「お前みたいな中卒の人間が、この会社の社長になれるわけがないだろ」…

「お前みたいな中卒の人間が、この会社の社長になれるわけがないだろ」...

机の向こうで、人事部長の沢が履歴書を投げ出すように置いた。
「中卒が最終面接? 話を聞く価値もないな」
隣に座る採用担当の白瀬も、タブレットを抱えたまま冷ややかに目を細めた。
「本当になんで最終面接まで残ったんですかね。この経歴じゃどうせ落ちるのに。タイパが悪すぎますよ」

机の向かいには、地味な背広をまとった50歳の男、黒木健二が座っていた。
彼は静かに口を開いた。
「それがあなた方の答えですか?」
「ああ、そうだよ。無能なおっさんは帰れ」
「無能なおっさん、ね。なるほど。では、そのおっさんから一言申し上げます」
「なんだ? もういいから出ていけよ」

健二はゆっくりと立ち上がり、静かに告げた。
「私、次期社長ですが」

沢の顔が凍りつき、白瀬の手からタッチペンが床に落ちた。

学歴で人を見下したこの人事部長の人生は、その日を境に音を立てて崩れ始めた。
これは、たったひとりの「無能なおっさん」を笑った会社が、衰退への道を歩むまでの物語。
なぜ次期社長が面接の席にいたのか。
時計の針は、その数日前へと静かに巻き戻っていく。

黒木健二の一日は、いつもと変わらぬ朝食から始まった。
こんがり焼いたトーストと淹れたてのコーヒーを、彼はゆっくりと口へ運んだ。
今年で50歳になるが、その暮らしぶりには派手なところがなかった。
高級車もブランド物の時計も、健二には縁がなかった。
そこへスマートフォンが短く震えた。
画面に表示されていたのは、専務の平井の名だった。

「社長。いえ、まだそうお呼びしてはまずいですね」
「電話じゃ構わんよ。どうした?」
「例の結びフーズの件です。本当にお一人で行かれるおつもりですか?」
「ああ。傾いた会社を立て直すんだ。まず、人事が人をどう扱ってるか、この目で見ておきたい」
「しかし、新社長が応募者のふりをして潜り込むなど、前代未聞ですよ」
「就任を公表する前じゃなきゃできないことだ。それに、放っておけない手紙を読んでしまったからな」

「例の当初ですか?」
「ああ。現場の人間が、学歴だけで数字みたいに切られてる。そう書いてあった」

通話を切った後も、健二の胸には昔の記憶が蘇っていた。
締め出し役から渡された会社の資料に、その一通の手紙はひっそりと紛れ込んでいた。
会社が傾いた原因はこれだ。
胸の奥で、その思いが静かに沈んでいった。

「俺はな、平井。学歴だけで人を切る会社がどうしても許せないんだ」
「はい。存じております」
「昔、俺を拾ってくれた人がいた。柏木正一さんっていう食堂の親父だ。家を飛び出して彷徨ってた15の俺に、黙って飯を食わせて、働くかと言ってくれた。あの人は俺の履歴書も学歴も何ひとつ聞かなかったよ」
「人の値打ちはな、履歴書には書いてねえんだよ」

その言葉は、今も健二の耳の奥に残っていた。
恩を返せないまま、正一を見送ってしまった。
結局、自分はあの人に何ひとつ返せなかった。
やがて健二は古びた背広に静かに袖を通した。
肩書きも身分も全て伏せ、ひとりの中途採用応募者として、この会社の本質をこの目で確かめるつもりだった。

同じ頃、結びフーズ本社の人事部では朝礼が開かれていた。
人事部長の沢高幸は、その朝いつになく機嫌が良かった。
「いいか、これからの採用も人員整理も全て数字でやる。情に流されるな」
見習う部下を見回しながら、沢は得意げに言い放った。
彼の頭を占めているのは、執行役員への昇格。ただそれだけだった。
その椅子のためなら、現場で働く人間の暮らしなど、沢にとっては取るに足らないものだった。
「使えない人間に椅子はない。学歴も経歴もない人間をいつまでも抱えておく余裕は、うちにはないんだ」

