「あんたが奥さん?私のぶりんの彼女です。うわ、頭悪そう」
見知らぬ若い女が、いきなりそんな言葉を投げつけてきた。彼女はスマホをいじりながら、私を値踏みするように見下していた。
「は?マジムカつくんだけど。何のようですか?」
「最後だから挨拶くらいしておこうかと思って。のぶりのスマホ見て連絡したの」
「何が最後なんですか?」
「あんた、もうすぐ捨てられるんだよ。ブリンはエリートだから海外赴任が決まったの。それで選ばれたのが私ってわけ」
私は夫の不倫相手だと名乗るその女と、駅近くのカフェで向かい合っていた。彼女が言うには、夫は私と別れて、自分をアメリカに連れて行くのだという。
「なぜ本人が言わずに、あなたが連絡してくるんですか?」
「そのうち言われると思うけど、私からも一言かましてやりたくてさ」
「私があなたに何かしました?」
「私の大事なノブリンを独占したでしょう」
「結婚してましたからね」
「1年も気づいてないのに、何が妻だよ」
「知ってましたよ。探偵も入れてとっくに特定してます。浜田ももかさん、26歳。高校中退。ご実家は宮崎県で、父と母と兄が住んでるんですね」
彼女の顔色が一瞬で変わった。私はスマホを置いて、彼女の個人情報を順に読み上げた。仕事もろくにしていないようだし、お金もないだろう。だから、慰謝料を支払えない時は、いずれご両親に相談しないといけないかもしれないと思って調べさせてもらった。
彼女は声を震わせた。
「慰謝料って何?なんで私が払うわけ?」
「若いから。いや、頭がよろしくないからご存知ない。あなたが今やってることは、不貞行為と言います」
「何それ?不貞行為、意味わかんない」
「奥さんがいる人と関係を持つことです」
「好きになって一緒にいることの何が悪いの?」
「だったら順番を守らないと。行列に横入りされたら、怒るでしょ」
「そりゃそうだけど」
「離婚してから付き合えばよかったんです。順番を守らないから、こういうことになるんですよ」
私は弁護士を通じて慰謝料を請求すると伝えた。払えなければ実家に連絡する。それで決着がつかなければ裁判になる。さらに、夫と一緒に海外赴任についていく計画を離婚前から立てているのは悪質だと付け加えた。
「それって大体いくらくらいなの?20万とかなら友達が貸してくれるかも」
「0が1つ足りませんね」
「は?200万?」
「最低限の額ってだけです。私の心のダメージは、そんなに安くありません。だって15年も夫婦でいたんですよ。息子だって、中学生の多感な時期です」
彼女は必死に頭を下げた。
「じゃあ海外赴任についていかなければいい。行かなくていいんですか?」
「だって裁判とか無理だし。何より実家に言われるのは絶対ダメなの」
「厳しいご両親みたいですもんね。まさか東京でOLとして真面目に働いてると思っていた娘が、既婚者と交際してるなんて。田舎のご両親が知ったら、さぞかし驚くでしょうね」
「お願いします。言わないでください。じゃないと連れ戻される。あんな山奥で暮らすのは絶対に嫌なの」
「あなたが社会人として自分で責任を取れるのであれば、連絡する必要はありません」
「わかりました。ノブリンとは別れます」
彼女はあっさりと夫を切り捨てた。海外もついていかないし、今すぐブロックすると言った。そこまでしてくれるなら、こちらも慰謝料については交渉に応じようと伝えた。
「若いんだから、同世代の素敵な人を見つけてください」
「ですよね。あえておっさんに行くことなかったです。色々買ってもらえるし、行ったことないお店ばかり連れてってくれるから、夢見てるみたいで」
「魔法は解けましたか?」
「はい、もういいです。気づけてよかったです。では失礼します」
数時間後、夫が帰宅した。彼は気まずそうに、切り出した。
「別れたい」
「どうして?」
「海外赴任が決まったし、もう離婚しかないかなって」
「遠距離ではやっていけないだろう。意味が分からない。私がついていくという選択肢はないの?」
「ごめん。正直に言うわ。好きな人ができた。お前には悪いけど、俺は若い女とやり直すわ」
