「あなたの貯金、5000万円で家を買ったわよ。」
義母がにこやかにそう言ったとき、私は耳を疑った。弁護士である私、伊藤夏の口座には確かに5000万円があった。でもそれは私のお金ではない。依頼者から預かった預かり金だった。
「さすが弁護士さんね。結構溜め込んでたじゃない。」
「勝手に通帳を見たんですか?」
「ちょっと目に入っただけよ。廊下に落ちてたの。」
私は冷や汗をかいた。通帳は常に鞄の中に入れ、持ち歩いている。落とすはずがない。それなのに義母は平然と手にしていた。
「また鞄の中を漁ったんですか?」
「またって何よ。私がそんなことするわけないでしょ。」
義母は私のマンションに頻繁に遊びに来ては、あれこれ物色していた。それを指摘すると、彼女は話をすり替えた。
「それより、こんな大金を持ってるのに息子や私に黙ってたことを詫びなさい。」
「謝る必要はありません。そもそも、そのお金を私以外の人間が引き出すことは不可能です。銀行から確認が入りますから。」
「分かってるわ。だから先に動いたの。」
「どういうことですか?」
「息子の名義で家を買ったってことよ。たったの5000万円で。しかも二世帯住宅。今までは別々だったけど、これで息子と一緒に暮らせるわ。」
私は言葉を失った。勝手に私の預かり金で家を買い、さらに自分が住むつもりで二世帯住宅まで選んだというのか。
「勝手に決めた上に人の金を当てにするなんてどうかしてませんか?」
「どうして? あなたも住めるんだからいいじゃない。」
「私はマンション派なんです。」
「え? 絶対に一軒家の方がいいわよ。」
夫の太陽に話すと、彼は浮かれていた。しかし私は彼に真実を伝えた。
「あの通帳の5000万円は私のお金じゃない。弁護士用の預かり金口座なんだ。」
「は? どういうこと?」
「預かり金口座。弁護士伊藤夏って書いてなかった?」
夫は通帳を見たとき、名義が変だとは思ったが、私の名前だったから私のものだと思ったらしい。私は説明した。弁護士は依頼者から預かったお金を自分の事業口座と明確に分けて保管する義務がある。あのお金は手数料を引いてから依頼者に振り込むためのお金なのだ。
「なので、あのお金で二世帯を買うほどの余裕はありません。」
「まずいわ。もうハウスメーカーも決めて着工してしまったの。」
「嘘でしょ?」
義母は契約も済ませてしまったという。場所を聞くと「都内」とだけ。23区内ではなく都内。電車とバスで職場まで1時間半かかる場所だった。
「1時間半、本気で言ってます?」
「太陽は頑張って通うって張り切ってるわよ。若いんだからやればできる。どんまい。」
「いりません。すみません。」
「太陽の収入でギリギリローンは通せたけど、あなたの助けもないと今後払っていけないのよ。」
「車のローンだってあるし。」
「売りなよ。」
太陽は一軒家が男の憧れだと主張した。数年前、同じように「男の憧れ」と言ってベンツを勝手に買ったことを私は思い出した。そのおかげで一度だけ江の島にドライブに行ったが、それきりだった。
「結婚してから、家賃や光熱費も私が全部出してたよね。」
「なってない。」
「本当にそう言える?」
「言える。」
「じゃあ、一人で頑張って。知り合いの弁護士から連絡させるわ。さようなら。」
太陽は逆上した。
「分かったぞ。お前、浮気してるな。」
「は? だから都合がいいんでしょう。証拠を出して。そうしたら認めるわ。」
数日後、太陽はメールで「証拠」を送ってきた。しかしそれは明らかにAI生成の画像だった。右下にはAI生成を示すマークが入っている。
「これは俺が入れたんだ。」
「もうわけのわからないことをしない方がいいよ。黙って離婚に応じた方がいい。」
「無理だ。それだけはできない。」
太陽はカードの利用額を減らして車を売れば問題なく暮らせると言っても聞かない。別居でもいい、自分と母は一軒家に住み、私は都内に小さなマンションを借りればいい。財布だけは共同にしよう、たまにデートもしよう、と。
「それ、私に何の得があるの?」
「とにかく俺は絶対に別れないからな。」
私は兄に相談した。兄は不動産関係の仕事をしており、私の職場の近くに単身向けのマンションを探してほしいと頼んだ。
「離婚すんのか。」
「さすが話が早い。義母が夫と共謀して、勝手に5000万円の家を買ってたの。」
兄は笑った。太陽が以前ベンツを勝手に買ったことを覚えていた。しかし兄はふと気づいた。
