銀座の高級料亭「桐紋」の裏口。朝四時、発泡スチロールの箱を三段に積んだ旧式の自転車が、きしむ車輪の音とともに角を曲がってくる。痩せた背中の老人、海原蒼介、七十三歳。六十年間、毎朝欠かさず、この厨房に最高の魚を届け続けてきた、魚屋の「そうさん」だ. 「おお、今日も一番乗りっすね。そうさん」
「ああ、今日も桐紋さんに行くからな。中トロ、あの一番奥のやつをくれるか」
「あれ今朝の最上級ですよ。相変わらずすごい目利きだ」
「十三で漁村を出てから六十年。魚と職人の手ぁ見てこなかったからな」
中盤の魚屋は深く頭を下げる。安物のゴム長靴、すり切れた腕時計。誰の目にも町の隠居老人にしか映らない. だが、その目だけは別人のように鋭い. それは、この老人が銀座の高級料亭「桐紋」を支えてきた、最も重要な存在だからだ.

四十五年前の冬、若き料理人、仙代桐紋(本名・紀流員像)は、資金繰りに行き詰まり、店を畳む覚悟で頭を下げに来た. その時、まだ駆け出しの中盤だった蒼介は、自身の貯金と故郷の漁村を担保に借金を組み、その全てを「桐紋」に注ぎ込んだ. そして、毎朝自転車で銀座まで魚を運び続けた. それが店が黒字に転じるまで、丸三年、休まずにだ.
「げさん、あんたとの約束だけは四十五年経った。今もまだ守れてる」
家を出る前、台所で握り飯を渡してくれた妻、やえ子. 五十年前から連れ添った妻は、夫の生き方を全て理解した上で、なお毎朝送り出してくれる. それこそが、この老人にとって何よりの誇りだった. 裏口に到着すると、白い板前服を着込んだ若い板前、霧谷レが、いつものように頭を下げて出てくる.
中卒で住み込み修行に入って九年. 仙代桐紋が「百年に一人の逸材」と惚れ込んだ青年だ. 「坊主、今日はいいのが入ったぞ。中トロ,目玉も据わってる極上だ. 寝かせ加減には気をつけるんだぞ」
「はい。ありがたく使わせていただきます」
その時、店の表階から派手な笑い声が降ってきた.
サングラスを頭に引っかけた男、二代目大将の桐紋せ矢(よしや)、四十二歳が、取引先の若手社長二人を連れて厨房に入ってくる. 派手な腕時計を回しながら、彼は言い放った. 「おお、ちょうど良かった. 見てくださいよこれ.
うちの裏口名物、令和の不老者」取引先の社長たちが声を上げて笑う. せ矢は蒼介のすり切れた袖口を指でつまみ、見せつけるように引っ張る. 「このじいさん、六十年もうちに通ってるらしいんすけど、未だに自転車エコっつうか貧乏」へえ自転車今の時代にすごいですね、「親父の台からの腐ったやり方で残してあげてるんすよ」
霧谷の顔が一瞬で曇る. 蒼介は静かに霧谷の肩に手を置き、魚の入った箱を手渡し直した.
だが、桐紋はSNS映えしないと箱を覗き込み、吐き捨てるように言った. 「シニアの目利きとか、もう令和には合わないんで,新時代についてきてもらわないとね」そして取引先を振り返り、肩をすくめた. 「こういう昔気質の人、扱いが難しいんすよ. 親父の残した宿題つうか」
蒼介は短く会釈すると、自転車へ向かった.
背中で霧谷が涙をこらえる音が聞こえていた. それでも七十三歳の老人は、背筋を伸ばし、静かに言った. 「坊主、明日もいいのを持ってくるからな」「はい,そうさん,お待ちしています」
その数日後、裏口にあったのは、いつもの若い板前ではなく、店の事務方の若い社員だった. 差し出されたのは一通の通告書.