「浮気してたのね」
「そうなるな。お前との生活は終わり。とっとと離婚してくれ」
「嫌よ。15年も支えてきたのに、あんまりじゃない。ケントだってもうすぐ受験なのよ」
「養育費も慰謝料も払う。それでどうにかなるだろう」
彼は、もう愛情はないと言い切った。彼の目は、かつて私を見ていた時の色を失っていた。
「あなたは本当にそれでいいのね。後悔しないかってこと?」
「俺も覚悟は決まってるから、それでいい」
「分かった。あなたの言う通り、醒め切った夫婦関係を見せてもよくないわ。海外赴任はむしろいいチャンスかもしれない。ケントの受験に影響しないよう、タイミングを見て伝えるわ」
「そうしてくれ。出発はいつなの?」
「前任者が病気になったから急がないといけないんだ。1ヶ月後か2ヶ月後くらいかな」
「分かった。荷物は自分でまとめてね」
「え、手伝ってくれないの?」
「私を裏切った人の顔なんて見たくないわ。ケントを連れて、しばらく実家に帰る」
翌日、私は離婚届を提出した。そして、夫の仕事の恩人である河野部長に、離婚の報告をしに行った。
「河野さん、お久しぶりです。突然すみません。離婚しました」
「え、それはまた急だね。何があったの?」
「まあ、よくあるパターンのやつですかね」
「あいつ、浮気したの?」
「はい」
「ちょっと待ってよ。海外赴任に一緒に行くんじゃなかったの?」
「そう言ってたんですか?」
「うん。ケント君は受験だから実家に預けて、奥さんだけ連れて行くって。俺もてっきり1人で行くものだと思ってた。だから、さすが仲のいい夫婦だなって妻とも話してたところなんだよ」
「連れて行くのは、私じゃないみたいですけどね」
「どういう意味かな」
「若い女性と付き合ってるみたいなんです。私と別れて、その子を再婚するつもりなんでしょう」
「なんだよそれ。あんまりだろう」
河野さんは怒り、海外赴任の話を別の人間に頼むと言い出した。しかし、私はそれを断った。息子の学費のことを考えれば、夫の収入を失うわけにはいかなかった。河野さんは、「こんないい奥さんを裏切るなんて」と呆れながらも、私の気持ちを尊重してくれた。
数日後、ももかから電話がかかってきた。
「奥さん、すみません。ももかです。彼が毎日マンションに来て、インターホンを鳴らし続けるんです」
「迷惑な男ね。警察に行ってもいいですか?」
「それはちょっと待って。でも、言われた通りブロックしてるだけだから、シンプルに心配してるだけだと思うんです」
「分かった。じゃあ次家に来たら、別れ話をして」
そして、彼女は不安そうに言った。
「あの、内容証明ってやつが届いて、慰謝料300万って書いてあったんですけど」
「そうよ。ここからあなたの協力と態度次第で減額はあり得るから」
「わかりました。言う通りにします」
「このことを誰にも言わないように。言えば、私とあなたの約束はなしになるわ」
彼女が夫と別れ話をする数分後、夫からはすでに悲壮感が滲み出ているのか、ももかに「どうしたの?」と連絡をしていたが、彼女はそれに返事をしなかった。夫が家に来て、1時間もインターホンを鳴らし続けた末、彼女は「もう合わない。別れたい」と告げた。
「急にどうしたの?楽しみにしてたじゃん」
「気持ちが消えたんだから。しょうがないでしょ」
「あんなに愛し合ってたのに、何言ってんだよ。俺はももちゃんのために何もかも捨てたんだぞ」
「頼んでない」
ももかは冷たく言い放ち、二度と会わないと告げた。夫は呆然と立ち尽くすしかなかった。
夫は海外赴任を辞めたいと部長に申し出たが、聞き入れられなかった。離婚したことを隠しながら、2年間のアメリカ勤務が始まった。
2年後、夫が帰国した。彼は左遷されていた。宮崎への異動が決まっていた。そして、同期の山田が部長に昇進していた。約束が違うと抗議する夫に、部長は冷たく言い放った。
「結果を出してないだろう。お前の経費申請が、ももかさんとのデート日と全部一致してるんだよ。経費はお前の不倫に使うためのものじゃない。横領した分は給与から天引きする。首にならなかっただけありがたいと思え」
