十五年間、夫のかず彦の選挙を支えてきた。商店街を一軒ずつ回り、住民の要望をノートにまとめ、夜な夜な演説原稿を書いた。ところが夫が三期目の当選を果たし、若い女性秘書が入ってからというもの、夫の態度は変わった。「無職は黙って、家のことだけしていればいいんだよ」そう言って、私が十五年かけて築いた講演会の資料を、夫は秘書の机に置いた。十五年間の支えを「少し手伝っただけ」と呼ばれたその瞬間、私は凍りつ…

十五年間、夫のかず彦の選挙を支えてきた。商店街を一軒ずつ回り、住民の要望をノートにまとめ、夜な夜な演説原稿を書いた。ところが夫が三期目の当選を果たし、若い女性秘書が入ってからというもの、夫の態度は変わった。「無職は黙って、家のことだけしていればいいんだよ」そう言って、私が十五年かけて築いた講演会の資料を、夫は秘書の机に置いた。十五年間の支えを「少し手伝っただけ」と呼ばれたその瞬間、私は凍りつ...

「無職は黙ってろ」
かず彦が私の手から講演会名簿を奪い取り、机へ放り投げた。市議会議員を三期務める夫の隣では、若い女性秘書が口元だけで笑っていた。

「これからは彼女に任せる。お前はもう事務所に来るな」
「でも、来週の相談会には私がずっと連絡を取ってきた方たちが……」

「引き継ぎくらい彼女にできる。政治のことは、議員である俺に任せろ」
かず彦は私が抱えていたファイルを秘書の机の上へ置いた。

「無職は黙って、家のことだけしていればいいんだよ」

胸の奥がゆっくりと冷えていく感覚があった。
「じゃあ、私があなたを支えてきた十五年は、何だったの?」
かず彦は面倒そうにため息をついた。

「名簿を整理して、原稿を少し手伝っただけだろ。少し。妻ならそれくらい当たり前だ。いちいち恩着せがましく言うな」

私は事務所の鍵を机の上に置いた。
「わかりました。引き継ぎは今日までにします」
「最初からそうしていればいいんだ」
かず彦は満足そうに笑った。私は事務所を出た。

あの日から、私はかず彦が「少しの手伝い」と呼んだものを、何ひとつしなかった。

私の名前は岸本文子。五十六歳。

かず彦が地方議員になりたいと言い出したのは、十五年前のことだった。当時のかず彦は会社員だったが、毎朝の出勤や上司への報告をひどく嫌がっていた。ある夜、帰宅したかず彦はネクタイを緩めながら、私に言った。

「今日、取引先の集まりに市議会議員が来てたんだ。ああいうのは議会のない日はかなり自由らしい。毎日会社へ行く必要もないし、先生と呼ばれて報酬も出る」
かず彦は冷蔵庫からビールを取り出した。
「俺も次の選挙に出てみようかな」
「町のために何かしたいことがあるの?」
「当選してから考えればいいだろう。会社員を続けるより、よほど楽そうだ」

冗談だと思いたかった。しかし、かず彦の顔は本気だった。

その少し前、近所のお年寄りから危険な通学路について相談された時、かず彦は珍しく真剣に話を聞き、市役所へ連絡していた。人のために働くうちに、この人も変わるかもしれない。そう信じることにした。

かず彦は地域の集まりへ顔を出すようになり、やがて地域政党「私未来会」が行う候補者の公募を知った。
「応募してみる。人前で話すのは得意だからな」
かず彦は軽い調子で言った。本当の理由は会社員より楽そうだからだとしても、あの通学路の相談に真剣に耳を傾けていた姿を私は信じたかった。

かず彦は候補者審査を通り、「私未来会」の公認候補になった。そして、そこから先を支えたのは私だった。

商店街を一件ずつ回り、支援者の名前を覚えた。介護や通院の悩みを聞き、要望をノートへまとめた。かず彦が忘れた約束には私が謝りに行き、夜は演説原稿を書いた。

初当選した夜、かず彦は私の手を握った。
「お前のおかげだ」
その言葉が嬉しくて、二期目も三期目も支え続けた。けれど、当選を重ねるたびにかず彦の言葉は少しずつ変わっていった。