採用評価担当の白瀬香がタブレットを操作しながら、涼しい顔で頷いた。
「データが最適解を出します。費用対効果の低い層から整理する。極めて合理的ですよ」
「ちょうどいい。今期、現場の契約は何人切れる?」
「学歴フィルタにかければ9人。いずれも現場の評価は高いそうですが、代わりはいくらでもきます」
「結構。現場評価なんていくらでも調整が効く。要は見せ方だ」
「現場が反発したらどうします?」
「反発? 有名大卒を入れれば即解決だ。嫌ならやめればいい。それだけだ」

2人にとって、現場で働く人間など、画面に並んだ数字のただの一に過ぎなかった。
だが、その数字の一行の中にこそ、契約社員の柏木ゆいはいた。
気づけば28歳。中卒で結びフーズの製造現場に入り、もう5年が経っていた。

「ゆいちゃん、また残ってるの。ほどほどにしときなよ」
「あと少しだけ。ここを、私が約束した分なので」
同じ現場の先輩、戸田舞子が呆れたように笑った。
「約束したことは守りたいんです。仲間にも取引先にも」
ゆいの手仕事は誰よりも丁寧で、そして誰よりも早かった。
ゆいの作るものに手抜きが一度もないことを、現場の誰もが知っていた。
それでも、その確かな腕は人事部の画面の上では何の意味も持たなかった。

昼前、ゆいは契約更新の面談に呼ばれ、人事部のドアを叩いた。
沢はゆいの顔も見ず、手元の書類に目を落としたまま淡々と切り出した。
「柏木さん。現場の評価がどうであれね、これからは数字で決めるんだ。中卒で5年よく続いたとは思うよ。でも、それだけだ」
「それだけですか?」
「君みたいな経歴の人間に、この先任せられる仕事はない。そういう時代なんだよ。分かるだろう」
「現場の評価は見ていただけないんですか? 私は契約した仕事を一度も落としたことはありません」
「だから、その真面目さは数字には出ないと言ってるんだ」

ゆいはそれ以上言葉を紡げなかった。
膝の上で握りしめた拳だけが、小さく震えていた。
「来月の更新は、こちらで判断させてもらうよ。立場をわきまえておくことだ」
部屋を出る時、沢はもう次の書類に目を移していた。
ゆいのことなど、初めから単なるひとりの契約社員としか思っていないのだ。
雇い止め。その言葉が、ゆいの足元に冷たい影をくっきりと落としていた。

その日の午後、結びフーズの受付に地味な背広の男が現れた。
健二は数日後に控えた最終面接を前に、この会社を自分の目で見ておこうと足を運んでいた。
磨かれたエントランスを行き交う社員たちの表情は、なぜか一様に強張っていて、その張り詰めた空気を健二は肌で感じ取った。
受付へ歩きかけたところで、健二の足がふと止まった。
フロアの一角で、人事部長の沢がひとりの女性社員を人前で問い詰めていたのだ。

「柏木さん。夕べ君の報告で製造ラインが止まったそうだね。納期が丸1日遅れた」
俯いていたのは、ゆいだった。
「製品に不良が混じっていたんです。気づいてすぐ班長に報告して、規定通り止めてもらいました」
「規定通り、ね。ご立派なことだ。おかげで現場は止まったがね。ほんのわずかな不良を大げさに報告して、納期まで遅らせる。そういうところが現場の足を引っ張るんだ」
「でも、わずかでもお客様の口に入るものですから」

ゆいはただ規定通りに動いただけだった。
もし止めていなければ、不良品はそのまま客の口に入り、会社の信用ごと地に落ちていたはずである。
本来なら褒められこそすれ、責められる言われなどどこにもなかった。
それでも、周りの社員たちは関わりを避けるように目をそらし、足早に通り過ぎていった。
誰もがゆいの正しさを知っていながら、ひとりも声を上げようとはしなかった。

「言い訳はいい。さあ、みんなの前で頭を下げなさい。それくらいの誠意は見せられるだろう」
正しいことをした人間に、人前で頭を下げさせる。その手口は、ひどく手慣れていた。
ゆいは唇を噛み、ただじっと耐えていた。
ここで言い返せば、雇い止めが早まるだけだと痛いほど分かっていたからだ。
健二はその一部始終を黙って見つめていた。
まだ口を出す場面ではないと頭では分かっていた。
だが、ゆいが震える肩で頭を下げようとしたその瞬間、理屈より先に健二の足は前へ出ていた。

