私は22歳の内定式の朝、父と一緒に銀行の小部屋に通された。そこで人事部長が、辞退届と、母の形見の万年筆を差し出して言った。「その万年筆で、ちょっとお名前だけね」。私は断った。母はこの銀行の窓口にいた。母のような銀行員になりたかった。すると扉の向こうから、頭取の声が聞こえた。「ふつうの家庭は、泣いて諦める。当然だろう」。内定は、その場で取り消された。無口な文房具屋の父は、何も言わなかった。その…

私は22歳の内定式の朝、父と一緒に銀行の小部屋に通された。そこで人事部長が、辞退届と、母の形見の万年筆を差し出して言った。「その万年筆で、ちょっとお名前だけね」。私は断った。母はこの銀行の窓口にいた。母のような銀行員になりたかった。すると扉の向こうから、頭取の声が聞こえた。「ふつうの家庭は、泣いて諦める。当然だろう」。内定は、その場で取り消された。無口な文房具屋の父は、何も言わなかった。その...

内定式の朝、22歳の娘に突きつけられたのは、一枚の辞退届だった。
彼女の夢は、母と同じ窓口に立つことだった。
「その万年筆で、ちょっとお名前だけね」
書けなかった。それは母の形見で、辞退届なんて書けるわけがない。
壁の向こうでは、同期たちの拍手が鳴っていた。
その夜、娘は盛大に泣いた。
無口な文房具屋の父の目から、一切の温度が消えた。
あの銀行にけじめをつける。
そして開かれた株主総会。この地味な父親が何者なのか、銀行はまだ知らない。

「とりあえず1000億円分の株売却で」
速報が走り、幹部の男たちが崩れ落ちた。
遠藤は泣きながら父親にすがった。
娘を泣かせた代償は、銀行丸ごと一つでは収まらなかった。

朝の商店街。柏文具店のレジ台に、子供が握りしめてきた100円玉が一つ置かれた。
棚の値札は110円だった。
「あ、足りないよ」
「いいや。今日は消しゴムの日だ。100円ちょうどでいい」
「やった。おじちゃんの店も何かの日だね」
「で、落とすなよ」

柏龍三63歳。肘に当て布をしたカーディガンに、よれよれの前掛けが一年中の制服で、無口な男だ。
夕方、店の天窓に手をかけたところで、駆けてくる足音がした。
「ただいま」
「おかえり」
「お父さん、来た来たよ」
「何がだ?」
泣きながら、娘の美咲22歳が振り回した封筒が、父の鼻先をかすめる。
「お母さんと同じ銀行だよ」
「そうか」
「え、それだけ?」
「大げさだな。今夜は石狩鍋を炊くか」
「お父さんが炊いてくれるの?」
「炊飯器が炊く」
「そりゃそうでしょ」
美咲は吹き出して、それから少しだけ泣いた。
妻の聡子が病気で亡くなったのは13年前。この家はそれから父と娘の二人きりだ。

夕食の席で、美咲が湯気の向こうから言った。
「内定祝いが石狩鍋って渋いな。ねえ、覚えてる? お父さんの最初のお弁当。卵焼き真っ黒だったの」
「あれは焼き影の研究だ」
「13年も研究してたんだ」
「途中から趣味になった」
「何それ?」

食後、美咲が鞄から一本の古い万年筆を出した。
「履歴書も面接カードも全部これで書いたんだ。書類は黒じゃなきゃいけないから、インクは変えちゃったけど」
その万年筆には曰くがある。
美咲の祖父。この店の先代は鉛筆と正味の店を営みながら、ガラスケースの奥に高級な万年筆を一本だけ飾り、決して値札をつけなかった。
「うちみたいな店にも、一本くらい本物がないとな」
36年前、娘の聡子が時は中央銀行に向かった日、先代は初めてそのケースの鍵を開けた。
「安いペンでも字は書ける。でもな、信用は細部に宿る。お前が初めて持つ仕事道具は、誇りを持てる一本にしろ」
その一本が父から娘へ渡り、今度は美咲の夢を書いた。

「私ね、お母さんの言ってたこと、最近やっと分かってきた気がするんだ」
「お客さんの困ったの先に、針が塔があるってやつ」
「そうか」
「またそれ」
夜、龍三は一人で仏壇の前に座った。線香を一本立て、湯のみを一つ備える。
写真の聡子は窓口の制服姿で、名札に指を添えて笑っていた。
「聡子。お前がいた窓口に美咲が行くぞ」

数日後の朝、玄関で美咲がまた新しいパンプスのかかとを鳴らした。
「今日から内定者の研修。緊張するなあ」
「箸の持ち方と同じだ。普段通りでいい」
「何その例え? またよく分かんないこと言って」
「よし、行ってきます」
弾む背中を見送って、龍三は古い手帳を開き、短く書きつけた。
娘の成長を書き留めるのは13年続けてきた習慣だった。
「そろそろこの記録も卒業か」
玄関から見上げた空は、青く澄み渡っていた。

