「口座から百万近く消えてるぞ。何に使いやがった?」
夫がスマホの画面を突きつけてきた。私はそれを一瞥して、静かに言った。
「探偵を雇ったの」
「はあ? 誰か人探しでもしてるのか? だったら相談しろよ」
「財産分与は引いてもらって構わないわ。ただ慰謝料はもらうから、そっちの出費が多いのは変わらないと思うけど」
「何の話をしてるんだ?」
「もうめんどくさいから、今さらごまかそうとしないで。浮気してるのは知ってるの」
「ない。ありえない」
「ホテルへの出入りも複数回確認できてるわ」
「それはあれだ。途中で具合が悪くなって」
「誰の友達だよ」
「じゃあ、その人と話をさせて」
「別にやましいことはないんだから、喋る必要はないだろう。これ以上ごまかすつもりなら離婚よ」
ああ、これで元通りに戻れると思ってる。俺の稼ぎがなくてどうやって暮らしていくつもりだよ。誰が? お前とり太郎に決まってるだろう。あいつはまだ大学生だぞ。
「学費はもう貯めてあるわ。4年で卒業してくれたらの話だけど」
「お前はどうすんだよ」
「離婚した後に私がどうしようと関係ないでしょ」
「ああ、なんでそんな話になるんだよ」
「気持ち悪くてもう一緒にいられないから」
「浮気の1度や2度、別にいいだろう」
「はい?」
「いや、してないよ。してないけど、誤解を招くような行動をしたのは悪かったと思ってる」
「だから証拠があるって言ってるじゃない。ホテルには入った。それは認める。音声もあるのよ」
「そんなわけないだろう」
「あなたの鞄にボイスレコーダーを入れておいたの」
「それ、盗聴だぞ」
「どうぞ訴えてください。そのくらいの覚悟を持ってやってるの。楽しそうな声がたくさん入ってたわ」
「ごめん。悪かった。許してくれ」
「許さない」
「でもさ、お前にも原因はあると思わないか?」
「例えば何? 言ってみて」
「年を取ったじゃないか」
「あなたは取ってないの? 20年前から何も変わってないって言えるわけ?」
「そこは女と違うだろう」
「だから若い子に走ったのね」
「そうだ」
「いいじゃない。私も離婚して素敵な人を見つけたいし、これからは別々で生きていきましょう」
「こうしないか。お互い自由にしながら結婚生活を続ける」
「何のために?」
「世間体というか、子供のためというか」
「り太郎はもう成人してるのよ。それに世間なんて私は気にしない」
「離婚となれば色々と手続きとか面倒だろう」
「書類に名前を書くだけよ」
「ふざけんな。一方的に終わるなんて俺は許さんぞ」
「浮気した分際で何言ってるの?」
「もういいだろう。お互いいい年なんだし。恋だの愛だのって年じゃないだろう」
「外で恋してるくせに。それは少し時間をちょうだい。実家に帰るわ」
「り太郎はどうすんだよ」
「本人が来るというなら、私は構わないわ」
息子からの連絡は、意外なほどあっさりしていた。
「授業終わった?」
「うん。お母さん、しばらく実家に帰ることにしたから」
「なんで?」
「お父さんに聞いて」
「まさか浮気してたとか?」
「あなたももう20歳だもんね。隠さなくてもいいか。その通りよ」
「はあ。親父、やるじゃん」
「は? そのくらいで住むなよ。だせえな」
「何言ってるの?」
「男の甲斐性ってやつだろ? 浮気もできないダメ人間よりマシじゃん」
「あなた、お父さんの味方なの?」
「そりゃそうだろう。金がある父さんの方が正しいし」
「父さんが浮気したのは、母さんがバカだからだろう」
「本気で言ってる?」
「専業主婦で家事してる母さんのどこを尊敬できるのか、逆に教えてほしいんだけど」
「あなたね、大体反抗期なんて中学で終わるものよ」
「反抗してるつもりはないけど、母さんがいつまで経っても説教臭くてだるいだけ」
「あなたが20過ぎてもしっかりしないからでしょ」
「そういうとこ、マジで父さんみたいにほっといてくれたらいいのに」
「あの人は子育てなんてしてないじゃない」
「あのくらいでちょうどいいんだよ」
数日後、夫から電話があった。
「父さん、浮気したの?」
「ああ。母さんが出ていくらしいよ」