「太陽君の手取りが毎月32万でしょ。車のローンが7万、カードが平均で10万。生活費はお前が出してたから、残り15万は余ってることになるよね。」
「お前はそれに今気づいたのか?」
私はこれまで、男の人だし付き合いもあるだろうからと、太陽の金遣いについて口を出さなかった。しかし、その余った15万円がどこに行っていたのか。もし女なら、ご飯やホテルで15万円なんてあっという間だ。
「探偵事務所に頼んでみる。」
兄が調査を引き受けてくれた。数日後、結果が出た。「真っ黒よ」と兄は言った。太陽は浮気をしていた。相手は47歳の女性。ミニスカートを履き、顔は若く見えるが、美容にお金をかけているタイプだった。
私は弁護士を通じて太陽に内容証明を送った。慰謝料300万円を請求すると。太陽は最初「AIで作った画像だろ」とシラを切ったが、探偵の写真を見せると慌て始めた。
「裁判って公開だからね。誰でも傍聴できるし、記録を閲覧することもできる。」
「ちょっと待ってくれ。まず証拠を見せろ。」
「見るまでもないでしょう。やったかどうかは自分が一番分かってるんだから。」
義母も私の実家に内容証明を送りつけてきた。
「慰謝料300万円って何だよ。」
「浮気してたよね。」
「してねえわ。」
「この数週間だけでも相当な証拠があるけど。」
義母は「詐欺で訴えてやる」と息巻いていた。私は彼女に言った。
「お母さん、スマホの検索機能使えます? 詐欺要件で調べてみてください。財産が第三者へ移転して初めて詐欺が成立します。私は夫からお金をもらうどころか、むしろ多く支払っていた側です。」
「それは夫婦なんだから当然じゃない。」
「裁判が楽しみです。法廷でお待ちしてますね。」
義母は悔しそうに「腹の立つ女」と呟いた。
その後も太陽からの嫌がらせは続いた。毎日のように私のマンションのポストに、開封済みの納豆が入れられていた。管理人の協力を得て監視カメラを確認すると、映っていたのは義母だった。
「あんたの親でしょ。何とかして。」
「それは俺が息子として謝る。ただ、離婚とか慰謝料とかは勘弁してほしい。」
「もう家がどうとかの問題じゃなくなってる。ホテルに行っておいて。」
「女友達なんだけど、お互い運動不足だねってことで、ホテルでラジオ体操でもしようかってことになって。」
「うちの近所の公園で太極拳やってるおじいさんいるよ。あんな恥ずかしいことを人に見られたら恥ずかしいだろう。」
「妻がホテルに行くことに恥ずかしさを持てよ。」
太陽はズレた言い訳を繰り返した。浮気相手が47歳で、子供を産めそうにないことを義母が反対したことなども明らかになった。
義母は最後まで「許してやりなさい」と説得しようとしたが、私はもう決めていた。
「お母様、働いたらどうですか?」
「勝手に家を買ったことは謝るわ。どうしても広い家に住みたかったの。」
「着工まで終わってると知った時、ああ、私は家族じゃなかったんだと思いました。」
「そんなことない。息子のためにも戻ってやってください。」
「お断りします。5年間お世話になりました。」
離婚は成立した。私は兄が用意してくれた職場に近いマンションへ引っ越した。
「このマンション最高だわ。」
「だろ? 駅も近いし、家賃もそんなに高くないし。」
「兄さんの一言がなければ、浮気に気づかずに終わってたかも。思いつきで言っただけだけどな。」
「結局、47歳の女性とはどうなったんだ?」
「一緒になるらしいよ。家が完成するまでの間は、実家に3人で住むんだって。」
「お母さん、大反対してたんじゃなかったっけ?」
「ローン支払い要因だと思う。」
「えげつないな。」
その後、約1年後、それはそれは立派な家が建ったそうだ。しかし最寄りの駅まで徒歩25分。そこから電車を数回乗り換えて都内の職場まで1時間半。毎日往復4時間の通勤で、太陽と新しい妻はボロボロ。結局、マイホーム生活を謳歌しているのは義母だけのようだった。
太陽は慰謝料支払いのためにベンツを売った。そこまでして手に入れた家で、疲れだけが溜まっていくというのは皮肉な話だ。
私は兄の家にすき焼き用のお肉を持っていき、お姉さんと一緒に食卓を囲んだ。
「私もいつか、こんな温かい家庭を築けるように頑張りたい。」
そう思った。妥協して同意していれば、浮気に気づくこともなく、通勤で疲弊する毎日を送っていたのは私だったかもしれない。そう思うと、ゾッとする。
時間は有限だ。そして、お金では買えない。