時は中央銀行本店、大会議室。内定者事前研修、懇談会の張り紙の下で、30人の若者が名札を受け取っていく。
正面のスクリーンに、遠藤頭取のメッセージビデオが流れた。
「銀行は信用を売る商売です。そして信用とは、厳選です。琴が選んだ皆さんに期待しています」
拍手の中に、ネクタイピンの光る撫で型の男が壇上に上がった。
「皆さんおはようございます。人事部長の蒲田でございます。今日から3日間、皆さんのことをじっくり見させていただきますからね」

蒲田は名簿を開き、一人ずつ読み上げていく。
「青井病院がご実家の佐藤さん。お父様の講演、先日拝聴しましたよ」
「県庁の田中さん。お父様にはご勇退の件で日頃から」
名簿の上で、指が一度止まった。
「柏木さん。文具店の柏木さん?」
「はい」
「聞いてないぞ」
配られたグループ分けの紙で、美咲は一人D班だった。A班には佐藤と田中が並んでいる。
後ろの席から、ひそひそ声が聞こえてきた。
「ねえ、このグループ分けさ、A班、医者の子と公務員の子ばっかじゃない?」
「本当だ。てか、これ何基準で分けられてんの? 五十音順でもないよね」
「親の職業とか」
「いや、まさかね」
「このグループ分け、おかしいですよね。家の安定を…」
「あ、じゃなくてバランスです。全体のバランスを考慮した編成ですので、特に意図はないので」
「今、家の安定って聞こえなかった?」

昼過ぎ、懇親会の準備になると、蒲田が手を叩いて美咲を呼んだ。
「柏木さん、悪いけど椅子並べと配る?」
「はい、やります」
同期たちが名刺の渡し方を教わっている間、美咲は一人で30脚の椅子を並べた。
パンプスのかかとが、午前中より重い音を立てた。

夕方の懇親会、持った蒲田がふらりと美咲の隣に来た。
「柏木さん。書類のことでちょっとだけ確認。身元保証人、お父様お一人になってますけども」
「はい。父です」
「お母様は?」
「13年前に亡くなりました」
「ああ、なるほどね。そういう片親か。よりによってD班のど真ん中だよ」
「いや、結構結構。お父様お一人でご立派なことで」
「はい、ありがとうございます」

その夜、柏文具店の奥の食卓で、美咲はいつもより二割ほど明るい声を出した。
「ただいま。研修ね、楽しかったよ。同期もみんないい人そうだし」
「そうか。飯できてるぞ」
「わあ、肉じゃが。いただきます」
だが箸は、じゃがいもを二つ崩したところで止まった。
「どうした?」
「研修って、緊張するもんだね」
「そうか」
龍三は何も聞かず、急須で湯を注いで娘の前に茶を置いた。
嘘のつき方が母親に似てきたなと思ったが、それはあえて言わなかった。

研修は3日続く。翌日もその翌日も、美咲の「楽しかったよ」は少しずつ短くなっていった。
研修最終日の翌朝、店の電話が鳴った。
「時は中央銀行人事部でございます。身元保証書の還付に不備がございまして、恐れ入りますがご本人様に一度ご来店いただけますか?」
「郵送ではダメですか?」
「規定ですので」
龍三は受話器を置き、店のシャッターに「本日臨時休業」の札を下げた。

銀行の本店ロビーは、小舟を三つ飲み込めそうな広さだった。
受付に立つと、細身の若い行員が駆け寄ってくる。
「柏木様ですね。人事部の早瀬です。伺っております。大会議室へご案内」
「ああ、いいよ、いいよ。早瀬君、こっちで済むからね。すぐ済むから」
奥から出てきた蒲田が指したのは、窓口脇のパイプ椅子だった。
龍三の目が一瞬泳ぐ。保証人をお呼び立てしてパイプ椅子とは。そもそも郵送でいいはずなのに。
龍三は何も言わず腰を下ろした。
蒲田はどっかりと応接に座り、書類の束をめくり始める。
「えー、柏木龍三さん。ご職業、個人事業主様。ふむ。文具店。指の先が、深刻年収の欄をピンと弾いた」
「あの、失礼ですが、柏木さん。これ、桁を一つ書き間違えたとかじゃなくて、間違いありませんか?」
「間違いありません」
「うーん。正直に申し上げてね。これで保証と言われましてもね。銀行は信用を売る商売ですので」
「文具屋は信用を売りに不足ですか?」
「いやいや、そうは言ってませんよ。言ってませんけど、失礼ですが文具屋さんって、今時ねえ」
「おかげ様で、消しゴムがよく売れる日もあります」
「ふむ。消しゴム」
会話は噛み合わなかった。
蒲田は書類を揃えて机を叩き、思い出したように付け加えた。
「お母様がご健在なら、共同保証という手もあったんですがね」
「ええ。いや、これは仕方ない。まあ、当行としましては、ご家庭の事情も含めて総合的に審査をですね」
「ああ、昭和の苦労話は評価項目にございませんので」

63年生きてきた男が頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「はい。はい」
蒲田は鼻で笑って立ち上がった。
早瀬に寄せた小声が、貴重品の棚までこぼれている。
「口で自衛保証能力ゼロと、わしの点数表は問答無用ですな。ま、最初から結果は出ているようなもんだけどね」
「点数表って、審査って何ですか?」
「そんなの決まってるだろう」

