夫にタブレットを渡して充電器を探してもらおうとしたその瞬間、画面にメッセージの通知が表示された。送り主は、私たちが養子に迎えた息子の実母・れ子さん。そこにはこう書かれていた。「裕介が合格してよかった。あなたの息子なんだから、卒業までよろしくね。」夫が、私の知らないところで彼女と連絡を取り合っていた。私は震える手で過去のやり取りを開いた。そこには、私が不妊治療で苦しんでいた頃から続く、夫とれ子…

夫にタブレットを渡して充電器を探してもらおうとしたその瞬間、画面にメッセージの通知が表示された。送り主は、私たちが養子に迎えた息子の実母・れ子さん。そこにはこう書かれていた。「裕介が合格してよかった。あなたの息子なんだから、卒業までよろしくね。」夫が、私の知らないところで彼女と連絡を取り合っていた。私は震える手で過去のやり取りを開いた。そこには、私が不妊治療で苦しんでいた頃から続く、夫とれ子...

「これ、あなたが払ってくださいね」
息子の大学合格通知を前に、私は夫・光一に入学金の話を持ち出した。
夫の笑顔が一瞬で消えた。
「何を言ってるんだ。夫婦の貯金から出せばいいだろう」
「出しません」
夫の顔から血の気が引いた。
「裕介は俺たち二人の息子だろう」
「ええ、大事な息子よ」
私はすぐに隣で戸惑っている裕介を見た。
「裕介、今から話すことを聞いても、あなたが私の息子であることは変わらない」
裕介は不安そうに私を見つめた。
私はもう一度夫に向き直った。
「でも、あなたにとって裕介は私たちの息子ではない」
夫は何も答えなかった。この沈黙が全てを物語っていた。

私の名前はさち子。五十二歳。
光一と結婚したのは二十二年前、私が三十歳のときだった。
結婚すれば自然に子供を授かり、賑やかな家庭を作れる。そう信じていた。
ところが何年経っても子供はできなかった。
病院へ通い、何度も不妊治療を受けた。
薬の副作用で朝起き上がれない日もあれば、結果が出るたびに、町で赤ちゃんを抱く女性を見るだけで胸が苦しくなることもあった。
周囲からの「子供はまだ?」という何気ない言葉にも、何度も傷ついた。

治療を始めて四年、体も限界を迎えた頃、私は夫に言った。
「もうやめて、諦めようかな」
すると夫は少し考えてから提案した。
「養子を迎えるのはどうだ?」
「子供を育てられない女性がいる。生まれたばかりの男の子を養子に出したいと考えている」
そう説明された。
最初は不安だった。血の繋がらない子を、本当に自分のこととして愛せるのだろうか。
けれど初めて赤ん坊を抱いた瞬間、その不安は消えた。
小さな手が私の指を強く握ったのだ。
この子を幸せにしたい。心の底から思った。
私たちはその子を裕介と名付けた。
夜泣きをすれば交代で抱いた。初めて寝返りをした日、初めて立ち上がった日、初めて「お母さん」と呼んでくれた日。
その全てが私の宝物だった。
夫も裕介を可愛がった。私はそれを、養子だからこそ寂しい思いをさせたくないのだと受け取っていた。
まさか、本当の父親だからだとは夢にも思わなかった。

裕介が八歳になった頃、私は四十二歳で思いがけず妊娠した。
何度も諦め、もう二度と治療をしないと決めた後のことだった。
もしかしたら裕介のおかげで焦りがなくなったからかもしれない。
私は初めて自分のお腹で子供を育てた。年齢もあり、体は辛く厳しかった。
でも、それすら幸せと呼べるような気持ちだった。
そして周りの支えもあり、男の子・優太を出産した。
もちろん嬉しかった。可愛くて仕方がなかったけれど、養子である裕介への愛情が減ったことは一度もない。
優太は私が初めて産んだ息子。裕介は私を初めて母親にしてくれた息子。
どちらも掛け替えのない私の子供だ。
裕介も弟を可愛がってくれた。優太が泣けばそばへ行ってあやし、幼稚園へ通い始めれば手を繋いで歩いた。
年は離れていたが、二人は仲のいい兄弟になった。

