平日の昼下がり、銀行のロビーに若い行員の声が響き渡った。老夫婦の襟首をつまみ上げるようにして立たせ、彼らを席から追い出しながら、その男は言った。
「次の商談まで時間がないんですよ。聞こえませんでしたか?介護施設はあちらですよ」
年老いた女性の頬を、涙が一筋伝った。ただ生まれたばかりの孫のために口座を一つ作りたい。それだけのささやかな願いが、邪魔な厄介者だと面と向かって撥ね付けられたのだ。
「いやあ、社長、お待ちしておりました。さあどうぞ、こちらへ」
老夫妻を脇へと押しやるなり、行員は手のひらを返したように、待っていた上客を満面の笑顔で迎え入れた。彼らは自分たちが追い出したあの老人が何者なのか、まったく知らない。
そして翌朝、銀行に衝撃が走る。
「5000億円、解約します」
たった一人の老人の一言で、銀行の世界は音を立てて崩れ始めた。
—
朝の光が、古い一軒家の縁側に差し込んでいた。高沢仁は78歳。すり減ったスニーカーに安物の眼鏡。近所では散歩好きの好々爺として知られていて、誰もこの老人の日常を気に留めたりはしない。
台所から妻の静が湯飲みを二つ運んできた。
「あなた、お茶が入りましたよ」
「ああ、ありがとう」
二人は並んで腰を下ろす。連れ添って50余年。肩の触れる距離が、そのまま二人の歩んできた道だった。仁の手元には古い通帳が一冊ある。紙は擦り切れ、残高はたったの10円。暮らしが落ち着いた後、ほとんど使うことはなかったが、なぜか解約だけはせず、10円だけを始まりの証として残してきた。
「宮さんが言ってから、もう15年か。早いものだなあ」
「まあ、またその話ですか」
40年前、担保のない貧乏な医者に、どの銀行も金を貸そうとはしなかった。町の片隅に小さな診療所を開こうとした若き仁に、ただ一人手を差し伸べたのが、当時この町の銀行にいた宮という支店長だった。
「数字では測れないものがありましてね。高沢さん、あなたの目にはそれがある。私はそれを見込んだんですよ」
この通帳は、宮が開いてくれた最初の口座のもの。その恩を忘れないため、夫婦は今日まで残してきた。
「人の値打ちは、通帳の数字じゃ測れない。宮さんが私に教えてくれたことだ」
「ええ、よく存じておりますよ」
静が湯飲みを両手で包む。その手がわずかに震えているのに、仁は気づいていた。
「ねえ、あなた。私、近頃耳が遠くて迷惑をかけることが多くなってきたでしょう。だんだん厄介になっていくみたいで、それが怖いんですよ」
仁は何も言わずに、妻の背中へ手を添えた。
「大丈夫。お前は厄介なんかじゃないよ」
そこへ電話が鳴った。受話器を取った静の顔が、ぱっと明るくなる。
「まあ、本当に生まれたの?元気な子?そう。ああ、よかった。良かったね」
初めての曾孫だった。電話を置いた静の目尻に、涙がうっすらと光る。
「あなた、生まれたんですって。私たちの曾孫よ」
「おお、そうか。とうとう私もひいじいさんか」
「ねえ、お願いがあるの。あの子の口座を作ってやりたいんです。あの宮さんの銀行で」
仁は静の顔を見つめた。彼女の目は、40年前と同じように輝いていた。
「あの銀行でかい?」
「ええ、あなたと私の始まりの場所でしょう。あの子の初めの一歩も、あの場所からなんて、縁起がいいじゃありませんか?」
仁は少し考えて、頷いた。
「そうだな。よし、行こうか。二人で」
—
その日の午後、夫婦は揃ってその銀行へ向かった。「絆銀行」という名を看板に掲げる、町の銀行だ。自動ドアをくぐると、冷たい空気が二人を包んだ。順番を待つ人の列が、入口近くまで伸びている。
受付では、一人の年老いた男性が若い行員に何か言われ、立ち尽くしていた。
「番号札をお取りになってからでいいですか?」
「はい、はい。あちらです。あちら」
言葉は丁寧でも、目は客をまるで見ていなかった。そこに、若い女性行員が小走りで寄ってきた。名札には「桜井」とある。
「ご案内が遅れて申し訳ありません。番号順にお呼びしますので」
桜井はただ、目の前の客にまっすぐ頭を下げる。当たり前のはずのそれが、この銀行ではひどく珍しい光景だった。
番号札を握り、夫婦は長椅子に腰を下ろす。仁は胸ポケットの10円の通帳に指を触れた。40年前と同じ、始まりの場所。だが、この銀行はあの頃とは何か違うように感じた。
掲示板に二人の番号が灯った。3番窓口。仁は静の手を取り、立ち上がる。
窓口に座っていたのは、先ほどロビーで老人をあしらっていたあの行員だった。画面に目を落としたまま、こちらを見ようともしない。デスクの端には、予定表に赤ペンで「14時 ご来店 重要案件」と書かれていた。