家庭の環境を採用の物差しにすること。それは国がはっきり禁じている、歴とした職業差別である。
だがこの銀行の奥では、それが「審査」と呼ばれていた。

帰り際、早瀬が小走りに追ってきて、封筒を差し出した。
「身元保証書は、こちらの控えで十分でしたので、お返しします。本日はご足労をおかけしました」
不備など、最初からなかったのだ。
深々と下がった若い行員の頭に、龍三は短く「すいません」とだけ返した。

その夜、夕食の席で美咲が首をかしげた。
「お父さん、今日、時は中央銀行に行ったって商店街の井上さんが言ってたけど、なんで?」
「散歩だ」
「え? 銀行まで長い散歩だね」
「年寄りの散歩は長いんだ」
「健康で何よりです」
湯のみの茶は、いつもより少しだけ濃かった。
内定式まであと3日。

10月1日、内定式の朝。柏文具店の店先で、美咲がくるりと回って見せた。
おろしたての黒いスーツ。胸ポケットには、母の万年筆が挿してある。
「どう?」
「うん。どこから見ても銀行員だ」
「まだ内定式だってば。気が早いよ」
龍三も袖の合わない量販店の古い礼服を着ていた。
3日前、蒲田から店に電話があったのだ。
「身元保証人の最終確認がございますので、当日はお父様もご同席をお願いします」
「保証人の確認を式の日にやるなんて、聞いたことがないな」
「うちの銀行、書類にうるさいんだよ。ほら、行こう」
「お父さん」
美咲はもう「うちの銀行」と呼んでいた。

本店の受付で、名札を持った早瀬が待っていた。
会場は2階だと案内板が出ているのに、早瀬が示したのは一階奥の廊下だった。
「あの、柏木様はこちらへ。お手続きがございますので」
目を合わせない。抱えた書類挟みを持つ手に落ち着きがない。
通された小部屋に、窓はなかった。

やがて蒲田が、ファイルを手に「どうもどうも、お揃いで」と入ってきた。
「では早速ですが」
ファイルから出された紙が、机を滑って美咲の前で止まった。
辞退届。
「え…」
「率直に申し上げますとね、最終審査の結果、ご家庭の状況が当行にこう、あと一歩届かなかった。ただ、取り消しとなると柏木さんの経歴に傷がつく。それはかわいそうでしょう。ですから、ご自身から辞退されたという形にしてあげたい。それで、当方なりの情なんですよ」
「ま、待ってください。審査って、私、成績も適性検査も…」
「うん。うん。そういうことじゃなくてね。総合的な、ご家庭の環境の、お話なんでね。ということで、いいものお持ちじゃないですか。その胸の万年筆で、ちょっとお名前だけね」

美咲の手が、胸ポケットの万年筆に触れた。
母が窓口で使い、この銀行を夢見た文字を全部書いてきた一本。それで辞退届を書けという。
「書けません」
「え?」
「これは、母の形見です。母は、この銀行の窓口にいたんです。私、私、母のような銀行員になりたいんです。これで辞退届だけは、書けません」
声は震えていた。それでも、紙を指先で静かに押し返した。
「ああ、もう話の分からないお嬢さんだな。少々お待ちを」

蒲田が出ていき、扉が半分だけ開けられていた。
廊下の先が急に騒がしくなった。頭取が式典会場に到着したらしい。
その足音が近づき、扉の前で止まった。
「遠藤様」
「おや」
「例のD班の、ええ、文具店の。それが署名を拒んでおりまして」
「ええ、いかがいたしましょう」
一拍の間。それから、鼻で笑う音がした。
「ふつうは辞退だ。当然だろう。いちいち聞くな」
足音が遠ざかり、会場の拍手が一際大きくなった。
美咲は動けなかった。今、確かにそう言った。審査でも基準でもなく、そう言った。

戻ってきた蒲田は、もう笑顔を作る手間も省いていた。
「はい。というわけですので、今日を持って、内定は取り消しです。署名はございませんので」
内定とは、法律の上ではすでに結ばれた労働契約である。会社の勝手な取り消しは、裁判で何度も無効とされてきた。
だからこの銀行は、本人の辞退という形が欲しかった。書面を渡さないのも手口のうちである。証拠がなければ、大半の家庭は泣き寝入りするしかない。
不意の星には、こういう事態を迫られた学生の相談が労働局に相次いでいた。他人事ではないのだ。この小部屋で、これまで何組の親子がそうさせられてきたのだろう。
その時、壁の向こうで同期たちが頭取のスピーチへ拍手を送っていた。
しかし美咲の手元には、何も残らなかった。内定も、書面の一枚さえも。

蒲田が退出を促すように扉を開けた時、それまで黙っていた龍三が、椅子に座ったまま口を開いた。
「どれだけ伺いたい」
「はい?」
「その決定は、わしと遠藤頭取お一人のご判断ですか? それとも、この銀行のご判断ですか?」
蒲田は一瞬だけ言葉に詰まり、それから鼻を鳴らした。
「ふ、同じことですよ。お父さん。この銀行ではね」
「そうですか。よくわかりました」
63歳は深く頷いて立ち上がり、娘の肩を抱いて小部屋を出た。
蒲田はこのやり取りを、廊下を曲がる頃にはもう忘れていた。

