「中卒の企画書はシュレッダー行きな。」…

「中卒の企画書はシュレッダー行きな。」...

「中卒の企画書はシュレッダー行きな。」

その一言とともに、男は手にした書類をシュレッダーへ押し込んだ。ガリガリと紙を刻む音が響き、床に細い紙の帯が落ちていく。すかさず後ろに控えていた腰巾着の男が、へらへらと追従した。

「いや、さすがっすよ部長。こんなのどうせ学歴ゼロコンビの落書きですし。処分して正解っすよ。」

シュレッダーの脇には、作業着を着た一人の老人が黙って立っていた。刻まれていく紙を、ただ静かに見つめている。その瞬間、若い社員の青年が声を荒げた。

「部長! それ、社長が作られた資料です!」

はっ、と勝ち誇っていた男の顔が、見る見る青ざめていく。たった今シュレッダーにかけたその紙切れこそ、社長が会社の命運をかけて用意した、たった一つの原本だったのだ。

紙切れを拾い集めるその老人は、ただ静かに告げた。

「壊すのは一瞬だ。あんたが捨てたものの本当の値打ちを、時期に嫌でも知ることになる。」

声を荒げぬこの老人が、一体何者なのか。中卒と笑った男は、まだ知るよしもない。翌朝から、肩書きだけで人を裁いてきた男の世界が、音を立てて崩れ始める。

これは、地味な老人のたった一つの手が、傲慢な男に静かな鉄槌を下す物語。

朝の六時。あけぼの精密工業の工場には、まだ誰も来ていない。立花久雄は一番乗りで通用口の鍵を開け、作業台を一枚ずつ布で拭いていく。六十八歳になった今も、その手順を五十年以上変えたことがない。

すり切れた紺の作業着に、つま先の色が抜けた安全靴。胸ポケットには、古い手回しのマイクロメーターを一つ忍ばせている。久雄はそれを取り出し、柔らかい布で丁寧に磨いた。目盛りは摩耗して読みにくい。それでも、己の指は寸分の狂いもなくその数字を覚えている。

定年を過ぎても、久雄は嘱託として現場に残っていた。だが、ここ数年で入った若い社員たちの目には、一日中ただ掃除をしているだけの老人に映っていた。決まった担当も持たず、機械の前にいる時間より、箒を持っている時間の方が長い。

「ねえ、あのじいさんって、結局何の人? いっつも掃除してるけど。」

「さあ、嘱託らしいけど、何の嘱託なんだか。社長の情けで置いてもらってんじゃないの。」

そんな陰口は、久雄の耳にも届いている。だが、言い返すこともなく、今日も黙って雑巾を絞っていた。

久雄がこの会社に来たのは十五歳の時だった。家の事情で高校へは進めず、中学を出たその足で働き口を探した。だが、中卒の少年を雇ってくれるところはどこにもない。久雄は町場を一軒ずつ尋ね、頭を下げては断られて回った。

何件目かに辿り着いたのが、あけぼの精密の工場だった。門前に出た仙台社長は、痩せた少年を上から下まで眺めていった。

「お前に、何ができるんだ?」

答えに詰まる久雄に、仙台は古い金具を一つ放って、磨いてみろと顎で示した。久雄は半日、無心でそれを磨き続けた。光を放つ金具を見て、仙台の目の色が変わる。

「おお、お前のその手はいい手だ。会社の宝になるぞ。」

そう言うと、仙台は自分の胸ポケットから古い手回しのマイクロメーターを抜き、久雄の手に握らせた。

「これで、その手をもっと確かにしろ。」

気休めの言葉ではなかった。久雄にとっては、生まれて初めて自分を認められた瞬間だった。あの日もらったマイクロメーターは、五十年経った今も、久雄の胸ポケットで光っている。

それからの久雄は、金属の表面に取り憑かれた。どれだけ磨いても、目に見えない傷が曇りを生む。曇りゼロの、鏡のような面を作れないか。来る日も来る日も試作を重ねた。同僚には笑われた。中卒が学者の真似か、と。研究と呼べる設備もない。独学の十五年は、報われる保証のない長い夜の連続だった。

何度も諦めかけ、試作が割れる度、自分の手を恨んだ夜もある。それでも辞めなかったのは、仙台のあの一言があったからだ。

「あの人が宝だと言ってくれたなら、宝にして見せる。」

十五年目の冬。久雄の手は、ついに思い描いた面を生んだ。だが、久雄はそれを誇ることもなく、また黙って現場に立ち続けた。

今、その久雄の背中を追いかける若者が一人いる。三宅洋太、二十三歳。高校を中退して入った、不器用な弟子だ。この朝も、洋太は前日の仕上げに一人で頭を抱えていた。

「師匠、どうしてもここで曇りが出るんです。何度やっても。」

久雄は黙って洋太の手元を覗き込み、指先で工具の角度をほんの少し変えてやった。

「力で押すんじゃねえ。金属に聞くんだ。どうされたいかってな。」

「聞く、ですか?」

「ああ、手が覚えるまで、何べでもな。」

半信半疑のまま、洋太はもう一度工具を握り直した。教わった通り力を抜いて、金属の声を聞くように刃を当てていく。すると、あれほど何度やっても消えなかった表面の曇りが、嘘のようにするりと引いていった。