「奥さん、家にいるお前が書いてくれ」
「住民の愚痴を聞くだけなら誰でもできる。議会で話しているのは俺だ。原稿を書いたくらいで政治家のつもりになるな」

三期目に入る頃には、こう言うようになった。
「俺の議員報酬で食わせてやっているんだ。妻なら黙って支えろ」

かず彦が議会で評価された質問の多くは、私が住民の声をまとめたものだった。それでも新聞に載るのは、かず彦の名前だけ。私は夫を立てることが妻の役目だと信じ、できないことまでできるように見せ続けてしまった。

若い女性秘書が入ったのは、半年前のことだった。彼女は動画やSNSに詳しく、かず彦を持ち上げるのが上手かった。
「かず彦先生には華があります。次は幹事長。その次は市長ですよ」
かず彦は高価なスーツを買い、地域の集まりより動画撮影や会合を優先するようになった。

秘書は私の原稿を「古い」と笑いながら、内容だけは動画へ使った。私が指摘すると、彼女は微笑んだ。
「奥様は文章のお手伝いをしていただけでしたよね」
かず彦も笑った。
「政治は俺たちに任せろ。お前はお茶でも出ていればいい」

その数日後、私は事務所から追い出された。鍵を返した私は、名簿も原稿も、引き継ぎメモを添えて残した。

その日から、原稿も支援者への連絡も、苦情の後始末もしないと決めた。

その夜、かず彦は帰宅するなり開口一番、こう言った。
「明日の演説原稿、書いてないのか」
「どうしてだよ」
「事務所に関わるなとおっしゃったので」
かず彦は苛立ったようにネクタイを外した。

「事務所に来るなとは言ったが、家で原稿くらい書けるだろう」
続いて台所を覗き込んだ。
「夕飯は?」
「用意していません」
「家で俺を支えろと言っただろう」

私はそこで初めて、かず彦が私を妻としてではなく、無料の裏方として見ていたのだと分かった。

「原稿も食事も、ご自分でやってください」
私は寝室から、用意しておいた荷物を持ってきた。かず彦の顔が引きつった。
「な、なんだそれ」
「明日、離婚の手続きについて連絡します」
「はあ? こんなことで離婚するのか?」
「こんなことだと思っているから、もう無理なんです」

私はそれだけ言って、家を出た。かず彦は私が数日で戻ると思っていた。

家を出た私は、長い間疎遠になっていた父を訪ねた。
「お父さん、私、かず彦と離婚することにしたの」
父は驚いた様子も見せず、私の話を最後まで聞いてくれた。

「十五年か。よく頑張ったな」

その言葉を聞いた瞬間、張り詰めていたものが切れて、私は声を上げて泣いた。

私が事務所を離れてからの活動は、目に見えて崩れ始めた。
「前の原稿を修正してくれ」
「明日の会合に誰が来るのか教えろ」
何度連絡が来ても、私は答えた。

「もう私の仕事ではありません」

元の支援者からも、私の元へ連絡が来た。
「かず彦先生が、私の名前も病院行きのバスの相談も覚えていないんです」
私はかず彦の代わりに謝らず、市の相談窓口だけを案内した。

それでもかず彦は認めず、若い支持者を集めて「地域活性化交流会」を開いた。表向きは政策交流会だったが、二次会は派手な酒の席になっていた。

数日後、事務所の女性職員が青ざめた顔で私を尋ねてきた。
「奥様、もう私一人では抱えられません」

差し出されたスマートフォンには、録音が残っていた。
『地方議員なんて、選挙に勝てば自由なものだ。年寄りには病院へ行くバスを増やすと言っておけば票になる。議会の原稿なんて、前は家内に書かせていた』

続いて、別の場面の音声が流れた。
『この会食代は講演会活動で処理しろ』
『できません』
『逆らうなら、この町で働けなくしてやる。領収書の名目を変えるだけだ』

職員は録音をネットへ流すと言った。私は首を振った。
「感情で広めたら、あなたまで傷つく。正式な場所へ、事実として出しましょう」

私は録音、領収書、かず彦が送った指示のメッセージを整理し、「私未来会」の公認審査担当へ提出した。自身の声に責任を取らせるためだった。

一ヶ月後、「私未来会」の公認審査会が開かれた。かず彦は次期選挙の公認と幹事長への推薦を信じ、女性秘書を隣に座らせていた。証拠提出者として呼ばれた私を見ると、かず彦は鼻で笑った。