帰り道、店のガラス戸。本日臨時休業の張り紙をくぐって中に入った途端、美咲は床にしゃがみ込んだ。
3日間の研修、一人で並べた30の椅子、片親の子、窓のない小部屋、署名を拒んだ自分の指先、そして扉の向こうの鼻で笑う音。
バラバラだったものが、店の匂いを吸った瞬間に全部繋がって、喉から溢れた。
「ごめんね、お父さん。お母さんの万年筆で、辞退届なんて書けないよ。書けるわけないよ」
龍三は隣にしゃがみ、娘の背中に手を当てた。何も言わなかった。
言葉の代わりに、消しゴムと正味の匂いのする店が、娘の鳴き声を包んだ。
その鳴き声を聞きながら、龍三の目からゆっくりと温度が消えていった。
それは、木のいい商店街の親父の目ではない。もっと大きな何かの値段を、瞬きもせずに読む目だった。

夜、泣き疲れた美咲が二階で眠った後、龍三は店の奥の小部屋に入った。
古いノートパソコンと電話が一つ。湿った指は迷うことなく番号を押した。
「沢村さん、夜分にすみません。ああ、俺だ」
電話の向こうで、相手が笑う気配がした。
「おお、どうした? 龍三さんから電話とは珍しい。将棋の誘いじゃあなさそうだね」
「13年ぶりに、動かそうかと思う」
短い沈黙があった。それから、沢村の声から笑いが消えた。
「ほう。そういうことかい。分かった。明日の朝、事務所においで」
「頼む」
受話器を置き、龍三は天戸の隙間から商店街の明かりを眺めた。
「聡子。お前がいた銀行、悪いが少しだけ騒がしくなるぞ」

同じ夜、時は中央銀行人事部のフロアで、蒲田が一人キーボードを叩いていた。
「内定者名簿、柏木美咲。ステータスは、本人都合により辞退。よし。終い」

一週間後、時は中央銀行の役員フロアを、一通の内容証明が駆け巡った。
「大変です。株主総会の招集請求が」
「ふむ。どこの株主だ?」
差出人の名を見て、大森の銀縁メガネがずり落ちた。
「サワホールディングス。筆頭株主じゃないか」
「おい、議題は?」
「内定者選考における人権侵害行為の調査。と、二つ目が…」
「その二つ目はなんだ?」
大庭は答えられず、紙をそのまま専務に向けた。
文面を目で追った大森の顔が、みるみる白くなっていく。
「これは、これはわしの口からは頭取に言えんぞ」
「まずいですよ。サワホールディングスは、代表に弁護士が立ってるだけで、後ろに誰がいるのか誰も知らんのです。市場じゃ、顔のないファンドと」
株式会社では、一定以上の株を持つ株主が臨時の株主総会を開かせて、経営の責任を問うことができる。その招集は裁判所の許可で開かれ、拒否はできない。
銀行は応じるしかなく、開催は約2ヶ月後に決まった。

頭取に報告を聞いた大庭は、書類を一瞥もなかった。
「なんだこれは? 潰せ」
「しかし、頭取。議題が議題です。世間に知れたら、人権侵害。こっちは審査をしただけだ」
「蒲田に言え。総会までに、話を綺麗にしておけ、とな」
その「綺麗にする作業」が、人事部で始まった。
「内定者選考の人権侵害って、例のD班の。まさか柏木の家が動いた?」
「いやあ、ないない。あの人の家庭に何ができるんですか? 保証能力ゼロの文具屋ですよ。どこぞの人権団体に駆け込んで、それをサワホールディングスが株価いじりの口実に拾ったんでしょう。ファンドなんて、なんせがめな商売ですから」
「でも、誠実に対応すべきことなんじゃないか?」
「いいのいいの。頭取がおっしゃるんだからさ。よし。Aの小娘の検査書類で固めときゃ。調査なんぞ空振りだ」
「該当内定者は、ご本人の都合により辞退されました、と。はい。完璧」
「それと、早瀬君。Dの格付け表、全部俺が預かるからね。君は何も見てない。こればらせば、情報漏洩で犯罪だからね」
「オッケーです。はい」

その週末、閉店後の茶の間に、白髪の老人が座っていた。沢村さんだ。昔からの将棋仲間で、弁護士をやってる。
「話は龍三さんから聞いたよ。酷い目にあったね。美咲ちゃん。一つだけ約束してくれ。銀行から電話が来たら、出る前に必ず録音だ」
「録音ですか? あの、でも、うち、弁護士さんにお願いできるほどの余裕は…」
「心配いらん。お父さんにね、将棋の負けが嵩んでるんだ。その生産だと思ってくれ」