「お世話になります。曾孫の口座を作りたいのですが」
「ああ、はい。新規の口座ですね」
声に覇気がない。行員はちらりと壁の時計を見上げ、それからようやく顔を上げ、二人の恰好を舐めるように見た。払いざらしの綿シャツ、古びた眼鏡。その目がわずかに細くなる。
(ああ、よりによって今日に限ってなあ。ひでえな)
心の声は口に出さないが、その小さなため息が全てを語っていた。大事な商談を控えた今日、よりによって手間のかかりそうな客が来た。その本音が、声の温度に滲んでいる。
静は緊張した面持ちで、膝の上の鞄を抱えている。それでも曾孫のことを思うと、自然と言葉が溢れた。
「この銀行さんには、本当にお世話になったんですよ。以前の支店長さんの宮さん。あの人がいなかったら、今のうちはなかったの」
「はあ、そうなんですか。お孫さん、立派に育たれて良かったですね」
違う。静が言っているのは、孫のことではない。だが、行員は年寄りの昔話として軽く受け流しただけだ。
「新規のお手続きですよね。一応、今お持ちの口座も確認しますんで」
早く済ませてしまいたい。その一心で行員がキーボードを叩くと、画面に二人の古い口座の情報が表示された。残高の欄を見た瞬間、彼の表情が色を変える。
「残高…10円」
つい声が漏れた。隣の席にも届く大きさだった。
「10円って…。10円の客に新規口座か。勘弁してくれよ。こっちはこれから何億って商談だってのに」
そこへ奥から一人の男が近づいてきた。窓口主任の久保である。行員の上司に当たるが、人を見る目は部下とそっくり同じだった。
「どうした?」
「いえ、その、こちらのお客様のご残高が…」
久保は画面を覗き込むと、ほんの一瞬、表情を緩めた。それからわざとらしく咳払いをする。
「おい、声が大きいぞ。残高なんて、人それぞれだろうがなあ」
なだめる言葉だが、語尾の笑いがそれを台無しにしていた。止めるふりで、その実、部下に調子を合わせている。二人はちらりと目を見交わした。
仁は何も言わなかった。黙って、二人のやり取りを見ている。静は、自分たちの通帳が笑われていることに気づき、小さく肩をすぼめた。
「あの、何か、いけませんでしたか?」
「いえいえ、何もねえですよ。ただちょっと…」
何も言ってはいない。だが、その「ちょっと」に、全ての見下しが詰まっていた。入口近くまで伸びた順番待ちの列が、じりじりと長くなっていく。居心地の悪い空気が窓口の周りに薄く広がった。
40年前、同じこの場所で、宮は数字の大きさなど一度も口にしなかった。
(変わってしまったんだな、本当に)
行員は新規口座の用紙を一枚、カウンターに滑らせた。
「じゃあ、ここ書いてください。お名前、ご住所、生年月日。あと、ひ孫さんの名前も」
言葉を投げるような早口に、静は戸惑いながらペンを握る。だが、言葉の半分がうまく聞き取れない。
「ごめんなさいね。あの、ひ孫の名前は、どこに書けば…」
「だから、そこです。そこ。聞こえてます?」
「え?聞こえてますか?」
「はい」
わざと区切る。その口ぶりに、隣の久保がふっと吹き出しかけた。
(耳が遠いのか、ボケてんのか、参ったなあ。しかも令和の時代に、ひ孫の口座とかよ)
書類の記入は、なかなか進まない。静は一文字ずつ確かめるように書いていく。その間にも窓口の列はますます伸び、待たされた客のため息があちこちで漏れ始めた。列と時計を見比べた久保が、行員のそばで声を落とした。
「窓口が詰まってるぞ。あのお客さん、商談スペースにご案内しろ。パネルで仕切ったとこ。今は開いてるだろう。さっさとどかせ」
行員は渋々、二人に向き直った。
「お客様、窓口が込み合っておりますので、あちらの席で続きをどうぞ」
促されるまま、二人はロビーの一角へ移された。大きめのソファーを低いパネルで囲っただけの、仮設の仕切りスペースだ。そこに座らせ、行員は書類の続きを差し出した。だが、場所が変わっても、静のペンはやはりゆっくりとしか進まない。
それを見かねて、一人の行員が早足で寄ってきた。
「川瀬さん、あの、私が変わります。お客様のご記入、お手伝いさせていただければ」
声を上げたのは、先ほどの桜井だった。だが、川瀬は顔も上げず、ぴしゃりと撥ね付ける。
「いいですって。今更、桜井さんに変わってもらったら、一から引き継ぎでしょう。余計に時間かかるじゃないですか。ここは俺が済ませますんで」
早くこの席を開けたい。それが本音だった。間もなく商談客が来る。中途半端に手を離すより、自分で切り上げた方が早い。
