「ちょっと、今日の弁当なんだよ。昨日の残りじゃん。手抜きすんなよ」
夫の和真が弁当箱を開くなり、そう言った。
「そんなこと言われても、昨日の夜もお母さんの吸引機の音で寝られなかったんだよ」
「はあ? 痰が詰まっただけだろ。なんでそんな大騒ぎするんだよ」
「痰が詰まって息ができなくなったんだよ。命に関わることもあるんだよ。なんでそんな無責任なこと言えるの?」
「母さんの介護はお前の仕事だろ。俺は関係ないし」
13年間、夫はずっとこの調子だった。介護も家事もすべて私に押し付けて、自分は働いて金を入れているからそれでいいと思っている。
「文句あるなら出ていけよ。誰のおかげで飯が食えてると思ってるんだ」
「私が家事と介護をやってるから生活が成り立ってるんでしょ」
「俺は外で働いて生活費を稼いでる。お前は一円も稼いでないだろ。俺に逆らっていいと思ってるのか?」
私は黙って謝った。期待していた自分がバカだったと、心の中で思った。
「次もこんな弁当だったら叩き出すからな。寄生虫が。立場をわきまえろ」
翌日、お母さんがLINEで聞いてきた。
「あなた、昨日なんで泣いてたの? 私の介護してる時に」
「何でもないです。目にゴミが入っただけですから」
「あなたはこの13年、本当によくやってくれたわ。私の介護が辛いなら、もう施設に入ってもいいのよ。あなたの負担になりたくないから」
「そんな寂しいこと言わないでください。私には両親がいません。お母さんが本当の母親なんです」
お母さんは少し間を置いて、こう言った。
「さおりさん、あなたは今から嫁終了よ。和真と離婚しなさい」
翌日、また弁当のことで怒られた。朝5時に起きて唐揚げも卵焼きもきんぴらごぼうも手作りしたのに、彩りが悪いとか言い出した。
「お前と同じ主婦がもっと綺麗な弁当作ってるんだぞ」
「お弁当作ってすぐに介護があるから、そこまで時間かけられません」
「それは手抜きのための言い訳だろ。俺のためにもっと努力しろ」
「努力? 『頑張ってるとか関係ない』って言ったのはあなたの方でしょ」
「それはお前の話だ。お前の頑張りは一円にもならない。俺の頑張りは給料になるんだよ。前も言ったよな。次くだらない弁当だったら叩き出すって」
「オッケー。じゃあ出ていくね」
「ふざけてるのか。うちから出て行ってお前が生きていけるわけないだろ」
「それはやってみないとわからないでしょ。あなたの嫁は今日で終了よ」
「ああ、そう。やれるもんならやってみろ。泣いて謝るまで許さないからな」
数日後、和真が離婚届を出してきた。
「おい、さおり。離婚届出してきたぞ」
「あ、そう。ありがとう」
「速攻で叩き出したかったけど、母さんの介護があるからな。ここ数日は置いてやってたが、離婚した以上は他人だ。すぐに出ていけ」
「オッケー。ちょっと手が離せないから、あとでね」
「どうせすぐに帰ってくるくせに、ご苦労なことだな」
「違うけど。今はお母さんの介護してるの」
「いや、出てくんだろ。早く出ていけ」
「何言ってるの? 帰ってきたんだよ。自分の実家に」
「はあ? お前に実家なんてないだろ」
「言ってなかったっけ? 私、お母さんの娘になったから」
「はあ? 縁組? 誰と誰が?」
「私とお母さんが。あなたの嫁はやめました。離婚したからね。でもお母さんの娘になったから、帰ってきたの」
「何言ってんだ?」
「今日から改めてよろしくね。私の方が年下だから、妹よ。ちなみに私はもう嫁じゃないから、お弁当は作りません。あなたの食事も洗濯も掃除もしません。そこはしっかり把握しておいてね、お兄ちゃん」
1週間後。
「くそ、さおり。いい加減にしろよ。このシャツ、アイロンかけてないからよれよれで、今日部下に笑われたんだぞ」
「自分でやってって言ったでしょ」
「俺は生活費を入れてるんだぞ。俺のリソースで生活してるんだから、これくらいやれ」
「お兄ちゃん、わがまま」
「お兄ちゃんって呼ぶな。気持ち悪いんだよ」
「じゃあ、クソ野郎。そもそもあなた、もう私の生活費なんて払ってないよね。お母さんの年金で2人分は足りてるから」
「馬の学費は今も俺が払ってるんだぞ。俺が払わなくなったら、り馬はどうするんだ?」
「えっと、ごめんね。なんで『払わない』って選択になるの?」
「お前と離婚したんだ。り馬もお前が連れて行ったし、払ってやる義理はない」
「私と離婚したから何? 離婚しようが、り馬はあなたの息子でしょ」
