「玄関の絵、売りましたよ。」息子の嫁に、あっさりそう言われた。それは、母が病床で震える手を動かして描いてくれた、最後の睡蓮の絵だった。素人の絵に価値はないと笑われ、将来の介護を盾に今の私を支配しようとした。「お母さん、自分の立場わかってます?」その言葉で、私はようやく悟った。家族だからと我慢してきた三十八年が、何も守ってくれなかったのだと。だから私は決めた。翌朝、この家を出ていくことを。でも…

「玄関の絵、売りましたよ。」息子の嫁に、あっさりそう言われた。それは、母が病床で震える手を動かして描いてくれた、最後の睡蓮の絵だった。素人の絵に価値はないと笑われ、将来の介護を盾に今の私を支配しようとした。「お母さん、自分の立場わかってます?」その言葉で、私はようやく悟った。家族だからと我慢してきた三十八年が、何も守ってくれなかったのだと。だから私は決めた。翌朝、この家を出ていくことを。でも...

「玄関に飾ってあった絵ですか? あれならこの前、売りましたよ。」

息子の嫁のみさは、まるで何でもないことのように言った。

「売った?」
「はい。玄関にあんな絵を飾ってたら、恥ずかしいじゃないですか。」

私は言葉を失った。白い水面に浮かぶ紫の睡蓮。半年前に亡くなった母が、病室で震える手を動かしながら、色鉛筆で描いてくれた絵だった。

「みささん、あれは母の形見なのよ。」
「知ってます。でも素人の絵でしょ? 価値が上がるようなものじゃないですよ。」

胸の奥で何かが切れた。たとえお嫁さんでも、人のものを勝手に売っていいわけがない。するとみさは腕を組んだ。

「お母さん、自分の立場わかってます? 将来、介護が必要になったら面倒を見るのは私ですよ。」

またそれだ。私は静かに聞き返した。

「だから、将来の介護を理由に、今の私を好きにしていいと思ってるの?」

みさの顔から笑みが消えた。でも、私はもう引かなかった。なぜなら、翌日、私はこの家を出ることにしていたからだ。

私の名前はさち子。六十三歳。夫の正と結婚して三十八年。一人息子の直を育て、工場で短時間のパートをしながら、ずっと家のことを担ってきた。三年前、直がみさと結婚してからは四人暮らし。みさも働いていたが、家事はほとんど私がやっていた。朝食から洗濯、掃除はもちろん、夕食から買い出しまで。最初は家族だからそう思っていた。でも気づけば「ありがとう」より「やっておいて」の方が多くなっていた。

夫の正は家庭に無関心。直もみさが言うことには逆らえない。しかも、みさが私のものを勝手に処分したのは、これが初めてではなかった。古いから、使ってないから、場所を取るから。そう言って、私の食器や服まで勝手に片付けられたこともある。直に訴えても、みさが家をきれいにしてくれてるんだからいいじゃん、それだけ。そのたびに私は、小さなことだから、家族だから、と飲み込んできた。

でも、母が描いてくれた睡蓮だけは、小さなことにはできなかった。母がその睡蓮を描いたのには理由があった。私が子供の頃のこと。夏になると母は近所の植物園へ私を連れて行ってくれた。池に咲く睡蓮を見ながら、「さち子、花ってね、泥の中からでもちゃんと咲くのよ」と笑っていたのだ。入院してから、母はその時の写真を病室へ持ち込んだ。もう長く鉛筆を握ることさえできなかったのに、何日もかけて少しずつ色を重ねてくれた。最後に私へ渡した時、「上手じゃないけど、さち子の家に飾って」と笑った。

だからあの絵は、ただの絵ではない。母が最後まで私を思ってくれた、その時間そのものだった。

そして半年前、母は亡くなった。母は私に生命保険金も残してくれていた。大金持ちになれるような額ではない。でも、小さな家を一軒買って、残りを老後のために置いておけるくらいの額だった。

私は決めた。もう一度、自分のために暮らそう。正とは長い間、夫婦というより同居人だった。

「私、家を出ることにしたわ。」

そう伝えると、正は新聞を見たまま「好きにすればいい」それだけだった。ところが直とみさは違った。

「母さんが出ていったら、誰が家事するんだよ。」最初に言われたのがそれだった。寂しいとか、心配とかではない。家事だ。みさも続けた。

「保険金が入ったなら、家族のために使うべきじゃないですか。」
「俺にも少しくらい分けてくれても良かったじゃん。」

私は二人を見た。

「母が私に残してくれたお金を何に使うかは、私が決めます。」

その時から、二人の機嫌は目に見えて悪くなった。そして、引っ越し前日。みさは母の睡蓮の絵を売ったのだ。

翌朝、私は荷物を積み、一人で新しい家へ向かった。二LDKの小さな平屋。広くはない。でも、玄関を開けた瞬間、息がしやすいと感じた。それだけで嬉しくなった。

「ただいま。」

誰もいない部屋に、そう言った。

その日の夜、近所に住む友人の里見が夕食に招いてくれた。

「これから何しようかな?」
「何でもすればいいじゃない。誰にも聞かなくていいんだから。」

その言葉が、妙に胸に残った。誰にも聞かなくていい。何を食べるか、何時に寝るか、何を飾るか。全部、私が決めていい。ただ、一つだけ。新居の玄関を見るたび、胸が痛んだ。本当なら、そこには母の睡蓮を飾るつもりだったから。

