「あやか、早く帰ってきて家事をやれ。家が散らかってるぞ。」
元夫の俊介から、そんなLINEが突然届いたのは、昼休みのことであった。
「は? 何を言ってるの?」
「家事炊事は嫁の仕事だろう。お前の仕事だ。母さんもぶち切れてるぞ」
思わず返信してしまったが、すぐに後悔した。この男とは半年前に離婚したはずだ。今はただの他人である。
「それ、私に何の関係があるの? 私たち、半年前に離婚しましたよね。無関係の他人ですけど」
「関係しかないだろ」
「は?」
「お前は算数もできないのか」
算数? 何を言っているのだろう。財産分与はとっくに終わっている。それなのに、彼はとんでもないことを言い出した。
「離婚したからって、お前の負債がなくなるわけないだろう」
負債? 私に負債なんてあるわけがない。
「財産分与は終わってますけど」
「それは夫婦としての生産だろう。俺たちは夫婦生活を10年もやったんだぞ。その間、俺は毎月25万円の生活費を入れてきたよな」
「そうね。でも、私の稼ぎもあったけど」
「つまりだ。俺は合計で3000万円を払ってきた。で、お前がやってたことは家事全般と仕事での稼ぎ。でも、お前の給料なんて俺以下じゃん」
「そこは重要じゃないでしょ。というか、結局何が言いたいの?」
「いいか。お前のやってた家事を市場価値に換算してみろ」
「は? 市場価値?」
「パートの主婦なら時給1200円もあれば上等だ。家事なんて1日3時間もあれば十分だろう。ってことは、月々10万円ちょいって計算になる」
私は頭痛を感じ始めていた。この人は本気でそんなことを言っているのか。
「1日3時間? それだけだと思ってるの?」
「お前、仕事終わりにやってただろ。ってことは、3時間でも多く見積もってやってるってことだ」
「それは平日の話でしょ。休日は普段できない掃除をしたり、布団を干したりしてたけど」
「そういうのはいいんだよ」
「なんでよ」
「つまり、1年で120万円ちょい、10年で1200万円ちょいの働きしかしてないってことだ」
「だから何なの?」
「お前さ、算数もできないわけ? 俺が払ってきた3000万円から1200万円を引いてみろよ。1800万円だ」
「そう、お前には1800万円の負債があるってこと」
私は呆れて言葉が出なかった。この男は一体何を言っているのだろう。
「いや、なんで?」
「はあ。理解力なさすぎだろう」
「理解させる気なさすぎでしょ」
「感情的になるなよ。めんどくさいな」
「そうじゃなくてさ、あなたの入れてた生活費で、あなたも生活してたよね。それが、3000万円全額を私の負債扱いするのは変でしょう」
「いや、それ以前の問題だけど、事実として俺が払った金でお前が生きてたなら、そういう細かいことはどうでもいいんだよ」
「良くないから。あと、私の稼ぎが計算に入ってないのも変よね」
「なんでお前の稼ぎが出てくるんだよ」
「私からも生活費は出てたでしょ、って話だけど」
「今言ってるのは、俺が払った額についての話だ。言ったら、俺とお前の雇用関係についての話だ」
「雇用関係? 夫婦ってそうじゃないでしょ」
「とにかく数字が証明してるんだ。お前は給料を持ち逃げしてる状態だ」
「ええ、なんでそうなるの?」
「分かったら、これから毎日3時間、うちに来い。残り1800万円。10年以上かけて返してもらうからな」
それが彼からの最後通告だった。私は何も返せず、ただ画面を見つめるしかなかった。
数日後、また彼から連絡が来た。
「おい、あやか。お前、いつになったら家事しに来るんだ?」
「行くわけないでしょ」
「お前がうちから出て行ったせいで、うちは大変なんだぞ。風呂場にはカビが生えてきたし、リビングもほこりだらけだ。母さんは足が悪いから家事もできない」
「じゃあ、俊介がやったら?」
「バカなのか。俺は仕事があるだろう。家事なんてしてる暇ねえんだよ」
「私は仕事しながら家事やってたけどね」
「それはお前が、俺と違って大して働いてないからな」
「そういう問題じゃないでしょ。それに、私も正社員としてフルタイムで働いてるわよ」
「中小企業の平社員が何言ってんだ」
「だとしても、条件はあなたと同じでしょ」
「同じなわけないだろ。俺はお前んとこの重要取引先の部長様だぞ。仕事の内容も密度も、お前とは違うんだよ」