「そうか。相手ってどんな人?」
「いや、俺はどっちかと言うと賛成派だよ」
「うん、そうなのか。1度合わせてよ」
「何歳なの?」
「28歳」
「ふわっか。中身は大人っぽいんだぞ」
「へえ。いいじゃん。若いだけじゃなくて、めちゃくちゃ綺麗だ」
「マジかよ。最高じゃん。やっぱり男は若くて美人がいいよな」
「当たり前じゃん。母さんみたいなおばさんと一生暮らすなんて、何の罰ゲームだよって話」
「やっぱりお前は俺の息子だな。分かってくれて嬉しいよ」
「母さんも実家に帰ったし、このまま離婚しちゃえばいいんじゃない?」
「まあ、そうなるだろうな。彼女も家に呼んじゃいなよ」
「いいのか? 料理とかできるんのかな?」
「それなりだとは言ってた。若くて料理できて美人なんて最高すぎんだろう」
「お前が近いからって手を出すなよ」
「出すわけないじゃん」
その頃、私は実家で母と過ごしていた。父はまだ働いている。心は穏やかではなかったかもしれないけど、家事に追われることもなく、久しぶりに休めた気がした。
数時間後、夫が荷物を運び込んできた。女を連れて。
「荷物はまとめたので、出ていきます」
「そうか。勝手にしろ」
「り太郎は残る。色々と頼んだわね」
「息子も敵になったか。惨めだな」
「そうね。手のかかる子ではあったけど、愛情は伝わってると思ってたからショックだわ」
「まあ、お前は家族の誰からも必要とされてなかったってことだ」
「そうみたいね。もうどうでもいいわ。反論する気にもならない」
「離婚の手続きは弁護士を通すから」
「お任せします。じゃあ元気でな」
「まあ、じじばばの介護でのんびりってわけにもいかないだろうけど」
「両親はピンピンしてるわよ。よろしく伝えておいてくれ」
「もう会うこともないけど、伝えることなんてないわ」
「じゃあな」
数日後、息子から連絡があった。
「お袋、あの女、うちに越してきたよ」
「はあ。私たち、まだ離婚も成立してないのよ」
「どっちみち離婚はするし、慰謝料も請求されるんだから一緒じゃね」
「だからって、こんな裏切りはあんまりだわ」
「まあしょうがないよ。諦めたら?」
「あんたまであっちの味方に着くなんて」
「俺は俺がいいと思った方について行くだけ」
「分かった。じゃあ、残り3年分の学費の支払いはなしで」
「あ? バイトでもするか、お父さんに頼みなさい」
「それは違うだろう。大体、母さんが学費を出してたわけじゃないよな」
「生活費を切り詰めて住宅ローンを払いながら貯蓄もしてきたの。離婚する以上、家と土地、そして預金は半分よ」
「はあ。あなたたちが今の家に住むのであれば、私は預金を出すことにする」
「いや、それはおかしいだろう」
「じゃあ家を売って、そのお金を半分くれるかしら。だったら預金はお返しするわ」
「俺に言われても困るんだけど」
「大好きなお父さんに伝えておきなさい」
「マジかよ」
数時間後、夫から電話がかかってきた。
「り太郎から聞いたぞ。家の金を持って出ていくとは何事だ?」
「説明聞いてないの?」
「生活費の口座も空っぽじゃないか」
「もう月末ね。色々と引き落としがあるから、早く入金した方がいいわ」
「どうやればいいんだ? いくら入れればいいんだ?」
「いい年した大人がそんなことも知らないの? お前の仕事でしょ? 追い出された私が家計の心配なんてする気はないわ」
「お前、新しい女性と住んでるんでしょ? 彼女にお財布の管理をお願いしたらどう?」
「それはまだ信用ならないというか」
「は? そんなレベルの人を家に入れたの? 顔と見た目だけの信用、ゼロね。すごいわね」
「お前が何もかも放り出すからいけないんだろ。り太郎の学費だってどうするんだよ」
「さあ、学資保険は確か小さい頃に入ってたよな」
「あんなもん、受験費用と入学金と初年度の学費で消えたわ」
「そうなのか」
「残り3年分はしっかり貯めておいたの」
「じゃあそれを返せよ」
「り太郎はあなたを選んだのよ。責任を持ってちゃんと卒業させる義務は、そっちにある」
「あんまりだろ。それでも母親かよ」