「あの、横から失礼ですが。その人は規定通りに報告して、不良品を止めたと言われましたね。それを責めるんですか?」
「はあ? 誰だ、あんたは?」
「黒木と申します。今度の最終面接を受けるものです。御社を一度拝見しておきたくて伺いました」
「それはそれはご立派なことで。しかしね、面接応募者が現場に口出しか。余計なことはしないことだ」

沢は健二を頭の先から足の先まで値踏みするように眺めた後、ゆいに向き直った。
「いいか。次はないぞ」
そう言い捨てると、沢は背を向けて去っていった。

「あの、どうして声を掛けてくださったんですか? 私、あなたのことも何も知らないのに」
「あんたが悪いことをしたわけじゃない。ただそれだけのことですよ」
面識もない自分のために前に出てくれたこの男に、ゆいは深々と頭を下げた。
そこへ心配そうに舞子が駆け寄ってきた。
「ゆいちゃん、大丈夫?」
「うん。平気」
平気だと言ったその小さな声が、かえって全く平気でないことを物語っていた。
去っていく2人の後ろ姿を、健二は静かに見送った。
いい目をしてる。あれだけ踏みつけられても、まだ折れちゃいない。
それは、遠い昔、鏡の中にいた若い自分とよく似た目だった。

その日の昼休み、健二は会社の近くにある小さな定食屋の暖簾をくぐった。
湯気と出汁の匂いに満ちたその店は、遠い日の柏木食堂を健二にふと思い出させた。
奥のテーブルに目をやると、偶然にも先に座っていたゆいがいた。
「ああ、先ほどは本当にありがとうございました。私、ちゃんとお礼も言えなくて」
「気にしないでください。よかったら、相席いいですか?」
向かい合って座り、2人は同じ日替わり定食を頼んだ。
「ここの飯はうまいな。昔世話になった店を思い出すよ」
「そうなんですか。なんだかほっとする味ですよね、ここ」
「ああ、こういう店の飯には、作る人間の人柄が出るものなんだ。失礼ですが、さっきのようなことは、よくあるんですか?」
少しためらってから、ゆいはぽつりぽつりと話し始めた。
「最近変わってしまったんです。前は現場の頑張りをちゃんと見てくれる会社でした。でも今は、人を数字でしか見ない。特に学歴のない人間から順番に切られていくんです。私みたいな中卒の契約社員は、もういつ切られてもおかしくなくて」
「現場の人間が数字で切られるのを、皆、見て見ぬふりなんだと思います。逆らえば次は自分が切られますから。私も、間違ってることを間違ってるって言う勇気なんて、なかなか出ません。でも、せめて自分の仕事だけは胸を張れるようにしておきたくて」
「立派だよ、それは。胸を張れる仕事をしてる人間を数字で切る会社の方が、よっぽど間違ってる」
「ありがとうございます。そんな風に言ってもらえたの、久しぶりです」
「お礼を言われることじゃないさ。本当のことを言っただけだ。あんたはずっとここで働いてきたのか?」
「はい。私、両親を早くになくして、中学を出てすぐ祖父の食堂を手伝うようになったんです。その祖父も亡くなって、店を畳んで、それからこの現場に拾ってもらいました。だから、この仕事だけはどうしても失いたくなくて」
「そうか。ご両親もいないのに、立派じゃないか」
「そんなことないです。いつも私を支えてくれたのは祖父なんです。お金にはいつも困ってましたけど、仕入れ先への支払いだけは1日も遅らせない、真面目で誠実な人で。「約束を破ったら、それでその人との関係は終わりだ」って。それが口癖でした」
「いいおじいさんだったんだな」
「はい。私、勉強は全然でしたけど、「お前はよく気がつく。それが一番の取り柄だ」っていつも言ってくれて」
「気がつく、か。それは立派な才能だ。机の上の勉強じゃ絶対に身につかない」
「あの言葉がなかったら、私とっくに自分なんてどうでも良くなっていたと思います」
「おじいさんはいい目を持ってた。人を肩書きじゃなく中身で見られる人だ」
「はい。多分、私が今もここで踏ん張れてるのは、祖父のおかげなんです。よく言い聞かせてくれました。「人の値打ちは履歴書には書いてねえ」って」