「そうさん,すみません,大将からの通告で,来月から仕入れ単価を三割カットでお願いしたいと」「この値段でやれないなら,他の業者に切り替えるそうです」
唐突な値下げ圧力. 三割カットともなれば、魚そのものの質を落とすしかない. それは、仙代桐紋が生涯誇りにしてきた「銀座の最高峰」という看板を、二代目が自ら剥がしにかかっているのも同然だった. 蒼介は通告書を懐に静かに納め、「大将には考えさせてくれとお伝えください」とだけ返す.
だが、裏口の奥から、わざと聞かせるように桐紋の声が響いてきた. 「おいおい,考えさせてくれだって. いやはや,シニアの返事って遅くて困るんですよね」「こういう営業方法はうちでは通用しないんで,決められないなら即終了で」
その時、半開きの引き戸の向こう、厨房の奥から、聞き慣れた青年の震える声が漏れてきた. 「お返しします.
これは俺の刃ですから」桐紋が霧谷の柳刃包丁を取り上げ、笑いながら別の若手に放っているところだった. 「ちず君,お前は今日から皿洗いね. 包丁もう触らなくていいから」「仙台がお前を可愛ががってたのは知ってるけどさ,俺の店ではお前の包丁,邪魔なんでね」そして、調理台の隅の埃をかぶった木箱の上に、存在に放り投げた. 「お前の包丁なんて,そこのゴミ箱の上で十分だろう」
九年間、毎晩一日も欠かさず磨いてきた青年の刃が,ガラクタの上に転がる音が耳に届いた.
霧谷は悔しさで涙が滲んだ. 「大将,なんてこと」
その夜,自宅の小さな茶の間で,蒼介は珍しく低い声を漏らした. 「やえ子,あの坊主,皿洗いに回された」「おそらく,坊主の腕を妬んでるんだ,あの大将は」やえ子は静かに茶を注ぎ直し,夫の前に置いた. 五十年前から連れ添ってきた妻は,夫のこの低い声を,過去に数えるほどしか聞いたことがなかった.
「あなた,四十五年前のあの冬,あなたが資材を投げ打って,幻蔵さんの店を救ったあの日,私覚えてますよ」「げさんが守りたかったのを,息子さんがご自分の手で潰そうとしてる」「そしてげさんが百年に一人の逸材と惚れ込んだ蓮ちゃんが,今居場所を奪われてる」「あなた,もう決めているんでしょう」「私はあなたの判断についていきます」その一言で,蒼介の腹の底にあった思いは,はっきりとした輪郭を持ち始めた. 「やえ子,長い間よく辛抱してくれた」「いいえ,一番辛抱していたのはあなたですよ」「明日の朝,私もご一緒してよろしいかしら」「あの子の包丁が戻る日まで,私もそばにいてあげたいから」翌朝,蒼介は中盤の主にいつもとは違う注文を出した. 「下はな,二番手のマグロをくれ」「色は悪くないが,目玉の針が一本のやつだ」中盤の主は怪訝な顔をしたが,蒼介は鋭く言った. 「三割カットを飲むなら,それなりのものしか届けられん」「魚は値段じゃない」「職人の腕に合わせるだけだ」
その夜の桐紋のカウンターでは,桐紋せ矢が満面の笑みを浮かべていた.
仕入れ単価が下がった分,利益率が跳ね上がる. 桐紋は得意げに言った. 「やっと話の通じる爺さんになったわ」「最初からこうしときゃいいんだよ」だが,その日銀座界隈で名の知れた料理評論家が,突き出しの一切れを口に運んだ瞬間,箸を止めた. 「大将,今夜の本マグロ,悪くはない」「しかし,桐紋の核ではないね」「昔のあの人の,あの切れのすごみが,今夜はない」「二番手の魚を出す日が来るとはな」
隣の席で逆さ箸を掲げていた金融会の老師が無言で席を立つ.
続いて評論家が連をくぐり,総料理長は黙って会計を済ませ,在会の重鎮は深いため息と共に店を後にした. 桐紋の顔が引きつる. 「ま,待ってください」だが,もう誰の足も止まらない. その夜,店の裏の厨房で,桐紋は電話を耳に押し当てて怒鳴っていた.