「はい。愛情を注いで育てて、反抗期でボロカスに言われて、夫からも都合のいい扱いを受けて、それでも家族を愛してたのに、あっさり捨てられた母親ですけど、何か?」
「悪かったよ。でも、好きな女ができたんだから仕方ないだろう。ええ、お前にもきっといい人が現れると思うし、幸せになってほしいと思ってるんだ」
「付け足したようなことを言われても響かないわね。クソが。結局あなたの本音はそれなのよ。人を見下して、利用価値がなくなれば平気でこき下ろす。俺は幸せになってやる。り太郎の学費くらいすぐに稼いでやるわ。後悔すんなよ」
数日後、私は息子から新しい恋人を紹介された。若くて綺麗な女。名前は乃花といった。
「りんちゃん、私がママになって嬉しい?」
「まあ、そうっすね」
「やってみたら、毎日お仕事で忙しいじゃん」
「あの、どうして父さんと一緒になろうと思ったんですか?」
「うーん。大人の余裕っていうか、毎日可愛いとか好きとか褒めてくれるし。出会いはね、私、小さなスナックで働いてたの。そこでママからきつく当たられて、外で泣いちゃったの」
「そうなんですね」
「で、ヤッくんが追いかけてきて慰めてくれたんだ。俺が助けるから、こんなに辛い仕事しなくていいよって」
「それって実質プロポーズ的なことですか?」
「うん。妻とは離婚するから、少し待ってくれって言われた」
「なるほど」
「うちらの話はどうでもいいんだけど。りんちゃん、デートしようよ」
「あの、昼間はないでしょ」
「だから、その間の相手はりんちゃんの役目なの」
「いや、俺も大学あるんで」
「朝から晩までってことはないでしょ。洋服一緒に選んでほしいな。あとランチして映画も見たいかも」
「そんなことしてたら父さんに怒られますよ」
「大丈夫だよ。息子と遊びに行くだけだもん」
「無理です」
「なんで? ちょっとくらい付き合ってくれてもいいじゃん」
「絶対嫌です」
「ケチ」
「そんなことしたら、好きになっちゃうので。初めて会った時から、なんていうか、やばくて。だからあえて距離取ってたのに。そんなデートみたいなことしたら、俺、我慢できないっすよ」
「りんちゃん、今めっちゃキョドった」
「いや、だからダメなんですって」
「やだ。デート行きたい」
「デートだけで終わる自信ないですけど」
「私もそのつもりだよ」
「なあ母さん。大学休める?」
「はい。休みます」
数日後、義母から電話がかかってきた。
「おい、り太郎! お前、一体何考えてんだよ。乃花とデートしたな。俺に言ったよな? 一緒に出かけたよって。買い物と飯だけだと思ってたが、ホテルまで行ったのは知らないぞ。証拠の写真まである」
「え? 2人で入って、出てくるまで2時間。それは父親の女に手を出すなんて、よくできたな」
「違うんだ。乃花さんに無理やり誘われて」
「嘘つけ。お前もニコニコ笑ってるじゃねえか」
「カラオケ屋がいっぱいで、だったらいいところあるよって連れて行かれただけ」
「そんな言い訳、信じられると思うか?」
「なんでそんな写真持ってるんですか?」
「俺の行きつけのスナックのママが見せてくれたんだ」
「なんでスナックのママが乃花さんを尾行してるんですか?」
「それは分からない。俺たちが付き合ってることは言ってないから、ゴシップ的な感じで見せてきただけだと思うが」
「乃花さん、そういう束縛する男、嫌がるから言わない方がいいと思うけど」
「お前、随分と詳しいんだな」
「父さんが仕事でいない間、俺が相手してるんだよ。そのくらいの会話になることだってあるだろう」
「相手って何だ? 会話だけじゃなさそうだな」
「だから何にもしてないってば」
「信用ならん。お前は出ていけ。学費も自分で稼げ」
「マジで言ってるんですか?」
「もちろん」
「息子より女を取るのかよ」
「当たり前だろ。お前のことなんて、1ミリも可愛いと思ったことなんてねえよ」
「味方してやったのに」
「誰が頼んだ? 自分が若くて美人の新しい女を選んで、長年連れ添った妻を捨てたんだろ。俺を攻める資格なんて、お前にはないぞ」
「分かってるよ。大学なんて辞めてしまえ。その程度の学歴、あってもなくても同じだ」
