真夜中の緊急外来。当直明けで疲れ切った私の前に、救急隊が担いで運び込んだのは、私が10年間寄り添ってきた患者さんだった。彼女の症状を見た瞬間、全身の血の気が引いた。
CONTENT:
午前二時。当直室の電話が鳴った。救急隊からの連絡だ。
「交通事故。五十代女性。腹部打撲。バイタル不安定」
担架で運ばれてきた患者を見て、私は息を飲んだ。
長年診てきた里美さんだった。彼女は五年間、人工透析を続けている。
「楓出先生…」
里美さんがかすれた声で私の名前を呼んだ。手が凍えるほど冷たい。
「大丈夫ですよ。私がいますから」
そう言いながら、私はモニターに目を走らせた。血圧が落ちている。 pulse が速い。腹部は緊満している。
内臓損傷の可能性が高い。緊急手術が必要だ。
「すぐにCTを。あと、外科の当直に連絡して」
看護師に指示を出しながら、私は里美さんのカルテを思い出していた。
彼女は五年前に腎不全と診断され、以来ずっと透析を続けている。それだけではない。糖尿病もあり、心臓にも負担がかかっている。手術のリスクは通常の患者よりはるかに高い。
「先生…」
里美さんが再び私の腕を掴んだ。
「もう…いいんです」
「何をおっしゃっているんですか。まだ何も決まっていません」
「わかってるんです。私の身体のことなら。透析を受けるようになってから、ずっと考えてきました。このまま長く生きるのも…自分勝手なんじゃないかって」
その言葉に、私は一瞬、言葉を失った。里美さんはずっと一人で生きてきた。夫とは十年前に別れた。子供はいない。透析に通いながら、自宅で一人暮らしを続けている。そんな彼女を、私は十年間見てきた。彼女はいつも「先生がいるから頑張れる」と言ってくれた。
「でも、今回の怪我は透析とは別の問題です。緊急手術をしないと命に関わります」
「わかってます。それでもいいんです」
里美さんの目には涙が浮かんでいた。
「もう…疲れたんです。誰にも迷惑をかけずに終わりたい」
寒気が背中を走った。彼女は本気で死のうとしている。十年間、透析に耐えてきた女性が、今、命を手放そうとしている。なぜ。何があったのか。
「里美さん。何かあったんですか。私に話してください」
「…先生には言えません」
「なぜですか」
「先生は…私の主治医だからです」
その言葉の意味を、私はすぐには理解できなかった。
「私は患者さんの話を聞くために医者をやっています。何でも話してください」
里美さんは唇を噛んだ。そして、静かに口を開いた。
「先生…私はもう、透析を受けたくありません。このままここで…終わりにしたいんです」
「そんなことはさせません」
私は強く言った。
「私は医者です。目の前の命を救うのが仕事です。たとえ患者さんが死にたいと思っていても、私は救います」
「なぜですか」
「なぜ…なぜ、そこまでして私を生かすんですか」
「それは…」
里美さんの質問に、私は答えられなかった。
確かに、私は医者だ。目の前の命を救うのが使命だ。でも、それだけでは彼女の気持ちを無視することになる。彼女が何を背負っているのか、私は知らない。彼女が何に苦しんでいるのか、私は知らない。ただ、透析を続けてきたから、腎臓が悪いのだろうと思っていた。それ以上のことは、何も知らなかった。
「…答えられないんでしょう。だって先生は、私のために医者をやっているんじゃない。先生のために、医者をやっているんでしょう」
里美さんの声は、静かだった。
「私が死んだら、あなたは自分を責める。自分がもっと診ていれば助かったのにって。それでまた仕事に打ち込む。まるで罰を受けるように。それでいいんです。あなたはそうやって生きてきた。私も…そうやって生きてきたから」
「里美さん…」
「私は、あなたの病院に十年通ってきた。あなたが私にどれだけ良くしてくれたか、わかってる。でも先生、あなたは患者を一人の人間として見ていない。あなたにとって、患者は…あなた自身の罪を償うための道具なんでしょう」
その言葉は、鋭く突き刺さった。
彼女は何も知らないはずなのに、何もかも見透かしていた。
私は、一人の患者を死なせたことがある。それは今から二十年前、研修医だった頃のことだ。その患者は、私の判断ミスで亡くなった。私は自分のミスを認めるのが怖くて、報告を後回しにした。その間に、事態は悪化した。患者は亡くなった。私は罪に苛まれた。そして、二度と患者を見殺しにしないと誓った。それから私は、どんな患者でも、死なせないために全力を尽くしてきた。どんな治療でも、ためらわずに選択してきた。リスクが高くても、患者が拒んでも、私は強行してきた。それが、私の贖罪のつもりだった。