数日後、美咲のスマホが鳴った。画面には、時は中央銀行。
深く息を吸い、教わった通り録音ボタンを押してから出た。
「もしもし。柏木美咲です」
「ああ、もしもし。時は中央銀行の蒲田でございます。いや、その後お元気かな、と思いましてね。実はですね、例の件、書類上ちょっと整理が必要になりましてね。今からでも、辞退届にご署名いただければ、その内定の復活も検討できるかもしれないんですよね」
「これが、取り消しとおっしゃいましたよね? あの日、はっきり。今から私が辞退したことにしたいんですか?」
「いやいや、そういうことじゃなくてね。しじ、の、整理の、お話ね」
「辞退もしません。署名も、しません。失礼します」
通話を切られた蒲田は、受話器に舌打ちを一つ落とした。
「まあいい。記録はもう辞退になってんだ。小娘の言い訳なんぞ、誰が信じるかね」

その頃、早瀬は夜の事務所を歩いていた。鞄には、シュレッダーにかける前に映し取った紙の束。それと、総会対応の書類で目にした招集請求状の代理人、「沢村法律事務所」の住所を書き写したメモ。
銀行と戦っている側が誰か、人事部の末端の席からはよく見えていた。
頭の裏には、パイプ椅子で頭を下げた老人と、椅子を30脚並べた内定者の背中。
その扉を、三回深呼吸してから叩いた。
「僕のしてることは、犯罪でしょうか?」
「公益通報と言うんだ。違法行為を知ったものが、知るべき場所へ知らせる。あんたは法律で守られる。よく来なさった」
「家庭環境評価AからD。母子家庭、ふつうは家庭は自動でD。生活保護世帯は問答無用」
点数表とは聞いていたが、ここまでとは。

沢村はこの2ヶ月、音を立てずに動いていた。
過去2年で辞退した内定者11人。名簿を眺める目は、さながら将棋の盤面を見るようだった。
3日前の夜、事務所の窓際で沢村は将棋盤に龍三を見た。
「役者は揃ったよ。で、龍三さん。当日はどうする気だ?」
「何も変わらんよ。最後まで、文房具屋の父親でいるさ」

株主総会の朝。時は中央銀行本店の大ホールに、観覧席が奥義寺に並んでいた。
受付に立ったのは、グレーの背広の男と、それに付き添う合わない古い礼服の老人だった。
「サワホールディングス代理人、弁護士の沢村です。こちらは私の補助者。何、年寄りの付き添いですよ」
株主を入れない株主総会も、会社が認めた同行者は別である。受付係は、老人の礼服を二度眺めてから、通行証を差し出した。
銀行は、「弁護士の付き添いの爺いさん」を笑って通した。
株席の列から、ひそひそ声が漏れる。
「例の顔のないファンドの使いか」
「じいさんは鞄持ちだろうな」

前列に着いた龍三は、番茶でも待つように背を丸めて座った。
壇上で資料を揃えていた蒲田がその姿に気づいて、眉を跳ね上げた。
「げっ、文具屋。ああ、例の弁護士に泣きついて、鞄持ちで潜り込んだってわけね。ご苦労なこって」
顔のないファンドが仕掛けた臨時総会は、上場銀行の決まりで事前に公表され、朝から市場の噂の的だった。会場の外には、テレビ局の中継車が列を作っている。

大庭議長席の蕎麦が開会を宣言し、蒲田が案内に立つ。
「議題、内定者選考における人権侵害行為なる件につきまして、調査結果をご報告いたします。結論から申し上げて、そのような事実は一切ございません。ご指摘の元内定者は、ご本人のご都合により辞退されたものでして。はい、こちらが記録です」
スクリーンに「本人都合による辞退」の文字が映った。
「むしろ当行こそ、事実無根の言いがかりの被害者でありましてね」

その時、グレーの背広が立った。
「議長。では、そのご本人に伺いましょう。本日、この場に来ております」
後方の扉が開き、黒いスーツの美咲が、まっすぐ壇の脇のマイクへ歩く。胸ポケットには、母の万年筆が挿してあった。
「不意の方は発言をお認めいただけますか、議長? それとも、認められない理由がございますか?」
「まあいい。伺いましょう」
美咲の声は、最初の一言だけ揺れた。
「柏木美咲です。私は、辞退していません。内定式の日に、辞退の署名を求められて、断りました。そしたら、その場で取り消しだと言われました。署名も提出も、していません」
「ですから、それは彼女の主観でありまして、証拠が…そう、証拠が…」
「ありますよ」
ICレコーダーがマイクに寄せられた。
「今からでも辞退届にご署名いただければ、その内定の復活も検討できるかもしれないですよね」
これが、自分の声。蒲田の顔から、表情が抜け落ちた。
株席は一斉にどよめく。
「存在しない辞退を、後から作ろうとした声ですな。加えて、当人事部の内部資料。家庭環境評価AからD。母子家庭、ふつうは家庭は自動でD。この2年で辞退させられた11人のうち、2名の陳述書もお預かりしています。提供者は、公益通報者として法律で保護されている」
「な、こ、これ、資料…」