「そうさん,今日のあの魚,なんで二番手なんですか」「大将,ご指定の仕入れ単価でご用意できる最上のものを,本日はお届けいたしました」「言い訳すんな」「明日からは元の質のものを入れろ」「値段はそのままでな」「大将,魚は値段なりの核しかお届けできません」電話の向こうで桐紋が床を踏み抜く音が聞こえた. 蒼介は静かに通話を終えた. 今夜の出来事は,序章に過ぎなかった. 数日後の早朝,築地の大盤の親方や州の背はく漁の幹部までが,通路の脇に立ち,蒼介の自転車が通る瞬間に静かに頭を下げていく.
「会長,今朝もお元気で」蒼介は人差し指を口元に当てていたずらっぽく目を細めた. 「内緒だ」「今朝も俺はただの魚屋のそうさんだ」築地という町では知る者だけが知っていた. あの自転車の老人が,年間四千八百億円の水産流通グループを,たった一台で裸一貫から築き上げた男だということを
その日の昼下がり,蒼介の懐の携帯が低く震えた. 耳に当てると,ひどく緊張した男の声が流れてくる.
「親父,ご無沙汰しております」「今です」「銀座の話しが業界に流れてきました」「親父,お一人で抱え込まないでください」「あの店ですね」「四十五年前,父上が命をかけて守られた,あの桐紋の連を」「ああ,幻蔵さんの連だ」「自分の親父の誇りを知らずに踏みつけている」「ようやく動かれるのですね」「お前の手はまだ汚さん」「今はまだだ」「お言葉をいただければ,私はいつでも」「ああ,そう遠くはない」
その夜,蒼介の自宅の書斎には,手書きの招待状が届いていた. 差出し人は,銀座の隣町で有名の連を継いだ若い主人からだった. そこには,桐紋の連の魂を継ぐ覚悟が語られていた. 蒼介はそれを丁寧に畳み直し,書斎の壁の写真の前に立つ.
古いモノクロの写真には,まだ若かりし頃の蒼介と,もう一人,白い割烹着を着た若い料理人が肩を組んで笑っていた. 仙代桐紋,せ矢の父である. 「幻蔵さん,あんたが惚れ込んだあの百年に一人の逸材を,今あんたのセレがいぶってる」窓の外の星明かりが,初秋の畳に薄く広がっていった. その朝,銀座桐紋の裏口に着いた蒼介を待っていたのは,店の表階段の上で腕組みをしながら立っている桐紋せ矢の姿だった.
どまの隅では,霧谷レが私物を詰めた小さなダンボール箱を抱えて,唇を噛んでいた. 「そうさん,今日でちょうど良かったわ」「記念日になりますね」「中卒の坊主,強制解雇です」「お前みたいな時代錯誤,もういらないんで」桐紋の言葉に,霧谷の握りしめた拳の関節が白く浮き上がっていた. 九年前から毎朝四時に起きて磨いた包丁,毎晩遅くまで叩き続けた板,仙台桐紋の言葉を写したノート. それら全てが,たった一言で切り捨てられようとしていた.
「仙台,俺,顔向けができません」その時,裏口の戸を静かに開けて入ってきた人影があった. 地味なつぎの着物に派手な羽織を重ねた,老婦人. 蒼介の妻,やえ子だった. 「れんちゃん」やえ子はどまをまっすぐに歩いて霧谷の前に立ち,しだらけの両手で若い板前の頬をそっと包んだ.
「あなたはうちの主人と私の孫みたいなものよ」「うちにいらっしゃい」「女将さん,すみません」「俺,こんな情けない姿で」「包丁を取り上げられた人が,頭を下げる必要なんてどこにもないのよ」老夫婦の柔らかな声が,どまのレキを一瞬で温めた. それを見ていた桐紋が顔色を変えた. 「はあ,誰ですか,この方」「家族同然とか,意味わからないんですけど」すると,蒼介が静かに口を開く. 「かなりです」「妻が,坊主を連れて帰ると申しております」「ああ,はいはい,じゃあおい惚れファミリーで仲良くお引き取りくださいよ」桐紋は手を払うように言った.