「俺がどんな思いで受験したか、知らねえよな」
「知るか。だよな。俺を見ててくれたのは母さんだけだった。今さら悔やんでも遅いんだよ。ママに泣きついてみるか。あいつは甘いから許してくれるかもな」
「もういいよ。世話になったね。さようなら」
息子は家を出た。そして、彼は私のもとへやってきた。
「俺も家を出たよ。というか、追い出されたんだけど」
「え?」
「とりあえず、父さんと浮気相手の再婚は阻止しておいた」
「何? どういうことなの?」
「久しぶりに実家でゆっくりできた?」
「心は穏やかじゃなかったかもしれないけど、家事に追われることもなく休めたかなと思って」
「ちょっと待ってよ。ちゃんと説明して」
「父さんの味方をするふりをした。敵を欺くには味方から、と思って人芝居打った」
「はあ?」
「傘にはひどいこと言ってごめん」
「えっと、全然ついていけない。頭が回らないわ」
「俺さ、父さんが浮気してるの、気づいてたんだよね」
「まあ、私でも気づくぐらいだから、そうよね」
「母さんが出ていって、父さんだけが幸せになるのは、どう考えても違うだろうと思って、家に残ることにした」
「だったらそう言いなさいよ。そしたら母さんは出ていかないだろう」
「俺が残る以上、母さんは俺を見捨てない。でも、出ていった。だから、ひどいことを言って怒らせる必要があった」
「だとしても言いすぎたけど。ごめんなさい」
「もう、子供の嘘も見抜けないなんて、母親失格だわ。その上、学費払わないとか大人げないことして」
「あれはビビったね。でも、もし誤解が解けなくて中退してもよかったんだ。父さんさえ不幸になってくれれば」
「どうしてそこまで?」
「ありがとうとか、ごめんなさいとか、そういうのは俺が教えられてきたよ。でも、母さんに無神経なことを言って傷つけたり、毎日遅くまで家のことをしてる母さんに対して、父さんが言葉をかけてるのを見たことがなかった」
「りん太郎、子供の頃からずっとおかしいと思ってたんだ」
「ああ、やっぱり子供はちゃんと見てるのね。でも、次第に俺も、ありがとうすら言えなくなってた。恥ずかしいというか、照れるっていうか。言わなくても分かるだろう、みたいな」
「うん。反抗期が長引いたんじゃない。感謝してるのに口に出せない自分が嫌で、母さんと距離を取ろうとしてただけなんだよ」
「あんたって怖い」
「俺、謝罪なんていいのよ。普通に喋ってくれれば、それだけで良かったのに。とにかく色々とごめん」
「もういいから、会って話しましょう。じいちゃんとこまで来れる?」
「直接話したかったから、実は今もう向かってる。今日はたまたま焼き肉の予定なの。り太郎が来るなら、お肉買い足さなきゃね」
「え? 一緒に食べていいの?」
「当たり前でしょ。子供にご飯を食べさせない親がいる? 大学は遠くなるけど通えるわね」
「辞めなくていいの?」
「当たり前じゃない。こっちには金があんのよ」
「そうだった。俺も面白い話が山ほどあるんだ。楽しみにしてて。ビールも買い足しておくわ」
数日後、夫が私の実家に現れた。
「離婚を撤回してくれないか」
「寝ぼけてるの? 今日、休みでしょ? もう少し寝たら正気になるわ」
「本気で言ってる」
「幸せな人が言うセリフじゃないわね」
「何もかも失った。支え続けてくれた妻も、息子も、若い女も。だから戻ってこい。償いはする。慰謝料も払うし。今後、家のことはできる限り手伝うつもりだ」
「具体策がゼロね。できる限り、つもり。これのどこを信用すればいいのよ」
「頼むよ。俺はボロボロなんだ」
「愚痴を聞いてる暇はないのよ。午後からり太郎と出かける予定なの」
「あ、あいつ、そっちにいるのか」
「うん。許してやったってこと?」
「まあ、そんなところね」
「だったら俺のことも許してくれよ」
「それは無理よ。り太郎は裏切ってないけど、あなたは私を傷つけただけじゃない」
「いや、あいつだってひどいこと言っただろう」
「あれは全部、私のためだったの。私にひどいことを言って家から追い出して、自分は浮気の本性を見極めるために家に残ったのよ」
