夫の口座に、明細にはないホテル代が並んでいるのを見つけた日の夜、私は夫の鞄にボイスレコーダーを忍ばせた。翌日、再生されたデータには、私が知らない女との甘い声が録音されていた。「年を取ったお前が悪いんだろ?」そう開き直った夫の言葉に、私の20年は一瞬で色を失った。離婚を切り出すと、大学生の息子まで父の味方についた。「母さんみたいなおばさんと暮らすなんて罰ゲームだよ」—…

夫の口座に、明細にはないホテル代が並んでいるのを見つけた日の夜、私は夫の鞄にボイスレコーダーを忍ばせた。翌日、再生されたデータには、私が知らない女との甘い声が録音されていた。「年を取ったお前が悪いんだろ?」そう開き直った夫の言葉に、私の20年は一瞬で色を失った。離婚を切り出すと、大学生の息子まで父の味方についた。「母さんみたいなおばさんと暮らすなんて罰ゲームだよ」—...

口座から約100万円が消えているのが発覚したのは、いつものように家計を確認した日のことでした。
「どういうこと? 生活費の口座から100万近く消えてるけど。何に使ったの?」
夫は動じることなく、探偵でも雇ったのかと嫌味を言いました。
「誰か探してるのか? だったら相談してくれればよかったのに」
「財産分与は請求してもいいわ。ただ、慰謝料はもらうから、そっちの出費が多いのは変わらないと思うけど」
「何の話をしてるんだ?」
「もう疲れたの。今さらごまかさないで。浮気してるのは知ってるから」
夫は否定しましたが、私は証拠を突きつけました。ホテルへの出入りが複数回確認できていること。すると夫は「それは体調が悪くなって」と言い訳を始めました。
「じゃあその人と話をさせて」
「やましいことはないんだから、会わせる必要はないだろう」
「これ以上ごまかすつもりなら、離婚よ」

夫は信じられない言葉を口にしました。
「これで元通りに戻れると思ってるのか? 俺の稼ぎがなくなって、どうやって暮らしていくつもりだ?」
「誰が?」
「お前とり太郎に決まってるだろう。あいつはまだ大学生だ。学費はどうするんだ」
「学費はもう貯めてあるわ。4年で卒業してくれたらの話だけど。あなたはどうするの?」
「離婚した後に私がどうしようと、あなたには関係ないでしょ」
「なんでそんな話になるんだ」
「気持ち悪いの。もう一緒にいられないから」
夫は開き直りました。
「浮気の1度や2度、別にいいだろう」
その後、私は持っていた音声データを再生しました。夫の鞄にボイスレコーダーを忍ばせていたのです。
「それ、盗聴だぞ!」
「どうぞ訴えてください。そのくらいの覚悟を持ってやってるの。楽しそうな声がたくさん入ってたわ」
夫はようやく謝罪しましたが、続けて信じられない言葉を口にしました。
「お前にも原因はあると思わないか?」
「例えば? 言ってみて」
「年を取ったじゃないか」
「あなたは取ってないの? 20年前から何も変わってないって言えるわけ?」
「男と女は違うだろう」
「だから若い子に走ったのね」
「そうだ」
私は決意を固めました。
「いいじゃない。私も離婚して素敵な人を見つけたいし、これからは別々で生きていきましょう」

すると夫は提案しました。
「こうしないか。お互い自由にしながら、結婚生活を続ける」
「何のために?」
「世間体というか、子供のためというか」
「り太郎はもう成人してるのよ。それに世間なんて私は気にしない」
「離婚となれば手続きとか面倒だろう」
「はんこに名前を書くだけよ」
「ふざけるな。一方的に終わるなんて許さない」
「浮気した分際で何言ってるの?」
「もういいでしょう。お互いいい年なんだし、恋だの愛だのって年じゃないだろう」
「外で恋してるくせに」