磨き上がった面が、朝の光を鏡みたいに弾き返す。

「え、嘘でしょ? すげえ。師匠、曇り、完全に消えました。」

久雄は何も言わず、湯飲みに茶を注いで小さく啜った。そして、作業に戻っていく。穏やかな朝だった。

その朝、あけぼの精密の朝礼に見慣れない男が立っていた。仕立てのいい紺のスーツに、手首で光る高級腕時計。本社から開発統括部長として送り込まれてきた、高島である。年は四十三。現場に漂う油の匂いに、早くも鼻をつまむ仕草をしていた。

「本社から来た高島です。一つだけ言っておく。僕が口を聞くのはステークホルダー、つまり決定権を持つ人間だけだ。現場でネジを締めてるだけの人と無駄話をする気はない。」

それだけ言うと、高島は腕時計に目を落とした。もう朝礼には興味がないという顔だった。本来、ステークホルダーとは利害に関わるもの全てを指す言葉だ。だが高島は、それを偉い人間とだけ思い込んでいる。そして、高島の斜め後ろに立っていた若い男が喋り始めた。

「あー、僕、部長付きの沼田っす。本社から一緒に来ました。いや、さすが部長。え、皆さん聞きました? 要するにですね、部長に話しかけていいのは偉い人だけってことっす。現場のおじさんたちは黙って機械でも締めときゃオッケーって話。以上、よろしくっす。」

朝礼が終わると、高島は沼田だけを従えて現場を見て回った。機械には指一本触れず、油の染みを避けて歩く。その足が、作業台の久雄と洋太の前で止まった。だが、高島は二人に声をかけようとはしない。

「沼田。あれ、誰だ。」

「ああ、あれっすよ。部長、例の学歴ゼロコンビ。中卒のじいさんと、高校中退のガキ。じいさんの方、何の担当かもよくわかんなくて、まあ掃除のおじさんみたいな感じで置かれてるだけっす。」

「ふうん。いる意味あるのか。」

「さあ、どうなんすかね。少なくとも僕にはわかんないっす。」

目の前で品定めされても、久雄は手を止めない。ただ、隣で顔を赤くした洋太の袖口を、そっと引いた。落ち着けという合図だった。

「おはようございます。立花と申します。」

久雄の挨拶には答えず、高島は作業台の端へ目をやった。手のひらほどの古びた手帳が一冊置かれている。久雄が長年書き溜めてきた、所見が小さな字でびっしり綴られた一冊だ。紙は手垢で黒ずんでいる。

「何これ。手書き?」

「それは、表面処理の……」

「ああ、説明はいい。見ればわかる。エビデンスもデータもなし。完全に時代遅れだな。こういうのが生産性を下げてんだよ。」

高島はパラパラとページをめくっただけで、一行も読まずに手帳を放った。それが床に滑り落ちる。振り返り様、高島の革靴がその上をぐっと踏みつけた。

「あ、それ、師匠の!」

「あー、踏んじゃいましたね。ま、ただの手帳ですし。」

「ちょっと、それは……」

洋太が言いかけた。久雄は静かに首を横に振った。洋太は言いかけた言葉を無理やり喉の奥へ押し戻す。久雄は 静かに手帳を拾い上げると、表紙についた靴の跡を指の腹で払い、折れたページを直して胸ポケットに収めた。

「掃除、ちゃんとやっといてよ。それくらいはできるでしょう。この歳でも。」

沼田と顔を見合わせ、高島が喉の奥で笑う。二人の革靴の音が現場の奥へと遠ざかっていった。その背中を、久雄は黙って見送る。怒りはなかった。ただ、自分が長年書き溜めてきたあの手帳を、一行も読まれず靴で踏みつけられたことだけが、胸の奥に小さな熱を残した。

数日後、会社に大きな話が動き始めた。海外の医療機器メーカーからの大口の受注。極限部品の表面処理にかけては世界でも指折りと言われる、あけぼの精密の社運をかけたプロジェクトだった。受注額は、これまでの会社の規模からすれば桁が違う。

その朝、会議室に進捗報告のため社員が集められた。久雄と洋太も末席に並んで座っている。プロジェクトマネージャーを任された高島が、ホワイトボードの前で得意げに横文字を並べていく。説明が一区切りしたところで、洋太がおずおずと手を挙げた。