「なんだそれ?」
「あの女、乃花はり太郎を誘惑した。逆だろ? りん太郎が誘ったんじゃないのか」
「あの子は乃花さんとの会話を全て録音してたわ。ホテルに入ってから出てくるまでは、動画も回してたみたいよ」
「なんで?」
「何もしてないことの証明が一番難しいからだって。確かに2時間カラオケして出てきたんだっけ。でも、あんな写真を見たら誰だって疑うだろう」
「そもそも、その写真があること自体がおかしいと思わない? スナックのママが、なぜ乃花とりん太郎を尾行するの?」
「それはおかしいな」
「尾行したのはママじゃなくて、スナックのお客さんが依頼した探偵だそうよ。乃花は複数の客に結婚を匂わせてたの。それをママに怒られて泣いてたところを慰めたのが、あなたってわけ」
「なんでお前が知ってんだよ」
「ちょっと前にりん太郎と飲みに行ってきたのよ。個室で落ち着く店ね。十曲も歌っちゃった。乃花の本性を知るために行ったの」
「ママは乃花の若さと美貌に嫉妬して、ネチネチと嫌味を言ってたんじゃなかったのか」
「逆よ。大事なお客さんを守るために厳しく当たったの。経営者として当然のことをしただけ。乃花は、金を引き出す担当と、自分の好みの男性とをうまく使い分けてる。あなたは搾取で、り太郎は小遣いだったってわけ」
「ふざけんな。やっぱり俺は被害者じゃないか」
「そう思うなら訴えれば? もう私たちには関係ないので、勝手にどうぞ」
「いや、まだチャンスはあるよな」
「どこに?」
「20年も家族やってきたんだぞ。絆があるだろう」
「息子のことを1ミリも可愛いと思ったことがないとか、散々ひどいことを言ったくせに、よく言うわ」
「だったら、り太郎がお前に言ったことだって、取り返しがつかない暴言だろ」
「そうね。あれは確かに傷ついただろう。俺もあいつも同じじゃないか」
「でも、あの子は昔から不器用でね。中学生の頃かな。母の日にカーネーションをくれたんだけど、その時に言った言葉が『道に落ちてたからやるよ』だったのよ」
「たまたま拾ったんだろう」
「違う。分かってないわね。買ってきたなんて恥ずかしくて言えないの。そういう紛らわしい嘘をつく子なのよ。私はそれをすっかり忘れて、あの子を信じなかった」
「じゃあみんな悪いってことで、両成敗でいいな」
「なんかやたらと話に入ってこようとするの、やめてくれる? あなただけは別なんだから」
「俺にはお前たちしかいないんだよ。家族だろ」
「あなたが紹介してくれた弁護士さんが離婚届を持ってきてくれたから、先週出してるわ。もう他人よ」
「取り消しだ。あ、いや、再婚しよう。プロポーズするから受けてくれ。1億のダイヤをもらっても、あなたとは一緒になりません」
その後、私は浮気の証拠を元に、夫と乃花の両方に慰謝料を請求し、支払わせました。財産分与は土地の価値が高騰していたこともあり、預金だけでは清算にならず、結局家と土地も売却することになり、夫は住む場所まで失ったのです。
かなりの痛手だったのか、夫は乃花に「今まで使ったお金を返せ」という、なんともせこい裁判を起こしたそうです。当然取り返せるはずもなく、弁護士費用をドブに捨てただけとなりました。
一方、乃花には私の夫の他にも複数の男性がいました。全員に結婚を匂わせて生活費を引き出していたのです。被害にあった男性同士が掲示板を通じてつながったことで、結婚詐欺師の手口が業界内で噂になったそうです。乃花は次の相手を見つけようとあちこちの店を渡り歩いていますが、新しい標的探しにも苦戦しているとか。
私は今、実家で父と母、そして息子の4人で新しい暮らしを始めています。財産分与のおかげで生活費の心配もなく、り太郎と笑い合える毎日が久しぶりに戻りました。夫の存在は私にとってはよほど重荷だったのでしょう。今は驚くほど心が軽くなりました。不器用で反抗的だったり太郎は別人のように変わり、素直でまっすぐに感謝を伝えてくれる立派な青年になってくれました。この自慢の息子が社会に育つまであと少し。貴重な時間を大事に、1日1日過ごしていこうと思います。