「それとお伝えしておきます」「今日限りで,取引を終了します」桐紋は一瞬驚いたが,すぐに満面の薄笑いを蒼介に向けた. 「取引終了,どうぞ」「わざわざ,手間が省けましたよ」「シニアの目利きは,うちでは間に合ってますんで」蒼介は深く一礼すると,真の通った声で告げた. 「お世話になりました」「仙台には長く,可愛がっていただきました」「そのご縁に,こちらで区切りをつけさせていただきます」「うわ,いちいち長いなあ」「いいですわ,まとめて消えてくれて」
その時,店の表通りから低い排気音が三つ,重なって近づいてきた. 桐紋の薄笑いがふっと止まる.
黒塗りのセンチュリーが三台,盾に並んで桐紋の店前に静かに止まった. 護衛のような車列に,通行人が足を止めてざわめき出す. 戦闘者の後部ドアが開き,隙のない濃紺のスーツ姿の中年の男が降り立った. 男は迷いのない足取りで店の連をくぐって厨房まで歩いてくる.
そしてサム姿の前に歩み出て,深々と腰を折った. 「会長,お迎えに参りました」その一言が,銀座桐紋の厨房に低く,しかし全法位に響いた. 桐紋の手がぴたりと止まる. 「はあ,一応,誰のことだ」今のは桐紋の声を完全に無視し,もう一度蒼介に向かって深く頭を下げ直した.
「東方水産グループ,代表取締役,野村孝志と申します」「私どもの創業者にして名誉会長,海原蒼介を,こちらでお預かりいたしまして,誠にありがとうございました」
厨房の入口には,黒塗りの車列に気づいた通行人や,ざわめきを聞きつけた近隣の常連たちが,ぞろぞろと集まり始めていた. 「東方水産の創業会長,あの海原蒼介」「年間四千八百億円の業界の最高権威が」「銀座から豊洲,全国の漁港まで卸権益を握る」ざわめきが波のように厨房の中まで押し寄せた. 桐紋の顔が見る見るうちに青ざめていく. 「ま,待ってくださいよ」「そのサのじいさんが,魚屋のそうさんが」今度は,蒼介の方がようやく桐紋をちらりと見合った.
冷たい氷面のような視線だった. 「冗談を申し上げる立場の人間ではございません」「弊社グループは,年間四千八百億円,国内や周辺の水産流通を牛耳っております」「その全ての出入りに最終的な再下を下されるのが,創業会長,海原蒼介でございます」「おい,待て」今度は,桐紋が声の温度をここで一段深く落とした. 「桐紋さん,あなたはお父様から,’そうさん’というお名前を何度も聞かされて育ったはずです」桐紋せ矢の動きが,その名前で凍りついた. 「四十五年前の復興」「仙代の桐紋様は,海業からわずか三年で資金繰りに行き詰まり,店の連を畳む寸前まで追い詰められました」「仕入れ業者には逃げられ,銀行からは見放され,ご家族と離縁するまでお考えになったと,幻蔵様ご自身が後年,酒の席で何度も語っておられたそうです」厨房を覗き込む人々が息を飲む.
桐紋せ矢の額に汗の玉が浮かんだ. 「その幻蔵様の店を,ただ一人救った人物がおります」「当時まだ二十代後半,駆け出しの中盤だった一人の男が,自身の貯金と故郷の漁村を担保に組んだ借金,その全てを幻蔵様の店に注ぎ込みました」「全国の漁港を駆け回り,最高の魚を集め,毎朝自ら自転車で銀座まで運び続けた」「それを,幻蔵様の店が黒字に転じるまで,丸三年,三年間休まずにです」「幻蔵様は生涯,その方を’命の御人’と呼び続け,亡くなる直前までお子様にこう言い残されたと伺っております」「’俺が今こうして店の連を上げられていられるのは,そうさんのおかげだ”あの人がいなかったら,お前も俺も,この銀座にはいない’と」
桐紋せ矢の喉から,声にならない音が漏れた. 父の声が何度も何度も繰り返したあの言葉. 「そうさん」「そうさん」「そうさん」幼い頃から夜酔うたびに父が口にしていた,顔の見えない御人の名前.