「で、でも、お急ぎならなおさら、私が…」
そこへ久保が割って入る。声からすっと温度が消えた。
「桜井さん。新人が口出すとこじゃない。窓口に戻れ」
客の前であるのも構わず、久保は声を低く落として桜井を睨みつける。理不尽な圧を前に、桜井は唇を噛んで一歩引いた。
仁は、その一部始終を見ていた。たった一人、頭を下げてくれた若い行員が、正しいことをしようとしただけで踏みにじられる。奥の視点から、その光景を眺める男がいた。支店長の矢吹である。腕を組み、表情を一つ動かさない。部下の振る舞いも、客の困惑も見えているはずなのに、ふっと視線を外し、手元の書類に目を戻す。
(波風さえ立てなければいい)
その背中が、そう言っていた。
静の目に、涙が滲んだ。
「あなた…私、やっぱり邪魔だったのかしら?」
「お前は何も悪くないよ」
仁は妻の手の甲に、自分の手を重ねた。声はどこまでも穏やかだった。だが、その奥で、長く眠っていた何かが、音もなく目を覚まそうとしていた。
—
川瀬は落ち着かなかった。何度も腕時計に目をやり、入口を伺う。商談の時間はもう目の前まで迫っていた。
「ごめんなさいね。この字で合っているかしら」
そこへ、久保がパネルの向こうから急ぎ足で覗きに来る。
「おい、川瀬、まだ終わらないのか?そろそろ商談の時間だぞ」
「いや、それが、なかなか書き終わらなくて」
「もういい。切り上げろ。この席を開けるんだ」
川瀬は小さく舌打ちをして、二人に向き直った。
「お客様、大変恐れ入りますが、お時間が押しておりまして。続きはまた日を改めて…」
静はペンを持ったまま、顔を上げる。だが、その早口はやはりうまく届かない。
「あ、ごめんなさい。もう一度、言って…」
その時だった。自動ドアが開き、スーツ姿の一団が姿を見せた。約束よりいくらか早い、今日一番の商談客だ。川瀬の顔が、一瞬で焦りに歪む。
由々しきことに、この老夫婦が座っている席を通らなければ、肝心の商談客を通せない。もう、頭に血が登った川瀬は、取り繕うことすらしなかった。すっと立ち上がり、出口の方へはっきりと指を刺した。
「あちらです。残高10円のお客様が行かれるのは、銀行じゃありません。介護施設は、あちらですよ」
「え…今、なんと」
仁は耳を疑った。しかし、川瀬は両手を伸ばし、静の襟元をつまんで、ソファーから立たせにかかった。
「介護施設は、あちらですよ、と言ったんです」
老いた二人を脇へ追いやるなり、たった今までの態度が嘘のように、満面の笑顔になる。
「いやあ、社長!お待ちしておりました。さあどうぞ、こちらへ!」
もみ手をしながら客を迎える。相手が誰かで、ここまで手のひらを返す男だった。
「介護施設はあちら」
その一言は、静の心の急所をまっすぐに貫いた。世話をされる側になること、邪魔な厄介者になること。彼女が怯えてきた未来そのものを、見知らぬ若者が面と向かって言い放ったのだ。しかも、それは仕切りの内だけの声ではない。低いパネルが声を遮るはずもなく、張り上げた声はロビーの隅々まで響き渡った。
静の瞳から、涙が一筋こぼれ落ちた。
「静」
そこへ、奥から支店長の矢吹が歩いてきた。仁は一瞬、期待した。この男なら、止めてくれるのではないかと。
だが、矢吹は二人を一瞥しただけだった。
「恐れ入ります。ご新規の口座開設となりますと、ご本人確認やお手続きにお時間を頂戴いたします。ご覧の通り、本日は込み合っておりますので。改めてご予約の上、ご来店いただけますか?」
低く拒否のない声。最もらしい理屈の裏で、部下の振る舞いには一言も触れない。ただ、面倒を早く外へ出したい。その目がそう言っていた。
仁は声を荒げはしない。乱された妻の襟をそっと直してやり、震えるその手を両手で包み込んだ。
「よくわかりました。帰ろう、静」
二人が出口の方へ歩き出す。その背中に、もう誰の視線も向いていない。川瀬はとっくに、商談客の方へ向き直っていた。
客を席に通し、飲み物を取りに下がったところで、川瀬は久保のそばでほっと息を吐いた。
「ふう、間に合った。危ねえ。商談に穴を開けるとこでしたよ」
「ナイス判断だ。ああいうのはさっさとどかすに限る」
「ですよね。残高10円が商談スペース占領とか、ありえねえっすよ」
「違いない」
肩を揺らして笑い合う二人に、反省の色など欠片もない。たった今、自分たちが誰を泣かせたのか、もう頭の片隅にもなかった。
その笑い声を断ち切る声があった。
「…あんまりです」
新人の桜井が、こらえきれずに一歩前へ出ていた。その声は震えている。