「その部長様は、仕事と家事の両立もできないの? そんな器量の悪さで、よく出世できたわね」
「ふざけてんのか」
「馬鹿にされてる程度のことは理解できるのね。よかった。話が通じないんじゃないかと思ってたわ」
「話が通じないのはそっちだろ。こっちは親切で、家事でチャラにしてやるって言ってるんだ」
「それはご丁寧にどうも。だが、断る」
「なんだと?」
「一応、取引先の部長様なので、今後も連絡することもあるかと思ってブロックしてないだけよ。プライベートな連絡は、今後は控えてくださいね」
「ふざけんな。お前がそういう態度なら、こっちにも考えがある。債務不履行及び前払い給与の不当利得。これでお前を訴えることもできるんだぞ」
「ああ、考える頭もないって大変ね。病院をお勧めするわ。頭の」
「さっきから聞いてりゃ、言いたい放題言いやがって。いいのか? 裁判沙汰になったら、お前の会社にもバレるぞ」
「生活費を給料とか言うような人を、どこの弁護士が相手にするのよ。裁判できるわけないでしょ。これだから低学歴は」
「今なら許してやる。その優しさがわかんないのか?」
「あなたの優しさなんて、ユニセフも求めてないわよ。どうぞご自由にどうぞ」
「あっそ。じゃあいい。後から謝っても知らないからな」
「ついでに、あなたはブロックしますから」
「あ、ブロック?」
「仕事上の付き合いもあるかと思って残したけど、くだらない妄想に付き合わせられるなら、もういいわ。さようなら」
私は彼からの連絡をすべて遮断した。これで終わったと思ったのに、彼の妄想は止まらなかった。
1週間後、外回り中に上司の坂神部長から電話がかかってきた。
「彩佳君、外回り中に悪いね」
「坂神部長、お疲れ様です。何かありましたか?」
「実は非常に言いづらいんだが、例の取引先の高橋部長についてね」
俊介のことだ。彼は私の元夫であり、うちの会社の重要な取引先の部長だった。
「高橋部長がどうかされましたか? 確か今日の昼に坂神部長が対応すると聞いてましたが」
「我が社に来られるということだったからね。私は当然、仕事のことについてだと思っていたんだが」
「違ったんですか?」
「彩佳君が、高橋部長から払われた給与1800万円を横領したとかなんとか言っていてね」
「は?」
「そもそも、高橋部長は彩佳君の元旦那さんだろう。こちらとしても、どう対応していいものか」
「ああ、本当に申し訳ありません」
「謝罪したということは、心当たりがあるのかな?」
「はい。まあ、一応……」
「あまりプライベートのことを聞くのもどうかと思うが、夫婦関係にありながら給与とは、どういうことなんだ?」
「実は、ちょっと前に俊介が言い出したことで。夫婦関係中の生活費は、私の家事に対する給与だと」
「すまない。何を言ってるんだ?」
「私も、何を言ってるのかさっぱりで。とにかく、その給料分の働きをしていないので、離婚後も俊介の家で家事をしろと言ってて」
「こういうことは言いたくないが、高橋部長は気が触れたのか?」
「さあ……。私としても、何とも」
「元々、少し高圧的な部分はあったが、仕事に関しては悪くない人物だったと記憶している。いくらなんでも、そんな意味のわからない理論は」
「俊介との離婚の時、少し揉めたんです」
「そうだったのか」
「俊介の実家で、お母さんと同居してたんですが。お母さんは足が悪いこともあって、家事は丸投げ。しかも、物を投げるわ罵倒してくるわで」
「それは大変だったね」
「俊介に相談しても、取り合ってもらえず。そんな生活に嫌気がさして、私から離婚を切り出しました。ただ、その際に俊介が離婚したくないと騒ぎまして」
「つまり、ああ、なんだ。高橋部長は復縁したいということなのか?」
「というよりも、家事をしてくれる相手が欲しいのかな、と」
「だとしても、わけのわからない逆効果じゃないか」
「ですよね。私もそう思います」
「横領した社員をかくまう気か。俺はお前らの取引先の部長だぞ。取引を破断にされたいのか、とかなんとか。我が社に来るなり、大声で騒ぎ立てていた」
「本当に申し訳ありません」
「いや、まあ、彩佳君が謝ることじゃない。彩佳君の話を聞かずに判断できないと帰ってもらったが、そこから会社に電話が何度も来ているんだ」