「先生、あなたは…もう十分に償っていると思います。私は…あなたを解放してあげたいんです」
里美さんは、静かに微笑んだ。
私は立ち上がった。
「里美さん。あなたを死なせるわけにはいきません」
「なぜですか」
「あなたは…私が最初に助けた患者さんだからです」
嘘だった。彼女は最初の患者ではなかった。でも、最初に私を信じてくれた患者だった。十年間、私を「先生」と呼んでくれた患者だった。彼女がいなくなったら、私はまた闇に落ちる。自分の罪を忘れないために、誰かを救い続ける。それが私の生きる理由だった。
「先生、それって…エゴじゃないですか」
里美さんの声が、静かに響いた。
「あなたは私を助けることで、自分を救っている。私は、あなたのための道具じゃない。私は…私のために死にたいんです」
その瞬間、私は何も言えなかった。彼女の言うことは、正しかった。私は患者を助けることで、自分の罪を忘れようとしていた。それは、彼女の生きる理由にはなれない。彼女が死にたいと望むなら、それを尊重するべきなのか。それでも、医者として、見捨てるわけにはいかない。
「…できますか?私を生かすことが?私のために、あなたのエゴを捨てて」
里美さんの目は、真剣だった。
「私はあなたに、自分のために生きますとは言いません。でも、あなたに生きていてほしいと願うことはできます。それは…私の気持ちです」
「それがエゴだと言ってるんです。あなたは私を助けて、また働くんでしょう。そして、次の患者を助ける。その繰り返しで、あなたは自分の罪を忘れるんでしょう。私は、あなたの罪を背負いたくない」
その瞬間、私はすべてを理解した。
里美さんは、私のことを知っていた。彼女は、私が過去に何をしてきたのか、知っていた。彼女は、私の贖罪の道具になりたくないと言っている。彼女は、自分が死ぬことで、私に罪を償わせたくないと言っている。もし彼女を助けたら、私はまた患者を助けたことで満足するだろう。自分の罪を忘れて、また同じ過ちを繰り返すかもしれない。それなら、彼女は死んだほうがいいと言っているのだ。
「先生…私を…解放してください」
里美さんが、手を差し伸べた。
「私のことは…忘れてください。あなたは…あなたの罪を…決して忘れてはなりません」
その瞬間、モニターのアラームが鳴り響いた。
里美さんの心拍数が急激に低下している。容態が急変したのだ。
「里美さん!」
私はすぐに処置を始めた。
「外科の当直を呼んで!急いで!」
だが、里美さんは私の手を握ったまま、微笑みを浮かべていた。
「ありがとう…先生…」
そう言って、彼女の心拍は止まった。
私は彼女の手を握ったまま、その場に立ち尽くした。
死なせるわけにはいかない。
助けると誓った。
それでも、彼女は死んだ。
私は、また患者を失った。
数週間後、私は病院を辞めた。そして、一人の患者に寄り添うことを選んだ。彼女が最後に願ったことは、「私のことを忘れないでほしい」ということだった。私は彼女のことを忘れないだろう。そして、自分の罪も忘れないだろう。それが、私ができる唯一の贖罪なのだから。
彼女が死んだ後、私は彼女の部屋を訪ねた。遺品を整理するために。
そこには、一通の手紙が残されていた。
「先生へ。私があなたに望むのは、私を忘れないことです。あなたが私を助けようとしたことは、私は忘れません。でも、あなたが自分を許さないことも、私は悲しく思います。どうか、いつか…自分を許してください。それが、私の願いです」
私は手紙を握りしめた。
彼女は、私のことを想って、あんな言葉を残したのだ。
彼女は、私に生きてほしいと思っている。
それなら、私は生きよう。自分のために。彼女の願いを果たすために。
今、私は地域の診療所で働いている。大きな病院ではない。患者は一日に十人も来ない。でも、一人一人と向き合う時間はたっぷりある。里美さんに教えてもらったことだ。医者は、患者を救うためにいるのではない。患者と共に生きるためにいるのだ。
「先生、今日はちょっと調子が悪くて」
「そうですか。じゃあ、ゆっくり話を聞かせてくださいね」
今日も、私は診療所で患者を待っている。里美さんの分も、私の分も、大事に生きていくために。
彼女が最期に私に残した言葉は二つ。一つは「私を忘れないでほしい」ということ。もう一つは「自分を許してほしい」ということ。私はまだ、自分を許せない。でも、忘れてはいない。彼女がいたことを、彼女が私に与えてくれたものを。それが、私の今を支えている。
彼女の命が終わった場所で、私は今日も診療所に立っている。彼女のために生きるのではなく、彼女と共に生きた証しを胸に、次の患者のために。