「あのお二人が、何をしたって言うんですか?ただ、ひ孫さんの口座を作りたかっただけじゃないですか」
矢吹の目が、すっと桜井に向いた。その声は、怒鳴るよりもずっと冷たい。
「桜井さん。新人が、客の前で上の者に口を出すものじゃない」
「で、でも、今のは…」
「私に意見するのかね?」
「いえ…ただ…」
仁は、その様子をじっと見ていた。たった一人、声を上げてくれた若者が、ただ正しいことをしようとしただけで、追い詰められていく。仁の中で、長く眠っていたものが、とうとう完全に目を覚ました。
—
その日の夕方。支店長室。
「で、君は何が言いたかったのかな?さっきのあれは」
「お客様に、失礼な対応だと思ったんです」
矢吹は、桜井をじっと見下ろす。
「君の研修の評価はどうなってる?」
「ああ…正直、厳しいですね」
「協調性のところが、特にだそうだ」
「…そうみたいですね」
「そんなに辞めたいとは言ってないよ。ただね、君みたいに、ちいち現場を引っかき回す子に任せられる仕事はないんだ。それでも、しがみつくのかな?」
それは、出口を一つしか残さない問いだった。
桜井は何も言えなかった。ここに、自分の居場所はない。客に頭を下げることが間違いだというのなら、自分はこの場所で、何のために働けばいいのだろう。たった今追い返されたあの老夫婦の顔が浮かぶ。人を人として見ない場所で、これから先もやっていけるのか。その自信は、もうどこにもなかった。
俯いた桜井の目から、こらえていたものが一粒、落ちた。
—
家に帰り着くまで、二人はほとんど口を聞かなかった。玄関の鍵を閉めると、静の張り詰めていたものが、ぷつりと切れた。
「ごめんなさい、あなた。私が行きたいなんて言ったから。あなたにまで、あんな…」
「お前が謝ることは何もない。悪いのは、人を数字でしか見られなくなったあの人たちだ。お前じゃないよ」
だが、静はそれでも首を振り続けた。「介護施設はあちら」。あの一言は、まだ彼女の耳の奥で響いている。仁には、それが分かった。長年連れ添った妻が、今、何に一番傷ついているのか。
その夜、仁は一人、書斎に行った。机の上には、あの残高10円の通帳。その隣で、古いアルバムを開く。セピア色の写真の中で、白衣の若い仁と、銀行員時代の宮が並んで笑っている。
「お金は、人につくものです」
宮の声が聞こえてくるようだった。あの日、差し伸べてくれた手がなければ、今の自分はいない。だからこそ、仁は一番大切な蓄えをずっとあの銀行に預けてきた。儲かるからでも、便利だからでもない。ただ、宮への恩のために。
(宮さん。あなたの銀行は、もうどこにもなかったよ)
仁はしばらく、その通帳を見つめていた。そして、書斎の電話を手に取り、番号を押した。数回のコールで、相手は出た。
「はい、浜です。先生、どうされました?こんな時間に」
「すまんな、浜。一つ、頼みがある」
「なんなりと」
「銀行の手続きの支度を進めて欲しい。書類も書類も、全てだ。明日の朝、私もそちらへ向かう」
「銀行の、ですか?」
仁は、今日あの銀行で起きた一部始終を、浜に語った。電話の向こうが、一瞬、静まった。それがどれほどのことなのか、電話の向こうの男には、誰よりも分かっているようだった。だが、彼は理由を聞かなかった。
「…承知しました。先生がそうおっしゃるなら、夜が明けるまでに全て整えておきます」
「すまんな。頼んだ」
言葉はそれで終わりだった。その短さこそが、長い年月をかけて積み上げた、二人の信頼の証だった。
—
翌朝、9時。
「絆銀行」本部、法人営業部に、一通の解約申請が持ち込まれた。受け取った担当者は、書類の一行目を見て手を止める。次の行で、顔色が変わった。そして、最後の数字を見た時、彼は一礼を蹴って立ち上がっていた。
「部長!部長!!これ、全会様の…」
会長。全国に病院と介護施設を展開する巨大な医療・介護グループ。絆銀行にとって、資金のおよそ半分を支える最も重要な取引先の一つだった。
その全ての口座の解約知らせは、数分で頭取室へ上がった。
「はあ?何かの間違いだろう」
報告書を受け取った頭取の浦部は、初め薄く笑った。だが、書類の端に並んだ桁を、もう一度数え直した時、その笑みが凍りついた。
「5000億円…。なぜだ?なぜ40年もの取引を急に?理由は何だ?」
「そ、それが、昨日、五反田支店に名義の方がご来店された履歴があるのですが…」
「来店した?取引もなく?」
「はい。来店履歴があるのに、取引がなく…」
その瞬間、頭取の頭の中で、嫌な予感がよぎった。