私は実家に帰ることにしました。息子のり太郎には「お父さんに聞いて」とだけ伝えました。
「まさか浮気してたとか?」
「あなたももう20歳だもんね。隠さなくてもいいか。その通りよ」
すると息子は驚くべき反応を見せました。
「はあ。親父やるじゃん」
「は? そのくらいで狼狽えるなよ。だせえな」
「何言ってるの?」
「男の甲斐性ってやつだろ? 浮気もできないダメ男よりマシじゃん」
「あなた、お父さんの味方なの?」
「そりゃそうだろう。力がある父さんの方が神だし。父さんが浮気したのは、母さんがバカだからだろう」
私は言葉を失いました。
「本気で言ってる?」
「専業主婦で寄生してる母さんのどこを尊敬できるのか、逆に教えて欲しいんだけど」
「あなたね、大体反抗期なんて中学生で終わるものよ」
「反抗してるつもりはないけど、母さんがいつまで経っても説教臭くてだるいだけ」
「あなたが20歳過ぎてもしっかりしないからでしょ」
「そういうとこ、マジで父さんみたいにほっといてくれたらいいのに」
「あの人は子育てなんてしてないじゃない」
「あのくらいでちょうどいいんだよ」
「よく言うわ。一人で何もできないくせに」
「あ、別に次の奥さんが来るなら、それでよくない?」
「何それ? よくそんなことが言えるわね」
「母さんだって俺の面倒を見ずに済むんだからラッキーじゃん」
「いい年して、まだ誰かに面倒を見てもらうつもりなの?」
「だってまだ大学生だもん」

数日後、夫の新しい彼女が家に来るという話を聞いたのは、息子を通じてでした。
息子は完全に父側の人間になっていました。
「父さん、浮気したの?」
「ああ、母さんが出ていくらしいよ」
「相手ってどんな人?」
「28歳で、中身は大人っぽいんだぞ」
「へえ。いいじゃん。若いだけじゃないんだ」
「めちゃくちゃ綺麗だ」
「マジかよ。最高じゃん」
「だろう? やっぱり男は若くて美人がいいよな」
「当たり前じゃん。母さんみたいなおばさんと一生暮らすなんて、何の罰ゲームだよって話」
「やっぱりお前は俺の息子だな」
「母さんも実家に帰ったし、このまま離婚しちゃえばいいんじゃない?」

私は荷物をまとめて家を出ました。
夫は「勝手にしろ」とだけ言い、息子は残ることを選びました。
「りん太郎は残る。そうよ。色々と頼んだわね」
「息子も敵になったか。惨めだな」
「そうね。手のかかる子ではあったけど、愛情は伝わってると思ってたからショックだわ」
「まあ、お前は家族の誰からも必要とされてなかったってことだ」
「そうみたいね。もうどうでもいいわ。反論する気にもならない」
「離婚の手続きは弁護士を通すから」
「お任せします」
もう二度と、この人たちと関わらないで済むと思うと、少しだけ心が軽くなりました。

数日後、夫の新しい彼女が家に越してきたと息子から聞かされました。
私は離婚が成立していないことを告げましたが、息子は「どっちみち離婚するんだから一緒じゃん」と訳の分からない理屈を言いました。
「私たち、まだ離婚も成立してないのよ」
「どっちみち離婚はするし、慰謝料も請求されるんだから一緒じゃね?」
「だからって、こんな裏切りはあんまりだわ」
「まあしょうがないよ。俺は、俺がいいと思った方について行くだけ」
私は決断しました。
「分かった。じゃあ、残り2年分の学費の支払いはなしで」
「は?」
「バイトでもするか、お父さんに頼みなさい」
「それは違うだろう! 大体、母さんが学費を出してたわけじゃないだろ?」
「生活費を切り詰めて住宅ローンを払いながら、貯蓄もしてきたの。離婚する以上、家と土地、そして預金は折半よ。あなたたちが今の家に住むのであれば、私は預金をいただくことにする」
「いや、それはおかしいだろう!」
「じゃあ、家を売ってそのお金を半分くれるかしら。だったら預金はお返しするわ」
「俺に言われても困るんだけど」
「大好きなお父さんに伝えておきなさい」

