「バーバ、お願いがあるんですけど」
その言葉に、私は何の気なしに振り返った。
「ゆいへの誕生日プレゼントは、現金5万円でお願いします」
息子の嫁・み咲は、まるで当然のことのように明るい声で言った。
「5万円?」
「はい。貯金が趣味なんですよ」
当時、孫のゆいはまだ5歳。
少し変わっているとは思った。でも、本人が欲しがっているのなら──そう思い、私は言われた通りお金を送った。
その後も、誕生日や入園など、何かあるたびに「物はいらないので現金で」と言われるようになった。
私は疑わなかった。あの日、孫が描いた一枚の絵を見るまでは。
私はさち子、62歳。夫を5年前になくし、今は一人暮らしだ。
一人息子の浩司は、妻のみ咲と娘のゆいと、車で1時間ほどの町に暮らしている。
ただ、浩司は仕事の都合で海外へ単身赴任中。み咲が一人で子育てをしていた。
だから私は、何かあったら遠慮なく頼ってね、と何度も伝えていた。
ところが、なぜか会わせてもらえない。
「今週、遊びに来ない?」
「すみません、予定があって」
「来週は?」
「そこも予定があって」
「誕生日プレゼントを直接届けたいんだけど」
「送っていただければ大丈夫です」
一人で育児をしているのだから、疲れているのだろう。私はそう思っていた。
み咲はいつも笑顔で、言葉遣いも丁寧。私はよくできたお嫁さんだと信じていた。
孫が5歳になる少し前、み咲から電話があった。
「今年のプレゼントなんですけど、おもちゃじゃなくてお金が欲しいみたいで」
「本人が?」
「はい。貯金するのが楽しいらしいですよ」
私は驚きながら、「じゃあ1万円くらい?」と尋ねた。
すると、こう返ってきた。
「5万円で大丈夫です」
「5万円?」
「今は電子マネーで送れますし、さち子さんも楽ですよね」
少し引っかかった。でも、孫のため──そう思って送った。
翌年には、こう言われた。
「ランドセルを、お母さんからプレゼントして欲しいです」
それを聞いて、私は喜んだ。
「もちろんよ。一緒に選びに行きましょう」
「いえ、ネットで予約するので、来てもらわなくて大丈夫ですよ。そして、現金20万円でお願いします」
20万円。高い。あまりにも高い。
でも、6年間使うもの。それに、たった一人の孫だ。
私はすぐに振り込んだ。
その年の年末、久しぶりに浩司が帰国し、三人で遊びに来た。
私は孫のゆいに訪ねた。
「ランドセルは何色にしたの?」
するとゆいは「ピンク」と答えた。
でも、続く言葉で私は耳を疑った。
「近所のお姉ちゃんにもらったの。えー、本当は水色が良かったんだけどね」
その瞬間、み咲が割って入った。
「お母さん、違うんですよ。注文したランドセルがまだ届いてないだけです」
でも春になっても、ゆいが背負っていたのはそのピンクのランドセルだった。
水色の方は? と聞くと、
「まだ届かなくて」
そう言いながら、み咲は笑った。
私は初めて、はっきりと疑った。では、あの20万円はどこへ行ったのだろうか、と。
ゆいの7歳の誕生日。また現金を指定された。
私は言われた額を送りつつ、こっそり可愛い文房具も送った。
すると電話口で、ゆいが大喜びした。
「バーバ、これ欲しかったの! お友達も持ってるやつ!」
声が弾んでいた。
一方、現金のお礼は、
「バーバ、お小遣いありがとうございました」
まるで覚えた文章を読んでいるような声。
私は思った。この子、本当にお金が欲しいの?
