夕方、いつものように帰ってきた夫・友彦が開口一番、こう言った。
「みさえ、俺たち別れよう。俺さ、運命の人に出会ったんだよ」
そして義母のり子がさらに追い討ちをかける。
「やっぱり芋じゃダメだったのね。友彦がついに目を覚ましたってわけ。あんた孫も埋めないし役立たずなんだから、さっさと出ていきなさいよ」
仕事をするのは嫌いじゃなかった。仕事をすれば結果が伴い、それが評価につながる。私はそこにやりがいを感じていたし、できれば仕事を続けたかった。しかし結婚相手の友彦の強い願いで専業主婦になることを選択した。意地を張って仕事を続ければ、それがやがて夫婦の亀裂になるからだ。
結婚してからしばらくは、私もそれなりに充実していた。友彦が望んだ専業主婦として、家事を完璧にこなすことを目標に毎日を過ごしていた。料理の腕を磨いては新しいレシピに挑戦し、掃除だって抜かりなくこなしていた。最初はこれが新しい私の生きがいだと思い込もうとしていた。
でも日が経つにつれて、その達成感は薄れていった。どんなに家をピカピカにしても、誰も褒めてくれるわけじゃない。友彦も「ありがとう」と言ってくれるけど、それが心からなのかどうかも分からなくなってきた。
一方で義母のり子は、まるで居候のように私を訪ねてくる。結婚してからすぐに、友彦と私が住むこのマンションの近所に引っ越してきたのは、息子に近づくためなのだろうか。毎日のように家に上がり込み、私のすることなすことに小言をつけてくる。
「孫はまだなの? もう結婚して何年も経つのに、あんた一体何してるの?」
彼女が来るたびに、この言葉が私を攻め立てる。最初の頃は心の中で「まだそんなに時間は経ってないんだから」と思っていたけれど、次第にその言葉が重くのしかかるようになった。
私だって子供が欲しくないわけじゃない。でもそんなことをのり子さんに説明しても無駄だ。彼女の頭の中は「孫を生むことが嫁の勤め」っていう固定概念で固まっているから、何を言っても聞く耳なんて持たない。そもそも友彦が私に専業主婦を強く希望したのは、この義母の差し金だったのではと思っている。
ある日、義母は私が作った料理を見て、わざとらしくため息をついた。
「まあ、あんたって本当センスがないわね。友彦もかわいそうに。もっとちゃんとしたもの作れないの?」
それを聞いた瞬間、私は心の中で叫びたくなった。でも表面上は笑顔を作ってこう言った。
「はい。もっと頑張りますね」
正直、毎日がこんな調子だ。料理、掃除、家事、そしてのり子さんからの攻撃。それでも私は「仕方ない。こんなのはどこの家庭でもよくあること」と思い込むことでなんとかやり過ごしてきた。
ただ、どうしても我慢できなかったのは、私が専業主婦になったのをいいことに、のり子さんが私を不妊扱いしてくることだ。彼女は勝手に私が子供を埋めないと思い込んで、友彦に「もっとまともな女を見つけた方がいいんじゃない?」なんてことまで言い出していたらしい。
でも私は黙っているわけじゃなかった。ブライダルチェックだって受けたし、私には何の問題もないっていうことはちゃんと知っている。問題があるとすれば、それは友彦の方かもしれない。
そんなわけで鬱憤の溜まった最近の私は、密かに在宅ワークを始めている。専業主婦だけじゃ満たされない、私の心を埋めるために。友彦には内緒で。今の私にはこれが唯一の救いだ。
友彦の様子がおかしいと感じたのは、ほんの小さなことからだった。最近帰りが遅くなり、週末になると外出が増えた。仕事が忙しいのかなと最初は思った。でもだんだんと違和感が募り始めた。私との会話が少なくなり、私が話しかけてもなんだか上の空。何より気になったのは、彼が頻繁にスマホを眺めてはニヤニヤしていることだった。