数時間後、夫から電話がかかってきました。
「り太郎から聞いたぞ。家の金を持って出ていくとは何事だ?」
「説明、聞いてないの?」
「生活費の口座も空っぽじゃないか」
「もう月末ね。色々と引き落としがあるから、早く入金した方がいいわ」
「どうやればいいんだ」
「いい年した大人が、そんなことも知らないの? あなたの仕事でしょ? 追い出された私が、家計の心配なんてする気はないわ」
「お前、新しい女性と住んでるんでしょ? 彼女にお財布の管理をお願いしたらどう?」
「それはまだ信用ならないというか」
「は? そんなレベルの人を家に入れたの? 顔と見た目だけで信用はゼロ。すごいわね」
「お前が何もかも放り出すから、いけないんだろ。り太郎の学費だってどうするんだよ」
「さあ? 学資保険は確か小さい頃に入ってたわよね?」
「あんなもん、受験費用と入学金と初年度の学費で消えたわ」
「そうなのか」
「残り3年分はしっかり貯めておいたの」
「じゃあそれを返せよ!」
「り太郎はあなたを選んだのよ。責任を持って、ちゃんと卒業させる義務はそっちにある」
「あんまりだろ。それでも母親かよ」
「はい。夜で育てて、反抗期でボロクソに言われて、夫からも家政婦扱いされて、それでも家族を愛してたのに、あっさり捨てられた母親ですけど、何か?」
夫は声のトーンを変えて、急に優しくなりました。
「悪かったよ。でも、好きな女ができたんだから仕方ないだろう。お前にもきっといい人が現れると思うし、幸せになってほしいと思ってるんだ」
「付け焼き刃のようなことを言われても、響かないわね」
「クソが」
「結局あなたの本音はそれなのよ。人を見下して、利用価値がなくなれば平気でこき下ろす。私は幸せになってやるわ。り太郎の学費くらい、すぐに稼いでやる。後悔しないでよ」

それから数日後、息子は父の新しい彼女と親しくなっていました。
「りんちゃん、私がママになって嬉しい?」
「まあ、そうっすね」
新しい彼女は息子には「ヤッくん」と呼ばせ、息子を「りんちゃん」と呼び、デートをせがむようになりました。
「りんちゃん、デートしようよ」
「夜、働いてるんでしょ?」
「だから、その間の相手はりんちゃんの役目なの」
「いや、俺も大学あるんで」
「朝から晩までってことはないでしょ?」
「まあ、そうですけど」
「洋服、一緒に選んで欲しいな。あとランチして、映画も見たいかも」
「そんなことしてたら、父さんに怒られますよ」
「大丈夫だよ。息子と遊びに行くだけだもん」
「無理です」
「なんで? ちょっとくらい付き合ってくれてもいいじゃん」
「絶対嫌です」
「ケチ」
「そんなことしたら、好きになっちゃうので」
「え?」
「初めて会った時から、なんていうかヤバくて。だからあえて距離を取ってたのに、そんなデートみたいなことしたら、俺、我慢できないっすよ」
「りんちゃん、今めっちゃキョドった」
「いや、だからダメなんですって」
「やだ。デート行きたい」
「デートだけで終わる自信ないですけど」
「私もそのつもりだよ」