夫は、全てを失って宮崎へ向かった。そして、しばらくして私の家に現れた。
「もう一度、一緒になってくれないかな?」
「無理」
「宮崎、いいところじゃない?ももちゃんの実家でもあるし、きっと気に入るわよ。なんでお前とももちゃんが繋がってんだよ」
「元々はあっちから連絡してきたのよ。あなたと一緒に海外行くってマウントしてきたの。それで、親に言われたくなければ別れろって言ったら、すんなり言うこと聞いてくれた」
「ちょっと待て。お前が仕組んだのか。俺は突然振られて、1人で海外に行ったんだぞ」
「だから何よ。家事も手探りで、どんなに大変だったか分かる?私は1人でずっとやってきたんだから。その大変さを、あんたに味わってほしかった」
「じゃあ、河野の部長にももちゃんを紹介したのも、お前か?」
「その通り」
「お前のせいで、俺は同期に出世で負けて左遷されることになったんだぞ」
「私のせいじゃないでしょ。自分が浮気して、若い女にうつつを抜かしたのが原因よ。何アホなこと言って責任転嫁してんの?」
「でも、私はあなたの浮気に気づいてた。お風呂やトイレまでスマホを持ち込むようになったら、怪しいってネット記事を見たことがあったけど、まんまその通りで笑っちゃったわよ」
「その時に言えばよかっただろうな」
「何なんだろうね。泣きつくのもキャラじゃないし、負けを認めるのが怖かったのかも。プライドかしらね。でも、ケントには両親揃った家庭で育ってほしいという思いもあった。あなたも、おかずを一品増やしたり、レシピを改良したりして気を遣ってきたつもりだったけど、あなたは何にも気づかなかった」
「それくらいで分かるわけないだろう」
「でもね、気づいたの。ケントと一緒にいられるのは残り数年しかないのに、母親の偽りの笑顔なんか見せていいのかなって」
夫は焦り始めた。
「おい、まさか、お前もう男がいるのか?」
「私はちゃんと手順を踏んだわ。離婚して、ケントの受験が終わって、自分の気が合う人と楽しくご飯行ったりしてるだけ。あなたは通りすがりのタイプの女性に『お前は俺の好みの女だ。隣の男と別れろ』って言われてどう思う?」
「この裏切り者、俺は認めんぞ。お前が俺以外の男と一緒になるなんて」
「やることは同じよ。あなたがしたことと」
夫は、ももかが自分の罪を認めて慰謝料減額のために協力したことを知る。私は彼女への請求額を300万から150万に減額してやった。夫は同じ300万を支払った。それは、彼の謝罪の気持ちだったのだと私は言った。養育費だって、毎月6万円払っている。しかし、それは私にとって十分な額ではなかった。
「たった6万で、私たちが贅沢できると思ってんの?高校の学費、部活、お小遣いで、とても足りないわ。だから私も本業と副業で稼いでるんでしょ」
「そんなに苦しいなら、一緒になればいいだろう」
「天秤にかけるまでもなく、今の生活を選ぶわ。いつまた浮気されるかも知れないと怯えながら、あなたと暮らすのは嫌」
「もうしないって言ってんだろ」
「結婚した時も、同じことを言ったよね。『俺は絶対に裏切らない』って。そう言ったのよ」
夫は押し黙った。そして、最後にこう言った。
「顔も見たくないほどには、嫌いよ」
夫は孤独な生活を続けている。海外赴任では手当が増額されるはずだったが、自炊ができず外食を繰り返していたため、さほどお金も残らない状態で帰国した。貯金は慰謝料と財産分与で底をつき、左遷されたことで収入も減り、さらに横領分の返済や養育費もあり、相当厳しい生活を送っているらしい。息子との面会も、本人の意思を尊重した結果、実現することはしばらくなさそうだ。
私は今、彼と息子が野球観戦や買い物に行っている間に、のんびりカフェで過ごすのが楽しみだ。いつ自分が当事者になるか分からない。我ながらよく冷静に対処できたと思うが、それは子供のために感情的にならないようにしようと意識した結果だった。
こんな平穏でありがたい日々が続きますように。