ご視聴ありがとうございました。もしこの話が心に響いたなら、チャンネル登録と高評価をお願いします。次回の動画でお会いしましょう。
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午前二時、当直室の電話が鳴った。救急隊からの連絡だ。
「交通事故。五十代女性。腹部打撲。バイタル不安定」
担架で運ばれてきた患者を見て、私は息を飲んだ。長年診てきた里美さんだった。彼女は五年間、人工透析を続けている。
「楓出先生…」
里美さんがかすれた声で私の名前を呼んだ。手が凍えるほど冷たい。
「大丈夫ですよ。私がいますから」
そう言いながら、モニターに目を走らせた。血圧が落ちている。腹部は緊満している。内臓損傷の可能性が高い。緊急手術が必要だ。
「すぐにCTを。外科の当直にも連絡して」
彼女は五年前に腎不全と診断され、以来ずっと透析を続けてきた。糖尿病もあり、心臓にも負担がかかっている。手術のリスクは通常の患者よりはるかに高い。
「先生…」
里美さんが再び私の腕を掴んだ。
「もう…いいんです」
「何をおっしゃっているんですか。まだ何も決まっていません」
「私の身体のことなら分かってます。透析を受けるようになってから、ずっと考えてきました。このまま長く生きるのも…自分勝手なんじゃないかって」
その言葉に、私は一瞬、言葉を失った。里美さんはずっと一人で生きてきた。夫とは十年前に別れ、子供もいない。透析に通いながら、自宅で一人暮らしを続けている。そんな彼女を、私は十年間見てきた。彼女はいつも「先生がいるから頑張れる」と言ってくれた。
「でも、今回の怪我は透析とは別の問題です。緊急手術をしないと命に関わります」
「分かってます。それでもいいんです」
里美さんの目には涙が浮かんでいた。
「もう…疲れたんです。誰にも迷惑をかけずに終わりたい」
寒気が走った。彼女は本気で死のうとしている。十年間、透析に耐えてきた女性が、今、命を手放そうとしている。なぜ。何があったのか。
「里美さん。何かあったんですか。私に話してください」
「…先生には言えません」
「なぜですか」
「先生は…私の主治医だからです」
その言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
「私は患者さんの話を聞くために医者をやっています。何でも話してください」
里美さんは唇を噛んだ。そして、静かに口を開いた。
「先生…私はもう、透析を受けたくありません。このままここで…終わりにしたいんです」
「そんなことはさせません」
私は強く言った。
「私は医者です。目の前の命を救うのが仕事です。たとえ患者さんが死にたいと思っていても、私は救います」
「なぜですか」
「なぜ…なぜ、そこまでして私を生かすんですか」
「それは…」
里美さんの質問に、私は答えられなかった。確かに、私は医者だ。目の前の命を救うのが使命だ。でも、それだけでは彼女の気持ちを無視することになる。彼女が何を背負っているのか、私は知らない。彼女が何に苦しんでいるのか、私は知らない。ただ、透析を続けてきたから、腎臓が悪いのだろうと思っていた。それ以上のことは、何も知らなかった。
「…答えられないんでしょう。だって先生は、私のために医者をやっているんじゃない。先生のために、医者をやっているんでしょう」
里美さんの声は、静かだった。
「私が死んだら、あなたは自分を責める。自分がもっと診ていれば助かったのにって。それでまた仕事に打ち込む。まるで罰を受けるように。それでいいんです。あなたはそうやって生きてきた。私も…そうやって生きてきたから」
「里美さん…」
「私は、あなたの病院に十年通ってきた。あなたが私にどれだけ良くしてくれたか、分かってる。でも先生、あなたは患者を一人の人間として見ていない。あなたにとって、患者は…あなた自身の罪を償うための道具なんでしょう」
その言葉は、鋭く突き刺さった。彼女は何も知らないはずなのに、何もかも見透かしていた。
私は、一人の患者を死なせたことがある。今から二十年前、研修医だった頃だ。その患者は、私の判断ミスで亡くなった。私は自分のミスを認めるのが怖くて、報告を後回しにした。その間に、事態は悪化した。患者は亡くなった。私は罪に苛まれた。そして、二度と患者を見殺しにしないと誓った。それから私は、どんな患者でも、死なせないために全力を尽くしてきた。どんな治療でも、ためらわずに選択してきた。リスクが高くても、患者が拒んでも、私は強行してきた。それが、私の贖罪のつもりだった。
