「ご祝儀だけ置いたら、会場の後ろで立っていてください」
息子の結婚式の日、純白のドレスを着た嫁のミカは、新郎の母である私に笑顔でそう言った。
隣にいた夫の高一が低い声で尋ねる。
「俺たちの席はどこにあるんだ?」
ミカは悪びれる様子もなく、披露宴会場の中を指さした。
「友達を追加したら席が足りなくなったんです。お二人は親なんだから、座れなくても最後まで見届けられますよね」
私は言葉を失った。
その時、白いタキシードを着た息子の優太が控室から出てきた。
これで何とかしてくれる。そう思った私に、優太は目を合わせないまま言った。
「母さん、今日だけ我慢してくれないか。ミカが一生懸命考えた式なんだ」
その瞬間、三十二年かけて育てた息子が、遠い他人に見えた。
私の名前はさち子。六十二歳。夫の高一と二人で、一人息子の優太を育ててきた。
高一は建設会社の現場で働き、私は小学校の給食室で朝早くから大きな鍋を振った。決して裕福ではなかったが、つましくも幸せな家庭だった。
息子が小学生の頃、熱を出せば交代で仕事を休み、受験の日には夫婦で近所の神社へお参りした。就職が決まった日には、三人で少し高い焼肉を食べた。
「父さん、母さん、少し恥ずかしいけど、ここまで育ててくれてありがとう」
あの日の息子は照れながら笑っていた。
だから結婚を聞いた時も不安はあったが、息子の幸せを祝おうと決めた。私たちは老後の貯金から、息子のために二百万円を結婚祝いとして用意した。
「少し多すぎないか?」
夫はそう言ったが、私は首を横に振った。
「これが親として最後にできる大きな贈り物かもしれないから」
結婚式の前夜、私は何度もご祝儀袋の中を確認した。
翌朝、夫と二人で都内のホテルへ向かった。車の中では、息子が生まれた日の話をした。夫は泣いていないと言い張ったが、本当は看護師さんの前で私より先に泣いていた。そんな話をしながら、私たちは笑っていた。
まさか数時間後、息子との関係が壊れるとは思ってもみなかった。
ホテルに着き、受付で名前を告げると、中の女性たちは困ったように顔を見合わせた。
「少々お待ちください」
しばらくして、嫁のミカの父親が現れた。
「本当に申し訳ありません。私も今知ったところでして」
案内された会場には華やかな花が並び、親族や友人の名前が書かれた札が席とともに置かれていた。しかし、新郎の父と母の席だけがない。
「どういうことですか?」
私が尋ねると、ウェディングドレス姿のミカが会場の奥から現れた。
「あら、もう来ていたんですね」
そして、まるで忘れ物を説明するように言った。
「私の友達が増えたので、お二人の席を使わせてもらいました」
夫の顔色が変わった。
「友達を座らせるために、新郎の両親を立たせるのか」
「だって」
ミカは肩をすくめた。
「親なら式に呼ばれなくても、息子を祝うものでしょう」
ミカは笑った。
私は息子を呼んでもらった。息子なら、さすがにおかしいと言ってくれる。そう信じていた。けれど息子はミカの横に立つと、私たちにため息混じりに言った。
「もう決まったんだ。今更騒がないでくれよ」
「騒いでいるんじゃないのよ。私たちはあなたの結婚式を見届けるために来たのよ」
「だったら立ってみればいいだろう」
息子は苛立った声で続けた。
「今日は俺たちの大事な日なんだ」
その言葉が胸の奥に突き刺さった。
私たちにとっても大事な日だった。三十二年間大切に育てた息子が新しい家庭を築く日。その姿を一番近くで見届けたいと思うことが、そんなに迷惑なことだったのだろうか。
ミカが時計を見た。
「もうすぐ始まるわ。後ろに一脚置くこともできますけど、通行の邪魔になるかもしれません」
そして、私の手にあるご祝儀袋を見て口元を緩めた。
「ご祝儀だけ置いたら、お二人は床に座っても構いませんよ」
夫が大きく息を吸った。
「さち子、帰るぞ」
「でも、優太の結婚式なのよ」
「俺たちを親とも思わない人間のために、お前がこれ以上傷つく必要はない」
夫は私の手を取った。
私はご祝儀袋をバッグに戻し、会場に背を向けた。
すると息子が慌てて追いかけてきた。
「待てよ。本当に帰るのか?」
私は少しだけ期待した。謝ってくれるのかもしれない。席を用意すると言ってくれるのかもしれない。
しかし、息子が口にしたのは「ご祝儀はどうするんだよ」という言葉だった。
私の中で何かが静かに切れた。
「あなたを祝うために用意したお金よ。でも今のあなたには渡せない」
「二百万円だろう」
息子は声を荒げた。
「それがないとミカが困るんだよ」
私は息子をまっすぐに見た。
「私たちが困っていた時、あなたは一度でも味方をしてくれた?」