「ま,まさか」今度は,野村が蒼介に向かって深く一礼した. 「その駆け出しの中盤が,私どもの創業会長,海原蒼介でございます」厨房に完全な静寂が落ちた. 桐紋せ矢の腰が調理台に手をついたまま,どまの上にずるずると崩れ落ちた. 「う,嘘だ」「嘘だろ」「親父が言っていた,’そうさん’って,あんたが」「だって親父はあんたが御仁だって,一言も」「ただの魚屋だって」蒼介はゆっくりと向き直った.
どまに膝をついた桐紋の正面に立ち,しだらけの手を自分のサムの胸元に静かに当てた. 「桐紋さん,お父さんはあんたに私の正体を,最後まで明かさなかった」「それは私が頼んだことだ」その声は震えていなかった. 怒りもなかった. ただ四十五年前からの友情の重みだけが,その一言一言に深く沈んでいた.
「義流院さん,あんたのお父さんが日がけで守った,店の連の意味を,あんたは最後まで分からなかった」厨房の片隅で,霧谷レが声を殺して泣いていた. やえ子がその肩をそっと抱き寄せた
静寂を破ったのは,今度の冷やかな声だった. 桐紋が跪いたまま顔を上げる. 「桐紋さん,これより業務上のお話を申し上げます」秘書が銀の盆に乗せた一通の封筒を差し出す.
封筒には東方水産グループの社章が深く炙り押しされていた. 「本日付けで,東方水産グループは銀座桐紋様との一切の取引を停止いたします」「同時に,全国系列の水産卸業者,仲卸業者に対し,桐紋への供給停止を周知いたします」「本日中に,銀座から豊洲,全国の漁港まで,全ての動脈が止まります」「ま,待ってくれ」「それじゃあ,うちは」すると,蒼介は続けて静かに言った. 「すでに桐紋様向けの最高級魚介類は,別の流通先に取り替え済みでございます」「先ほど,有楽町の一流料亭,’星の灯’様と,年間三十億円,五年間の特別供給契約を締結いたしました」経済記者が思わず声をもらす. 「三十億円,五年で百五十億」「銀座の仕入れ勢力図が,たった一夜で書き変わった」「紀流員様の店には,若手の有望板前たちに最高の魚を回していただく予定です」「銀座の味は,これから先,職人の手で守られていきます」そして,やえ子に寄り添って泣いている霧谷レを静かに振り返った.
「そして本日お預かりいたしました,こちらの若い板前は」「一流の板前の下で,本格的な修業に入っていただきます」「仙代の桐紋幻蔵様が,百年に一人の逸材と惚れ込んだ若手を,必ず世に出させていただきます」霧谷の頬を新しい涙が伝った. 「う,嘘だろう」「仕入れも,坊主も,全部」
その時,調理場の電話がけたたましくなり始めた. 続いて二台目,三台目. 事務室の固定電話,桐紋せ矢のスマートフォン,店の予約専用回線,全ての電話が同時になり出していた.
震える指で受話器を取った桐紋に,馴染みの中盤の声が響いた. 「申し訳ない,オタクの取引できないことになりました」「会長例です」「会長例なんだよそれ」「待って,恵沢商店,お前のとこも」「今後桐紋向けの卸は一切お受けできません」「銀座飲食組合からの通達です」「当組合との取引を一時凍結いたします」電話を握る手が震え,額にはうっすらと汗が滲んでいた. 「大将,申し上げにくいのですが,私どもの桐紋,本日付けで退職させていただきます」最後に,一番古い番頭が言った. 「大将,仙台の味をもうこれ以上,汚すわけにはまいりません」そして次々と,予約のキャンセルが入り始めた.
常連様も,団体予約も,ホテルからの紹介ルートも,全て止まった. 厨房の入り口で見ていた経済記者が,すでに記事を打ち始めていた. 投稿された記事がまた瞬く間に拡散していく. 「銀座桐紋,桐紋せ矢による創業の魂への侮辱発覚」「四十五年前に店を救った命の御人を,息子が追放した代償」SNSのフォロワー数の数字が国一刻と減っていく画面を,桐紋せ矢は呆然と眺めるしかなかった.