「先生、あなたは…もう十分に償っていると思います。私は…あなたを解放してあげたいんです」
里美さんは、静かに微笑んだ。
私は立ち上がった。
「里美さん。あなたを死なせるわけにはいきません」
「なぜですか」
「あなたは…私が最初に助けた患者さんだからです」
嘘だった。彼女は最初の患者ではなかった。でも、最初に私を信じてくれた患者だった。十年間、私を「先生」と呼んでくれた患者だった。彼女がいなくなったら、私はまた闇に落ちる。自分の罪を忘れないために、誰かを救い続ける。それが、私の生きる理由だった。
「先生、それって…エゴじゃないんですか」
里美さんの声が、静かに響いた。
「あなたは私を助けることで、自分を救っている。私は、あなたのための道具じゃない。私は…私のために死にたいんです」
その瞬間、私は何も言えなかった。彼女の言うことは、正しかった。私は患者を助けることで、自分の罪を忘れようとしていた。それは、彼女の生きる理由にはなれない。彼女が死にたいと望むなら、それを尊重するべきなのか。それでも、医者として、見捨てるわけにはいかない。
「…できますか?私を生かすことが?私のために、あなたのエゴを捨てて」
里美さんの目は、真剣だった。
「私はあなたに、自分のために生きますとは言いません。でも、あなたに生きていてほしいと願うことはできます。それは…私の気持ちです」
「それがエゴだと言ってるんです。あなたは私を助けて、また働くんでしょう。そして、次の患者を助ける。その繰り返しで、あなたは自分の罪を忘れるんでしょう。私は、あなたの罪を背負いたくない」
その瞬間、私はすべてを理解した。里美さんは、私のことを知っていた。彼女は、私が過去に何をしてきたのか、知っていた。彼女は、私の贖罪の道具になりたくないと言っている。彼女は、自分が死ぬことで、私に罪を償わせたくないと言っている。もし彼女を助けたら、私はまた患者を助けたことで満足するだろう。自分の罪を忘れて、また同じ過ちを繰り返すかもしれない。それなら、彼女は死んだほうがいいと言っているのだ。
「先生…私を…解放してください」
里美さんが、手を差し伸べた。
「私のことは…忘れてください。あなたは…あなたの罪を…決して忘れてはなりません」
その瞬間、モニターのアラームが鳴り響いた。
里美さんの心拍数が急激に低下している。容態が急変したのだ。
「里美さん!」
私はすぐに処置を始めた。
「外科の当直を呼んで!急いで!」
だが、里美さんは私の手を握ったまま、微笑みを浮かべていた。
「ありがとう…先生…」
そう言って、彼女の心拍は止まった。
私は彼女の手を握ったまま、その場に立ち尽くした。
死なせるわけにはいかない。助けると誓った。それでも、彼女は死んだ。私は、また患者を失った。
数週間後、私は病院を辞めた。そして、一人の患者に寄り添うことを選んだ。彼女が最後に願ったことは、「私のことを忘れないでほしい」ということだった。私は彼女のことを忘れないだろう。そして、自分の罪も忘れないだろう。それが、私ができる唯一の贖罪なのだから。
彼女が死んだ後、私は彼女の部屋を訪ねた。遺品を整理するために。
そこには、一通の手紙が残されていた。
「先生へ。私があなたに望むのは、私を忘れないことです。あなたが私を助けようとしたことは、私は忘れません。でも、あなたが自分を許さないことも、私は悲しく思います。どうか、いつか…自分を許してください。それが、私の願いです」
私は手紙を握りしめた。彼女は、私のことを想って、あんな言葉を残したのだ。彼女は、私に生きてほしいと思っている。それなら、私は生きよう。自分のために。彼女の願いを果たすために。
今、私は地域の診療所で働いている。大きな病院ではない。患者は一日に十人も来ない。でも、一人一人と向き合う時間はたっぷりある。里美さんに教えてもらったことだ。医者は、患者を救うためにいるのではない。患者と共に生きるためにいるのだ。
「先生、今日はちょっと調子が悪くて」
「そうですか。じゃあ、ゆっくり話を聞かせてくださいね」
今日も、私は診療所で患者を待っている。里美さんの分も、私の分も、大事に生きていくために。
彼女が最期に私に残した言葉は二つ。一つは「私を忘れないでほしい」ということ。もう一つは「自分を許してほしい」ということ。私はまだ、自分を許せない。でも、忘れてはいない。彼女がいたことを、彼女が私に与えてくれたものを。それが、私の今を支えている。
彼女の命が終わった場所で、私は今日も診療所に立っている。彼女のために生きるのではなく、彼女と共に生きた証しを胸に、次の患者のために。