そして年末、単身赴任していた息子の浩司の帰国に合わせて、三人が泊まりに来た。
私はゆいとトランプをした。
私が続けて勝つと、
「バーバ、勝っちゃやだ!」
ゆいが頬を膨らませた。
普通の7歳らしい反応。
でも次の瞬間、ゆいは母親であるみ咲の方を見た。そして急に姿勢を正し、
「ごめんなさい」
と謝った。
ジュースを渡した時も、まずみ咲を見る。み咲が何も言わないことを確認してから、
「ありがとうございます」
私は胸がざわついた。
この子は礼儀正しいんじゃない。いつも母親の顔色を見ている。
その夜、み咲と浩司が近くのコンビニへ出かけた。ゆいも誘われたが、「お腹痛い」と言ってトイレへ。
でも、二人が玄関を出た途端、すぐにゆいが顔を出した。
「バーバ、ママたちもう行った?」
「行ったよ」
少し黙った後、突然——
「お絵かきしよう」
ゆいはクレヨンを出した。
描いたのは、真ん中に小さな女の子。その周りに、何人もの黒い人。
笑っている人は、一人もいない。
「この女の子は?」
「私」
「周りの人は?」
ゆいは私の目をじっと見た。
「ママのお友達?」
私はしゃがんだ。
「ゆいな、こっちを向いて。何か困ってるの?」
返事はない。
「バーバはゆいの味方だよ」
すると、ゆいの目に涙が溜まった。
「本当?」
「本当よ」
「誰かに言っても、ママいなくならない?」
その言葉で、背筋が冷たくなった。
ゆいは、少しずつ話してくれた。
浩司が海外へ戻ると、み咲は頻繁に家を開ける。夜遅くまで帰らない日もある。知らない人が家へ来ることもある。
そして——
「誰かに言ったら、ママがいなくなるよ」
そう言われていた。
だから、学校の先生には。もちろん、父親にも。私にも。言えなかった。
「パパに言いたい……」
ゆいは泣き出した。
その瞬間、私は抱きしめた。
「分かった。バーバが一緒に言うから」
翌日、私は浩司だけを買い物へ誘い、車の中で全て話した。
浩司は信じられないような表情をした。でも、何か察していたようだ。
「実は俺も、海外から電話しても、み咲が出ないことが増えていた。家計の口座から、まとまった金額が何度も消えていた。理由を聞いても、いつも言うことは同じ。『生活費が足りない』」
でも、何より浩司を傷つけたのは、ゆいが「パパや先生に言っちゃだめ」と口止めされていたことだった。
「母さん、確かめたい」
私たちは、ゆいを危険にさらさない方法で事実を確認することにした。
浩司が家を開ける隙を作るため、子供用の携帯を買い、家に帰った。
数日後、浩司はみ咲へ言った。
「仕事の都合で、予定より早く海外へ戻る。明日の朝には家を出る」
もちろん、嘘だ。
あまりにも急な予定だったが、み咲は疑わなかった。
そして、ゆいへ子供用の携帯を密かに渡した。
翌日の午後、ゆいから着信があった。
「ママが、誰かへ電話してる」
「今なら大丈夫。お父さんが戻ったって言ってた」
私と浩司は、近くで待機していた。
そして夕方になると、一人の男性が家へ来た。
しばらくして、またゆいから着信。声が震えていた。
私と浩司は、すぐ家へ向かった。
玄関を開けると──知らない男性とみ咲、そして部屋の隅に、ゆいが立っていた。
み咲が青ざめた。
「浩司、どうしてここに?」
浩司は低い声で訪ねた。
「この人、誰だ?」
「友達よ」
「友達が、どうして家にいるんだ?」
み咲は答えない。
テーブルには、明らかに現金の入った封筒。男性は居心地悪そうに立っている。
事情を話さないみ咲に変わって、男性が答えた。
どうやらみ咲は、遊びや買い物で借金を作っていた。返済を待ってもらう代わりに、ゆいを何日か男性側へ預ける約束をしていたらしい。
こんな話、到底認められない。
「ちょっと預かってもらうだけよ!」
み咲が叫んだ。
私は言った。
「なら、どうしてゆいは震えてるの? どうしてこの子に、『誰にも言うな』って教えたの?」
そして私は尋ねた。
「ゆいの誕生日に送ったお金は? 貯金が楽しいって話は?」
み咲は黙った。
「ランドセルの20万円は?」
沈黙。それが答えだった。
私は怒りを何とか抑え、み咲の目を見た。
「返しなさい」
み咲が顔を上げた。
「何を? お金を返せってこと?」
私は首を振った。
「違うわ。5万円でも20万円でもない」
ゆいの方を抱きしめた。
「この子が、誰の顔色も見ずに笑っていられた時間を、返して」
み咲は、何も言えなかった。
浩司が静かに言った。
「俺を裏切ったことなら、俺とみの問題だ。でも、ゆいを怖がらせたことだけは、父親として許すことはできない」
その日、ゆいは私と一緒に家を出た。
その後、み咲は離婚へ向けて話し合うことになった。必要な手続きは専門家に任せ、何よりゆいが安心して暮らせることを最優先にした。
浩司は仕事の整理がつくまで、しばらく私がゆいを預かった。
すると、あんなに静かだったゆいが、喋る。喋る。よく喋る。
「バーバ、聞いて! 今日ね……それでね……」
トランプで負ければ、
「もう一回! ……ピーマン出せば、嫌い!」
私は笑った。
なんだ、普通の7歳じゃないの。
しっかりしていたのではありません。ゆいは、しっかりしていなければ安心できなかっただけなのです。
しばらくして、ゆいは浩司と一緒に海外で暮らすことになった。
見送った後の家は、驚くほど静かだった。
寂しいな。そう思っていたある日、一通の手紙が届いた。
差出人は、ゆい。
開いてみると、なんと英語。全部、ローマ字で書いてあった。
私は学生の頃に使っていた英和辞書を引きながら、時間をかけて読んだ。
最後には——
「ILoveYouGrandma」
バーバ、愛してるよ。
それを見て、私は笑った。
負けてられないわね。
翌週、英会話教室へ申し込んだ。
私は今年で62歳。今更?
いいえ。62歳だからこそ、まだやってみたいことがあります。
英語を話せるようになったら、今度は私からゆいに会いに行くつもりです。
そして、驚かせてやるんです。
「ゆいな、バーバ来ちゃったよ」
そして、それを英語で言えるように。