役員席で大森と大庭が、同時にハンカチを出した。だが、まだ終わっていなかった。
「下品な茶番ですなあ」
手入れされた爪で、トントンと机を一つ叩いた。それから調席を立ち、株主席に向かって、株価と一礼した。
「株主の皆様。お見苦しいところを申し訳ございません。銀行は信用商売でございます。その銀行が、行員の家庭の安定を見る。これは差別ではなく、当然の経営判断でございます」
そこで大庭は顔を上げ、壇の脇の美咲に視線を動かした。
「そこの君にも分かるように言ってあろう。仕方ない。辞退は当然だろう」
口の端だけの笑いがマイクに乗って、会場の隅まで届いた。
株席がどよめく。
「保証人は文具屋の父親、たった一人。母親はいない。それが将来、皆様の預金を扱おうと思うと、ご不安なのは当たり前のこと。ご理解いただき、ありがとうございます」
「おい、警備、議長権だ。議事の妨げだ。お引き取り願い。年寄りと娘の社会科見学に、株主の皆様の時間を使わせるな」
「ささ、お引き取りを」

最前列の龍三は、動かなかった。膝の上の古い手帳の開いたページに一線を落とし、じっと見つめている。
大庭の口角が、じりと上がっていく。勝ちを確信した男の顔だった。
沢村が、もう一度立った。
「議長。ご紹介がまだでした。手短に。本日の当方の議決権は、全てこの方の意図で行使されます」
「サワホールディングス、発行済み株式。1000億円分の筆頭株主。その実質所有者です」
沢村の手のひらが、最前列に向いた。

最初に固まったのは、蒲田だった。抱えた資料が腕から滑り、バサバサと床を叩く。
役員席が振り返り、株主席が割れるようにざわめき、案内係はマイクを握ったまま動けなくなった。
龍三が、立ち上がった。
「柏木龍三。文房具屋です」

続きは、沢村が引き取った。
「サワホールディングス。表向きの代表はこの私ですが、株式の全ては、柏木龍三氏の資産。13年かけて、亡くなられた奥様の務めた銀行を見守るために、持ち続けたものです。こちらが、登記の書類と株主名簿の写し。本日の議決権行使の委任状」
紙の束が事務局に渡る。確認する事務局長の手が、途中から震え出した。
「ま、間違いありません。議決権は有効。実質所有者は、柏木龍三氏。書類は全て、本物です」
「柏木龍三だと? まさか…」
「相場の柏木?」
「馬鹿な。13年前に消えた…」
「あの、あの、ご存知なんですか?」
「知らんのか? 株の世界で、柏木が降りた株は買うな、とまで言われた男だぞ。朝に石の男の手が、わずかに震えていた」
「保証能力ゼロと審査で出た男が…文房具屋だぞ…それが、それが、筆頭株主…」

自分が作らせた点数表が、手の中で音もなく裏返っていた。
それでも大庭は、最後の意地を張った。
「だ、だとしても。人事は経営の…会社の…」
「頭取、おやめください。相手は筆頭株主です」

龍三は大庭に向き直り、静かに言い放った。
「頭取。1000億円分の株を、売却します」
「え? 売却? …か、株を、うちの株を売られたら、信用が…市場が…」
そこでようやく、大庭の顔から赤みが引いていった。
「柏木さん。いや、柏木様。ど、どこか別にて、頭取の私と、詳細にお話しいただければ、こんな誤解は、すぐにでも…」
龍三は大庭を見ずに、上着の袖を直し、隣の沢村にだけ言った。
「話すことなど、何もない」
「承知しました」
沢村がスマホを耳に当てた。
「私だ。予定通り、売却手続きの開始を。発表も解禁でいい」
用意されていた一枚の発表文が、その瞬間に通信社へ流れた。
60秒とかからず、行員たちの上着のポケットが順に震え出し、誰かの端末が机から滑り落ちた。
画面に速報が走った。
「筆頭株主サワホールディングス、時は中央株、全て売却へ」
株価のグラフが、崖の形に折れていく。
会場の外で待ち構えていた記者たちが、一斉に廊下を走り出す音がした。

「わ、わしは、前から反対だったんだ。この審査とやらには」
「わ、私もです。ほら、頭取の問題発言を、日付も録音もしてあります。証拠です」
「おい、お前たち。売却を止めろ。先方と交渉するんだ。やべえ、聞こえんのか」
大庭の言葉に、誰も動かなかった。役員の椅子が、じりじりと壇上から遠ざかっていく。
「わ、わしは頭取だぞ。頭取の命令だぞ。株主の皆様」
大庭の声を上から塗りつぶして、大森が後ろの席へ深々と頭を下げた。
「本件は、全てわしと大庭頭取の独断でございます。当行は本日中に、ただいまより抜本的な改革を…」
「そう、そうです。点数表も、全部あの人が作れと言われて、私は作っただけで…私こそ被害者なんです、私は」
「蒲田君が持ってきた案件だろうが」
「ええ、持ってこいと言われたから、持っていったんです」

議長は、「ああもう、お仕事どころではなさそうですな」と、二つ目の議題を読み上げた。
「取締役、大庭淑子、解任の件」
あの日、大森が「わしの口からは言えん」と顔を曇らせた文面が、今、大ホールに響き渡った。
「採決をお願いします」
株主席の手が、なだれを打って上がった。
可決を告げる事務局の声を、大庭は議長席の机にすがって聞いた。支えきれず、膝から床へ落ちた。
株主総会の解任は、可決されたその瞬間から効力を持つ。大庭は、たった今、ただの男になった。