同じ頃。五反田支店では、出勤したばかりの矢吹の元に、本部から一本の電話が入った。受話器を取った矢吹の顔から、表情が消えていく。
「はい…。会長が、全口座…?いやいや、お待ちください。なぜそれが、うちの支店の…?はい、確認します」
電話の向こうの声を聞きながら、矢吹は手元の端末に名義人の名前を打ち込んだ。
「高沢仁」
その名の脇に、ずらりと並ぶ関連口座。そして、肩書きの欄に記された四文字。
「会長」
矢吹の指が止まった。このグループの創業者。最大の取引先。昨日、この支店を訪れ、何もせずに帰った老人。その正体が、今、音を立てて像を結ぶ。背筋を、冷たいものが伝った。
あの10円の客が…。
—
本部との電話を切った直後、矢吹は震える手で内線番号を押した。
「久保と川瀬を、ちょっと連れて来てくれ」
呼ばれた二人が、何も分からず支店長室へ入ってくる。
「昨日、お前たちが対応した『高沢』って客、覚えてるか?」
「えっと…高沢…ですか?どんなお客様でしたっけ?」
二人とも、まるで思い出せない。昨日あれほど笑いものにした相手の顔さえ、もう頭に残っていないのだ。
「昨日の午後2時過ぎ。お前たちの窓口だ」
「午後…」
「年寄りの夫婦だったようだが」
その一言で、ようやく二人の顔に思い当たる色が浮かんだ。
「ああ!あの10円の…!いましたいました。ああ、あの、孫がどうのって言ってた、いやあ、参りましたよね、あれは」
事態をまるで分かっていない。二人はいつもの調子で顔を見合わせ、笑い始める。
「介護施設はあちらです、って言った時はウケましたよ」
「おい、笑わせるな」
支店長の怒号が、部屋を揺らした。二人はびっくりして口をつむぐ。
「あの客がな、うちにとってとんでもない大口だ。それも、ケタが違う」
「はあ?…あの、10円の人が、すか?」
「ああ、実はな…いや、詳しいことは後で話す。いいか?」
矢吹はここで一度、言葉を切った。頭の中では、もう別の計算が回り始めている。このままでは、自分の経歴に傷がつく。本部での評価も消える。だが、まだ手はある。二人が正体の重さを知ってパニックを起こせば、口裏も揃わない。ならば、何も教えず、コマとして使うに限る。
矢吹は不自然に声の調子を柔らげ、怯える二人の肩にぽんと手を置いた。
「この件で本部がちょっと混乱しててな。まあ、大丈夫だ。お前たちが不利になるようなことには、絶対にさせない。この私が、支店長として責任を持って、なんとかする」
「ほ、本当ですか?」
「ああ。ただな、本部の人間が来たら、先に頭を下げる役がいる。あくまで一時的にだ。お前たちが窓口で対応した者として、申し訳ありませんでした、とやってくれればいい。理由は聞くな。聞けば、お前たちの立場が不利になる。あとは全部、私が引き受ける。いいな」
「なんか、よくわかんないっすけど、俺たち、守ってもらえるんすよね?」
「ああ、もちろん。私を信じろ」
二人はまだ、この重さを何も分かっていない。ただ、上の言う通り頭を下げれば、守ってもらえる。その一点にすがるように、頷いた。
その時、机の電話が鳴った。本部の頭取からの直通だった。
「矢吹君。事情は後でたっぷり聞くが…」
低く、怒りを抑えた声だった。
「今はそれどころじゃない。高沢様は、これからそちらに向かわれるそうだ。いいか?何としても、つなぎ止めろ。土下座でも何でもしろ。あの方の足が一歩でも外へ向いたら、この銀行は終わりだと思え」
電話が、ぷつりと切れた。支店長室に、重い沈黙が落ちた。川瀬と久保は、受話器を置く矢吹のただならぬ様子に、顔を見合わせる。ただ、よほどの大事だということだけを、漠然と感じて背を冷やしていた。
窓の外では、一台の車がゆっくりと支店へ近づきつつあった。
—
午前10時。一台の車が「絆銀行」五反田支店の前に止まった。降りてきたのは、綿シャツのあの老人、高沢仁。そしてその後ろに、スーツ姿の男が一人。浜の現理事長、浜田だった。
午前のロビーには、いつものように順番を待つ客の姿があった。だが、その空気は昨日とはまるで違っていた。支店の入口に、頭取の浦部が役員を引き連れて並んでいる。仁の姿を見るなり、全員が腰を直角に折った。
「た、高沢様!ようこそ、おいでくださいました!」
その光景に、ロビーの客たちがざわめいた。川瀬と久保は、その後ろで棒のように突っ立っていた。頭取まで出てきた異様さに、二人の顔はもう青白い。
仁は何も言わず、ただ、昨日妻が涙をこぼしたあの窓口を、ゆっくりと見回した。そして、役員の列も、土下座寸前の頭取も目に入らぬように、まっすぐに歩いていく。