数日後、私は息子から連絡を受けました。内容は驚くべきものでした。
「なあ母さん。大学、休める?」
「はい。休みます」

そして、さらなる展開が起こりました。夫が息子を問い詰めているのです。
「おい、りん太郎、お前、一体何考えてんだよ。あの女とデートしたな?」
「それは言ったよな。一緒に出かけたよって」
「買い物と飯だけだと思ってたが、ホテルまで行ったのは知らないぞ」
「え?」
「証拠の写真まである。二人で入って、出てくるまで2時間。父親の女に手を出すなんて、よくできたな」
「違うんだ。あの人は無理やり誘ってきて」
「嘘つけ。お前もニコニコ笑ってるじゃないか」
「カラオケ屋がいっぱいで、だったらいいところあるよって、連れて行かれただけ」
「そんな言い訳、信じられると思うか?」
「なんでそんな写真を持ってるんだ?」
「俺の行きつけのスナックのママが見せてくれたんだ」
「なんでスナックのママが、あの人を尾行してるんだよ?」
「それは分からない。俺たちが付き合ってることは言ってないから、コシップ的な感じで見せてきただけだと思うが」
「あの人、そういう束縛する男、嫌がるから言わない方がいいと思うけど」
「お前、随分と詳しいんだな」
「父さんが仕事でいない間、俺が相手してるんだよ。そのくらいの会話になることだってあるだろう」
「相手って何だ? 会話だけじゃなさそうだな」
「だから、何にもしてないってば!」
「信用ならん。お前は出ていけ。学費も自分で稼げ」
「マジで言ってるの?」
「もちろんた!」
「息子より女を取るのかよ!」
「当たり前だろ。お前のことなんて、1ミリも可愛いと思ったことなんてねえよ」
「味方してやったのに」
「誰が頼んだ? 自分が若くて美人の新しい女を選んで、長年連れ添った妻を捨てたんだろ? 俺を攻める資格なんて、お前にはないぞ」
「分かってるよ。大学なんて辞めてしまえ。その程度の学歴なんて、あってもなくても同じだ」
「俺がどんな思いで受験したか、知らないんだろ?」
「知るか」
息子は家を出て行きました。
夫の最後の言葉は、あまりにも寒々しいものでした。
「ママに泣きついてみるか? あいつは甘いから、許してくれるかもな」
息子は振り返りもせずに言いました。
「もういいよ。世話になったね。さようなら」
そして、最後に一言だけ付け加えました。
「ああ、最後に言い忘れてたんだけど」
「何だ?」
「『若い体の方がいい』って言い寄ってきたのは、あの女の方だから」
「は?」
「『爺のカレシとぶよぶよのお腹はキモいんだって』って言ってたよ」
「嘘だ! 俺は信じない!」
「あっそ。本人に確認しろよ。じゃあな」

翌日、夫は新しい彼女に問い詰められていました。
「り太郎はこの家を出ていったよ」
「は? なんで?」
「あの人は怒らないから、正直に言ってほしい。りん太郎とホテルに行ったよな」
「え? 知ってるんだ」
「まあ、言ったね。何もしてないけど」
「悪いけど、それは信じられない」
「あの子を疑うの?」
「男女が2時間も一緒にいて、さすがにそれは無理があるよ」
「私だってそう思ったよ。でも本当に、りんちゃんは何もしなかったの」
「そういうことにしておいてあげるよ。でも、2回目はなしだよ」
「は? どういう意味?」
「俺と一緒になる以上、他の男とそういうことはしないで欲しいんだ」
「なんで?」
「好きだからに決まってるだろう」
「じゃあ、りんちゃんがいないなら、私も出てく」
「はあ? なんで?」
「昼間ずっと一人だし、りんちゃんの方が話が合うし。ご飯とか洗濯とか飽きちゃったし。ヤッくん臭いし」
「は?」
「じゃあ、りんちゃんはどこ? 会いたい。私、あの子と結婚したい」
「待ってくれよ。あいつはまだ大学生だぞ」
「学費、私が夜の仕事して稼ぐよ」
「何言ってんだよ!」
「私に手を出さなかったの、あの子だけなの。そんなの初めてで、なんかすごく嬉しかった。そりゃあ、あいつは経験もないし照れ屋なだけかもしれないけど。自分の息子のことを、そんな風に言うヤッくんなんて大嫌い。あの子にバイバイ」