静かに歩み出た蒼介が,どまに崩れたままの桐紋の正面に立った. 「桐紋さん,一つだけ伝えておく」「俺の手は,魚と人を見るためにある」「肩書きだけで人を見る対象に,最高の魚はもう回らんのです」桐紋の唇が声にならない震えを刻んでいた. どまに両手をついたまま,桐紋せ矢は深く頭を垂れていた. 蒼介は背を向けて店を出ようとし,ふと足を止めた.
視線の先,調理場の隅の,埃をかぶった木箱の上に放り投げられたまま忘れられた,一本の柳刃包丁がある. 桐紋に取り上げられた後,誰にも触れられることもなく放置されていた,霧谷の刃である. 蒼介は静かに歩み寄り,箱を両手でそっと取り上げ,深く一礼してから胸に抱いた. 「これは坊主の刃だ」「お返しいただく」桐紋はもう何も言わなかった.
どまに額をつけたまま,両肩が小さく震えているだけだった. やがて桐紋せ矢の喉から絞り出すような声が漏れた. 「お,お願いします」「海原会長,もう一度,もう一度だけチャンスをください」蒼介はその姿をしばらく無言で見下ろしていた. 怒りでも,哀れみでもない.
ただ静かな間が長く落ちる. 「桐紋さん,知らなかったではすまない」「あんたのお父さんは生涯,私の名前を出さずに,’そうさん’とだけ呼び続けた」「なぜか分かるか」「あんたに,目の前の人を肩書きや財力で見るのではなく,まっすぐに見られる人間に育って欲しかったからだ」「幻蔵さんはそれを願いながら言った」「だ,だって親父は,ただの魚屋の,そうさんとは別人だって」桐紋せ矢の額がどまに押し付けられたまま,動かなくなる. 一本の涙だけが,初秋の朝の光に鈍く光っていた. 「御一人と分かっていたら,態度が違ったのか」「チャンスなら,毎朝何度もあった」「あの本マグロの一切れに,坊主の包丁の一本に,その一言一言に,あんたが答える機会はいくらでもあった」「ただあんたは,その全てを,丁寧に踏みつけた」「あんたが売ってるのは料理じゃない」「見栄だ」降りる,と蒼介は抑えた声で最後の宣告を置いた.
「この店の看板は,今日降りる」「幻蔵さんの店は,私が責任を持って預からせてもらう」蒼介は霧谷の柳刃包丁を胸に抱いたまま,やえ子と霧谷を伴って,ゆっくりと厨房を後にした. 三人の影が店の連をくぐり,銀座の朝の光の中へと消えていく. どまに額をつけたままの桐紋と,全ての通話を切られた電話機の沈黙だけが,厨房に取り残されていた. 「う,親父,俺は」一人の大人のつぶやきが,厨房に虚しく響いた.
その日の夕刊の一面には,銀座桐紋の経営危機を報じる大きな見出しが踊った. 仕入れルートの全面停止,銀座飲食組合からの除名,銀座飲食店連盟からの注意処分. 経済記者の取材に,今度はこう答えていた. 「東方水産グループとして,当該店との取引再開の予定はございません」「業界の信用は,職人と客への敬意の上に成り立っております」「その敬意を欠いたものには,最高の魚はお届けできません」
数日のうちに,桐紋の店内からは若手の板前と仲居が一斉に去った.
SNSのフォロワー数は半数以下に落ち,月の終わりを待たずに銀座中央通りの店の連は静かに外され,別のテナントの看板が付け替えられていった. その後桐紋せ矢は,銀座飲食組合からの除名処分を受け,母親や親族からも絶縁された. 集めていた数万人のフォロワーは数百人にまで激減していた. 桐紋の店の連は,蒼介が別の若手料理人に貸し,そこの一角で,いつか再び包丁を握る日を夢見る若者たちが育ち始めていた.
蒼介は本からの報告を聞きながら,静かに言った. 「幻蔵さんの店は,あんたに任せる」「坊主みたいな若いのにも,もう一度火を灯してくれ」
その夕暮れ,自宅の縁側で蒼介は深く長い息を吐いた. 胸の奥に長く詰まっていた何かが,ゆっくりと解けていく感覚があった. 妻が入れる番茶の湯気が,これまでで一番美味しそうに見えた.