「そうですか。多分、私がLINEをブロックしたから。電話番号も変えてあるんで、連絡が取れなくて会社に、というわけかな」
「なんとも迷惑な話だ」
「一度、私の方から連絡を入れて、話をしてみます」
「大丈夫なのか?」
「LINEのブロックを解除して、話をするだけですよ。直接会ったりする気はありませんので」
「ならいいが。とはいえ、何かあればすぐに連絡してくれ。会社の方にも実害が出ているんだ。最悪の場合は、会社として対応させてもらうよ」
「ありがとうございます。すぐに連絡してみますね」
電話を切った後、私はブロックを解除して、彼にメッセージを送った。
「俊介、あなた何やってるの? うちの会社に来て騒いでたのね」
「お、なんだ、ブロック解除したのか。ってことは、相当反省したみたいだな」
「そういう問題じゃないわよ。なんてことしてくれてるの?」
「俺は正当な権利を主張しただけだ。元はと言えば、給料を持ち逃げしたお前が悪い」
「悪いのはあなたの頭でしょ。とにかく、そんなのやめて」
「俺が悪いことをしたみたいな言い方だな。おたくの会社の社員は横領犯ですよ、って親切に教えてやっただけだろ」
「何が横領犯よ。わけわかんない理屈で迷惑をかけるなって言ってるの」
「だったら、さっさとうちに来て家事しろ。母さんも、的当ての的がなくなって寂しがってるぞ」
「本当に最低。お母さんに言っておいて。そんなに的が欲しいなら、お宅のボンクラ息子に当ててろってね」
「はいはい。これで分かったろ。こっちにはやり方なんていくらでもあるんだ」
「やり方じゃないの。お前が給料分の家事しないなら、これからも続けるぞ」
「はぁ……。そうなったら、あなたも会社にいづらくなるんだろうなあ」
「30歳を超えて無職とか、かわいそうだな」
「無職になるのはそっちだ」
「なんでよ。あなたのやったことは、立派な威力業務妨害よ。続けるなら、うちの会社だって法的措置を取るわ。訴えたいのはこっちだ」
「そもそも、お前んとこの会社に何ができるかよ」
「どうしてよ」
「お前んとこの会社で一番大きい取引先。それがうちの会社だ。しかも、俺はその窓口担当者。俺を訴えて損をするのは、そっちだと思うけどな」
「会社の利益を、お前一人のために捨てるか?」
「それはそういうこと。明日の朝から、早速頼むわ。俺の朝飯は、焼き魚と味噌汁がいいな。よろしく」
その日、私は絶望した。この男は、私の会社を人質に取って、自分を守ろうとしている。それだけは、どうしても許せなかった。
同じ日、坂神部長から呼び出された。
「彩佳君、少し遅くに失礼するよ」
「坂神部長、お疲れ様です。俊介への対応を上層部で協議されるとか」
「ああ。君が高橋部長にしてくれた連絡。その結果を踏まえて、我が社の対応を決めさせてもらった」
「どうなりましたか?」
「結論を先に言おうか。我が社は、あちらの会社へ正式に抗議させてもらう。加えて、高橋部長個人には、威力業務妨害で訴える」
「それはもちろん助かりますが……」
「どうした? 何か気になることでも?」
「いえ、我が社にとって、あちらの会社との取引は、大きな取引先で……」
「ああ、もしかして、高橋部長が言ってたことかな?」
「はい。私個人の事情で会社に迷惑をかけるのも、何かと……」
「心配はいらない」
「え? それはどういう……」
「そもそも、高橋部長は勘違いをしているんだよ」
「勘違い?」
「彼はどうも、我が社との取引は自分がいるからだとでも思っているようだね」
「はあ……」
「実際、我が社の取引を締結したのは俊介君だし、今も窓口担当者として密接に関わってますよね。それが、そもそもの勘違いだと言っている」
「そうなのですか?」
「言いたくはないが、我が社にとっても、あちらにとっても、高橋部長など重要ではないんだよ」
翌日、俊介にLINEを送った。
「高橋部長、LINEで失礼する」
「なんだよ。こっちは今機嫌が悪いんだ。下請けの部長ごときが、何の用だ?」
「これはこれは、随分と強気な態度だ。もしかして、彩佳君がそちらに伺わなかったからかな?」
「そうだよ。あいつ、俺からしっかりと言ってやったのに」
「まあ、普通はないだろうな」
「は? あんたも大変だな。物分かりの悪い、あの彩佳みたいな部下がいてよ」
「そうかな」