こうして、夫はすべてを失いました。

数日後、私は息子から連絡を受けました。
「なあ母さん。俺も家を出たよ」
「どういうこと?」
「というか、追い出されたんだけど。えっと…とりあえず、父さんとあの女の再婚は阻止しておいた」
「何? どういうことなの?」
久しぶりに会った息子は、別人のように穏やかな顔をしていました。
「実家でゆっくりできた? 心は穏やかじゃなかったかもしれないけど、家事に追われることもなく、休めたかなと思って」
「ちょっと待ってよ。ちゃんと説明して」
「父さんの味方をするふりをした。敵を欺くには味方から、と思って芝居を打った。母さんにはひどいこと言ってごめん」
「えっと…全然ついていけない。頭が回らないわ」
「俺さ、父さんが浮気してるの、気づいてたんだよね」
「まあ、私でも気づくぐらいだから、そうよね」
「母さんが出ていって、父さんだけが幸せになるのは、どう考えてもおかしいだろうと思って、家に残ることにしたんだ」
「だったら、そう言いなさいよ。そしたら、母さんは出ていかなかっただろう?」
「俺が残る以上、母さんは俺を見捨てない。でも出ていった。だから、ひどいことを言って怒らせる必要があったんだ」
「だとしても、言いすぎたけどごめんなさい」
「もう…子供の嘘も見抜けないなんて、母親失格だわ」
「その上、学費を払わないとか大人げないことして」
「あれはビビったね。でも、もし誤解が解けなくて縁が切れても、よかったんだ」
「父さんさえ不幸になってくれれば」

私は息子の思いに気づき、胸が熱くなりました。
「どうしてそこまで…」
「『ありがとう』とか『ごめんなさい』は、母さんに教えられたよ。でも、母さんに無神経なことを言って傷つけたり、毎日遅くまで家のことをしてる母さんに対して、父さんが言葉をかけてるのを見たことがなかった。子供の頃からずっと、おかしいと思ってたんだ」
「ああ…やっぱり、子供はちゃんと見てるのね」
「でも次第に、俺も『ありがとう』すら言えなくなってた。恥ずかしいというか、照れるっていうか。言わなくても分かるだろう、みたいな」
「反抗期が長引いたんじゃない?」
「感謝してるのに口に出せない自分が嫌で、母さんと距離を取ろうとしてただけなんだよ」
「あんたって、怖い子ね」
「いや、礼なんていいのよ。普通に喋ってくれれば、それだけで良かったのに。とにかく、色々とごめんね」
「もういいから、会って話しましょう。じいちゃんのところまで来れる? 直接言いたかったから、実は今もう向かってる」
「今日はたまたま焼肉の予定なの。り太郎が来るなら、お肉も買い足さなきゃね」
「え? 一緒に食べていいの?」
「当たり前でしょ。子供にご飯を食べさせない親がいる?」
「ありがとう。大学は遠くなるけど、通えるわね」
「辞めなくていいの?」
「当たり前じゃない。こっちには金があるのよ」
「そうだった。俺も面白い話が山ほどあるんだ。楽しみにしてて」
「ビールも買い足しておくわ」

数日後、夫が現れました。
「離婚を取り下げてくれないか」
「寝言? 今日は休みでしょ? もう少し寝たら正気になるわよ」
「本気で言ってる」
「幸せな人が言うセリフじゃないわね」
「何もかも失った。支え続けてくれた妻も、息子も、若い女も。戻ってこい」
「償いはする。慰謝料も払うし、今後家のことはできる限り手伝うつもりだ」
「具体策がゼロね。『できる限り』『つもり』…これのどこを信用すればいいのよ」
「頼むよ。俺はボロボロなんだ」
「愚痴を聞いてる暇はないのよ。午後からは太郎と出かける予定なの」
「あ、あいつ、そっちにいるのか」
「うん。許してやったってこと?」
「まあ、そんなところね」
「だったら、俺のことも許してくれよ」
「それは無理よ。り太郎は裏切ってないけど、あなたは私を傷つけただけじゃない」
「いや、あいつだってひどいこと言っただろう?」
「あれは全部、私のためだったの。ああ、私にひどいことを言って家から追い出して、自分は浮気の本性を見極めるために家に残ったのよ」
「何だそれ?」
「あの女はり太郎を誘惑した」
「逆だろ? りん太郎が誘ったんじゃないのか?」
「あの子はあの女との会話を、全て録音してたわ。ホテルに入ってから出てくるまでは、動画も回してたみたいよ」
「なんで?」
「何もしてないことの証明が一番難しいから、だって」
「確かに、2時間カラオケして出てきたんだっけ? でも、あんな写真を見たら、誰だって疑うだろう」
「そもそも、その写真があることがおかしいと思わない?」
「それはスナックのママが…あ、確かに変だな。なんでママがあの女とりん太郎を尾行するんだ?」
「尾行したのはママじゃなくて、スナックのお客さんが依頼した探偵だそうよ」
「は?」
「あの女は、複数の客に結婚を匂わせてたの。それをママに怒られて泣いてたところを慰めたのが、あなたってわけ」
「なんでお前が知ってんだよ?」
「ちょっと前に、りん太郎と飲みに行ってきたのよ。個人経営で落ち着くお店ね。10曲も歌っちゃった」
「あの女の本性を知るために行ったの」
「ママは、若さと美貌に嫉妬してネチネチと嫌味を言ってたんじゃなかったのか?」
「逆よ。大事なお客さんを守るために、厳しく当たったの。経営者として当然のことをしただけ」
「そんな…」
「あの女は、金を引き出す担当と、自分の好みの男性とを使い分けてた。あなたは『財布』で、り太郎は…『カッコ』だったってわけ」
「ふざけるな! やっぱり俺は被害者じゃないか!」
「そう思うなら訴えれば? もう私たちには関係ないので、勝手にどうぞ」

