「ここ、素敵なお店ね」
息子の婚約が決まり、今日は両家の顔合わせ。私は少し緊張しながら高級料亭の個室に座っていました。やがて仲居さんが一人ずつ料理を運んできます。一つ、二つ、三つ、四つ。でも、なぜか私の前だけ何も置かれません。
しばらく待っても、やはり料理は来ない。
「あの、すみません。私の分はまだでしょうか?」
私が尋ねると、息子の婚約者の母、まり子さんが笑いました。
「あなたの分はないわよ。四人分しか頼んでないもの」
隣で婚約者の香織さんまで口元を抑えて笑います。
「だって、中卒なんですよね。そんな人に高級料理を出しても、味なんて分からないでしょ」
父親の正さんも止めるどころか笑っています。
「中卒に出したら、店の格まで下がりそうだな」
三人の笑い声が静かな個室に響きました。その瞬間、直樹がゆっくり箸を置きました。
「母さん、帰ろう」
私は膝の上で握っていた拳をそっと開きました。
「そうね。でも、立ち上がる前に言ったわ。その前に、少しだけお話ししてもいいかしら?」
まり子さんが鼻で笑いました。
「何のお話?」
私は静かに答えました。
「あなたたちがさっきから馬鹿にしている、中卒の貧乏人についてよ」
私の名前は美佐。五十八歳。二十六年前に夫を亡くし、女手一つで一人息子の直樹を育てました。私は高校を中退しています。そこだけ聞けば、婚約者の香織さん一家の言う通りです。私は中卒。それを隠したことはありません。
高校一年の頃、学校に馴染めなくなり、そのまま退学しました。若い頃は仕事を転々とし、両親には随分心配をかけました。そんな私を変えてくれたのが夫でした。
結婚して直樹が生まれ、ようやく家族三人でこれからという時、夫が病気で亡くなったのです。直樹はまだ四歳でした。家のローンは保険でなくなりましたが、生活費も教育費も老後のお金も必要です。
「お母さん、今日も仕事?」
幼い直樹にそう聞かれる度に胸が痛みました。それでも働きました。昼は事務として、夜は自宅で内職。少しでも給料を上げるために休日には資格の勉強。直樹だけは、お金のせいで何かを諦めさせたくなかったからです。
その背中を見て育った直樹は優しい子になりました。大学を卒業し、今では大手企業で企画の仕事をしています。そんな直樹が嬉しそうに言ったのです。
「母さんに紹介したい人がいる」
それが婚約者の香織さんでした。素敵で言葉遣いも丁寧。直樹の前では本当に感じのいい女性でした。
「直樹さんには仕事でも助けてもらっています」
私にも深々と頭を下げました。
ところが、その日直樹に仕事の電話が入り、三十分ほど家を出た瞬間、香織さんは変わりました。私が焼いたパウンドケーキを一口も食べず、そのままゴミ箱へ放り投げた。入れたての紅茶もシンクに流しました。
「ちょっと、何をするの?」
振り返った香織さんは、さっきまでとはまるで別人でした。
「こんな手作りのお菓子、無理なんですけど」
「直樹の前では食べてたでしょ?」
「あれは演技ですよ」
そして家の中を見回しました。
「それにしても狭いですよね。うちの実家、この家の四倍くらいありますよ」
スマホを取り出してリビングを撮影し始めました。
「ママに見せよう」
私は呆然としました。
後日、今度は母のまり子さんまで連れてきました。
「庶民の家って、一度見てみたかったの」
二人は勝手に風呂場を覗き、庭を見て笑いました。
「これが庭? うちのペットスペースより狭いわ」
腹は立ちました。でも言い返しませんでした。直樹が幸せならいい。そう思っていたからです。
そんなある日、顔合わせの日程が決まりました。私は悩んだ末、直樹に全部話しました。
「香織さん、あなたの前と私の前では別人よ」
直樹はしばらく黙っていました。そして言いました。
「やっぱりか」
実は直樹も香織さんに違和感を覚えていました。婚約後、同じ会社の後輩から、香織さんに何度も食事に誘われたと相談されていたのです。断ったら「直樹さんよりあなたの方が好み」と言われた。そんな相談を受けていたのです。
「信じたくなかった」
直樹は寂しそうに笑いました。
「でも、母さんにまでそんなことをしてるなら、ちゃんと確かめる」
そうして迎えたのが今日の顔合わせでした。
迎えた顔合わせの日、香織さんの父、正さんが私を見下すように言いました。
「それで、何を話すつもりなんですか?」
私は直樹を見ました。直樹が頷き、スマホをテーブルに置きました。流れたのは会社の後輩の声でした。
「香織さんに何度も旅行へ誘われました。『婚約中ですよね』って言ったら、『結婚するまでは自由でしょ』って」
香織さんの顔色が変わります。
「ち、違う」
そして別の男性の声。
「妻がいると断ったんです。でも『気分転換くらい、いいじゃない』って」
「やめて」
直樹は再生を止めました。そして静かに言いました。