「あなた,お疲れ様でした」「やえ子,長く待たせたな」「待っていたのは私じゃなくて,銀座の若い職人さんたちです」「あの子たち,これからは全うな仕事ができますね」「幻蔵さんもきっとお喜びですよ」縁側に足音が一つ近づいてきた. 前かけに包丁一本だけ携えた若い板前の姿である. 霧谷レが深々と頭を下げ,肩を振わせた. 「そうさん,女将さん,俺,十日でもう一度修行させていただくことになりました」「仙台の包丁を取り戻していただいて,本当にありがとうございました」「坊主,お前の手には,お前の刃が一番似合う」「焦るな」「俺はお前の包丁が描く線を,ずっと見ているからな」「はい,会長」「いえ,そうさん」「はあ,俺は最後まで,ただの魚屋のそうさんでいい」縁側の三人の影が,夕日の橙色の中でゆっくりと一つの絵に溶けていった.
長い長い銀座の六十年の戦いが,たった一日で形を変え,今静かな週末を迎えていた. 庭先でなく一匹のひぐらしの声だけが,この日の特別なしめやかをそっと包み込んでいた
季節が変わり,銀座の街路樹が新しい葉を揺らす頃,有楽町裏の一流板前の店の奥では,白い割烹着をまとった若い板前が鋭い目つきで本マグロの柵に向き合っていた. 皿洗いの修行に逆戻りすることなく,一流の板前の下で本気の修業を再開した霧谷レの指は,季節を重ねるごとに確かな線を紡ぎ始めていた. あの朝,蒼介自らの手で取り戻された柳刃包丁は,研がれ,白木の鞘に収まり,青年の前かけの腰に戻されている.
その夕暮れ,東の小座敷に蒼介とやえ子が静かに酌を交わしていた. 出された突き出しの一切れを口に含んだ蒼介が,口元に薄く笑みを浮かべる. 「日入れを覚えやがったな」「あら,本当」「幻蔵さんの味に,若さがちょっと加わっていますね」「ありがとうございます」「今の私があるのは,そうさんと奥様のおかげです」「それでいい」「受け継ぐとは,ただ真似ることじゃない」「育てることだ」
その同じ日の朝,東方水産グループのプレスリリースが,界隈を再び静かに揺らしていた. 「桐紋記念,若手板前奨学基金設立」中卒・高卒で和食の道に入る若い職人に,住み込み修行中の生活費と一級の包丁一本を支給する制度である.
設立主にはこう記されていた. 「四十五年前,銀座の片隅で店を畳もうとしていた一人の若き料理人がいた」「その男は自棄酒の中盤に救われ,店を守り,生涯その御人を’命の御人’と呼び続けた」「本基金は,その御人との友情に捧ぐものである」「志しある若き職人が,肩書きや学歴や財力ではなく,ただ腕と心だけで評価される世界を,私たちは信じる」設立者として名を連ねたのは,海原蒼介ただ一人だった. それは,桐紋幻蔵への長い長い葬儀だった. その夕方,蒼介の懐の携帯がいつもの低い震えを伝えた.
「親父,業界全体が会長のご判断に従っております」「基金への賛同企業,すでに五十社を超えました」「幻蔵様もきっとお喜びです」「こんなお前と,坊主と,あの店の若い者たちが,これから先の銀座を作っていくんだ」「俺はな,まだしばらく自転車を漕がせてもらうよ」「親父,いつまでもお元気で」通話を終えた蒼介は,座敷の窓に銀座の夜景を眺めた. 隣でやえ子が静かに茶を注ぎ直す. 「やえ子,明日の朝もいつも通りだ」「ええ,あなたの目利きを,あの子たちが待っていますよ」「俺の仕事はまだ続く」「魚と人を見るのが,俺の生きがいだからな」置いた男の口元には,長く張り詰めていた緊張の後に訪れた,穏やかな充足の表情が確かに浮かんでいた. 明日もまた,早朝の築地に,きしむ車輪の音が響く.
坊主の包丁が描く線が,今より一段深くなるその日まで,自転車の老人は銀座の路地を走り続ける.