「あの、部長。その納期だと、表面処理の仕上げが間に合いません。あの工程は機械じゃなく、手作業で一つずつ詰めていくので、どうしても時間が……」

「はい、ストップ。」

高島は洋太の言葉を途中でぴしゃりと遮った。

「手作業? 今時、それ自体がもう非効率なんだよ。」

「で、でも、その仕上げをやってるのは……」

「誰がやってようと関係ない。データで詰めて。以上。」

取り付く島もなかった。代わりに沼田が、にやにやと口を挟む。

「いやー、部長、この子に言っても無理っすよ。洋太君、高校も出てない上に、あそこの中卒のじいさんにべったりで。社内じゃ学歴ゼロコンビって有名な二人なんすよ。」

高島の視線が、ちらりと久雄を滑った。値踏みするような嫌な目だ。名前を覚える気すら、この男にはなかった。

「じゃあ、皆さんにも聞きたいんだけどさ。中学しか出てない人の勘と、データ、どっち信じます? 普通に考えて。」

誰も答えない。社員たちは手元の資料に目を落として、やり過ごすしかなかった。

「いや、本当それなんすよ。学歴ゼロで手が覚えてるとか言われてもね。今は令和っすよ。令和はデータが全てすよ。」

洋太は油の染みた軍手の中で、指を強く握り込んだ。だが、久雄は眉一つ動かさない。ただ、隣の弟子の腕に黙って手を置いた。

その時、低く通る声が会議室に響いた。

「高島部長。」

いつの間にか後ろの扉が開いていた。社長の今野正一が、門口に立っている。どうやらやり取りの最後を聞かれていたらしい。穏やかな人だが、その目は笑っていなかった。

「その仕上げの工程は、うちの心臓です。効率だなんだと、そう簡単に切り捨ててもらっては困る。」

その一言で、高島の態度が手のひらを返したように変わった。

「あ、社長。いえいえ、とんでもないです。軽く見てるだなんて、滅相もない。むしろ僕はね、この現場の技術を心からリスペクトしてまして。ええ、本当に。ただ、せっかくの素晴らしい工程をもっと効率的に、もっとスケーラブルにできないかと。会社の未来のために、あえて厳しいことを申し上げてるだけでして。」

さっきまで現場を見下していた男が、社長の前では別人のように腰を折る。ぺらぺらと並べ立てる横文字に、社員たちは白けた目を向けていた。

「こういう話はいい。」

今野社長は短く流すと、一同を見回して告げた。

「来週、社運をかけた重要な契約の締結があります。その肝となる書類は、今、私が自分の手で書き上げているところです。これが整って初めて契約は前に進む。書類の管理だけは、最新の注意を払ってもらいたい。」

「ええ、もちろんです。社長。おい、聞いたな。社長の大事な書類だ。お前ら、心して扱えよ。粗末にしたら承知しないからな。」

異様に受け合う高島を一瞥して、今野社長は会議室を出ていった。その背中が見えなくなった途端、高島は鼻を鳴らした。

「ったく、たかが紙切れに大げさなんだよ。どうせまた手書きのあれだろ。アナログなんだよな、この会社は。」

「ですよね。社長も現場の出身だから、そういうとこ古いっすよ。」

会議が終わり、社員が散っていく。洋太は顔を上げられずにいた。

「師匠、すいません。俺が余計なこと言ったから。」

「いいや。お前は正しいことを言った。仕上げってのはごまかしが効かねえ。それでいいんだ。」

「でも、あんな言われ方……」

「気にするな。手は嘘をつかねえからな。」

久雄は胸ポケットから例の手帳を取り出すと、今日気づいたことを小さな字で書き出した。何を言われても、この老人の朝は変わらない。

それから数日後の夜。現場には、久雄と洋太だけが残っていた。居残りで仕上げの手直しをしていた二人の元へ、今野社長が一人でやってくる。手には分厚い封筒を抱えていた。

「立花さん、例の契約の書類、ようやく書き上がったよ。この中の仕上げの取り決めのところ、数字に無理がないか、あんたに見てもらえないか?」

「私でよければ。」

「あんたが毎日見てる工程だ。あんたの目が一番確かだからね。」

封筒を渡すと、社長は少し声を柔らげた。

「それとね、この契約のまとめ役は高島部長に任せてあるんだ。本社から来たばかりで不慣れだろうが、ここらで一つ大きな手柄を立てさせてやりたくてね。あの人にも、いい顔をさせてやりたい。明日の朝で構わない。頼むよ。」

社長が帰って行くと、洋太が頬を膨らませた。

「師匠。なんであんな部長のために、師匠が手を貸すんすか? あの人、師匠のことあんなバカにして。手柄なんて絶対やりたくないっすよ。」

久雄は封筒の書類を作業台に広げながら、低い声で言った。

「そんな小さなことにこだわるな。俺たちが向き合ってんのは、部長でも手柄でもねえ。この手が仕上げたもんが、海の向こうで誰かの機械を動かす。誰かの役に立つ。目指してんのは、そっちだろうが。」

「はい。すいません。」

封筒の中には、夜なべして書いたのだろう、貴重な手書きの契約書類が収まっている。社長が三週間、関係先を一つずつ頭を下げて回り、社運をかけてまとめた、たった一つの原本だった。

翌朝。久雄は書類を作業台に広げ、洋太に仕上げの数字を一つずつ確かめさせていた。

「ここの数字は、現場の手が分かってねえと書けねえ。社長がそれを俺たちに託してくれたんだ。」

「はい。ちゃんと覚えます。」

二人が顔を寄せていた、その時だった。足音もなく、高島が現場に入ってきた。このところ「効率化」と称して、紙の資料を片端からデータ化しろと現場を回っている最中だ。その視線が、作業台に広げられた手書きの書類で止まる。