ただ、子供たちが成長するにつれ、夫と私の意見は少しずつ食い違うようになった。特に裕介の進学についてだ。
裕介が中学三年になった頃、夫は言った。
「裕介は長男なんだから、私立高校へ行かせようと思う」
「でも、これから優太の教育費も必要よ。不妊治療に使ったお金も多く、私たちには住宅ローンも残っている」
県立にも裕介が目指せる学校はあったけれど、夫は譲らなかった。
「裕介にはできる限りのことをしてやりたい」
その言葉に私は反対できなかった。裕介が養子であることを、夫が気にしているのだと思ったからだ。
私は在宅の仕事を始め、家計を切り詰めた。外食を減らし、服を買うのも我慢した。
なんとか裕介を私立高校へ通わせた。

そして三年後、裕介は第一志望の私立大学へ合格した。
合格通知を見た裕介は、子供のように喜んだ。
「母さん、今まで本当にありがとう」
その言葉だけで、これまでの苦労が報われた気がした。
反抗期には口を聞いてくれない時もあった。それでも育ててきてよかった。心からそう思った。
しかし、大学から届いた案内を見て、私は現実へ引き戻された。
入学金や授業料、施設費に教材費。最初に必要な金額は百五十万円近くあった。
「これを出したら、次男の優太のために貯めてきた教育費がほとんどなくなるわ」
私が夫に言うと、当然のように帰ってきた。
「優太はまだ十歳だろう。また貯めればいい」
「簡単に言わないでよ。あなたは家計を知らないからそんなことが言えるのよ」
すると夫は声を荒げた。
「裕介は俺たちが望んで迎えた子だ。最後まで責任を持つのが親だろう」
その時の私は何も言い返せなかった。夫の言う通りだと思ったからだ。
私も裕介の進学を諦めさせたくない。ただ、優太の未来まで削ることには納得できなかった。

入学金の支払い期限まであと一週間となった日、夫から連絡があった。
「帰りが遅くなるから、保険の書類をポストに投函しておいてくれないか?」
私は夫の部屋に行った。書類を探していると、家族で以前使っていた古いタブレットが目に入った。
充電器に繋がれ、電源が入ったままだった。
その時、メッセージの通知が表示された。
送り主はれ子。れ子さんは裕介を産んだ女性。つまり、養子縁組をした母親だ。
裕介が十五歳になった時、本人の希望で一度会った。その時、れ子さんは私へ深く頭を下げた。
「裕介を育ててくださって、本当にありがとうございます」
私は彼女を、事情があって子供を手放した可哀想な母親だと思っていた。
けれど、画面に表示された文章を見て、体が動かなくなった。
「裕介が合格してよかった。あなたの息子なんだから、卒業までよろしくね」
あなたの息子。
何度読み返しても、そう書いてある。
家族共用だったタブレットには、夫のメッセージが同期されたまま残っていた。
私は震える手で過去のやり取りを開いた。
そこには、私が不妊治療で苦しんでいた頃から続く二人の会話が残されていた。
れ子さんの妊娠。そして、夫が父親であること。
「私には父親の分からない子供だと説明すること」
「さち子は子供を欲しがっている。養子にすれば、俺も自分の息子と暮らせる」
という言葉。
私は息ができなくなった。
私が母親になれたと喜んだ日。夫婦で家族を作れたと信じた時間。
あれは夫にとって、不倫を隠したまま自分の子供を家庭へ迎えるための計画だったのだ。
さらに、二人の関係は終わっていなかった。
裕介の成長を報告し、知らぬ間に会い、家計が苦しいと言いながら、夫はれ子さんへ定期的にお金を送っていた。
裕介が十五歳でれ子さんと会った日、れ子さんが夫と一瞬だけ目を合わせたことを思い出した。
あの時の私は気づかなかった。二人は私の目の前で、同じ秘密を共有していたのだ。
心が苦しかった。許せなかった。叫びたかった。
でも、私はすぐには夫を問い詰めなかった。
画面を保存し、送金履歴を確認し、必要な手続きだけを進めた。
私には守らなければならない息子が二人いるからだ。