その言葉を耳にした瞬間、健二の箸がぴたりと止まった。
35年前、飢えた自分に黙ってどんぶりを差し出してくれた、あの人の口癖そのものだったからだ。
「失礼ですが、その食堂は何という名前でした?」
「柏木食堂です。もう随分前に亡くなってしまいましたけど」
「そうか」
健二はしばらく言葉を失っていた。
湯気の向こうに、無垢に笑うあの人の顔がありありと浮かんできた。
まさか、正一さんの孫娘だったのか。
あの人の血を引く孫娘が、今目の前であの同じ言葉を口にし、権力に踏みつけられまいと踏ん張っている。
それは偶然と呼ぶにはあまりにも思い巡らせた運命だった。
だが、健二はあえて名乗らなかった。
ここで「あなたの祖父に世話になった」と告げてしまえば、それは恩を着せることになってしまう。
そんな真似は健二の流儀ではなかった。

正一さん。諦めかけていたあんたがくれた恩、やっと返せる時が来たようだ。
湯呑みを静かに置き、健二はそっと心を決めた。
数日後の最終面接で、あの男が人を学歴で切り捨てる。
まさにその瞬間を、逃さず捉えてやる。
あの人の志を踏みにじる会社など、このまま放ってはおけなかった。

店を出る時、ゆいがもう一度深く頭を下げた。
「あの、お名前、もう一度伺ってもいいですか?」
「黒木です。あんたは何も間違ってない。どうか胸を張っていなさい」
「はい。ありがとうございます。黒木さん」

健二は彼女の目にあの人の面影を重ねた。
その夜、健二は長く信頼を置いてきた専務の平井を自宅へ呼んだ。
「平井。結びフーズの人事部、沢という男の過去の行動と評価の記録を、洗えるだけ洗ってくれ」
「承知しました。何か掴まれましたか?」
「ああ、この目でたっぷり見せてもらった。あの男は人を数字や学歴だけで切ってる。それも悪びれもせずにな」
「そうでしたか。それならば、今度の最終面接では都合がよろしいですね。面接には、沢部長が就活生のクレーマー対策と称して自ら入れた、常時録画のカメラがあります」
「クレーマー対策ね。自分の仕掛けで自分の首を絞めてるわけだ。あの男に言い逃れの隙は、一分も与えない」
「お任せください」

それから数日後、平井のもとから届いた報告は、健二の予感をはっきりとした確信に変えた。
学歴の欄にわずかでも傷があれば、現場でどれだけ慕われようと、沢は能力も人柄も問わず片っ端から切り捨ててきたのだ。
その数はこの2年の間だけでも、優に10人を超えていた。
「ひとりの気まぐれじゃない。これは学歴で人を選り分ける仕組みそのものだ。そして次に切られるのが、あの子だ。いや、もうその手にかけられ始めている」

報告を閉じた健二の脳裏に、あの日のエントランスの光景がありありと蘇った。
正しいことをしただけの娘を、人前で踏みつけにしたあの男の傲慢な顔を。
あの会社まで、もう一度この目で確かめてやる。
今度は逃がさん。
胸の奥で、静かな熱がゆっくりと膨らんでいった。
「平井、最終面接は手配通りに」
「承知しました。タイミングは合わせます」

最終面接の当日、地味な背広に身を包んだ黒木健二は、その面接室へ通された。
机の向こうには、人事部長の沢と採用評価担当の白瀬が退屈そうに腰をかけていた。
そしてちょうどその頃、別室では舞子に付き添われたゆいが、雇い止めの通告を受けようとしていた。
「柏木さん、ここに署名を。部長より、契約は今月いっぱいで終了とのことです」
「そんな。5年は精一杯働きました。それも関係ないんですか?」
「上の決定ですので」
理不尽な理由もなく、私が頑張ってきたことは無意味だったの?
ゆいはその無情な指示に従うしかなかった。

場面は戻り、面接室。
やがて顔を上げた沢は、健二を見るなりふと眉を潜めた。
「あんた、この前現場で口を出してきた人だな」
「ええ。その節はどうも」
「はあ。あんなことをしておいて、よく証拠もなく来たものだ」
鼻を鳴らしながら、沢は手元の履歴書にようやく目を落とした。
そして、その指が学歴の欄でぴたりと止まった。
「はあ? 中卒」
一瞬の沈黙の後、沢の口元がにやりと釣り上がった。
「中卒が最終面接。この前の口出しといい、大した度胸じゃないか。あるいは、あんたの話を聞く価値はこれっぽっちもない。無能なおっさんはもう帰ってくれ」
「そうですね。なんで最終面接に紛れ込んでるんですかね。正直、タイパが悪いんですよ。経歴を見れば結果は最初から出てますから」
「そういうことだ。履歴書の一行で、人間の値打ちなんて大体知れる」