息子は黙った。
夫が息子を見据えた。
「親より金か。お前が自分の頭で考えられるようになるまで、こちらから連絡することはない」
私たちはホテルを出た。
帰りの車の中で、私は声を押し殺して泣いた。夫は前を向いたまま言った。
「お前は何も悪くない。俺たちは今日、自分たちの尊厳を守ったんだ」
家に着いて一時間ほどすると、私のスマホが何度も鳴り始めた。嫁のミカからだった。私が無視すると、着信は何度も届き、メッセージも次々に届いた。
「二百万円はどこですか? 親族に返すお金が足りません。今すぐ届けてください。約束を破るなんて最低です」
私たちは二百万円を渡すと約束したことなどない。
翌日、ミカの父親から電話があった。ミカは披露宴の費用が足りず、親戚から二百万円を借りていたそうだ。私たちのご祝儀で返すつもりだった。「だから席を用意しなくてもお金だけは受け取れると思っていた」のだという。
しかし、話はそれだけでは終わらなかった。
ミカはSNSに「義両親が結婚式のご祝儀を持ち逃げしました」と投稿したのだ。事情を知らない人たちから私たちを責めるコメントが次々に集まった。長年続けてきた子ども食堂の仲間からも心配する連絡が入った。
私は初めて、悲しみよりも強い怒りを感じた。
結婚式の日のように夫に守ってもらうだけではいけない。私自身が自分の人生と信用を守らなければならない。
そして私は、着信履歴、メッセージ、SNSの投稿をすべて保存した。弁護士に相談し、虚偽の投稿を削除するよう内容証明を送った。
数日後、ミカの父親から連絡があった。
「一度集まって事実を明らかにさせてください。娘の父親として、もう見て見ぬふりはできません」
親族会議の日、両家の親戚が集まった。
ミカは息子の隣で腕を組み、私を睨んでいた。
「私たちは被害者です。ご祝儀をもらえるはずだったのに、この人たちが勝手に帰ったんです」
私は立ち上がり、用意していた資料を机の上に置いた。
「私は今日、誰かを困らせるために来たのではありません。事実を知ってもらうために来ました」
私は、結婚式で席がなかったこと、床に座れと言われたこと、帰ろうとすると息子がご祝儀だけを求めたことを話した。そして、ミカから届いたメッセージを親族の前に出した。
「二百万円がないと借金を返せない。親なんだから払うのが当然。払わなければ悪い義両親として広める」
その場は静まり返った。
息子が震える声で尋ねた。
「ミカ、お前、借金って何だよ。俺は何も聞いていないぞ」
ミカは当然のように答えた。
「結婚式のためよ。あなたの親からもらえば済む話だったの」
「だから父さんと母さんの席をなくしたのか」
「席なんてどうでもいいでしょ。お金さえもらえれば」
その瞬間、ミカの顔から血の気が引いた。
ミカの父親が立ち上がった。
「ミカ、もうやめなさい。一度も二百万円を払うと約束していない。ましてやご祝儀だ。それどころか、お前は新郎の両親を侮辱し、嘘まで広めた」
ミカは周囲を見渡した。しかし、味方をする人は誰もいなかった。
私はミカを見つめて言った。
「私が欲しかったのは謝罪でもお金でもありません。息子の晴れの日に、母親として座る席が欲しかっただけです」
息子は顔を伏せた。
「母さん」
「あなたが妻を大切にすることは間違っていないわ。でも、妻を守るために親を踏みつけてもいいとは育てていません」
ミカはSNSの投稿を削除し、事実と異なる内容を書いたことを謝罪した。
その後、息子はミカとの離婚を決めた。けれど、私はそれで全部が元通りになるとは思わなかった。
半年後、優太が一人で私たちの家を尋ねてきた。
以前よりも痩せた息子は、玄関で深く頭を下げた。
「父さん、母さん、本当にごめんなさい。俺は面倒なことから逃げて、二人を犠牲にした」
私はすぐに許すとは言えなかった。あの日の痛みは、半年で消えるものではない。
それでも、私は息子の靴を見ながら尋ねた。
「夕飯は食べたの?」
息子は顔を上げ、涙を浮かべた。
「まだ食べてない」
「それなら、上がりなさい。許せるかどうかはこれから考えます」
その夜、私たちは久しぶりに三人で食卓を囲んだ。会話はほとんどなかった。けれど、息子は私の作った煮物を一口食べると、小さな声で言った。
「母さんの味だ」
失った信頼は簡単には戻らない。それでも、自分の過ちを認め、向き合おうとするなら、人はもう一度やり直せるのかもしれない。
ただし、人の優しさを当然だと思い、尊厳を踏みにじった代償は、必ず自分に返ってくる。
あの日、私たちは息子の結婚式を失った。でも、代わりに自分たちの尊厳を守ることができた。
今は、それで良かったと思っている。



