「ねえ、見て。これ、私たちの赤ちゃんのエコー写真だよ」
そう言って私は、エコー写真が入った箱を夫のすぐるに渡した。彼の喜ぶ顔を想像しただけで、私の頬は緩んで仕方なかった。結婚して2年。ずっと望んでいた待望の妊娠。友人からの妊娠報告を聞くたびに、こっそりトイレで涙を流していた日々が報われた瞬間だった。
しかし、箱を開けたすぐるの顔は、一瞬で青ざめた。手が震えている。私は最初、嬉しさのあまり驚いているのかと思った。けれど、次の瞬間に彼が発した言葉は、私の想像をはるかに超えていた。
「これ、誰の子だよ。俺は種なしなんだぞ」
頭の中が真っ白になった。種なし?どういうこと?私は今まで浮気なんて一度もしたことがない。お腹の子の父親は、間違いなくすぐるだ。
「なに言ってるの?この子はすぐるの子だよ」
必死に弁解する私の言葉を、彼は聞こうとしなかった。「考えさせて」と言い残し、そのままリビングを出て行った。床には、くしゃくしゃに丸められたエコー写真が落ちていた。まるで私の心を映しているかのようだった。
次の日から、すぐるは私のことを完全に無視するようになった。話しかけても、目すら合わせてくれない。下手に何か言えば、言い訳をしていると思われる。私は何も言えず、ただ日々が過ぎていくのを眺めるしかなかった。
そして数日後、久しぶりにすぐるから話しかけられた。
「今回のこと、お互いの両親を交えて話がしたい。明後日の日曜日、場所は波に任せるから」
急すぎる提案に戸惑った。夫婦の問題なのだから、まずは二人で話し合いたいと思ったけれど、彼は既に返事を聞く気はないようだった。私は仕方なく、理由は伏せて両親に話し合いへの参加を頼んだ。場所は私の実家になった。
話し合い当日、実家のテーブルを挟んで、私とすぐる、義両親、そして私の両親が対面した。張り詰めた空気の中、最初に口を開いたのは私の母だった。
「一体、今日は何の用事でしょうか?」
すると、義母が嫌味ったらしい口調で言い放った。
「あら、波さんから聞いていないんですか?波さんは浮気相手の子供を妊娠したんですよ」
浮気相手。その言葉に、私の両親は顔面蒼白になった。
「違う!違うんです!この子はすぐるの子供です!」
私は首を大きく横に振って訴えたが、義母は冷笑を浮かべるだけだ。
「すぐるは種なしなのよ。だったら奇跡でも起きたっていうのかしら」
「私を最低だと言って、慰謝料を払え?」
理不尽すぎる言い分に、私は混乱した。心当たりなんて一切ない。自信を持ってすぐるの子供だと言える。
「違うんです!ちゃんと説明をさせてください!」
そう叫んだ瞬間だった。
パンッ——。乾いた音が部屋中に響き渡り、私の頬に鈍い痛みが走った。母に叩かれたのだ。
「あんたは何て恥さらしなことを!謝りなさい!どうして謝りなさい!」
状況が理解できなかった。なぜ、私が母に叩かれなければならないのか。周囲を見回すと、その場にいた全員の冷たい視線が私を突き刺していた。私の味方は、誰もいない。その時、私の父が立ち上がった。
「そんな汚い存在なんて、俺が消してやる!」
そう言って、父は私のお腹を蹴ろうとした。私は必死にお腹を守ってしゃがみ込む。恐怖で全身が震えた。
「お父さん、ちょっと待って!」
声のした方を見ると、入り口に姉が立っていた。間一髪のところで姉は私を救ってくれたのだ。
「……あなた、誰なの?」
義母は姉に不審な表情を向ける。二人とも、結婚式に来てくれた姉のことを忘れているようだった。
「何度かお会いしましたが、お忘れですか?私は波の姉です」
姉は私をテーブルから少し離れた場所に座らせると、すぐると義両親に向き直った。どうやら姉は、別室で話を聞いていたらしい。
「改めて聞きますが、すぐるさんが種なしだというのは、事実なのですか?」
姉の質問に、すぐるは「そうです」と答える。
「では、無精子症を併発したということですね。検査を受けられたのは、いつ頃でしょうか?」
しかし、すぐるも義母も、首をかしげるばかりだ。そして、すぐるは驚くべき発言をした。
「検査なんて、一度も受けていませんよ」
その場にいた全員が呆気に取られた。じゃあ、どうして種なしだと断言できるのか。姉がそう尋ねると、義母が呆れた顔で話し始めた。