「あいつが俺の言うことを聞かないなら、俺がやることは変わらない。なんだったら、おたくとの取引を破断にしてやってもいいぞ」
「ああ、なるほど。これは確かに頭の痛い相手だ」
「それが嫌なら、あんたの方からも言ってやれよ。会社に迷惑をかけずに、横領を認めろってな」
「ああ、その心配はいらないよ」
「ああ? もしかして、もうあ彩佳のところに行ったのか?」
「そうじゃない。ただ、君が我が社に来ることは、二度とないだけだ。もちろん、電話をかけてくることもないだろう」
「は? そんなの、俺が決めることだ。下請けが決めることじゃないんだよ」
「決めたのは、そちらの社長だが」
「え? うちの社長? いや、なんでうちの社長が出てくるんだよ」
「それはもちろん、音社に正式に抗議したからだ。お宅の社員が頭のおかしいことを言っていると。迷惑だからやめさせてくれ、とね」
「バカか。そんなことして、俺に何かあったらどうするんだ」
「だとしたら、どうなるというのかな?」
「お前んとこの取引は終了だ。元々、俺が拾ってやったんだからな」
「ああ、よくそれで部長やってこれたな」
「なんだと?」
「確か、高橋部長が我が社との取引を決めたのは、彩佳君が音社にプレゼンに行った時だったかな」
「あ……。彩佳のプレゼンを聞いて、俺が動いた。大した内容じゃなかったが、悪くなかったからな」
「その時、音社の社長も同席していたはずだが」
「社長はあんたのとこの会社に、何も思ってないはずだ」
「どうしてそう思うんだ?」
「うちの社長はイケすかないんだよ。本気で魅力を感じたなら、自分で取りに行ってたはずだ。それをしなかったってことは、そういうことだろう」
「だが、実際に取引をしているということは、社長の同意を得られたからだと思うが。そこは俺の力だ。取引の締結だって、俺がかなりご利用した」
「ああ、俺は実績もあったから、反対意見を黙らせるくらいは余裕だったわけだ」
「ああ、まさか、その程度の認識とはな」
「なんだよ」
「音社の社長は、彩佳君のプレゼンを見て、すぐに取引をするべきだと思ったそうだ。ただ、真っ先に君が手を上げたから、譲っただけだ。結果として取引が成立するなら問題ない。窓口に君を今も置いているのも、そのままにしてるだけだ」
「いや、うちの社長なら、もっと自分から……」
「私はこれでも、音社の社長とはゴルフに行く仲でね」
「ゴルフ?! 下請けの部長ごときが?」
「最近は、後継者の育成に力を入れていると聞いている。つまり、若手の君に譲っただけだ。君以外の誰かであっても、そこは変わらないだろう」
「ちょ、ちょっと待て。なんであんたが、うちの社長とそんな親しいんだよ」
「おや、下請けの部長ごときよりも、親しくないのかな? それは、自社の社長に、下請けの部長ごときよりも目をかけられていない、ということか」
「う……。そんなはずないだろ。俺は実績もいっぱいあって」
「その分、行状が悪いと聞いている。近いうちに、降格も視野に入っていたそうだよ」
「え? 降格? 俺が?」
「まあ、今回の件を受けて、降格はなくなったな。安心するといい」
「そうだよな。俺みたいな優秀な男を、降格なんて……。首だそうだ」
「あ、大事な取引先に迷惑をかけ、その上威力業務妨害で訴えられるんだ。妥当な経営判断だろう」
「訴え?!」
「それでは、これで失礼するよ。高橋元部長様」
1週間後、また彼からLINEが届いた。ブロックを解除したままだったのを忘れていた。
「あやか、お前さ、帰ってこないか」
「は? 何を言ってるの。というか、再度ブロックするの忘れてたわ」
「俺、会社首になったんだよ」
「らしいわね。坂神部長から色々と聞きました」
「坂神? あいつのせいで俺は……」
「自業自得よ。他に言うことないけど」
「会社首になっただけじゃない。お前んとこの会社から訴えられたんだぞ」
「威力業務妨害だっけ?」
「損害賠償で300万だとよ。仕事もなくなった人間相手によくやるわ」
「なんで被害者面してるの?」
「ただでさえ、母さんの世話も家事もあるってのに。家もめちゃくちゃだ」
「カビ生えてるんだっけ?」
「それはずっとだ。俺の首を知って、母さんが荒れてんだよ。あのババア、物を投げてきやがった」
「良かったわね。新しい的よ」
「うるさい。リモコンだの本だの、手当たり次第に投げてくるんだ。おかげで痣ができたんだぞ」