健二は何ひとつ言い返さず、ただ静かに2人を見つめている。
その揺るがぬ落ち着きが、かえって沢を苛立たせたらしい。
「はあ。もうどうせ受からないから、教えてやっとくか。いいか、おっさん。うちはな、学歴で人を選ぶんだよ。それが一番効率がいい。現場の中卒なんてのはな、評価を少しいじって頭数を整理すりゃいい。誰も困らん。学歴のない人間に、考える仕事は任せられん。言うことを聞く、ただの頭数だよ」
「そうですね。上で人を残していたら、会社は回りませんから」

その得意げな声を、部屋の隅のカメラが一言残らず録画していた。
それは沢自身がクレーマー対策と称して得意げに取り付けたものだった。

「それがあなた方の答えですか?」
「ああ、そうだよ。無能なおっさんは帰れ」
「無能なおっさん、ね。なるほど。では、そのおっさんから一言申し上げます」
「なんだ、もういいから出ていけよ」

健二はゆっくりと立ち上がると、静かに口を開いた。
「私、次期社長ですが」

一瞬の沈黙の後、沢がこらえきれないというように吹き出した。
「聞いたか、白瀬。この中卒のおっさんが、自分は社長だってよ」
「やだ。とうとうおかしくなっちゃったんですか?」
「いいか、おっさん。妄想も休み休み言うんだな。お前みたいな人間が会社の社長になれるわけが……」

その言葉を遮るように、面接室の扉が外から静かに開かれた。
入ってきたのは、白髪の紳士。専務の平井だった。
笑みを引っ込めた沢が、軽く会釈した。
「平井専務、今面接の最中ですが」
平井は沢には目もくれず、まっすぐ健二のそばへ歩み寄ると、深々と頭を下げた。
「お待たせいたしました」

そして、沢と白瀬に向き直り、静かにしかしはっきりと告げた。
「ご紹介が遅れました。こちらは、本日付けで当社の新しい社長に就任される、黒木健二様です」

その瞬間、沢の顔から笑みが音もなく剥がれ落ちた。
白瀬の手からタッチペンが、カタンと床へ落ちた。
2人とも声を失ったまま、たった今まで「無能なおっさん」と嘲弄っていた人物を、ただ呆然と見上げているばかりだった。
「え? いや、待ってくれ。次期社長? そんな報告は私は聞いて……」
沢の声が裏返った。その額には、見る間に玉のような汗が浮かんでいた。
「どっきりか何かですか? 悪い冗談はよしてください」
「冗談で、こんなことを申し上げると思われますか?」
「だっておかしいでしょ。新社長がわざわざ中卒の応募者に化けて、面接を受けるなんて」
「ええ、常識ではありえません。だからこそ、社長はそれをなさったんです。人を学歴で切る現場を、肩書きの力で上から正すんじゃ意味がない。同じ目線で確かめたかったんだ」

白瀬は震える指で手元のタブレットを操作した。
そこに開かれたのは、社内でもごく限られたものしか知らない人事の内示だった。
その名を目にした瞬間、白瀬の顔がすっと青ざめていった。
「本当です、部長。新社長、黒木健二、間違いありません」
「そんなバカな」

その時、沢の頭に、たった今放った自分の言葉が生々しく蘇った。
学歴で人を選ぶ。価値のない中卒は切ればいい。
その全てを、次期社長によって目の前の男に聞かれていたのだ。
恐る恐る目を向けた部屋の隅で、録画ランプが静かにともっていた。
それは自分がクレーマー対策と言って得意げに取り付けた、あのカメラだった。

「沢さん。今あなたが言ったことは、全部そこにあるカメラが撮ってる。あんたが自分の手で付けたものだ。皮肉なものですね」
「け、消してください。消してください! あれは、その、ただの言葉のあやで……」
「言葉のあや? あんたは現場で、何人の人間にその暴言を浴びせてきたんだ」