足が止まったのは、川瀬の正面だった。
「あなたでしたね。昨日、私の妻に『介護施設はあちら』と言ったのは」
「あ、いや、それは、その…」
声が出ない。なぜこの老人が頭取を従え、自分の前に立っているのか。川瀬にはまだ何も分かっていない。ただ、足元が崩れていくような感覚だけが、じわりと湧き上がってきた。
そこへ、浜田が一歩前に出た。鞄から分厚い書類の束を取り出し、カウンターに置く。署名も判も揃った、正式な書類だった。
「初めまして。理事長の浜田と申します。こちらが、当グループの創業者であり、名誉会長の高沢先生です」
その一言が、ロビーの空気を変えた。
「当グループが御行に預ける全口座。個人・法人・関連施設、全て合わせて5000億円。本日付けで、解約いたします」
このグループの創業者。5000億円。その言葉たちが、ようやく頭の中で一本の線につながった。昨日、自分が残高10円の通帳を見下した老人。その男が、介護施設をいくつも束ねる、本物の大物だった。
川瀬の喉が、ヒュっと変な音を立てた。膝が、笑い始める。
「う、嘘だ…。この人が…」
久保は声も出せず、口をぱくぱくと動かしている。隣でようやく自分たちの仕出かしたことの大きさを悟った男の顔は、髪のように白かった。
仁は胸ポケットから、古い通帳を取り出した。残高10円の、40年前の通帳。それを、カウンターの上にそっと置いた。
「40年前、私はこの口座を、この場所で開いてもらいました。一文なしで、担保もない、貧乏な医者でしてね。それでも、当時の支店長は、私の身なりを一度も笑わなかった。あなた方は、その同じ窓口で、人を数字で笑うことを覚えたんですね」
川瀬は何も言えなかった。ただ、置かれた通帳から、目を逸らすことだけができなかった。
浦部が、二人の前に両膝をついた。
「お待ちください!高沢様!どうかお考え直しください!40年、共に歩んでまいりました!」
「40年…」
仁はぽつりと繰り返した。
「その40年を覚えていたのは、私と、もう亡くなった一人の行員だけだ。あなた方じゃない」
浦部は、何も言葉にできなかった。しばらく沈黙が続いた後、浜田が書類をカウンターの奥にいる行員へ、すっと押し出した。
「では、手続きを。…これは、断る権利はありませんね、頭取」
「あ、ああ…せ、せめて奥様に、お詫びだけでも…。手続きは、その後にでも」
仁の顔が、すっと細くなった。
「妻に?あなた方の前に、もう一度妻を立たせろと?冗談じゃない。二度と、その顔は見せません」
「で、ですが…」
「言葉で傷つけたものが、言葉で戻るとでも?妻に必要なのは、あなた方の詫びじゃない。人として扱われる、当たり前の場所だ。それは、もう別のところにありますので」
浦部は力なく、奥の行員に頷いた。自らの手で、自らの銀行の屋台骨を引き抜け。そう命じるしかなかった。
行員の指が震えながら端末を叩く。このグループの口座が、一つまた一つと、処理されていく。本部、全国の病院、介護施設、関連法人。眠っていた5000億円の山が、ほんの数分で、他行へと流れ出た。
止める術も、手立てもない。行員たちは、自分たちの足元から銀行の屋台が抜き落ちていくのを、見ているしかなかった。
—
そして、それはこの支店の中だけでは終わらなかった。ロビーで一部始終を見ていた客の一人が、スマートフォンを取り出した。頭取の土下座、5000億円の解約、「介護施設はあちら」。その断片が、またたく間にネットへと流れ出していく。
元々、ネットでの評価が星一つしかない銀行だった。そこへ、さらなる燃料が投下された。
「大口の客を馬鹿にする銀行、やばくない?」
「解約しなきゃ」
「年寄りの客に『介護施設はあちら』とか、最低だわ」
銀行の口コミ欄が、炎上に包まれていく。「顧客との信頼と絆」を名乗っていた銀行が、自らの手で、その絆を断ち切ったのだ。
噂は噂を呼んだ。不安に駆られた預金者たちが、支店に押し寄せ始める。ついさっきまで穏やかに順番を待っていたロビーが、自分の金を引き出そうとする人で、ごった返した。店の外には、いつの間にか報道のカメラまで集まり始めていた。
たった一日で、この銀行は、崩れ始めていた。
その混乱の中で、矢吹が動いた。彼は川瀬や久保には目もくれない。ただ、頭取の浦部の足元にすがりついた。
「頭取!現場の指導は徹底しておりました!全て、部下が勝手に…!」
「はあ?ち、ちょっと待ってくださいよ!守るって言ったじゃないっすか!一時的な詫び役だって!」
「川瀬、適当なことを言うな!私は…私は、あの日、あの場にいなかったことが、悔まれてなりません!」
