胸に鋭い痛みが走ったのは、夕飯の支度をしている時だった。気づいたら救急車の中で、検査を終えた医師が「真金梗速です。明後日、手術が必要です」と告げた。
最初に電話をかけたのは、長男の裕二だった。
「裕二、私、真金梗速になったみたいなの」
「はあ?何それ。マジで言ってるの?」
「今は点滴で安定してるけど、明後日に手術を受けないといけないって言われたの」
「手術?しかも明後日?…大丈夫なのかよ」
「わからない。でも、手術なんて初めてで…病院は怖いの。お父さんが亡くなった時の記憶があるから」
裕二の声が少し沈んだ。
「大丈夫だよ。手術すれば治るんだろ」
「裕二の顔が見たいわ。病院に来てくれない?」
「悪い。それは無理なんだ。仕事が忙しくて」
「手術の日は?」
「行きたい気持ちは山々だよ。でも無理なもんは無理だ。休んだら生活ができなくなる」
胸が締め付けられた。医者に「命の危険がある」と言われた自分より、彼の仕事の方が大事なのだろうか。
「もしかしたら、会えるのは最後になるかもしれないのよ」
「それはそれで仕方ないって。とにかく俺は今の生活を守るのに精一杯なんだ。母さんのことまで考える余裕はない」
電話を切った後、次に勝彦へ連絡した。
「勝彦、私、明後日に手術を受けることになったわ」
「え?手術?この前会った時は元気だったろ」
「検査したら真金梗速って診断されて…」
「分かった。今から病院に行くから住所を送ってくれ。仕事は?そんなの休むって伝えるから大丈夫だよ。有給もたくさん残ってるし。手術の日も必ず行くからね」
その言葉だけで、涙が出そうになった。
「ありがとう。裕二にも連絡したんだけど、忙しいから来られないって言われちゃって」
「は?母さんが入院してるのに?…ありえないだろ。俺たちがどれだけ親に世話になったと思ってるんだ」
「私も最初はそう思った。でも、あの子には家族がいるのよ。家族のために仕事をしないといけないから」
「そんなに追い込まれてるとしたら、それはもう兄さんが悪いだろう」
「やめて。私は納得してることだから。私のことなんかで裕二を不幸にしたくないの」
勝彦はすぐに病院へ来てくれた。その姿を見て、私はようやく少しだけ安心できた。
手術の前日、嫁の国子さんから電話がかかってきた。
「明日からハワイ旅行に行くんです。何かお土産、欲しいものありませんか?」
「ハワイ旅行?裕二は仕事だって言ってたけど」
「仕事なんてしてたらハワイに行けませんよ」
「私は裕二から、仕事だからお見舞いに来られないって言われたの」
「へえ、そんなことがあったんですね。でも断って普通だと思いますよ。お母さんが手術しようが、うちらに関係ないんで」
言葉を失った。血のつながりがないから、そんなことが言えるのか。
「それじゃ、お土産はどうしましょうか?買ってきても、お母さんがあの世にいるんじゃ渡せないですし、なしでいいですか?」
「そんなことがよく言えるわね。冗談で済まされるようなことじゃないわよ」
「冗談じゃないですよ。本気で言ってるんです」
電話を切った後も、その冷酷な言葉が頭から離れなかった。
手術当日、勝彦夫婦が朝早くから病院に来てくれた。
「母さん、絶対大丈夫だよ。終わったら、みんなでご飯食べに行こうな」
その言葉に何度も救われた。麻酔が効くまでの間、私はずっと勝彦の顔を見ていた。
手術は無事に成功した。目が覚めた時、最初に勝彦の笑顔が見えた。
「よかった…本当に、よかった」
退院して1ヶ月が経った頃、裕二から電話がかかってきた。
「おい、これはどういうことだ?」
「あら、あなたから連絡するなんて珍しいわね。もしかしてハワイのお土産でもくれるのかしら?」
「憎まれ口叩けるくらいには回復したみたいだな」
「おかげ様で。手術は無事に成功したのよ」
「そんなことはどうでもいいんだよ。仕送りを止めたな」
「そうね。それがどうかしたの?」
「俺が父さんから毎月もらっていた仕送りを、あんたが止めたんだな。なんでだよ!父さんは俺たちが困ってるなら助けてあげてくれって言ってたんだぞ!」
深く息を吸った。言うべき時が来たのだ。
「まず最初に伝えておくけど、仕送りをしていたのは私よ」
「は?何を言ってるんだよ」
「父さんのお金を送ってると思ってるみたいだけど、それは大きな間違い。私は自分が働いて、そのお金を仕送りに使ってたの。あなたの生活が大変だと言うからね」
「母さんが…父さんの遺産じゃなくて?」
「父さんの遺産はあなたたち兄弟で分けるべきものよ。でもあなただけがもらってるのは不公平だから。あなたが生活が大変だと言うから、代わりに私が働いて仕送りをしていたの」
裕二の声が震えていた。
「じゃあ、なんで仕送りを止めたんだ?俺が見舞に行かなかったことを怒ってるからだろ?」
「違うわよ。もうあなたには必要ないと思ったからよ。貯金ができてるなら、私の仕送りなんて不要じゃない」
「マジかよ…」
「これからは仕送りなしで生活していきなさい。私たちはもう赤の他人よ。国子さんが言ってたわ。『血のつながりもないんだから、お母さんが手術しようが関係ない』ってね。私のことを騙してハワイに行って、『お見舞いに行けないのは仕事だから』と嘘をついたのは、あなたたちよ」