静かに、しかし言い逃れを許さぬ声で、健二は続けた。
「人事部長、沢高幸。評価担当、白瀬香。両名を、本日付けで職務停止とする」
「そ、そんな権限が……」
「権限? 何をおっしゃる。それが社長の権限ですよ。あんたがついさっきまで好き勝手に振る舞っていた権限だ」

言葉を失う沢を残し、健二は平井へ目をやった。
「平井、今別室で雇い止めの通告を受けている社員がいる。すぐに止めてくれ」
「はい。もう手配は済ませております」

ほどなくして、ゆいが面接室へ通された。
不安げに部屋へ入ったゆいは、そこに立つ男を見て思わず息を飲んだ。
「失礼します。新社長がお越しと聞きまして……」
「柏木さん、先日ぶりだね」
「あなたは、あの時の黒木さん……?」
「ああ、紹介が遅れた。私が新社長の黒木だ。それで早速だが、あなたの雇い止めは、撤回だ。もう何も心配いらない。あんたは何ひとつ間違っていなかった。間違っていたのは、こっちの方だ。5年もよく踏ん張ってくれた。こんな目に合わせて、すまなかった」

その一言に、ゆいの目には見るみる涙が溢れていった。
ずっとひとりきりで耐えてきた。
正しいことをしても、誰ひとり助けてはくれなかった。
それなのに、今、たったひとりだけはっきりと「間違っていない」と言ってくれる人がいる。
「ありがとうございます。でも、急にそんなこと言われて……私、夢じゃないですよね?」
「夢じゃない。あんたの5年は、ちゃんと再評価される」
「はい。はい」
ゆいは何度も何度も頷いた。

それから健二は、青ざめたまま膝を震わせる沢へ、ゆっくりと向き直った。
「沢さん。あんた、口癖のように言ってたそうだな。「使えない人間に椅子はない」と。いい言葉だ。だから、そっくりお返ししますよ。会社の信用を守った人間を人前で踏みつけ、評価を改ざんして人を数字のように切り捨てる。あんたにこそ、この会社に座る椅子はない。使えない人間に椅子はない。あんたの椅子のことですよ、沢さん」
「待ってください。私は会社のために……」
「効率の名の元に人を踏みつけにした。それはただの、弱いいじめだ」

かつて何十人もの人間をその椅子から引きずり下ろしてきた男が、今まさに自分の椅子を失おうとしていた。
沢はその場にへなへなと膝をついた。
そこへ、元社長の辻本が数人の役員を従えて現れた。
「黒木さん。お待たせしました。事情は平井から全て聞いています。私からも改めて、この件、会社として徹底的に調査いたします」
「辻本社長。長い間、現場には辛い思いをさせました」
「いえ、口を出せず、見て見ぬふりをしてきたのは私の責任です。あとはおっしゃる通りに」

健二の乗り入れを最初から承認していた辻本は、迷うことなく健二の隣に並んだ。
風向きは、完全に変わっていた。

数日後、結びフーズの役員会議室では、長い机を挟んで沢と白瀬が蒼ざめた顔で座らされていた。
その前で、社内調査の結果がひとつずつ明らかにされていった。
机の上に並べられた、復元された評価記録のログとカメラの録音。それらが2人の所行を、ひとつ残らず映し出していた。
平井が淡々と事実を読み上げていく。
「過去2年間で、現場社員の評価が書き換えられた件数、17件。いずれも学歴を理由とした不当な引き下げです」
「契約を打ち切られた方が9名。全て、沢部長と白瀬さんの手によるものと判明しました」
「9名のうち、現場の評価はどうだったんだ?」
「7名が、現場で最上位の評価を受けていた人たちです。それを、人事部の判断だけで覆していました」
「そんなことがまかり通っていたのか」
「人事の権限がひとりに集中していたためです。誰も口を出せませんでした。その中には、20年現場を支えてきた職人もいます。ある日突然、数字だけを理由に職を追われました」
「20年勤めた人間を、紙の上の数字だけで切ったのか」
「数字が全てです。情を挟んでいては、経営は成り立ちません」
「その数字を、あなたが都合よく書き換えた。それも全て、ログに残っています」
「9人だけじゃないんだろう。書類で弾かれたものまで入れれば、もっといるはずだ」
「はい。この2年だけで、10人を超えます。いずれも学歴だけを理由に職場から消されました」