「すぐるは高校生の頃、ひどい腹痛になったのよ。連日40度近い熱が出て、大変な状態だったの。そのせいで、種なしになってしまったんだと医者に言われたのよ」
あまりにも曖昧な根拠。姉は冷静に言い放った。
「確かに、高熱が原因で無精子症になることもあります。しかし、それは一生涯続くものではありません。ウイルスが精巣に入り、一時的に造精機能を低下させることはありますが、それはごく稀なことです。正式な診断を受けたわけではないのですね?」
姉の問いかけに、義母は明らかに苛立ちを見せ始めた。
「さっきから何なの?尋問みたいなことをして。医者でもあるまいし、失礼じゃないの?」
すると、姉は含み笑いをしながら言った。
「私は医者ですよ。担当は泌尿器科です」
その場の空気が一変した。姉は隣町の有名な大学病院で医師として働いている。すぐるにも、そのことは伝えてあったはずだ。しかし、彼はすっかり忘れていたらしい。それほどまでに、私の家族に興味がなかったのかと思うと、私は少し悲しくなった。
「しっかり検査を受けられた上で、的確な判断をされることをお勧めします。おそらく、すぐるさんは種なしではありませんよ」
姉の言葉を聞いて、すぐると義両親は何と泣き喜んだことか。
「じゃあ、俺は種なしじゃないんですね!ナミ、良かったな!」
さっきまでの態度が嘘のように、すぐるは何度も謝罪した。
「本当にごめん!俺が悪かった!」
しかし、私はもう何も話せなかった。それだけのショックを受けたのだ。義母は私の冷たい態度に不服そうな顔をした。
「勘違いだったんだし、もういいんじゃない?」
姉は呆れながらも、私が落ち着くまで自分の家で預かると言ってくれた。すぐるは納得いかない様子だったが、姉が強く言い、義両親を連れて帰っていった。
私は実家に残った両親にも、もはや何も感じなかった。母は私を叩いたことすら謝らない。それどころか私に対して文句を言う始末だった。姉がそれを見かねて、私を実家から連れ出してくれた。
「波のことは、私に任せてもらえる?」
姉の車に乗り込み、マンションの部屋に着いた瞬間、こらえていた涙が溢れ出した。姉はそんな私を強く抱きしめてくれた。
「よう頑張ったね」
「お姉ちゃん……ごめんね」
「波は何も悪くないよ。好きなだけ、ここにいていいから」
姉とは5歳以上離れているが、昔から何かあるといつも助けてくれる。今の私にとって、唯一の救いがこの姉の存在だった。そういえば、今回姉はどうして実家に来たのだろう。話し合いのことをラインで伝えた時に、姉は嫌な予感がしたのだという。いても立ってもいられず、駆けつけてくれたのだ。姉の行動力には、本当に頭が上がらない。
数日が経ち、私はようやく落ち着いて今後のことを考えることができた。そして決心がついたところで、すぐるから電話がかかってきた。
「ナミ、俺、検査を受けたんだ。やっぱり無精子症じゃなかったみたいだ。だから、安心して」
何を安心したらいいのか分からない。彼の中では、これで問題なく子供を育てられると言いたいのだろう。
「そう、よかったね。私もちょうど話したいことがあったの。改めて、お互いの親を交えて話し合いがしたいの」
「どうして?」
すぐるは疑問を抱いて、必要以上に聞いてくる。それを遮り、私は同じように次の日曜日に実家に集まれないかと伝えた。すぐるは「仕方ない」とでも言いたげな様子で、義両親を連れてくることを約束した。最後に彼は言った。
「この話し合いが終わったら、帰ってきてくれるよな」
私は答えずにそのまま電話を切った。そして話し合い当日。私は、ある人物と一緒に実家を訪れた。すぐると義両親はすでに到着していた。私が客間に入ると、全員の視線が私の後ろの人物に集まった。
「ナミさん、後ろの方はどうしたんですか?」
「こちら、私を弁護してくださる弁護士さんです」
私はそう言って、義母に笑顔で答えた。弁護士と聞いて、全員が目を丸くした。
「べ、弁護士って何だよ。離婚するわけでもあるまいし……」
すぐるは引きつった笑顔を見せる。
「いえ、離婚の話し合いのために、弁護士さんに同席してもらったのよ」