電話の向こうで裕二が何か叫んでいたが、私は電話を切った。
それから30分後、勝彦から連絡があった。
「母さん、兄さんから連絡が来た?」
「ええ。仕送りのことで怒ってたわ」
「もう十分騙しとったから、いいだろ。俺も手術が終わった後に、兄さんが仕送りをもらってたって知ったんだ。父さんが亡くなってから母さんがパートをし出して、俺が『生活に困ってるなら面倒見ようか』って言ってもごまかされてたから、何かあるなとは思ってたけど…まさか兄さんのためだったなんて」
「それは、もう済んだことよ」
「でもな、そこまで面倒見てくれた人が命の危機だって言うのに、よくハワイ旅行なんて行けるよな」
「まあ、あの子はそういう子なのよ」
「そんなの、許されるわけないだろ。俺はあいつを家族だとは認めないからな」
勝彦の口調は、普段の穏やかさが嘘のように固かった。
翌日、今度は国子さんが家の電話に怒鳴り込んできた。
「どうしてこんなことをするのよ!あなた、うちの両親に余計なことを吹き込んだでしょ!」
「ああ、そういうことね。昨日お土産を渡そうと連絡したら『もう2度とうちの敷居をまたぐな』ってぶち切れられたのよ」
「確かに、二人ともすごく怒ってたわ」
「あなた告げ口なんて最低な真似よ!」
「さすがに私だってそんなことまでしてないわ。手術の前日に、あなたのお母さんから連絡が来たの。り家顔合わせで会って以来、とても仲良くなってね。ちょくちょく連絡を取り合ってたのよ。その時に手術をするって言ったら、わざわざ当日に夫婦でお見舞いに来てくれたわ。その時にあなたたちがいないことを知って、勝彦に詳しい話を聞いたんだって。それを聞いて、二人ともすごく怒ってたわ。勝彦に話を聞かれて、もう知られたって思ったのかもしれないけどね」
国子さんの声が裏返った。
「じゃあ、なんで私がこんな目に会うのよ!」
「家族を大切にできないからじゃない。あなたたちがやったことの結果よ」
「ふざけるな!」
「私に怒られても困るわ。話をするなら、直接島田さんたちにした方がいいわね。でも、聞いてくれるとは思わないけど」
電話を切った後、私は小さくため息をついた。もういい。あの家族とは、ここで終わりにしよう。
2週間後、私は弁護士に相談し、裕二に内容証明郵便で請求書を送った。今まで送った仕送りの全額を返還するように、と。
すぐに裕二から電話がかかってきた。
「ふざけるな!そんなもん返すか!あれはあんたたちが俺にくれたもんだろうが!」
「これは弁護士さんとも相談して決めたことよ。ちゃんと返還してね」
「なんでだよ!裁判でも何でもしてやるからな!」
「そう。でも、あなたは負けると思うわよ」
「なんでだ!」
「だって、あなた私たちを騙して送りを受け取ってたでしょ。ハワイ旅行に行ってたじゃない。しかも勝彦があなたたちのSNSを見つけてくれたの。妻と一緒にアカウントを持ってて、高そうなブランド物を買ったり、二人で高級レストランに行ったって自慢してたでしょう。あんなの普通に働いてるだけじゃ無理よ」
「それは、見栄を張っただけで…」
「生活に困ってるってお父さんに泣きついたのも嘘だったって、証明されたわ」
裕二は黙り込んだ。
「私たちはあなたたちの生活のために仕送りをしていたの。無駄遣いをさせるためじゃない」
「昔のことだろ!ぐちぐち言うなよ!親子なんだから金をくれるくらい普通だ!」
「私は自分が騙されてただけなら、何も思わなかった。でもあなたはお父さんのことも騙したわ。お父さんは病気で入院してる時もずっとあなたのことを心配してた。私に『あの子を守ってやってくれ』ってお願いまでしてきたわ。なのに、それが全て嘘だった。お父さんは騙されたまま天国に行ったのよ。こんなことをされたら、私だって黙ってはおけないわ」
電話の向こうで裕二が懇願した。
「頼むよ。金はもう払えない。今までの仕送り金額って、とんでもない額だぞ」
「他人がどうなろうと、知ったこっちゃないわ」
「一度、話だけでもさせてくれ!」
「何かあるなら、弁護士にして。お願いだから、だるい連絡はしてこないで」
私は電話を切った。そして、その番号をブロックした。
私は友人に、今までの仕送り全額の返還を請求したと話した。その後、裕二と国子の生活は経済的に苦しくなったらしい。頼れるものがなくなった彼らは、消費者金融に手を出した。今は高額の利息を返済するために、昼夜問わず働いているそうだ。国子さんは借金だらけの裕二と離婚し、一人で新しく生活を始めたようだ。ただ、借金がないだけで生活は苦しいらしい。近所の喫茶店にパンケーキが置いてあるそうだが、それすら今は食べることができず、いつも眺めることしかできないと聞いている。
一方の私は、無事に退院して元気に生活している。一度死に直面したことで、人生観が大きく変わった。夫を亡くして後ろ向きになっていたけれど、命があるのなら、たくさんの思い出を作りたいと思うようになった。いつか天国に行って、夫にたくさんの土産話をしてあげたいなと思っている。