「いいか。俺はり馬が大学を退学になっても困らないからな。それが嫌なら、今まで通りちゃんとやれ」
「なんて言い草。そう考えると、むしろ得な状況かもね」
「どうして?」
「お前が妹になったのは予想外だったけど、それって一生お母さんの介護するってことだろ? しかも嫁じゃないから生活費を払う理由もない。俺からしたら得以外の何者でもないんだよ。なんでこの家にいられると思ってるの?」
「この家はお母さんの家よね。将来的にはあなたが相続すると思ってる?」
「そうだろ。つまりこの家は俺の家だ。俺が住んでても問題ない」
「問題ですね。私、縁組したから相続権があるの。それで、お母さんはこの家を私に相続するって決めたのよ」
「はあ? なんで?」
「お母さんはね、13年間、介護もせずに文句だけ言ってた人よりも、身を削って介護してきた私に残したいって言ったのよ。どうやらあなたが思ってるより、お母さんは私のことを大事に思ってくれてるみたい。あなたの立場はそちらですよ、お兄ちゃん」
数分後、和真がお母さんに食ってかかった。
「母さん、これどうなってんだよ。なんでさおりに家を相続するなんて言い出したんだ?」
「さおりさんも正式に私の娘よ。相続権はあるでしょう」
「そんなこと言ってるんじゃないんだよ。縁組だってそうだ。俺に黙って勝手なことばかりしやがって」
「私が誰を娘に迎えようが、家をどうしようが、私の勝手です」
「実の息子よりも嫁の方が大事だって言うのか」
「それ以外に、こんなことをする理由があると思う? あなたがさおりさんをどれだけ傷つけてきたか、私が一番よく知ってるわ」
「母さんは介護されて勘違いしてるだけだ。あんな女の言うことを聞いて騙されてるんだよ」
「縁組も家の相続も、全部私からの提案よ。あんな薄汚いババアの食事を食べさせて、おむつを替えて、夜中に叩き起こされても、嫌な顔もせず13年間も。それはあんたの役割だったんでしょ?」
「役割? それは誰が決めたの?」
「親の介護は嫁の仕事だろう。俺は外で稼いでるんだから」
「バカねえ。私がさおりさんの立場なら、速攻で出て行ってるわ。13年も介護なんてしない。離婚届を叩きつけてるわよ」
「母さんはばあちゃんの介護やってたじゃん」
「そうね。やってたわ。だから私は、介護が嫁のあるべき姿だと思ってた。でも、私の夫は私にちゃんと感謝してくれてたわ」
「父さんが? 冗談やめろよ」
「確かに口数の少ない人だったわ。不器用で仏頂面で可愛げもなかった。でもね、いつだって私を尊重してくれてた。私への感謝を、一日たりとも欠かしたことはなかった。だからこそ、私は介護で疲れても頑張れた。あんたみたいに、責めるだけの夫と一緒にいて、どうやって頑張れって言うの?」
「でも俺は外で稼いでるから」
「あんたがそうやって稼げるのは、家庭が守られてるからよ。その家庭を守ってたのは誰? さおりさんじゃない」
「その家庭を維持するために俺が稼いでたんだろう」
「そうね。一理あるわ。あんたが稼いでくれるおかげで生活できるのも事実よ。でも、だからってさおりさんの献身が無意味になるわけじゃない。仮にさおりさんがいなかったら、私の介護はどうするつもりだったの? ヘルパーを雇う? 家事代行も頼む? あら、お金がかかるわね。あんたの給料もほとんど消えるわよ。それでもさおりさんに一円の価値もないって言えるの?」
「俺が言いたいのはそういうことじゃなくて…」
「そういうことでしょ。仮にそうじゃないって言うなら、稼いでくるあんたにも価値がないってことじゃない。それに、り馬が県外の大学に通ってるのは、さおりさんのおかげなのよ。知らなかったでしょ。さおりさんが、り馬に『外で学びなさい』って背中を押したの。うちにいたら、あの子は介護を手伝って自分のことを二の次にしてたわ。外で稼いでただけのあんたじゃなくて、さおりさんがり馬の未来を守ってたのよ。それが理解できないなら、うちから出ていってちょうだい」
和真は私に泣きついてきた。
「なあ、さおり。母さんから言ってくれよ。俺が出ていけって言い出したんだ」
「出ていけばいいじゃない」
「本当に俺が出ていったら困るのはそっちだろう。生活費も学費も、俺が払わなくなるんだぞ」
「大丈夫よ。まず財産分与でしょ。うちの貯金が500万あるから、それを半分ね。250万はいただくわ」
「それは分かるけど、250万程度じゃ…」