「ふ、ふざけるな。む、無効だ。こんな採決は無効だ。け、警備、警備はどこだ? この場の全員をつまみ出せ」
警備員がすぐに駆けつけ、二人がかりで大庭の両脇を抱えた。
「解任された元役員は、もう部外者ですので、ご退場をお願いいたします」
「おい、あ、退職金は。せ、せめて退職金だけは。わ、私はこの銀行に30年。おい、大森、やべえ、助けてくれ」
差し伸べる手を、かつての部下たちは視界にも入れなかった。
その手が最後にすがったのは、目の前に立った古い礼服の裾だった。
龍三は腰を折って、目の高さを合わせた。店先で子供に鉛筆の持ち方を教える時の、あの声だった。
「あんたの点数表は、家庭に点数をつけるそうだな。なら、教えてくれ。娘に作った弁当は何点だ? 学校から帰る『ただいま』に返した『おかえり』は何点だ?」
「乗らんのだよ。あんたの表には、人の行いってやつが、どこにも乗らん。人は、事情じゃなく、行いで図るもんです。あんたの銀行の窓口で、妻が最初に教わってきたことだ」
「うう…」

龍三は立ち上がり、壇の脇で立ち尽くす娘に目をやった。
「お父さん…」
握りしめた万年筆と両手で口を覆っている。
父は少し困った顔をして、それから13年間そうしてきたのと同じ調子で言った。
「飯、食って帰るか」

一枚の点数表が、銀行を地獄に変えるまで、開会から1時間もかからなかった。

その夜、柏文具店の茶の間には、弁護士が勝手に頼んだ出前の上天丼が、三つ並んでいた。
「ねえ、そろそろ教えてよ。お父さんって、何者なの?」
「ただの文具屋だ」
「総会で銀行を止める文具屋が、どこにいるの?」
「ははは。教えてあげよう。美咲ちゃん」
「あんたのお父さんはね、13年前まで、相場師だった。人様のお金を何千億と預かって、株で増やす仕事だ」
「相場師…株…」
「株の世界で一番静かで、一番恐れられた男だよ」
「え、待って。うちのお父さんが、毎朝消しゴムの棚を拭いてる、このお父さんが…その消しゴムの親父が、今日、銀行一つ黙らせたのさ」
「じゃあ、総会の1000億って、例え話じゃなくて、本物の1000億なんで…やめちゃったの? そんなにすごい仕事だったんでしょう」
「さあな。美咲ちゃんのお母さんが倒れた日、この人は、仕事の電話で忙しくて。それっきりだ。翌月には、客に金を全部返して、ファンドを畳んで、この店の親父になった」

美咲の目が、店の方を向いた。消しゴムの棚。手書きの値札。学校から帰るたび、必ず「おかえり」のあった台所。
13年分の見慣れた風景が、剥がれて、意味を変えていく。
「それって…それって、私のせい…?」
「後悔したことは、一度もない。学費の膨大な数字より、お前の鉛筆一本の方が、守りがあった」
「今さらって、言った」
「この人、『何だって』って言ったよ。あ、違うって」
父は苦笑いのまま笑うので、どっちつかずの変な顔になった。
母親が昔、よくやった顔である。

食後、美咲は万年筆を卓の上に置いた。
「決めた。私、この万年筆でもう一回書く。履歴書。あの銀行が本当に変わるなら、もう一回ちゃんと受け直す。お父さんの力で入るのは、嫌だ、から」
龍三は万年筆を取り上げ、文房具屋の目でペン先を見分してから、娘の手のひらに乗せて返した。
「案ずるな。戻ってくるものがあるとすれば、それはお前が自分の力で取った内定だ。俺がやったのは、舞台を出すことだけ。お前を押し込むことは、せん」
「うん」
「で、沢村さん。売却は、本当に最後までやっちまうのかい?」
「それは、あの銀行の、これから次第だ」

その10日後、銀行は外部から新しい頭取を迎え、謝罪の会見を開いた。点数表の廃止。辞退させられた11人全員への謝罪と、内定の回復。
そして、柏家には一通の封筒が届いた。
「内定取り消しの撤回と、お詫びについて」
読み終えた美咲は、封筒を胸に当てて、しばらく黙っていた。
「私の内定だ。私が、この万年筆で…」
「良かったな」
「うん」

一週間後、大庭は30年通った本店から、ダンボール二箱だけを持ち出した。解任された男に、退職金は出なかった。それどころか、銀行の信用を傷つけた損害を個人の財産で償えという、株主代表訴訟が始まり、弁護士費用で別荘と車が消えた。
それでも男は、毎朝スーツを着て靴を磨いた。
「何? 心配いらん。銀行界がわしを放っておくものか。次の椅子を用意して、時期に迎えの車が来る」
妻は黙って聞いていた。朝の食卓には、離婚届だけが置かれていた。