「ああ、もう、なんか懐かしいわね。私もよく痣できてた」
「こんなことで懐かしんでんじゃねえよ。今は生活に問題はないけど、貯金が多いわけでもない。加えて300万の支払いだ。大変なんだよ」
「それは大変ね」
「払うしかないが、それを払ったら……」
「はいはい。もう俺たちには、お前しか頼りがいないんだ。頼む。帰ってきてくれ」
「嫌です。以上」
「閉じるなよ。俺だって反省したんだよ。ここ数日、家事やって、母さんに物投げられて、どれだけ彩佳が辛かったか実感した」
「ああ、そうですか」
「帰ってきてくれたら、もうあんなことはしない。母さんの世話や家事だって手伝う」
「あのさ、反省してないなら、反省してないってはっきり言ってね」
「ああ、反省してるって言ってんだろ」
「じゃあ、手伝うって何?」
「何って? そのままの意味だろ。お前にばっかり負担をかけてたことを自覚したから」
「あなたは今、無職で300万の支払いが確定済み。仮に私が戻ったとして、生活費は私が払うのよね」
「それはまあ、夫婦に戻るなら当然だな」
「ことは、今度は私があなたの給料を払うわけね」
「給料って。夫婦なんだから、そんな言い方……」
「これはあなたの理屈でしょ」
「そうだけど。その場合、こっちは経済的負担がマックスなら、手伝うんじゃなくて、家事やお母さんの世話はそちらのフル負担じゃないとおかしいよね」
「いや、ちょっと待てよ。そんなのおかしいだろ」
「どこが?」
「どこがっていうか、夫婦ってそういうのじゃないだろう。二人三脚で、一緒に力を合わせてだな」
「なら、最初からそれは無理ね」
「なんでだよ」
「さっきも言った通り、今の状態だと私の負担が大きい。力を合わせて、一方的に寄りかかってくる人と、どうやってやるのよ」
「そんなの、俺が再就職すれば問題ないだろう。それまではお前に頼るけど」
「その考え方がおかしいって言ってんの。私にメリットないじゃない」
「夫婦ってのは、メリットじゃないだろう。大事なのは気持ちだ。愛だろう」
「じゃあ、愛がないんで無理ね」
「お前な……」
「あと、300万。その程度で住むと思ってるの?」
「は?」
「私の話を聞いた坂神部長が、気を利かせてくれてね。うちの会社の顧問弁護士と話をしてくれたの」
「顧問弁護士? なんで弁護士なんて」
「慰謝料を請求するのよ。あなたとお母さんにね」
「はあ?!」
「さっきも言った通り、お母さんのせいで私は何度も怪我をしてる。加えて、その事実を知りながら、あなたは無視してきた」
「そうだけど、そうじゃなくてだな。なんで今になって……」
「離婚してすぐは、もう関わりたくもなかったのよ。けど、何もしてなくてもあなたが関わってくると分かった。なら、やれることはやった方がいいでしょ」
「ふざけんな。慰謝料って、一体……」
「実際に怪我もしてるし、診断書もある。まあ、200万くらいかしらね」
「200万? 嘘だろ?」
「反省してるのよね?」
「え? あ、してる。反省はしてるけど、それとこれとは……」
「よかった。じゃあ、反省の印を見せて。あれだけ私に言ってきたんだもの。まさか、慰謝料を払わずに逃げるなんてしないわよね」
結果として、俊介は会社への賠償金と私への慰謝料の合計500万円の負債を抱えた。彼は貯金を全額使い、足りない分は借金して返済した。
手元には、100万円の借金だけが残った。
彼は再就職をしようとしても、お母さんの世話がある。足が悪いとはいえ、杖を使えばある程度は生活できるレベルだが、生活の全てを自力でこなせるわけではない。今までは私がやっていたわけだが、今は俊介が一人でそれを負担している。
結果として、思うように就職できず、アルバイトをして暮らしているらしい。
もちろん、お母さんは的当てゲームが大好きな人間だから、的には事欠かない。今日も、家の中のものに向かって全力投球を楽しんでいるそうだ。
慣れない家事に、バイトに、お母さんの世話に、100万円の借金。俊介は、人生の負債を多く抱えているみたいだ。
私に「負債」と言っていたのだから、きっと本人も本望だろう。
私はと言えば、ようやく俊介という負債を人生から取り除いて、のびのびと日々を過ごせている。やっぱり、重いものを持って生きるのは良くないな、と実感している。