室内に、低いどよめきが広がった。
言い逃れの言葉を探す沢と、唇を噛んで青ざめる白瀬。
だが、もはや互いに罪をなすりつけ合う気力さえ、2人には残っていなかった。
誰がいつどの数字を書き換えたのか。その指紋のように消せない痕跡の前では、どんな言い訳もただ虚しく響くだけである。
沢と白瀬は、同じ証拠の上に並んで沈んでいくしかなかった。

「こんな……こんなことって……」
もうこれ以上、反論する言葉も持たなかった。
それまで壁際でじっと聞いていたゆいが、ふいに一歩前へ出て、まっすぐに沢を見据えた。
「あの、私からも一言、お伝えさせてください。あなたは、今読み上げられたその9人のことを、覚えていますか?」

沢はゆいの顔をぼんやりと見て、そして、もはや諦めたのか、投げやりに吐き捨てた。
「はあ。いちいち覚えてられるか。学歴のない人間なんて、掃いて捨てるほどいるんだ」

その一言に、部屋の空気が凍りついた。
切り捨てられた者にとっては、それぞれが人生を左右された出来事である。
それをこの男は、誰ひとりとして覚えてすらいない。
同じことを数えきれないほど、何の痛みもなく繰り返してきたからだ。
役員たちも思わず目を伏せた。
「これが、長年人事を任せてきた男の本音か」
誰かの低い声が漏れた。

だが、ゆいはもう俯かなかった。
「あなたは人を、紙の上の経歴でしか見なかった。でも、あなたが切り捨てたその人たちは、現場で誰かと約束を交わし、それを守って働いてきた人たちです。私も同じです。現場で何年、約束を守り通してきたか。そんなことは、どの履歴書にも書いていません。履歴書よりずっと確かなものを持っていた人たちです。それだけは、どうか忘れないでください」

沢は何も言い返せなかった。
ただ、初めて自分が踏みつけてきたものの重さに気づいたように、その顔は虚ろになっていった。
「よく言った」
健二はゆいの言葉に、静かに頷いた。

やがてこの一件は、社内だけでは収まらなかった。
採用差別と評価の組織的な改ざん。その事実が外部に漏れて報道されると、取引先や株主からも厳しい声が上がり始めた。
長年の取引先までもが次々と契約の見直しを口にし、「人を大切にしない会社の製品は使えない」と残して離れていった。
効率だけを追って人を切り捨てた。その結果がこれだ。
会社を支えていたのは、数字じゃない、人だったんだ。
沢と白瀬が目指そうとした効率は、皮肉にも会社の信用そのものを、内側から静かに蝕んでいたのである。

全てが明らかになったその席でのことだった。
「黒木さん、ひとつ伺いたい。あなたはこうなることを分かっていたのですか?」
健二はようやく、静かに口を開いた。
「どうして俺がここまでするのか? その理由を話しておきましょう」
その声に滲んでいたのは、怒りではなく、もっと深く静かな何かだった。
「35年前、俺は家を飛び出して、行き場をなくしていた。金もない、学歴もない、頼れる相手もいない。腹を空かせて雨の中、ある食堂の軒先で佇んでいた。そんなどこの誰とも知れない小僧に、一杯の飯を食わせて、「働くか」と言ってくれた人がいた。その人は、俺の学歴も何ひとつ聞かなかった。ただ、俺をひとりの人間として受け止めてくれた。そして言ったんです。「人の値打ちは履歴書には書いてねえ」と」

その言葉に、ゆいがはっと顔を上げた。
「それ、おじいちゃんがいつも言っていました」
「俺はその一言に救われた。今の俺があるのも、何もかもあの人のおかげなんです。だから決めてるんですよ。人を経歴で値踏みして平気で踏みつける会社とは付き合わない。たとえ、自分の手で立て直す会社でもだ」
膝をついたまま、沢はただ俯いていた。

その後の2人の末路は、惨めなものだった。
沢は懲戒解雇となり、改ざんによる損害の賠償まで求められた。
再就職を試みても、前職での不祥事が業界中に知れ渡り、30社を超える企業から書類で落とされ続けた。
「使えない人間に椅子はない」。かつて自分が放ったその言葉が、そっくりそのまま自分自身に帰ってきたのである。
そうして最後に残ったのは、かつて誰より見下していた、その日暮らしの仕事だけだった。
「俺の椅子は、一体どこにあるんだ?」
誰もいない部屋で、男はひとり力なく呟いた。

