目の前にある絶対的な破滅から逃れられなくなった。彼女はカタカタと激しく全身を震わせながらゆっくりと私の方へと向き直った。その目はこれまでに見たこともないほどの絶望と剥き出しの恐怖に満ちていた。

「みよこさん……いえ……みよこ様……」

れ子はまるで壊れた人形のようにゆっくりと膝を屈した。そして自分がさっき私の着物を濡らすためにわざと冷たいお茶をこぼしたあの濡れた畳の上に、ずるずると這いつくばったのだ。高級中が優然の裾がお茶で汚れていく。だがれ子はそれすら気づかない様子で私の足元にすり寄った。

「私が……私が悪かったわ……だからお願い……今日のことはなかったことにして……融資の引き上げなんてそんな恐ろしいこと銀行に言わないでちょうだい……あなた娘を愛しているでしょう? カノンさんだってうちの優馬と結婚すれば贅沢な暮らしができるのよ……だから……だから……」

れ子は畳に何度も何度も額を擦りつけ、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら必死に許しを乞うた。さっきまで私に「濡れた畳に這いつくばって謝りなさい」と勝ち誇っていたれ子が、今全く同じ場所で濡れた畳に頭を擦りつけて命乞いをしている。これ以上ない完璧な因果応報だった。

だが私はその晴れ上がった頰のまま、泣き叫ぶれ子をただ静かに見つめていた。その瞳には怒りも勝ち誇ったような歪んだ喜びもなかった。あるのはただ底知れない深い悲しみだけだった。

私はゆっくりと膝の上の古い茶封筒をバッグの中にしまい、凛とした姿勢で背筋を伸ばした。そして個室の全員が息を飲む中、凍りつくように静かで、けれど誰よりも重い最後の一言を放ったのだ。

「私は家柄を隠していたのではありません」

私の声は驚くほど穏やかだったけれど、その一言はれ子の心臓を冷たく貫いた。

「あなたの人柄を見ていただいただけです」

れ子は畳に頭をつけたまま息を止めて固まった。

「娘をとがせる家かどうか……今日よくわかりました」

私は隣で涙を流しながらも凛々しげに自分を見つめるカノンの手をそっと温かく握りしめた。

「行きましょう、カノン。もう私たちがここにいる理由はございません」

「はい、お母さん」

カノンは力強く頷いた。優馬さんが「カノン、待ってくれ……カノン……」と這うようにしてすがろうとしたが、カノンはその手を冷酷に振り払い、二度と振り返ることはなかった。

私とカノンは静かに、けれど圧倒的な気品をまとったまま料亭の個室を後にした。引き戸が閉まる瞬間、個室の中かられ子の絶望に満ちた絶叫と剣造さんの慟哭の哀れな声が響き渡った。傲慢な仮面を剥ぎ取られ、自らの犯した罪の重さに潰された再木家。

両手名月庵の嵐のような顔合わせから数ヶ月の月日が流れた。季節は移り変わり、町には爽やかな秋風が吹き抜けていた。

あの日の出来事は再木家という作の廊を根底から揺がし、全てを激変させていた。私から「人柄を見せていただきました」と告げられ、最後の一撃を食らった再木家。その後、白石銀行の立ち合いのもと、あの特別信託契約に基づき再木不動産に対する融資の引き上げと土地の返還手続きが厳格に進められることとなった。

だが私は再木不動産を完全に破産させて路頭に迷わせることはしなかった。神谷家の代理人として経営権株式の51パーセントを白石銀行の管理下に置くことで会社を存続させ、剣造さんを社長という名の一介の雇われ経営者として残したのだ。それは私の情けであった。だが、それこそが再木家にとって何よりの戒めとなった。

傲慢の象徴だったれ子さんは全てを失った。社長夫人としてのキラビヤカな地位は剥ぎ取られ、夫の剣造さんからの敬意も完全に失われた。それまで「お友達」と呼んで贅沢三昧を競い合っていた社交界の仲間たちは、再木家の没落を聞きつけるや否や塩が引くように去っていった。誰からも相手にされず、広い豪邸の隅で一人、れ子さんは過去の栄光にすがりつきながら孤独に震える日々を送っている。

社長としての誇りと約束を踏みにじってしまった剣造さんは、激しい後悔を胸に会社改革に奔走していた。彼は再木不動産本社ビルのエントランスの一等地に、長年金庫に眠らせていた神谷茂蔵様からの古い感謝状と神谷家の家紋が刻まれた額を飾ることに決めた。それは会社の実績を自慢するためではない。自分たちが誰のおかげで生き残ることができたのか。そして「誰かを見下す道具にするな」という恩人の言葉を二度と忘れないための戒めとしてだった。

一方、高橋美子とカノンの二人はいつもと変わらない静かな朝を迎えていた。

「お母さん、おはよう。今日もいいお天気ね」

「おはよう、カノン。今日も忙しくなりそうね。朝一番でおじいちゃんへの備えのお饅頭を蒸し上げましょう」

朝の5時。商店街の片隅にある高橋屋の厨房には柔らかな白い湯気が立ち込め、あん豆の甘く優しい香りが満ちていた。カノンは小学校の教師を続けながら、休みの日はこうして私の店を手伝っていた。