新生活を始めて一ヶ月ほど経った頃、直から電話があった。

「母さん、俺たちもそっちに引っ越すから。」
「何?」
「みさと話したんだけどさ、母親の家なんだから、俺にとっては実家だろう。」

思わず笑いそうになった。

「違うわよ。」
「何が?」
「ここは直の実家じゃありません。私の家です。」

直は引っ越す気満々で、私の話を聞こうとしない。

「一部屋余ってるだろう。俺たちがそこ使うから。母さんはリビングで寝ればいいじゃん。」

一瞬、言葉が出なかった。自分のお金で買った家で、私がリビングに寝る?

「嫌です。」
「でも俺たちはもう決めたから。」
「誰が?」
「俺とみさ。」
「私は決めてないわ。」
「親子だろ?」
「親子なら、母親の家へ勝手に住んでいいの?」

直は黙った。でも最後には「とにかく行くから」と言って、電話を切った。

翌日、朝早くから玄関前に大きなダンボールが二つ置かれていた。「来月引っ越します。先に置いておいてください」という直のメモ付きで。中には高そうなバッグや腕時計、洋服に靴。勝手に処分できないものばかり。母の絵は勝手に売るのに、自分たちのものは私が捨てられないように、高価なものを置いていく。

私は箱を閉じ、直へ連絡した。

「一週間以内に取りに来てください。来なければ着払いで返送します。」

返事はなかった。代わりに、日曜日になると引っ越し業者のトラックが本当に家の前へ止まった。

「母さん、開けて。」

玄関の外には直とみさ、そして大量の荷物。私は戸を開けた。ただし、二人を中へは入れない。

みさが眉をひそめた。

「何してるんですか? 荷物入れますよ。」
「入れません。ここには住ませません。」

直が呆れた。

「母さん、いい加減にしてよ。ここ、俺の実家なんだから。」

私はゆっくり言った。

「違う。ここは母が私に残してくれたお金で買った、私の家です。」

みさが苛立った声を出した。

「じゃあ、将来誰がお母さんの介護するんですか?」

私はみさを見た。

「あなたには頼みません。必要になったら自分でサービスを探します。施設だって考えます。」

私は一歩前へ出た。

「介護を切り札にして、今の私を支配しようとしないで。」

みさの口が閉じた。直が言う。

「母親が息子を追い返すのかよ。」
「追い返すんじゃないわ。最初から住むつもりはなかったの。」

その一言で、引っ越し業者の方も状況を理解したようだった。

「ご本人の承諾がないのであれば、こちらでは搬入できません。」

トラックの扉が静かに閉まり、直が慌てる。

「ちょっと待ってくれよ。」

私は玄関横に置いていた二つのダンボールを差し出した。

「これも持って帰って。」

みさが私を睨んだ。

「お母さん、こんなことして後悔しますよ。」

私は笑った。

「後悔なら、今まで十分しました。自分のものを大切にしなかったこと、自分の時間を大切にしなかったこと、嫌なのに家族だからって我慢し続けたこと。」

そして、私は静かに扉を閉めた。

それからしばらくして、里見と買い物へ出かけた時のこと。小さな喫茶店の前で、私は足を止めた。窓際の壁。そこに見覚えのある絵があった。白い水面に紫の睡蓮。右下には母の小さな署名。

「お母さんの睡蓮だ。」

声が震えた。店に事情を話すと、近所の人からフリマアプリで買った絵だと教えてくれた。私は買い取らせてくださいとお願いした。でも店の人は絵を外しながら笑った。

「こんな大切なものなら、持ち主のところへ帰った方がいいでしょう。」

私は何度も何度も頭を下げた。帰り道、母の絵を胸に抱えながら涙が止まらなかった。

今、睡蓮の絵は新しい家の玄関に飾ってある。高価な絵ではない。有名な画家が描いたものでもない。でも、私にとってはどんなブランド品より大切だ。直から一度だけ、みさと家事のことで揉めていると電話があった。

「母さん、少し話聞いてよ。」

私は答えた。

「自分たちで選んだ生活でしょ。」

それだけ。もう二人の家事を引き受けることも、介護を人質にされることもない。

朝、玄関を通るたび、私は母の睡蓮を見る。そして思う。母が私に残してくれたものは、保険金だけではなかった。この先の人生を自分のために使っていいという、最後の許可だったのかもしれない。

この家では、誰を迎えるかも、何を飾るかも、どう生きるかも、私が決める。母が残してくれた絵も、母が残してくれたお金も、そしてこれから残っている私の時間も、もう誰にも勝手に使わせない。

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