「ここでも手書き? はあ、勘弁してよ。」

横からひょいっとそれをつまみ上げ、ひらひらと振ってみせる。

「ねえ、これだよ、これ。非効率がこの会社をダメにしてんの。いい機会だ。みんな、よく見てなよ。」

「あ、部長。それは……」

「中卒のおじさんが、ご立派な企画書こさえちゃってさ。こういうのは、こうすんだよ。」

高島の口元が、にやりと釣り上がった。

「中卒の企画書は、シュレッダー行きな。」

ひゅ、と息を呑む間もなく、高島は書類をシュレッダーの口へ差し込んだ。

「やめろ! それは……」

かけよとした久雄の前に、沼田がさっと立ちはだかる。

「おいおい、勝手に騒ぐなって。部長が処分してんだろ。」

ガリガリと無情な音が鳴った。社長が一時一時書き上げた文字が、細い帯になって下のくずかごへ落ちていく。几帳面な手書きが、ばらばらの切れ端に変わっていき、最後の一枚が吸い込まれて、機械が止まった。

我に返った洋太が、悲鳴のような声をあげる。

「ああ! 何してんだよ! この前の、あの会議の、大事な……」

動転のあまり、洋太の言葉はばらばらだった。はっ、と高島は本気で意味が分からないという顔をした。作業台の上に、会社を左右する書類があるなど、想像もしていない。

「おいおい、落ち着けって。なんすか? 掃除のおじさんたちが書いたメモかなんかでしょ。そんなの、なくしたってどうってことないっしょ。」

「違う! あれは! 来週の契約の取り決めが全部! あそこに、百億の話が!」

「百億? ああ、あれね。その……プロジェクトを回してんのは、この俺だぞ。だが、書類だろう? 契約は契約、神は神だ。また刷りゃいい話を、いちいち騒ぐなって。」

「刷り直すって……あれは、部長の大仕事を支えるための、たった一つの書類なんですよ!」

「うるさいな。なんだよ、支えるって。俺は聞いてないし、頼んでもいない。余計なお世話を、勝手にされても困るんだよ。」

「それ、社長が作られた資料です。」

は、その時だった。それまで黙っていた久雄が、低い声で口を開いた。

「社長が三週間、関係先を一つずつ頭を下げて回り、社運をかけて自らの手でまとめた原本です。高島部長、あなたに大きな手柄を立てさせてやりたいと、社長はそう言っておられた。」

低く、淡々とした声だった。だが、その一言は現場の誰の耳にもはっきりと届いた。高島の顔が、完全に青ざめた。膝が、わずかに揺れる。

「う、嘘だ。嘘だろ。そんな大事なもんを……なんで、こんな……」

目を泳がせた高島が、すがるように沼田を見た。

「そ、そうっすよ! こんな紛らわしい場所に大事なものを置いてた現場が悪いんす! 普通、こんな汚い作業台に大事な書類は置かないっす。完全に現場の管理ミスっす!」

「そ、そうだ。その通りだ。俺は悪くない。中卒のじいさんの机に置いてある紙なんか、誰がゴミと思わないんだ。むしろ俺は被害者だろ!」

「ひ、被害者?」

「だ、大体、俺はプロジェクトマネージャーだぞ。こんな紙切れの管理なんざ、現場の雑務だ。俺がいちいち見るわけないだろう!」

「ですよね。部長は大局を見るのがお仕事っすから。こんな細かいこと、いちいち部長の責任にされたらたまんないっすよね。」

吐き捨てるように言い残すと、高島は逃げるように現場を出ていった。沼田が、へらへら笑いながらその後を追う。

後に残ったのは、くずかごに詰まった、ばらばらの切れ端だけだった。久雄は何も言わない。ただ、静かに社長の几帳面な文字の断片を、一枚ずつ拾い上げていく。その背中を、洋太はただ見ていることしかできなかった。現場は、しんと静まり返っていた。久雄の胸の奥に、もう消えそうにない熱が燈っていた。

書類が破棄されたという知らせは、その日のうちに社長室へ届いた。今野社長が現場に降りてきた時、その顔からいつもの穏やかさは消えていた。くずかごに残った細い紙の帯を見て、社長はしばらく動けない。

「これが、全部か。」

「申し訳ありません。私の机に置いておいたばかりに……」

「あんたが悪いんじゃない。」

社長はばらばらの切れ端を、一つ指でつまみ上げた。三週間、頭を下げて回った日々が、その指の中で乾いた音を立てた。

ほどなく現場に呼び出された高島が、社長の前で深々と腰を折る。

「社長、本当に申し訳ありません。紛らわしい場所に置いていた、現場の管理に問題がございまして……」

「高島部長。」

低い声が、高島の言い訳を断ち切った。

「来週の契約締結は、あの取り決めがなければ成立しない。相手方の合意も、署名の段取りも、全てあの一枚に集めてあった。分かるか? あの一枚で、会社が傾くんだ。来週までに、たった一枚。」