数日後、裕介の大学合格を祝うという名目で、家族全員をリビングへ集めた。
夫は何も知らず、上機嫌だった。
「裕介、本当によく頑張ったな」
ただ、裕介は少し申し訳なさそうに言った。
「父さん、入学金は無理しなくていいから。俺、奨学金も調べるよ」
夫は私へ視線を向けた。
「さち子、明日にでも夫婦の口座から振り込んでくれ」
その瞬間、私は離婚届をテーブルに置いた。
「夫婦の口座からは出しません。あなたとれ子さんで払ってください」
夫の笑顔が消えた。
そして私は、二十年間隠されていた事実を話した。
「父さんが、俺の本当の父親なのか?」
夫は答えなかった。いえ、答えることができないのだろう。
「母さんを騙して、俺を育てさせたのかよ」
裕介の声が震えた。
夫は慌てて言った。
「違う。俺はお前を自分のそばで育てたかったんだ」
「だから母さんを利用したのかよ。母さんは、血の繋がっていない俺を十八年も育ててくれたんだぞ」
夫は私へ向き直った。
「確かに騙していたことは悪かった。でも、お前だって裕介を愛しているだろう。愛して育てたんだから、もう本当の親子じゃないか」
私は夫をまっすぐ見た。
「私が裕介を愛しているから許せってこと?」
夫は黙った。
「あなたが裏切ったのは夫婦の約束だけじゃない。不妊治療に耐えて、母親になりたいと願った私の気持ちを利用したのよ。私はやっと子供を迎えられたと思って泣いた。でも、あなたはその隣で計画通りだと思っていたの」
夫は目をそらした。
その態度に、裕介が俯いた。
「母さん、俺、大学は辞退する。俺のために弟の金まで使わなくていい。それに、俺がいなければ母さんはこんな目に」
私は強く名前を呼んだ。
「裕介、なんで自分を責めるのよ。あなたが生まれたことも、私の息子になったことも間違いじゃない。間違えたのはこの人たちよ」
私は裕介の手を握った。
「大学には行きなさい。あなたが自分の人生を諦めたら、この人の嘘に負けることになる」
「でも、母さん」
「あなたは私の息子です。それは誰にも変えられない」
裕介の目から涙がこぼれた。
夫は苛立ったように言った。
「じゃあ結局、さち子が学費を出せばいいだろう」
その一言で、最後の迷いも消えた。
「出しません。裕介を私立へ行かせたいと言い続けたのはあなたでしょ。父親として最後まで責任を取りなさい」
「二人分の学費や養育費なんて払えるわけないだろう」
「私には払わせようとしたでしょう。優太の養育費も裕介の学費も、二人の息子に必要なお金です。それから、私を長年騙した責任も取ってもらいます」
「そんな金、どこにあるんだよ」
「れ子さんへ送っていたお金を使えばいいんじゃない?」
夫は息を飲んだ。
「証拠は残してあります。今更、ごまかしてももう遅いわ」
私は二人の息子を見た。
「裕介、優太、一緒に行きましょう」
裕介が目を開いた。
「俺も、当たり前でしょ」
「あなたをここへ置いていくために真実を話したんじゃない。私たちの親子を、この人の嘘から取り戻すために話したのよ」

その後、夫とは正式に離婚した。
家も売却し、裕介の大学費用と優太の養育費を確保した。
れ子さんにも、自分がしたことへの責任を求めた。すると彼女は夫へ全てを押し付け、連絡を絶ったそうだ。
元夫となった光一は、なんとか裕介の学費を支払っている。
けれど裕介は、必要な連絡以外、元夫と話そうとはしない。お金を払えば、失った信頼が戻るわけではないのだ。
裕介は無事に大学へ進学した。
通学の都合で小さな部屋を借りたが、週末になると必ず帰ってくる。
玄関が開く度に、優太が走っていく。
「兄ちゃん、お帰り」
「ただいま。今日も元気だな」
ある日、裕介が私に言った。
「母さん、俺を育てたこと、後悔してない?」
胸が痛んだ。
私は裕介の頬へそっと手を当てた。
「後悔しているのは、あの人を信じたこと。あなたを育てたことを後悔した日は、一日もありません」
夫婦として過ごした二十二年には、大きな嘘があった。
けれど、私が裕介を抱き、食事を作り、熱を出せば看病し、成長を喜んだ時間まで嘘になるわけではない。
私と裕介が築いた親子の時間は、私たちだけの本物だ。
血が繋がっているから家族なのではない。相手の痛みを分かろうとし、幸せを願い、一緒に生きてきた時間が家族を作るのだ。
私は夫の嘘を許さない。でも、その嘘から生まれたという理由で息子を手放すこともしない。
夫が失ったものは、家や車やお金だけではない。自分を信じていた妻と、父親を慕っていた二人の息子。家族からの信頼だ。
それはお金を払い終えたとしても、簡単に取り戻せるものではない。
一方で、私は嘘の中から、本当に大切なものだけを守った。
私の二人の息子だ。

Thumbnail