何かおかしい。直感的にそう思った私は、ある夜決意を固めた。
彼がベッドで眠りに落ちたのを確認してから、私はそっと起き上がり、彼のスマホに手を伸ばした。もちろん彼のスマホにはロックがかかっている。でも今のスマホには指紋認証がある。私は彼の眠る指をそっと持ち上げ、スマホに当てた。何度か試みた末、ようやくロックが解除された。
画面にはいくつかの未読メッセージが表示されていた。その中でも特に目に止まったのは「まゆ」という名前だった。あの会社に最近入った派遣社員。私は胸騒ぎを感じながらメッセージを開いた。
画面いっぱいに、甘ったるい言葉が並んでいた。
「今日も楽しかったね。次はもっと長く一緒にいたいな。早く会いたい」
それだけじゃない。彼女は自分の写真まで送り付けている。私たちの結婚生活には、こんな言葉はなかった。画面をスクロールするたびに、私の中の怒りが沸騰していくのを感じた。友彦の不倫疑惑は、もう疑いの余地がなかった。
「友彦が望んだから仕事をやめて専業主婦になったのに、ひどい」
私は呟いていた。すると眠りが浅かったのか、友彦がもぞりと寝返りを打った。その瞬間、私は冷静さを取り戻す。怒りに任せて友彦を叩き起こし攻め立てるのは簡単だ。でもそんなことをしても、彼は言い逃れするだろうし、状況はますますこじれる。ここは冷静に証拠を抑えなければ。
翌日、私は探偵事務所へ向かった。浮気調査を依頼するためだ。証拠がなければ、私が泣き寝入りするだけで終わってしまう。だから確実なものを手に入れる必要があった。探偵事務所のスタッフはすぐに調査を始めてくれ、私は結果を待つことにした。
結果はほどなくして出た。やはり友彦は渡辺まゆと浮気をしていた。彼らはまるで10代のカップルのように、街中で堂々とデートを楽しんでいたらしい。彼の浮気の疑惑は真っ黒だ。がっちりと証拠が揃い、私はすでに行動を決めていた。
数日後、友彦は何食わぬ顔で帰ってきた。そして開口一番、こう言った。
「みさえ、俺たち別れよう」
その一言が私の中で時間を止めた。驚きはしなかったけど、そのあまりに軽い言葉に呆れるしかなかった。
友彦は私の顔を見つめながら続けて話した。
「実はさ、運命の人に出会ったんだよ。まゆって言うんだけど、彼女は本当に特別なんだ。こんな気持ち初めてでさ。だからみさえ、悪いけど俺たちもう終わりにしよう」
運命の人。この馬鹿げた言葉に、私は心の中で嘲笑した。浮気相手の女が特別? あのスマホに並んでいた甘ったるい言葉を思い出しながら、私は冷静を装って答えた。
「へえ、そうなの。随分とロマンチックな話ね。でも予言してあげる。きっと友彦はこの先、後悔することになるわよ」
友彦の表情が一瞬固まる。その表情を見て、私は内心ほくそ笑んだ。そう、私はすでにまゆについても調べている。彼女には他に自称ミュージシャンの彼氏がいるということも、調査結果で明らかになっていた。そんなまゆと結婚したら、どんなことになるのかなんて簡単に想像がつくのだ。だけど今はまだ、そのことを明かすタイミングじゃない。
その時、玄関の鍵がカチリと回り、義母のり子が入ってきた。もちろん彼女は鍵を持っているから、勝手に入ってくるのはいつものことだ。友彦から聞いていたのか、いきなり話し始める。
「やっぱり芋じゃダメだったのね。友彦がついに目を覚ましたってわけ。あんた孫も埋めないし役立たずなんだから、さっさと出ていきなさいよ」
義母は得意満面の表情で言い放った。まるで私の不幸を待ち望んでいたかのように。
本当は私だって、さっさと離婚してしまいたい。私をいじめてくる義母も、味方をしてくれない夫もお払い箱なのだ。しかし相手の都合で離婚してやるのも癪に触る。人生において駆け引きは重要なのだ。