「ああ、でしたら、次はパソコンで作れば、なんとか間に合うかと……」

「三週間かけて集めたものを、どうやって来週までに作り直すんだ。」

社長はそれ以上は責めなかった。ただ、深い疲れの滲んだ目で、高島をしばらく見ている。

「君に任せたのは、私の判断だ。その責任は、私が取る。」

そう言い残して、社長は重い足取りで現場を出ていった。その丸まった背中を、久雄は黙って見送る。

あの人は、仙台の一人息子だ。自分を拾ってくれた、あの人の、たった一人の忘れ形見。あの背中を、こんな目に合わせるわけにはいかない。

胸の奥の熱が、はっきりとした形を結んだ。久雄は社長の跡を追って、廊下へ出た。

「社長。」

「立花さん……」

「あの、取り決め、もう一度、私らに集め直させてください。」

「立花さん、気持ちはありがたい。だが、三週間かけたものを、来週までに……」

「中身は、洋太が組み直します。あいつはもう、仕上げの数字が分かってる。頭を下げて回るのは、私がやります。間に合わせます。」

社長はしばらく、久雄の顔を見ていた。そして、深く頷いた。

「そうか。頼む。あんたが言うなら、信じるよ。」

その日から、洋太が走り回った。久雄に言われた通り、洋太は現場と取引先を往復し、消えた取り決めの中身を、一から組み立て直す。仕上げの数字を測り直し、図面に起こし、相手先へ足を運んでは確認を取る。朝から晩まで、靴底がすり減るほど歩いた。

一方の久雄は、現場の片隅で古びた手帳を片手に、電話をかけ続けた。何十年もこの手を通して付き合ってきた相手だ。

「ご無沙汰しております。立花です。あけぼのの、立花です。」

途端に、電話の向こうで相手の声がふっと変わった。

「立花さん? ああ、あけぼの。お久しぶりです。いや、あなたから直接なんて、珍しいこともあるもんだ。」

その声は、さっきまでの木で鼻をくくったような調子とは、まるで違っていた。長く付き合ってきた相手だけが見せる、気の置けない柔らかさだ。あんなに渋っていた相手が、師匠の名前一つでこうも変わる。洋太には、それが不思議でならなかった。

「無理を承知で、お願いがあります。あの取り決め、もう一度だけ、力を貸しちゃもらえませんか。中身はうちの若いのが、もう全部組み直しました。あとは、あなたの一筆だけなんです。」

それでも、相手の返事はすぐには出ない。一度破談になった話だ。簡単に戻るものではなかった。久雄は何度も頭を下げ、ぽつぽつと言葉を重ねていく。洋太はその背中を、祈るように見つめた。会社の命運を握る来週の締結まで、もういくらも残されていない。

数日後、現場を通りかかった高島が、まだ電話をかけ続ける久雄を顎で指した。沼田も、つられるように見る。

「見ろよ、あれ。まだやってんの? あの小僧。」

「あの、でも、いいんすか? 一応、部長のプロジェクトっすけど。」

「いいんだよ。責任は私が取ると、社長が自分でそう言ったんだ。俺は痛くも痒くもない。大体な、三週間かかった話を、中卒が電話一本でひっくり返せるわけないだろう。どうせ失敗する。そしたら、現場が勝手に無理しただけって話で終わりさ。」

「ああ、なるほど。さすが部長。抜かりないっすね。」

高島は久雄のそばまで歩み寄ると、わざと聞こえるように言い放った。

「無駄無駄。中卒のじいさんが頭下げたところで、何が変わるんだかねえ。」

久雄は受話器を置くと、ゆっくりと高島を見た。怒りではない。底の見えない静けさだった。

「部長さん、一つだけ言わせてください。壊すのは一瞬だけどな。人の信用ってのは、そんなに安くねえ。あんたが今日捨てたものの、本当の値打ちを、時期に嫌でも知ることになる。」

「はあ? 何それ。脅し?」

笑い飛ばそうとした高島だが、なぜか最後まで笑いきれなかった。久雄の目の奥で、見たことのない何かが、消えずに燃えていたからだ。久雄はまた受話器を取った。窓の外は、もう暮れ始めている。

久雄が動き出してから、数日が過ぎた。洋太が足で組み直した中身と、久雄が頭を下げて繋ぎ直した信頼。その二つで、破談になりかけた話が、一件また一件と息を吹き返していた。だが、それを面白く思わない男がいた。高島である。久雄が立て直せば立て直すほど、中卒のじいさんと見下してきた自分の立場がなくなる。

追い詰められた末に、高島が選んだのは、詫びることではなかった。現場の手柄を、そっくり横取りすることだった。

その夜。人のいなくなった部長室に、高島は沼田だけを呼びつけていた。

「沼田。あの契約、今まさに立花と洋太が立て直してる最中だろう。その成果を、俺の指示で再建したことにすればいい。」

「え、でも、実際に動いてるのは、立花さんたちで……」

「だから、誰が動いたかなんて、本社は知らねえんだよ。報告書を書くのは、この俺だ。『現場の不手際で潰れかけた契約を、私がリーダーシップで立て直した。』そう書けば、俺は無能から一転、救世主だ。」