あの料亭の夜、カノンは優馬さんとの結婚を自ら白紙に戻した。愛していた人からの裏切りは深かったが、母の隣で泥にまみれながら働くうち、カノンの瞳にはかつての輝きとより深い強さが宿るようになっていた。

蒸し器からふっくらとしたお饅頭を取り出しながら、カノンはふとずっと胸にしまっていた疑問を口にした。

「ねえ、お母さん。あの料亭の時、お母さんはれ子さんのお義母様に頰を叩かれてお茶までかけられたでしょう」

「ええ、そうだったわね」

「あの時お母さんはどうして……どうして怒ることも泣くこともせずに、ただ静かに微笑んでいられたの」

私は手を止め、湯気の向こうで優しく目を細めた。そして自分の手のひらを見つめながら静かに語りかけた。

「カノン。あの時ね、お母さんの心の中にあったのは怒りではなかったのよ。ただね、あなたことがたまらなく愛しくて守りたかったの。ここで私がお母さんとして声を荒げたり、相手を同じように傷つけようとしたら、あなたをさらに悲しませてしまうと思ったの」

私はカノンの元へ歩み寄り、その少し冷たくなった手を温かい両手で包み込んだ。

「人の言葉や暴力は跳ね返せばいいの。それを受け取らなければただの虚しい音に過ぎないのよ。亡くなったおじいちゃんがいつも言っていたわ。『本当に品のある人ほど自分の尊さを声高に語らない。怒るより先に大切な人を守りなさい』ってね。私はただそれを守りたかっただけよ。私たちの誇りまで汚されたくなかったの」

「お母さん……」

カノンの目から温かい涙がポロポロとこぼれ落ちた。私の静かな強さ。それは誰かを打ち負かすための武器ではなく、大切な家族の尊厳を守り抜くための揺るぎない盾だったのだ。

その日の午後、店の暖簾が静かに揺れた。

「いらっしゃいませ」

私が声をかけると、そこに入ってきたのは見違えるほど質素な格好をした一人の青年だった。最木優馬さんだった。かつての仕立ての良い高級スーツではなく、泥のついた作業着を身にまとい、髪も短く刈り込んでいた。優馬さんは私とカノンの姿を見るなり、その場に深く深く頭を下げた。

「みよこ様……そしてカノンさん。突然このような姿で押しかけてしまい、本当に申し訳ありません」

優馬さんは自らの意思で再木不動産を退職し、家を出ていた。親の七光りと地位を捨て、地元の小さな建設会社で一人の新人作業員として一から泥にまみれて働き始めていたのだ。

「僕はあの日、自分の弱さと愚かさのせいでお二人の大切な尊厳を踏みにじってしまいました。カノンさんを愛していると言いながら、何一つ守る覚悟がなかった。本当に申し訳ありませんでした」

優馬さんの声は震えていたが、かつての甘えや言い訳はそこにはみじんもなかった。手元には高価な品も復縁を迫る言葉もなかった。

「お二人に許してもらおうなんて思っていません。ただ僕はあの日お二人の姿を見て、初めて自分の足で立ち、自分の言葉で大切な人を守れる人間になりたいと心から思ったんです。だからまず自分を叩き直して変えます。いつかもう一度だけカノンさんに会う資格をいただけるその日まで、土を這ってでも人として、男として正道に生きて見せます」

一言一句、魂を絞り出すように語る優馬さん。その額には必死に汗が滲んでいた。

カノンはそんな優馬さんの姿を静かに見つめていた。その瞳には怒りもかつての絶望もない。ただ一人の男性が自らの過ちと向き合い、新しく生まれ変わろうとする姿への静かな敬意があった。

私はゆっくりと厨房の奥から出てくると、優馬さんの前に進み出た。そしてすぐに彼を許すことも冷たく追い返すこともしなかった。ただ穏やかな笑みを浮かべ、店の木製の丸椅子を指さした。

「優馬さん。お仕事帰りでお疲れでしょう。どうぞ。そこにおかけになって。今、温かいほうじ茶を入れますね。うちの出来立ての大福も一緒にどうぞ。甘いものはお疲れの体に良いのですよ」

私はそう言って優しく微笑んだ。それはあのかつてのれ子さんが私にこぼした冷たいお茶とは違う、真に温かい湯気立つお茶だった。勝ち負けではない。復讐でもない。そこには人が本当に変わろうと決意した時だけに生まれる、静かで温かい再出発の空気が流れていた。

人の価値は家柄でも持っている財産の大きさでも決まらない。本当に品のある人ほど自分の尊さを声高に語ることはない。そして人は全てを失って始めて、黙って頭を下げてくれていた人のその果てしない大きさを知るのだ。

秋の穏やかな日の光が、小さな和菓子店の先を温かく包み込んでいた。