「香織、これは誤解なのか?」
「ち、違うの」
「もういい」
短い一言でした。
「婚約は解消する」
香織さんが固まりました。母のまり子さんは娘よりも慌てる始末。
「待ってちょうだい。若いんだから、少しくらい遊ぶでしょ」
正さんまで言いました。
「直樹君、そんなことで感情的になるな」
そして得意げに笑いました。
「香織と結婚すれば、いずれうちの会社を君に任せるつもりなんだ」
正さんは全国に二十店舗ほど展開する外食チェーンの社長です。
「君は優秀なんだろう。妻なら本部の幹部にしてやってもいい」
「そ、そうよ。中卒のお母様と暮らす人生より、うちの一族に入った方が直樹さんのためでしょ」
私は思わず笑いました。
「その会社、そんな余裕があるんですか?」
正さんの眉が動きました。
「どういう意味だ?」
「ここ二年、既存店の利益率がかなり落ちていますよね」
空気が変わりました。
「新店舗も三店続けて赤字。それだけじゃない。本部経費が不自然に増えている」
まり子さんの顔色が変わります。
「な、なんであなたが?」
私はまり子さんを見ました。
「会社のカードで個人的な買い物をしていますよね。経理処理にかなり無理がありますよ」
正さんが妻を見ました。
「まり子、どういうことだ?」
「知らないわよ」
私は続けました。
「ブランド品、高級ホテル、美容関係。全部、接待費として処理されている」
まり子さんが立ち上がりました。
「中卒のくせに、経営の何が分かるのよ」
私は少しだけ笑いました。
「中卒だから分からないって言いたいの?」
「当たり前でしょ」
私は頷きました。
「そこがあなたたちの一番の間違いね」
若い頃、私は少ない給料からわずかなお金を貯めました。直樹の学費を作るため、そして自分の老後を息子に背負わせないため。簿記を勉強し、財務分析を覚え、資産運用を始めました。最初は月に五千円、一万円。本当に小さな金額です。失敗もしました。それでも三十年近く続けました。
やがて、知人の会社から数字を見て欲しいと相談されるようになりました。今では個人で複数の中小企業に経営と資金面の助言をしています。顔は出していません。仕事では旧姓を使っています。だから、まり子さんたちが知らなくても無理はありません。
正さんが私をじっと見ました。
「まさか」
私は答えました。
「三年前から、御社にも出資しています」
正さんの顔から笑みが消えました。店舗整理を進めたのも、仕入れ先の見直しを提案したのも、そして新規出店を止めたのも私です。
静まりました。まり子さんが掠れた声を出します。
「嘘。中卒のあなたが」
私は笑いました。
「中卒なのは本当ですよ。でも、中卒だから何も学べないなんて、誰が決めたんですか?」
正さんが急に立ち上がりました。さっきまでとはまるで別人の声です。
「美佐さん、誤解があった。今日は、改めてですね」
「結構です」
私は切りました。
「それと、今日限りで御社への追加支援はしません」
「待ってくれ」
「資金だけじゃない。今後の助言も全て終了します」
まり子さんが叫びました。
「そんな会社がどうなってもいいの?」
私は首をかしげました。
「さっきまで、私、高級料理の味も分からない中卒の貧乏人でしたよね。誰も答えません。そんな人に頼らなくても大丈夫でしょう」
私は立ち上がりました。
「直樹、今度こそ帰りましょう」
香織さんが直樹の腕を掴みました。
「待って。私、直樹のこと本当に好きなの」
直樹はその手を静かに外しました。
「俺が好きなんじゃない。俺の肩書きと将来が好きだったんだろう」
香織さんは何も言えませんでした。
それから半年、香織さんとは二度と会っていません。会社では複数の男性社員への言動が問題になり退職したそうです。まり子さんも会社資金の私的流用が発覚し、役職を外されました。正さんの会社は倒産こそしませんでしたが、赤字店舗を整理し規模を縮小したと聞いています。私はもう関わっていません。
直樹は少し落ち込んだ時期もありました。でも今はまた仕事を頑張っています。
先日、二人で小さな和食店へ行きました。席に着くと直樹がメニューを開きます。
「母さん、何でも好きなの頼んで」
「そんなに食べられないわよ」
「いいから」
直樹は少し笑いました。
「あの日、母さんの前だけ料理がなかったの。まだ腹立ってるんだ」
私も笑いました。
「もういいのよ。高級な料理を食べることが豊かな人生ではありません。立派な学歴があるから、人として立派なわけでもない。大切なのは誰と同じ食卓を囲みたいか。そして目の前にいる人を大切にできるかどうか」
中卒の私は、五十八歳になってもまだ勉強中です。でも、一つだけ胸を張って言えることがあります。私はこれからも、人を肩書きだけで判断するような人生だけは送りたくありません。