数ヶ月後。迎えの車は来なかった。来たのは、断りの電話ばかり。銀行業界で、家庭差別の張本人を知らぬものはなく、人を家柄で選び続けた男が、どこへ行っても経歴の一行で落とされた。
収入は絶え、蓄えは裁判に食われた。それでも、家だけは手放さなかった。頭取の象徴だった、庭付きの邸宅。そのローンが、まだ2000万残っている。
最速の赤い封筒が届いても、男は開封さえしなかった。
「取り立てだと。できるものか。頭取の時代、役員の延滞は、担当の方が家まで謝りに来て、返済の方を都合に合わせたものだ。それが、銀行というものだ」
だが男は、もう役員ではなかった。
4ヶ月の放置の末、分割で返す権利を失い、残額を一括で払えという通知が届く。
男は生まれて初めて、番号を握って窓口の列に並んだ。

呼ばれた窓口には、定石の行員と、胸ポケットに古い万年筆を挿した、見覚えのある顔が座っていた。
この春、取り戻した内定で入行した、柏木美咲である。
「…お、お前は」
「ご担当いたします。柏木です」
娘は書類に目を落とし、息を一つ整えてから、顔を上げた。
「4ヶ月、ご放置されたのですね」
「私の内定の取り消しは、あんなに、お早かったのにな」
「ああ…独り言のつもりが、失礼いたしました」
ちらりと頭を下げ、美咲はそれきりにした。代わりに、電卓を叩き始めた。
「期限の利益は失われています。これは規定でもう戻せません。ですが、できることを探しましょう」
評価より高く売れる売却。売った後もその家に住み続けられる契約。債務整理の無料相談。それから、無理のない返済計画を、一緒に。
一枚また一枚と、娘は救いの紙を窓口に並べた。かつてこの男が、誰にも渡せなかったものばかりである。

「ふ、ふざけるな」
男はその紙をまとめて、払い落とした。
「家を売れ、賃貸に住め、分割で頭を下げろ。じゃ、冗談を言うな。わしは頭取だぞ」
「この銀行の…」
と言い直す前に、警備員が近づいてきた。どこかで見た光景である。
美咲は床の紙を拾い集め、封筒に入れて、男の鞄に差し入れた。
「お鞄に入れておきます。気が変わったら、いつでも」

男は何も言わずに出ていった。
数週間後、封筒は、開けられないまま、鞄の底で潰れていた。

郊外の安アパート。男は今夜も、磨き上げた革靴を玄関に揃え、来ない迎えの車を待っている。
「ハメられた。わしは、ハメられただけだ」
彼の点数表に、彼自身の明日だけが、乗っていなかった。

蒲田は、懲戒解雇の後、30社目でようやく小さな事務代行会社に拾われた。だが半年後、時は中央の事件の続報がテレビに流れた朝、会議室に呼ばれた。
机の向こうから、一枚の紙が滑ってくる。
「退職届です。ご自身から退職いただければ、経歴にこれ以上の傷はつきませんのでね。ほら、そちらのペンで、ちょっと」
どこかで聞いたセリフだった。誰のセリフだったかは、この男が一番よく知っていた。
蒲田は、書いた。
あの日、震える手でも書かなかった22歳の内定者がいたことを、思い出しもしなかった。

株の売却は、あの謝罪会見の日に止まっていた。
「本当に止めていいのか?」
「ああ。私が見守ってきたのは、妻の銀行だ。あの男の銀行じゃない」

銀行は信用を取り戻し、窓口には客が戻り始めた。
春、入行式を終えた美咲は、人事の机で雇用契約書に向かった。胸ポケットから万年筆を抜き、黒いインクで、一字ずつ丁寧に名前を書く。
36年前に祖父が店の棚から母に持たせた。母が窓口で使い、娘が内定書類を書き、辞退届だけは書かなかった一本が、その字で縁を閉じた。

そして夏。母と同じ視点の窓口に、美咲は座っている。
「あの、うち、不意でして。教育ローンの審査って、家庭のことで落とされたりはしませんか?」
「いたしません。ご事情は、審査の材料ではなく、ご相談の材料です。一緒に、できる形を探しましょう」
手続きを終えた客が、何度も頭を下げて帰っていく。
「ありがとう。本当に、ありがとね」
美咲は見送って、名札を指で直した。母と同じ癖だと、本人は気づいていない。
「お客さんの、困ったの先に、ありがとう」
母の言葉の意味を、娘は今、窓口で毎日確かめている。
人事部に残った早瀬は、新設された公正採用係を任された。あの日のパイプ椅子は撤去し、保証人と同じ椅子に変えた。

商店街の文房具店は、何も変わらない。取材の申し込みは、沢村が笑いながら全部断った。
「こんにちは、おじちゃん。今日は何の日?」
「なんでもない日だ」
「えへへ、安くして」
「ダメだ。定価で買え」

夜、店を終えた柏木は、仏壇の前に座って湯飲みを一つ備えた。
写真の聡子は今日も、名札に指を添えて笑っている。
「聡子。お前の窓口、ちゃんと娘が継いだよ」
線香の煙が、まっすぐ立ちのぼる。
商店街の小さな文具店は、明日も朝8時に開く。

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