「うわあ、さすが部長。頭、よく回りますね。」

「いいか。立花たちには、絶対に気づかれるな。あいつらが流した汗は、全部俺の手柄になるんだ。」

その夜のうちに、高島は本社へ中間報告書を送り付けた。そこには、ありもしない自分の活躍と、現場の無能ぶりが、もっともらしく並べてある。久雄も洋太も、まだ知らない。歯を食い縛って取り戻しつつある契約が、横からそっくり奪い取られようとしていることを。

だが、その実りにもう一本、薄汚い手が伸びていた。

三週間後。一度は失われた契約が、ついに締結の日を迎えた。洋太が寝る間を惜しんで取り戻した取り決めは、全ての関係先の合意を取り付け、以前よりも固く結び直されていた。洋太の目の下には濃い隈が残っていたが、その顔はどこか誇らしげだった。

締結を前に、本社の重役も同席する報告会が開かれた。会議室には、社長の今野、顧問弁護士の桐生、役員たち、そして取引先の担当者までが顔を揃えている。久雄と洋太も末席に控えていた。

そこへ、高島が胸を張って入ってきた。送り付けた中間報告書が本社で高く評価されたと聞いて、すっかり救世主気取りである。沼田が、もみ手で後に続いた。

「いやあ、皆さん、お疲れ様でした。現場が一度は潰しかけた案件を、プロジェクトマネージャーであるこの私が、リーダーシップを取って立て直しまして。」

「高島君。そのリーダーシップだがね。具体的に、君はどの取引先と、何を話したのかな。」

「え、えっと、私は全体を統括する立場として、各方面に方針を徹底させまして……」

その時、取引先の担当者が、不思議そうに口を開いた。

「失礼ですが、私、あなたとは一度もお会いしてませんよ。何度も頭を下げに来てくださったのは、立花さんと、そちらのお若い方ですが。」

「え、あ、ああ、もちろん。足を運んだのは、彼らですよ。私は彼らを動かした司令塔でしてね。現場の尻を叩くのも、立派なリーダーシップでしょう。」

口を挟んだのは、顧問弁護士の桐生だった。一冊の書類を、静かにテーブルへ置く。

「司令塔ですか? では、その司令塔殿に、一つ教えて差し上げましょう。この会社の屋台骨、無垢表面処理。その特許の権利者は、たった一人の名義です。立花久雄さん。あなたが『学歴ゼロコンビ』と笑って顎で使ってきた、あのお方ですよ。」

高島の動きが、ぴたりと止まった。

「は? 特許? あ、あの、掃除のじいさんが?」

「うちは長年、立花さんから特許をお借りして、製品を作らせてもらっている。あの人が首を横に振れば、この会社の主力製品は、一つも世に出ません。あなたが見下してきたその人こそ、この会社を生かしている、当の本人なんです。」

高島の顔から、音を立てて血の気が引いた。膝ががくがくと震え、額に脂汗が滲む。

「う、嘘だ。そ、そんな。ただの中卒の掃除のおじさんが、特許なんて……僕は聞いてない。何も聞いてないぞ!」

「では、これは。」

桐生はもう一枚、書類をテーブルへ滑らせた。

「あなたが本社へ送られた中間報告書。『現場の不手際で潰れかけた契約を、私がリーダーシップで立て直した』と、はっきり書いてあります。」

「そ、それは! その報告書は、部下が私の名前で勝手に出したものでな。なあ、沼田!」

高島はとっさに沼田へ話を振った。だが、

「え、ぼ、僕は書いてませんよ。あれは部長が。『これで俺は救世主だ』って、自分で送るんだって。ぼ、僕はただ、見てただけで……」

「お前!」

腰巾着は、ここぞとばかりに主人を踏み台にした。高島が自分の手で報告書を送った事実だけが、その場に残った。

「高島部長。一つだけ教えてくれ。『ただの現場のミス』だと言うなら、なぜ君は、本社に『私が立て直した』などと報告できたんだ。立て直さなきゃならんと、最初から分かっていたからだろう。あの書類がもうこの世にないことを、自分の手で刻んだんだからな。」

「あ、ち、違う!」

言い逃れを重ねるほど、高島は深みにはまっていく。会議室の誰もが、冷たい目でその姿を見ていた。

「高島部長。法的に整理しておきましょう。一つ、社長が会社の命運をかけて用意した契約書類を、一行も読まずに破棄した。会社資産の重大な毀損。二つ、その損害を隠すため、部下の成果を自分の手柄と偽り、本社へ虚偽の報告を上げた。管理職としての明白な背信。三つ、この会社を生かす基幹特許の持ち主、立花さんの仕事を、土足で踏みにじった。懲戒解雇の事由として、これ以上のものはありません。」