「嘘つけ!全部見てたじゃないか!あんた、見て見ぬふりして、最後は自分で体よく追い出したんだ!俺たちと同じだろうが!」
「久保、お前まで私を落とし入れる気か!どうか、ご理解を…!」
川瀬と久保が何を言おうと、矢吹の耳にはもう届いていなかった。彼はただ、自分の保身だけを、壊れた人形のように繰り返している。
三人が、それぞれに「自分だけは助かろう」と、喚き散らす。誰も、誰の声も聞いていない。昨日、肩を並べて客を笑っていた男たちが、今、客の前で、見るも無惨に崩れていく。
その様子を、仁はただ、静かに見ていた。
「私は何も壊しちゃいない。この銀行も、あなた方も、とっくに、自分で壊れていたんだ。人の心を軽んじた、代償だ」
川瀬が、床にがくっと崩れ落ちた。あの一言で笑い飛ばした相手に、今、自分の居場所を奪われようとしている。いや、奪われたのではない。自分が、全ての原因だったのだ。
仁は、踵を返した。浜田がカウンターに置かれた通帳をそっと取り上げ、仁に手渡すと、その背に続いた。崩れていく銀行を後にして、二人は外へ出た。
午前の光が、眩しかった。
—
帰りの車の中で、仁は窓の外を眺めていた。浜田がハンドルを握りながら、ぽつりと口を開く。
「先生。気は、晴れましたか?」
「いや…」
仁は小さく首を振った。
「一つの銀行が傾けば、罪のない行員も大勢いるだろうに。気の晴れる話じゃないよ」
「ですが、それを招いたのは…」
「ああ、私じゃない。人を人として扱わなくなった、あの銀行自身の業だ。それでも、気分のいいものじゃないな」
仁は、窓の外へ目を戻した。
「ただ、宮さんが信じた場所に、妻の涙を置き去りにはできなかった。それが、私のけじめだ」
浜田は何も言わず、深く頷いた。
家に着くと、静が玄関で待っていた。
「お帰りなさい。どちらへ行ってらしたの?」
「うん。少し、昔の借りを返しにな」
仁は靴を脱ぎながら、いつもの穏やかな声で答えた。
「借り?…あなたが?」
「ああ。40年前のな」
静には、その意味は分からない。だが、出かける前より、夫の背中がどこか軽くなっている。それだけは、分かった。
仁は妻の方へ向き直った。
「静、落ち着いたら、二人でひ孫の口座を作りに行こう」
「でも…」
昨日のことを思い出したのか、静の顔がわずかに曇る。仁は、その手を取った。
「大丈夫だ。今度は、ちゃんと人を見てくれる場所だ。お前を笑ったりはしない。約束する」
静は、夫の顔をじっと見つめた。そして、こくりと頷く。その夜、高沢の家には、久しぶりの穏やかな灯りが、ともっていた。
—
それから数ヶ月が過ぎた。
「絆銀行」は、立ち直れなかった。このグループの5000億円が抜けた穴はあまりに大きく、さらに一般客の解約ラッシュが、とどめを刺した。やがて、銀行は大手の傘下へと吸収され、「絆」の看板はひっそりと下ろされた。絆を、自らの手で断ち切った銀行に、再起の道はなかった。罪のない行員たちは、新しい銀行へと引き継がれた。
職を失ったのは、人の心を軽んじた者たちだけだった。
矢吹は、本部の調査委員会で、最後まで言い張った。
「私は知らなかったのです。現場の指導は徹底しておりました。全ては、部下が勝手に…」
だが、その場には防犯カメラの記録があった。あの日、ロビーの隅で腕を組み、部下の振る舞いを眺めながら、自ら老夫婦を追い返させた支店長の姿が、はっきりと映っていた。
「この映像、矢吹さん。あなたは『あの場にいなかった』と報告書に書かれていますが…」
矢吹の言葉が止まった。守るふりをして部下を切り捨て、嘘を重ねた男は、自分のついた嘘で、自分の首を絞めた。偽造報告の責任まで上乗せされ、矢吹は全てを失って、銀行を去った。
久保も、職を追われた。皮肉なことに、彼を真っ先に切り捨てたのは、かつて肩を並べて客を笑った、あの矢吹だった。
「監督していたのは、久保です」
調査での、たった一言。見捨てられて、久保は何も言い返せなかった。
そして、川瀬は。「最大の客を侮辱して、銀行を一つ潰した男」。その噂は、金融の世界をまたたく間に駆け巡った。どこの銀行も、彼を雇おうとはしなかった。面接の席では、必ず同じことを聞かれた。
「前の職場をおやめになった理由は?」
無事に就職できても、長くは続かなかった。やがて仕事もつかず、家賃も払えず、川瀬は住む場所を失った。頼れる家族すら、一人また一人と、離れていく。「銀行を潰した男」。その名は、どこまでも彼に突きまとった。