「でも不貞行為をした方からの離婚請求は、原則認められないって知っていますか?」
私はお孫フィーバーで頭の中がお花畑になっている義母に、冷水を浴びせるような言葉を投げかけた。
すると義母は、よっぽど孫が欲しいのか、とんでもないことを口走る。
「友彦にやっと子供ができるのよ。私だって孫を抱けるの。お金ならいくらでもあげるから、さっさと離婚してちょうだい」
私は願ってもない申し出に、思わず笑みがこぼれる。
「わかりました。お母さんがそこまでおっしゃるなら、私は友彦さんと離婚します。でもお約束ですから、慰謝料は相場以上のものをいただきます」
「結局はお金なのね。いいわ。この金額なら文句はないでしょう。さっさと離婚届けに署名捺印しなさい」
「それではお金が振り込まれたのを確認しましたら、署名捺印の入った離婚届けをお渡しいたしますね」
そう、最後まで気は抜かない。義母の言うことなんて信用ならないのだから。私は荷物をまとめて家を後にした。私はもう次の手を考えている。友彦の浮気を突きつける準備も、まゆの裏の顔を暴く準備も、全て揃っている。彼らが勝ち誇っている今こそ、私の冷静な反撃の始まりだ。
義母から相場以上のお金が振り込まれ、私と友彦の離婚は思いのほかあっさりと決まった。元々感情が冷め切っていたのはお互い様だから、別れること自体に大きな抵抗はなかった。ただ友彦にとって予想外だったのは、私が冷静にこの離婚を受け入れたことだろう。彼はきっと私が泣いてすがりつくと思っていたに違いない。でも私はそんなことは一切しなかった。
私はこの離婚に全く未練を感じることはなかった。それどころか、早く新しい生活を始めたい気持ちでいっぱいだった。
友彦とまゆはすぐに再婚した。まるで運命の恋を歌い上げるかのように、2人は世間にその再婚をアピールしていた。義母のり子も大喜びで、孫ができると浮かれていた。私に対してあれだけ不妊と罵倒してきた彼女が、まゆが妊娠したことで勝ち誇っているのが手に取るように分かった。でも、私はそれを冷静に見つめ、タイミングを見計らっていたのだ。
まゆが友彦と再婚してからすぐに、私は動き出した。探偵が集めた不倫の証拠を元に、まゆに不倫の慰謝料を請求したのだ。もちろん彼女が妊娠していることは知っていたけれど、それでも法的には彼女の責任を問うことができる。
訴状が届いた時、まゆは大慌てだっただろう。彼女のそばにいた義母のり子も、私の行動に驚きを隠せなかった。それからというもの、怒鳴り散らす日々が始まった。
「話がある」
電話の攻撃にうんざりしていた私は、義母に会うことにした。ふすまで席が区切られ、プライベートな話もできる和風ファミレスを指定した。
先に来ていた義母は、私を見つけるなり声を上げる。
「みさえさん、これはどういうこと? あんた、孫が生まれるっていうのにこんなことして」
義母が怒り狂った様子で、まゆに送った慰謝料請求書を握りしめていた。彼女は自分の息子とまゆが理想的な家庭を築けると思い込んでいたのだろう。
でも私は冷静に言った。
「お母さん、まずまゆさんのお腹の子供が本当に友彦さんの子かどうか、確認した方がいいですよ」
義母が息を飲むのが分かった。
「どういうこと?」
のり子の声がかすかに震えていた。
「友彦さんが不妊の原因だったんです。ブライダルチェックの結果、彼には子供ができにくいという結果が出ていたんです。でもそれだけじゃありません。まゆさんには他に付き合っている男性がいるんです。自称ミュージシャンの彼氏。彼女が本当に友彦さんの子供を妊娠しているかどうか、DNA鑑定をお勧めします」