それでも夫は食い下がりました。
「まだチャンスはあるよな?」
「どこに?」
「20年も家族やってきたんだぞ。絆があるだろう」
「息子のことを『1ミリも可愛いと思ったことがない』とか、散々ひどいことを言ったくせに、よく言うわ」
「だったら、り太郎がお前に言ったことだって、取り返しがつかない暴言だろ?」
「そうね。あれは確かに傷ついただろう。俺もあいつも、同じじゃないか」
「でも、あの子は昔から不器用でね。中学生だったかな。母の日にカーネーションをくれたんだけど、その時に言った言葉が、『道に落ちてたからやるよ』だったのよ」
「たまたま拾ったんだろう」
「違う。分かってないわね。『買ってきた』なんて恥ずかしくて言えないの。そういう紛らわしい嘘をつく子なのよ。私はそれをすっかり忘れて、あの子を信じなかった」
「じゃあ、みんな悪いってことで、両成敗でいいな」
「なんかやたらと結論に入ってこようとするの、やめてくれる? あなただけは別なんだから」
「俺にはお前たちしかいないんだよ。家族だろ?」
「あなたが紹介してくれた弁護士さんが離婚届を持ってきてくれたから、先週出してるわ。もう他人よ」
「取り消しだ! あ、いや、再婚しよう。プロポーズするから、受けてくれ」
「1億のダイヤをもらっても、あなたとは一緒になりません」

その後、私は浮気の証拠を元に、夫とその相手の両方に慰謝料を請求し、支払わせました。
財産分与は、土地の価値が高騰していたこともあり、預金だけでは折半にならず、結局家と土地も売却することになり、夫は住む場所まで失ったのです。
かなりの額だったのか、夫は相手に「今まで使ったお金を返せ」という、なんともせこい裁判を起こしたそうです。
当然、取り返せるはずもなく、弁護士費用をドブに捨てただけとなりました。

一方、あの女には、夫の他にも複数の男性がいました。
全員に結婚を匂わせて、生活費を引き出していたのです。
被害にあった男性同士が掲示板を通じてつながったことで、その女の手口が業界内で噂になったそうです。
あの女は次の相手を見つけようとあちこちのお店を渡り歩いていますが、息子曰く「言うほど美人ではなかった」とのことで、新しい獲物探しにも苦戦しているとか。

私は今、実家で父と母、そして息子の4人で新しい暮らしを始めています。
財産分与のおかげで生活費の心配もなく、息子と笑い合える毎日が、久しぶりに戻りました。
夫の存在は、私にとってはよほど重荷だったのでしょう。今は驚くほど心が軽くなりました。
不器用で反抗的だった息子は、別人のように変わり、素直でまっすぐに感謝を伝えてくれる、立派な青年になってくれました。
この自慢の息子が社会に出て育つまで、あと少し。
貴重な時間を大切に、一日一日を過ごしていこうと思います。

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