「次に慰謝料。私、今までの介護とか日々のこと、全部日記につけてたの。それを使えば慰謝料を請求できるのよ。弁護士の先生が言うには、300万は取れるって」
「はあ? 300?」
「あと、当然だけどり馬の養育費ね。もう20歳だけど、学生だからね。卒業までの養育費は払ってもらいますよ」
「ふざけんな。そんなの不当だ。絶対に払わないからな」
「なら、しっかり裁判しましょうか。養育費の裁判は1年くらいかかることもあるそうだけど、慰謝料と財産分与があるから、私は余裕で戦えるわよ」
「ちょっと待てよ。そんな無駄金を使って勝てなかったらどうするんだ」
「私たちの状況で私が負けることなんてないわよ。弁護士の先生も、むしろここで戦わない方が無駄だって言ってたわ」
「そんな…」
「あなたの年収が600万でしょ。養育費は月に10万くらい。り馬が今年3年生になるから、あと2年分で240万。それと慰謝料と財産分与を合わせて、合計790万ね。お兄ちゃん、頑張ってね」
「ふざけんな。そんな無駄金払うわけないだろ」
「その場合は、会社にも通知が行くわよ。裁判で勝てば、給料の差し押さえだって可能になるの。つまり、払うしかないのよ」
「なあ、さおり。確かに俺にも悪い部分はあった。やり直そう。俺たち、20年も夫婦だったじゃないか」
「その20年で、夫婦としての絆はなくなったのよ。だからこうなったの。良かったわね。離婚しても、まだあなたには価値が残るわよ。私たちの今後のために、しっかり生活費を払ってちょうだいね」
数週間後。
「お母さん、仕事が決まりました」
「本当に良かったじゃない。これで一安心ね」
「3年も職歴がなくて厳しいかと思ってましたけど」
「さおりさんは真面目ないい子だから、すぐに決まると思ってたわ」
「そんな、いい子なんて言われる年齢じゃありませんよ」
「私からすれば、娘はどこまで行っても娘よ」
「そういえば、和真から連絡がありました。裁判になると会社にバレるリスクが上がるってことで、観念したみたいです。養育費の支払いにも同意しましたよ」
「それはいいけど、逃げたりしないかしら」
「そこは公正証書を作らせました。これで強制執行ができますから、大丈夫です」
「和真も随分と参ってたってことね」
「仕事も決まりましたし、決着もつきました。お母さんの介護もヘルパーさんを雇ったし、これで一息つけますね」
「本当に色々あって疲れたわよ。正直、縁組しようって言われた時はどうなるかと思ったわ」
「結果的に、いいところに収まったでしょう」
「ですが、それもお母さんが背中を押してくれたおかげです。あなたが和真との関係にけじめをつけられなかったら、私はずっとあのままだった」
「それは本当に感謝してるわ。正直、夫婦としては随分前から終わってたのかもね。私も気づいてはいたけど、分かってても簡単なことじゃないわよ。離婚って」
「そうですね。でも、良かったこともあるんですよ」
「良かったこと?」
「縁組です。ずっとお母さんのことが気がかりだったんで。和真と離婚しても、娘でいられるんだって思うと、嬉しくて」
「さおりさんたら、こんなババアと今後も付き合おうなんて、変わった性格ね」
「確かに。でも、これでいいんです。私が守ってきた家族は、まだここにありますから」
その後、和真は慰謝料、財産分与、養育費を素直に払うことになった。公正証書があって逃げられないということもあるが、それ以上に、裁判なんてやってる暇がないというのが本音のようだ。
20年間、家事の一つもやったことがなかった和真は、突然放り出されたことで生活が一変した。弁当を用意することもできず、洗濯も掃除もできない。よれよれのシャツで出勤し、靴も汚れて見栄えは最悪。今まで私が整えていた外見が崩れ、一瞬で離婚したことがバレてしまった。働きながら家事をして見た目にも気を払うのは簡単なことではなく、50を超えて初めて上司に叱られているそうだ。加えて私への支払いがあるため生活に余裕もなく、今はゴミ屋敷のような家で苦労しているんだとか。
大事なものや、支えられていた事実は、失って初めて気づくものだ。今まで当たり前だったものが、当たり前じゃなかったんだと。
私は仕事を始め、介護の負担はヘルパーさんに支えてもらっている。り馬もよく帰省するようになり、お母さんも言葉で労わってくれる。この当たり前が当たり前じゃないんだと胸に刻んで、これからも自分の家族を守っていこうと思う。