冬が来た。橋の下。冷たいコンクリートの上で、川瀬は膝を抱えて震えていた。何日も風呂に入っていない体は、凍えた匂いを放ち、すれ違う人々は顔をしかめ、足早に遠ざかっていく。差し出した手のひらに、小銭が一つ落ちることはない。空腹でゴミ箱を漁る自分に、もう恥という感覚すら残っていなかった。
ある日、雨をしのごうと駅の軒先にうずくまった彼の目の前に、一枚の広告があった。「人を大切に」と書かれた、介護施設の広告だ。穏やかに微笑む、お年寄りの写真。その隣に、あの日の自分が重なった。
「介護施設はあちらです」
あちら、と彼は老夫婦を指でさした。
「なんで…なんで俺が、こんな目に…」
ひび割れた声が漏れた。だが、それは老夫婦への詫びではない。
「あんな…みすぼらしいジジイが…!よりによって、あれほどの大物だったとは…」
男が悔んでいたのは、ただ自分の運の悪さだけだった。
「ちくしょう…!知るかよ!あんなの、ついてなかっただけだ!なんで俺だけ…!」
最後まで、自分が何を踏みにじったのか、思い至ることはない。帰る家も、迎えてくれる人も、明日の食事さえない男は、ただ濡れた地面に崩折れた。
かつて人を見下し、指一本で踏みつけにした男は、誰よりも惨めに、その底へ。もう二度と、這い上がれぬ闇の中へと、転がり落ちていった。
—
あれから、一か月余りが過ぎた頃。
仁と静は、約束通り、ひ孫の口座を作りに出かけた。向かった先は、「絆銀行」ではない。この一か月で取引を移した、小さな信用金庫だった。昔から地域に寄り添い、どんな客も訳け隔てなく迎えることで知られる、堅実な金融機関である。
自動ドアをくぐると、明るい声が二人を迎えた。
「いらっしゃいませ」
窓口に座っていた若い女性職員が、顔を上げる。その瞬間、彼女の目が大きく見開かれた。
「あ…!」
それは、桜井だった。あの日、二人を庇って、店を追われたあの新人。その人柄を見込んで、この信用金庫が迎え入れていたのだ。
「あ、あの…あの時のお客様…!」
「あら?あなたは、あの時の…」
「あの時は、本当に申し訳ありませんでした。何もできなくて…」
「いやいや、あなたは、たった一人、私たちに頭を下げてくれた人だ。謝らなければならないのは、こちらの方ですよ。こちらにいらしたんですね」
桜井は目元を拭い、姿勢を正すと、にっこりと微笑んだ。
「本日は、どのようなご要件でしょうか?」
「ええ、ひ孫の口座を作りたいんです。この子の、初めての一冊を」
「はい。喜んで、お作りします」
桜井は一枚一枚、書類を丁寧に確かめながら、手続きを進めた。静がたどたどしくひ孫の名前を書くのを、せかすことも、笑うこともない。ただ、隣で温かく見守っている。
「ひ孫さん、きっと喜ばれますよ」
その一言に、静の目から涙がこぼれた。だが、それはあの日の涙とは、まったく違っていた。
新しい通帳が、静の手に静かに手渡される。表紙には、生まれたばかりのひ孫の名前。それは40年前、宮が夫婦のために開いてくれた、あの10円の口座と同じ、始まりの一冊だった。
—
その夜、仁は縁側で、静の隣に腰を下ろした。
「静。一つ、言っておきたい」
「何?」
「お前は、自分が厄介者になっていくと言ったな。あれは、大きな間違いだ。この40年、お前がそばにいてくれたから、私はここまで来られた。お前が手を握ってきた患者さんたちにとっても、同じだ」
「…そんな、とんでもない話だよ」
「とんでもない話じゃない。お前がいてくれたから、私は人としてやってこれたんだ」
静は、しばらく黙っていた。やがて、その目から涙が静かに伝う。長い間、胸の奥で固まっていたものが、ようやく溶けていくようだった。
「…ありがとう、あなた」
それから、季節がいくつか巡った。静は、時折、近くの介護施設を訪ねるようになっていた。入所したばかりの老夫婦が、不安そうに窓の外を見ている。「家族に迷惑をかけて、もう誰の役にも立たない」。かつての静自身が、そこにあった。
静は、その隣に腰を下ろし、震える手をそっと握った。
「大丈夫。あなたは、誰にも迷惑なんかかけていませんよ。ここにいて、いいんですよ」
守られる側だった人が、今、誰かを支える側に回っていた。
同じ頃。仁は、一人、小さな墓地に立っていた。宮の墓の前である。仁は、あの10円の通帳を、墓石の前にそっと備えた。
「宮さん。あなたの銀行は、なくなってしまった。ですが、あなたが信じてくれた、人を見る心は、ちゃんと別の場所で生き続けていますよ」
風が、墓地の木々を静かに揺らした。
仁は墓石に、深く頭を下げた。その背を、午後の柔らかな光が包んでいた。