社長が、ゆっくりと立ち上がった。

「……私はね、君に手柄を立てさせてやりたかったんだ。本社から来たばかりの君が、ここで一ついい仕事ができるように。だから私は、あの書類を自分の手で書いた。その手を、君は一行も読まずに刻んだ。挙げ句、人のせいにして、嘘で塗り固めた。うちの一番大事な人を、土足で踏みつけてな。」

それでも、高島は引き下がらなかった。

「だが、社長! 結果的に契約は取れたわけですし! それに、元を辿れば、紛らわしい場所に置いていた現場の不手際でして!」

そこで、社長の声が初めて跳ねた。

「いい加減にしろ!」

机を打つ音が響いた。穏やかなこの男が声を荒げるのを、社員たちは初めて見た。一拍置いて、社長は再び静かな声に戻る。

「高島君。会社は君を懲戒解雇する。本社にも、異論はないね。」

「はい。我々も、ありもしない報告書で欺かれた側です。処分に口を挟む気はありません。」

万事、決したはずだった。だが、高島は最後の悪あがきに出る。

「ふ、不当解雇だ! 認められませんよ! 訴えますからね! 私は、退職金と慰謝料はきっちり払ってもらえますからね!」

桐生は、表情一つ変えなかった。

「どうぞ、ご随意に。ただ、一つ。懲戒解雇に退職金は出ません。それが規定です。そして、あなたが訴えるより先に、会社があなたを訴えます。君が刻んだあの書類が間に合わなければ、この会社が失っていた契約の額は、百億です。その金額を損害として、君に請求する。退職金の話は、それを払い終えてから聞こうじゃないか。」

「ひ、百億……そ、そんな無理だ。払えるわけ……」

がっくりと、高島の膝が落ちた。退職金どころか、一生かかっても返せない数字を背負わされたのだ。

崩れ落ちた高島が、ふと顔を上げる。久雄と、目があった。

「た、立花さん! あんたが『一言』許すと言ってくれれば! あ、あんたが社長に話してくれれば、処分が軽くなるはずだ! 頼む! この通りだ!」

久雄はゆっくりと、高島の前に立った。怒りもしない。勝ち誇りもしない。作業着の胸ポケットから、あの古びた手帳を取り出し、高島の目の前にかざした。靴の跡の残る、汚れた表紙。

「これに、覚えはあるか。あんたが踏みつけたやつだ。壊すのは一瞬だったな。けどな、ここに書いてあるのは、俺が五十年、この手で覚えてきたもんだ。あんたには、最後まで一行も読めなかったろう。」

久雄は手帳をまた大事そうに胸ポケットへ戻した。

「学歴や肩書きで人を測るのは、もうやめなさい。あんたに見えていなかったものは、まだ世の中に山ほどある。」

それだけ言うと、久雄は背を向けた。高島は、もう何も言い返せなかった。

その日、契約は無事に締結された。久雄が守り抜いた会社の命綱は、これまで以上に太く、海の向こうへと繋がっていく。うなだれた高島が、警備員に促されて会議室を出ていく。その丸めた背中を見送るものは、もう誰一人としていなかった。

報告会が終わった夕方。久雄はいつものように現場へ戻り、作業台を布で拭いていた。何事もなかったかのような、いつもの背中だった。

「師匠。」

洋太が隣に並ぶ。

「どうして黙ってたんですか? 師匠が特許の持ち主だって。会社の命綱だって。一言言ってやれば、あんな部長、最初から黙らせられたのに。」

久雄は手を止めずに、小さく笑った。

「肩書きをぶら下げて、俺は偉いんだぞってやるのはな、一番つまらねえ生き方だ。俺はただ、いい仕事がしたかった。誰が見てなくても、手はちゃんと覚えてる。それで、十分だったんだ。」

「人の値打ちは、学校でも肩書きでも金でもねえ。その人が、何をどれだけ、真摯に積み上げてきたか。それだけだ。」

久雄は胸ポケットのマイクロメーターに指を当てた。

「仙台に教わったことだ。俺はそれを守ってきただけさ。」

洋太は、その横顔を眩しそうに見ていた。

「さ、続きをやるぞ。仕上げは、ごまかしが効かねえからな。」

「はい。よろしくお願いします。師匠。」

夕日が、二人の作業台を赤く照らしていた。

五年が過ぎた。懲戒解雇と虚偽報告。その二つの言葉は、狭い業界をあっという間に駆け巡った。高島を雇おうという同業は、どこにもない。自慢の海外MBAも、面接ではもう誰も見向きもしなかった。あの百億の賠償は、今も毎月、給料の大半を持っていく。手元に残るのは、いつもわずかな小銭だけだ。

あの報告会で高島を切り捨てた沼田も、無傷では済まなかった。自分は見ていただけと主人を売った腰巾着の話は、業界の狭い人脈の中であっという間に広まる。今度は誰も、沼田の言葉を信じなかった。手柄を盗もうとした主人と、尻尾を振って主人を売った腰巾着。どちらも、自分の器のまま、二人とも同じ業界を追われていった。