白瀬もまた同じだった。
諭旨退職となり、目前だった昇格も全て白紙に戻された。
「データが最適解を出す」。その信条だった言葉の通り、データは誰よりも先に白瀬自身を切り捨てたのである。
力なく笑うその顔が、誰よりも虚しく見えた。

全てが終わりを迎えた部屋で、健二はゆいとふたりきりで向かい合っていた。
「黒木さん。あの、どうして私のこと、あんなにまで庇ってくださったんですか?」
しばらく黙っていた健二は、やがてゆっくりと口を開いた。
「さっき話した、俺を拾ってくれた食堂の主人。その人の名前を、まだ言ってなかったな。柏木正一さん。あんたのおじいさんだよ」

その瞬間、ゆいの時間が止まった。
「え? 祖父を……おじいちゃんを知ってるんですか?」
「知ってるなんてもんじゃない。この命を救ってもらったんだ。35年前、飢えてた俺を、何も聞かずに雇ってくれたのは、あんたのおじいさんだ。俺はあの店で、飯の炊き方から人との向き合い方まで、何もかも教わった。正一さんは、俺の恩人なんだよ」
信じられないというように、ゆいは首を振った。
「でも、祖父はそんな話、一度も……」

「言わなかっただろうな。あの人は、人に何かしてやっても、それを決して自慢しない人だった」
「はい。そうです。そういう人でした」

だが、健二の口から語られる店のことは、その一つ一つが紛れもなく本物だった。
すり減ったまな板。油で滲んだ品書き。そして、おかずを買いに来た近所の子供に、こっそりコロッケをひとつ多く持たせていたこと。
「内緒だぞって、笑いながらな」
それは幼いゆいが祖父の隣で毎日見ていた、あの光景そのものだった。
「知ってます。それ、全部私の知ってるおじいちゃんです」

「俺はその恩を返せないまま、正一さんを亡くした。ずっとそれが心残りでならなかった。だから、あんたを見過ごせなかったんだ。あんたの中に、正一さんが確かに生きていたから」
そう語る健二の声が、わずかに震えた。
叩き上げの経営者。その目尻には、いつしか光るものが滲んでいた。
「おじいちゃん……」
幼い日に見送ったはずの祖父が、こんな形でもう一度自分のそばへ帰ってきてくれた気がした。

「縁なんだろうな。きっと正一さんが繋いでくれたんだ」
「ありがとうございます。黒木さん」
「あんたは立派に正一さんの意志を継いでる。だからもう俯くな。胸を張っていい。柏木さん。いや、ゆいさん。あんたを、契約じゃなく、ひとり前の職人として迎えたい」
「はい。はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
「これでやっと、正一さんに少しは顔向けできる」

ゆいは涙を拭おうともせず、ただ深く深く頭を下げた。

それから数日後、結びフーズは大きく生まれ変わっていた。
学歴だけで人を振り分ける仕組みは、全て廃止された。
人をその働きと人柄で見る。評価の過程も全て職場に開かれ、誰の目にも分かるようになった。
健二のもとで、会社は当たり前のことをひとつずつ取り戻していったのである。
やがて現場には活気が戻った。辞めていく人が減り、いつの間にか笑い声が戻ってきた。
それはゆいが雇い止めに怯えながらも、何より守りたかったものだった。

ゆいは正社員として採用され、今では現場のリーダーを任されている。
舞子も正社員になり、2人は変わらず肩を並べて働いていた。
「ねえ、ゆいちゃん、なんだか職場が別の場所みたいだね」
「うん。前は毎朝、胃が痛かったのにね」
「本当、あの新社長が来てくれてよかった」

その帰り道、健二は隣を歩くゆいに、ふとこんなことを言った。
「「使えない人間に椅子はない」。そう言ってた男がいたな。でもな、ゆいさん。人の値打ちは、座ってる椅子で決まるもんじゃない。自分の足でどこに立つか。それで決まるんだ」
そして、健二はゆいに静かに告げた。
「人の値打ちは、履歴書には書いてねえ。正一さんが言ったことは、本当だ。今度は、俺があんたに渡すよ」

ゆいはその言葉を両手で受け取るように、そっと胸に抱いた。
「ありがとうございます。私、これからも誠実に頑張ります」
見上げた空は、どこまでもよく晴れていた。

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