私がそう言うと、すぐるも義両親も慌てふためいた。そう、私が決心したこと。それは、すぐると離婚することだった。姉と話し合った時、私はすぐにこの決断をしていた。そして姉の知り合いの弁護士を紹介してもらったのだ。
「ちょっと待ちなさいよ!なんで離婚なんかになるの?種なしだったことは勘違いで、納得したんじゃないの?」
義母が喚く。
「納得?そんなもの、するわけないじゃないですか。すぐるは私の話も聞かず、一方的に私を攻め立てました。許せると思ってるの?」
すぐるは怒りを露わにした。
「勘違いは誰にでもあるだろ!こんなことで離婚なんて認められない!」
すると、弁護士が静かに説明を始めた。
「離婚の理由としては、十分に成立します。すぐるさんは、今回の件が勘違いだったにせよ、自身の無精子症の可能性について検査もせず、そのことを妻に隠したまま結婚されました。妻が子供を強く望んでいたことをご存じだったにも関わらず、です。これは完全な悪意と見なされ、離婚理由になります」
義母は、その横で「せっかく孫ができたのに、許す心も持てないのか」と私を罵った。しかし、どんなに言われようが、私の心はもう決まっていた。すでにすぐるへの愛情は、とっくに消えうせている。やり直すことなど、到底できなかった。
「やだよ!離婚なんてしたくない!謝ってるんだから、許してくれよ!」
すぐるはそう言って泣いて見せた。だが、それは私を傷つけたことへの反省ではなく、ただ現状を変えたくないだけの泣き言にしか聞こえなかった。
「謝ったら、何でも許されるの?あなたは自分の手で、信頼を壊したの。悪いと思うなら、サインして」
私は、記入済みの離婚届を彼に渡した。すぐるはようやく事の重大さに気づいたのか、呆然としたまま何も言えなかった。最後には、離婚を了承した。精神的苦痛に対する慰謝料、財産分与、養育費について書かれた書類にも、しぶしぶサインをした。義両親がまだ何か言いたげだったが、弁護士が「これ以上言うと慰謝料が増えますよ」と言うと、途端に黙り込んだ。そして、すぐると義両親は肩を落として帰っていった。
そんな彼らを見送った後、私の両親はまるで宿敵でも倒したかのように騒いでいた。
「あんな奴らと離れて正解だ!」
しかし、私は両親にも言った。
「何をそんなに喜んでいるの?あなたたちとも、今日限りで二度と会わないから」
両親は目を丸くした。この決断は、姉の提案でもあった。なんと、姉も過去に同じような経験をしていたのだ。姉が中学生の頃、クラスで盗難事件が起きた。姉は受験前で授業が自由投稿だったため、勉強のため塾に行っていた。しかし、勘違いをした先生によって、なぜか姉が犯人にされてしまった。当時、姉はちゃんと塾にいたという証言があったにも関わらず、両親は姉の話を信じず、先生の言うことを信じて姉を責め立てた。父からは「泥棒女」と何度も殴られたらしい。結局、犯人は別にいて姉の疑いは晴れたが、両親は謝りすらしなかった。それが姉のトラウマとなり、勉強も手につかず、志望校にも落ちてしまった。それから姉は、ずっと両親を恨んでいたのだという。
「結局、あの人たちは何も変わらないのよ」
そう言った姉は、少し寂しそうだった。私も姉の意見に賛成だ。今回の件で、両親は実の娘を信じようともせず、完全に私を悪者扱いした。母が私を叩いたこと。そして父が私のお腹を蹴ろうとしたこと。どうしても、許すことはできなかった。
「じゃあ、さようなら」
私は騒ぎ立てる両親を無視して、実家を後にした。
その後、離婚は成立し、私は慰謝料を受け取った。自宅を出た私は、しばらくの間姉と一緒に暮らすことにした。姉は「赤ちゃんと暮らせて嬉しい」と喜んでくれている。
そして、すぐるとの共通の知人から聞いた話だが、すぐるは離婚後も納得がいかなかったらしく、周りに離婚理由を話して回り、いかに自分が間違っていないかを主張していたらしい。しかし、ことごとく「すぐるがおかしい」と言われ、現在は全員から距離を置かれているようだ。自分を追い詰めたのは、他でもない自分自身。彼にはお似合いの結末だった。
私はその後、無事に子供を出産した。すぐるの勘違いから夫や両親と決別したが、後悔はしていない。この子が大きくなっても、尊敬してもらえるような母親になれるよう、これから頑張っていこうと思う。