「今更謝りに来たのか?」
「呼ばれてきました」
「お前が入れる場所じゃない。無職は黙っていろ」

審査担当者が会場の扉へ目を向けた。一人の年配の男性が、ゆっくりと入ってきた。かず彦はその人が誰なのか、分からない様子だった。

「すみません。今日は当方の公認審査です。関係者以外は……」

かず彦が言い終わる前に、会場の幹部たちが一斉に立ち上がった。
「最高顧問。お待ちしておりました」
かず彦の口が止まった。

父は幹部たちへ軽く頷き、私の隣に立った。
「紹介します」
私はかず彦を見た。
「私の父です」

かず彦の顔から、みるみる血の気が引いていった。父は「私未来会」の創設者で、今は重要な審査にだけ姿を見せる最高顧問だった。

父は静かに口を開いた。
「今日は娘の父としてではなく、私未来会の最高顧問として来た。娘の訴えではなく、ここに提出された証拠で判断する」

審査担当者が録音を再生した。
『病院へ行くバスを増やすと言っておけば票になる』
『領収書の名目を変えろ』

女性職員も会場へ呼ばれていた。
「以前にも事実と違う名目で処理するよう求められました。断る度に怒鳴られたので、あの日は自分を守るために録音しました」

かず彦は職員を指さした。
「こいつは俺を嵌めたんだ」
審査担当者は、かず彦が職員へ送ったメッセージを机へ並べた。
「録音だけで判断しているわけではありません」

かず彦は椅子を蹴るように立ち上がった。
「酒の席の冗談だ! 秘書が企画した会だ。俺だけの責任じゃない」
女性秘書は、かず彦から一歩離れた。
「私は会計処理については何も知りません」

かず彦が私を睨んだ。
「お前が全部仕組んだのか」

父がかず彦を見た。
「住民の名前も相談も覚えず、原稿は妻に書かせ、有権者を『票』と呼ぶ。そんな人間を政治家として認めるわけにはいかない」

審査担当者が告げた。
「次期選挙での公認は、一旦白紙とします。幹事長への推薦も撤回します」

翌日、かず彦は記者会見を開いた。
「発言の一部だけを切り取られた。職員と妻が共謀し、私を失脚させようとしている」
そう主張したが、記者からこう問われると、かず彦は答えに詰まった。

「議会の原稿を妻に書かせていたという発言も、切り取りですか?」
「高齢者を『票』としてしか見ていないのではありませんか」
最後には「妻が勝手にやっていただけだ」と言い放った。

翌朝、最初からかず彦を支えてきた町内の女性が事務所を訪れ、講演会の名札を机に置いた。
「夫が亡くなった時、家まで来て話を聞いてくれたのは文子さんでした」
女性はかず彦をまっすぐ見た。
「あなたは、夫の名前すら覚えていなかった」

町内会長も辞任し、数日後、講演会は解散した。女性秘書も、その日のうちに事務所を去った。「私未来会」はかず彦の公認を正式に取り消した。市議会でも、辞職を求める決議が可決された。

講演会が解散した夜、かず彦から電話がかかってきた。
「お父さんに頼んでくれ。今まで通りお前が講演会を回せば、立て直せる。俺が議員でいられなくなったら、お前だって困るだろう」

「私はもう困っていません。あなたの原稿も、食事も、評判も、私が背負う必要はないから」

その翌週、かず彦は議員を辞職した。離婚も、程なく成立した。

しばらくして、私は地域の集会所で住民相談を手伝い始めた。以前の支援者たちは、私自身の話を聞きたいと言ってくれた。
「本当に私たちの声を聞いていたのは、文子さんでした。今度は自分の言葉で議会へ届けてください」

かず彦の辞職後に行われる補欠選挙への立候補を勧められた。父は何も決めなかった。
「お前の人生だ。お前が決めなさい」

私は立候補した。十五年間聞いてきた声を、今度は自分の言葉で届けるために。そして、私は当選した。

初登庁の朝、胸には新しい議員バッジがあった。机の上でノートを開く。かず彦の原稿を書くためのノートではない。表紙には、私の名前がある。

岸本文子。

「無職は黙ってろ」と言ったかず彦は、もう議員ではない。私は今、誰かの名前の影ではなく、自分の名前で住民の声を届けている。

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