私は、まゆが派手目の男と腕を組む写真をテーブルに広げた。以前友彦の浮気調査の際に頼んでおいたのだ。
義母はその写真を見て、何も言えずに俯いている。私たちの間にしばらくの沈黙が続いた。私はその沈黙の中で、義母がどれだけショックを受けているかを感じ取っていた。そして義母は、無言でレストランから出ていくのだった。
DNA検査の結果がすぐに出た。なぜか私もその場に呼ばれ、立ち合うことになった。本来なら断るべきなのだろうが、好奇心には勝てずに参加してしまっている。
結果、まゆのお腹にいる子供は友彦の子供ではなかった。自称ミュージシャンの彼氏との子供だったのだ。
まゆの妊娠が友彦の子ではないと発覚した瞬間、義実家は完全に崩壊した。友彦はショックのあまり、顔を真っ青にしていた。あの自信に満ちた「運命の人」という言葉が、今では恥ずかしさの象徴になっているのだろう。彼は自分の愚かさを認めざるを得なかった。自分が手に入れたはずの新しい家庭が、まるで砂の城のように崩れてしまったのだから。
まゆも大騒ぎしていた。自分の計画が全て露呈し、友彦にも義母のり子にも見限られ、罵倒されていた。自称ミュージシャンの彼氏も、彼女の妊娠に対して責任を取るつもりはなかったらしい。まゆは今や1人ぼっち。彼女の言い訳や泣き言は、もう誰の耳にも届かなかった。あまりにもやかましいので、まゆの両親を呼び出し、お引き取り願った。
義母のり子はと言うと、これまでの態度がまるで嘘のように絶望に沈んでいた。あれほど孫が欲しい、孫がいないなんてありえないと叫んでいた彼女は、まゆの裏切りに打ちのめされ、息子の失敗に直面していた。彼女の視線が助けを求めるように何度も私をちらりと捉えるけれど、私はもう何も言わなかった。
これで全部終わりね。私は心の中でそう思いながら、義母や友彦、そしてまゆの崩壊する姿を見つめていた。あれだけ私を見下し、馬鹿にしてきた2人が、自分たちの愚かさに飲まれていくのはどこか痛快だった。
数日後、まゆの実家から不倫の慰謝料が振り込まれ、私の復讐は終わりを告げた。
私はすでに新しい生活を始めていた。離婚の際に受け取った慰謝料はかなりの額だった。そしてそのお金を元手にして始めた在宅ワークや投資は、順調に利益を生み出していた。株式投資が成功し、今ではちょっとした贅沢を楽しめるようになった。
私はもう過去のことに縛られるつもりはなかった。友彦との結婚生活や義母の嫌がらせ、まゆの裏切り、全てはもう遠い過去のこと。今、私は自分のために生きている。そしてそれが、とても幸せだ。
ある日、私は自宅のバルコニーでゆっくりと紅茶を楽しんでいた。静かな風が吹き抜け、心地よい時間が流れていく。ふとスマホが震えた。見ると友彦からのメッセージだった。
「みさえ、悪かった。本当に俺がバカだった。もう一度やり直せないか」
そのメッセージを見て、私は思わず笑ってしまった。今更、何を言っているのだろう? 友彦は自分が全てを失ってから、私の存在の大切さに気づいたのかもしれない。でも、もう遅い。私はスマホをテーブルに置き、紅茶を一口飲んだ。
再びスマホが鳴った。今度は義母のり子からだろうか。結局、私に助けを求めてくるのは分かっていた。でも私はその電話には出なかった。もう彼らに関わる必要なんてない。今の私には、新しい未来が広がっている。
私は空を見上げた。雲一つない青空が広がっている。その空を見ながら、私は心の中で呟いた。
「これで良かったんだ。私は自由だし、幸せだ」
友彦もまゆも、そして義母も、彼らの運命はもう私の知ったことではない。私は彼らの愚かさから解放され、今、自分自身の人生をしっかりと歩んでいる。何も恐れることはない。全てが逆転し、今こそ私が幸せを手に入れたのだから。