ようやく拾ってくれたのは、何も知られていない小さな部品の下請け会社だった。事務所の隅には、導入したものの誰も使いこなせないパソコンが、誇りをかぶって眠っている。注文も見積もりも、未だに手書きの神とファックス。かつて高島が「昭和だ」「非効率だ」と鼻で笑った、その世界のど真ん中だった。

ある日、高島は得意先へ頭を下げに行かされた。納める部品に、どうしても欠かせない表面処理がある。それを一手に担う、業界標準の技術。その名を聞いた瞬間、高島の足が止まった。

「無垢表面処理ライセンス取得済み。」

得意先の受付に、誇らしげに掲げられたプレート。今や世界中の医療機器を支える、あけぼの精密の、立花久雄の技術だった。その隣の壁には、額に入った記事まで飾ってある。

「現代の名工。」

穏やかに笑う、見覚えのある老人の写真だった。

「お、お願いします。この処理を施した部品を、なんとか分けていただけないでしょうか。」

高島は震える手で、手書きの依頼書を差し出した。窓口に出た若い担当者は、それをちらりと見て、にこやかに押し返す。

「あー、すいません。こういう手書き、うちも受け付けてないんですよ。効率化のため、データで出し直してもらえます?」

「そ、そこをなんとか! 急ぎでどうしてもいるんです! 中身は同じですから、手書きでも何とぞ!」

「あー、はいはい。ルールなんで、データでお願いしますね。」

二言もなかった。説明の途中で、やんわりと、されどきっぱり遮られる。高島の喉が、ひゅう、となった。その言葉も、その仕草も、かつて自分が寸分違わずあの老人にしたものだった。それでも、頭を下げるしかなかった。下げなければ、明日の仕事も回らない。担当者は、高島の顔も名前も覚えようとはしなかった。用が済めば、すぐに次の書類へ目を落とす。

すぐに気を遣われた高島の視界に、もう一度、壁のあの額が入った。

「現代の名工。」

穏やかに笑う老人の写真の下に、小さくその名前が添えてある。

「立花。」

かつて「中卒の企画書」と笑って屑籠に掛けたその名前を、高島はただ見つめることしかできなかった。

あれから五年。無垢表面処理は、世界中の医療機器を支える、なくてはならない技術になった。その極限の部品が、世界中で人の心臓を支えている。あけぼの精密の名は、世界の現場で確かな信頼を得ていた。

久雄はといえば、相変わらずだった。「現代の名工」と新聞に載っても、表彰をもらっても、久雄は変わらない。次の朝には、いつもの作業着で、誰よりも早く工場の鍵を開けている。

変わったのは、その隣だ。あの朝、曇り一つ消せずに頭を抱えていた洋太は、今では立派な技術者になっていた。無垢表面処理の仕上げを久雄から託され、一手に担っている。そして今度は、その洋太の後ろを、新しい若者が追いかけていた。去年入ったばかりの、不器用な新人だ。

「三宅さん、どうしてもここで、曇りが出ちゃうんです。何度やっても、ダメで。」

洋太は新人の手元を覗き込むと、ふっと笑った。かつて久雄が自分にしてくれたのと、同じように。

「力で押すな。金属に聞くんだ。どうされたいかってな。」

「聞く、ですか?」

「ああ、手が覚えるまで、何べでもな。」

少し離れたところで、久雄がその様子を、目を細めて見ていた。守られていた若者が、いつの間にか誰かを守る側に回っている。それが何よりだった。

その日の仕事終わり。久雄は洋太を呼び止めた。

「洋太。これをお前に。」

差し出されたのは、あの古い手回しのマイクロメーターだった。五十年前、仙台が久雄の手に握らせ、以来ずっと磨き続けてきた相棒だ。

「師匠? それ、師匠がいつも肌身離さず磨いてる。そんな大事なもの、俺なんかがもらえませんよ。」

「代々、俺が受け継いでもらったもんだ。次は、お前の番だよ。お前のその手も、もう立派な宝だ。」

洋太の目から、ぽろりと大粒の涙がこぼれた。五十年前、久雄自身が仙台に言われたのと、同じ言葉だった。

よく晴れたある日の昼下がり。久雄は一人で、墓地の坂を登っていた。辿り着いた墓石の前に、しゃがみ込む。そこに眠るのは、五十余年前、行場のなかった十五の自分を拾ってくれた、仙台の社長だ。

「親方。ご無沙汰してます。」

久雄は胸ポケットから、いつもの手帳を取り出した。靴の跡の残る、汚れた表紙を、指で撫でる。

「色々、ありましたよ。腹の立つことも、ありました。でも、守れました。会社も、あんたの息子も。あんたがくれた、この手で。」

風が、墓石の周りの草をそっと揺らした。

「お前の手は、会社の宝になる。」

あの日の約束。なんとか、果たせましたかね。

久雄はゆっくりと立ち上がる。その背中は、相変わらず地味で小さい。だが、その手だけは、五十年分の確かな重みを持っていた。

工場へ戻れば、若い連中が今日も金属に向き合っている。久雄は明日も一番に、あの鍵を開けるのだろう。明後日も。その先も。それが、この目立たない名工の、何より幸せな日々だった。

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