「その年で、もう引退したらどうですか?邪魔なんですよ。」 名門クラブの支配人である男にそう言われた時、私はその場に立ち尽くすことしかできなかった。78歳の私は、人生で初めて、こんな屈辱を受けた。 しかも、支配人の暴言に抗議した若い研修プロまでもが、私のせいでクビにされようとしている。 「こいつに教えたのは俺だ。この老人を知らないのか?」…

「その年で、もう引退したらどうですか?邪魔なんですよ。」 名門クラブの支配人である男にそう言われた時、私はその場に立ち尽くすことしかできなかった。78歳の私は、人生で初めて、こんな屈辱を受けた。 しかも、支配人の暴言に抗議した若い研修プロまでもが、私のせいでクビにされようとしている。 「こいつに教えたのは俺だ。この老人を知らないのか?」...

「会員証ないなら、うちじゃ一歩も入れないんですよ。分かります?昔は知りませんが、今は俺が基準なんで、こぼされても困るんですよ。」

カウンター越しに、くたびれたポロシャツの老人が静かに一礼して踵を返す。

「あ、その格好じゃよそでも断られますよ。ウェアくらい揃えてきてください。」

背中に刺さる追い打ち。柱の影で、研修プロの若い女性が拳を握りしめて唇を噛んだ。

直後、同じロビーに黒塗りの高級車が滑り込む。スーツ姿の男が飛び込み、支配人を完全に無視して老人に駆け寄った。

「会長、探しましたよ。」

その瞬間、安田の顔が少し青ざめた。

一枚の白いキャップの下、78歳の老人の頭の中で、静かな決意が動き出そうとしていた。

この老人を追い出した男は、自分が地獄に落ちることをまだ知らなかった。

早朝の住宅街に薄い霧が立ち込めている。古い平屋の縁側で、湯飲みを手にした男が腰を下ろしていた。小山友巣、78歳。全国12のゴルフ場を手がけた伝説のコース設計家、日本ゴルフコース設計協会の名誉会長。

しかし、その佇まいを眺めながら茶をすする姿に、重々しい風格は微塵もない。

「今日は暖かいなあ。不満もそろそろ晴れるか。」

独り言のような呟きが朝の空気に溶ける。縁側の壁には年期の入ったパターと色褪せた表彰状。棚の隅には金文字の刻まれたトロフィー。しかし本人はそれらについて多くを語らない。

「昔の話は、もう飾りでいい。」

湯飲みを縁側に置いた時、胸の奥で30年沈んでいた怒りが微かに音を立てた。

俺は、1人の選手の未来をこの手で奪った男だ。

30年前のクラブハウス。まだ骨格の整わない肩幅の若い選手が、興奮した目で小山の前に立っている。

「小山さん、お願いします。俺を出してください。今年の調子なら絶対に勝てます。絶対にです。」

険しい顔で小山は低く告げる。

「お前の指導役として、大事なことを伝えておく。お前のスイングは本番で崩れる癖がある。もう1年、基礎を固めてから出るべきだ。」

「でも、今年を逃したら俺の次なんて保証されてないんです。」

「それを俺が決める。悪く思うな。」

若い選手は悔しさを飲み込んで頭を下げ、その背中は廊下の奥へ消えていった。

その年の大会で優勝したのは、他ならぬ小山自身だった。

縁側の湯飲みの茶はもう覚めている。膝の上で、しわの寄った手の甲が静かに震えた。

1973年の会場記念で優勝したのは、他ならぬこの俺だった。

空を見上げると雲が一つ、ゆっくりと流れていった。

今日、行ってみるか。あのコースに。

コースは嘘をつかない。昔も今もな。

胸の内に言い聞かせるような声だった。クローゼットから、着古したベージュのポロシャツ、古びた白いキャップ、傷だらけのスパイクシューズを取り出す。首の古い高級時計だけが、朝日を浴びて鈍く光った。

道具は昔のままでいい。気取りも必要ない。

玄関で靴紐を結び直し、扉を閉めた時、古い家の軋む音が物語の始まりを告げる合図のようになった。

名門ゴルフクラブのエントランスは、相変わらず手入れが行き届いていた。足を踏み入れた小山は、50年前に自分が設計図に鉛筆を走らせた日の光を、今の空気に確かに感じ取った。

「変わらんな、この芝の匂いは。木の立ち方も、風の抜け方も、あの頃のまま。」

呟きながらクラブハウスの裏手へと続く小道を歩く。遠くからパターの音が聞こえてきた。コツン、コツンと規則正しく、しかしどこか硬い音だった。

小山は足を止める。練習グリーンの脇で、若い女性が一人、黙々とパット練習を続けていた。クラブの研修プロ、瀬川凛、26歳。

「落ち着いて、落ち着いて。あと1球だけ、まっすぐ転がそう。」

自分に言い聞かせるような呟きが朝の静寂に落ちる。

「今年でダメだったら、本当にもう後がないんだから。」

細く吐いた息がグリーンの芝を撫でる。

「今年ダメだったら、帰っておいで。」

母のその声が頭から抜けない。プロテスト挑戦3年目。今年を自分で決めた最後の年と心に決めて、グリーンの上で自分と向き合い続けている。

もう1球打とうとしたその時、背後から革靴の音が近づいてきた。

「瀬川さん、またここ使ってるの?朝一邪魔なんだけど。」

声は丁寧を装いながら、語尾に嫌味が滲んでいた。仕立てのいいスーツに光沢のある革靴。クリップボードを抱えた男。支配人、安田春典、38歳が朝の光を遮るように立ち止まった。

凛はパターを下ろし、姿勢を伸ばして向き直った。

「申し訳ありません。練習部は研修プロの朝の使用が認められているはずですが。」

「認められてたでしょ。過去。」

軽く首をかしげながら、安田は嘲笑うような口調で言い放つ。

「俺が変えたから。研修プロより会員様が最優先。分かる?」

「存じ上げず申し訳ありません。」

「クラブの顔は会員様なの。研修プロが邪魔して、何が名門クラブなのって話。」

凛は唇を噛み、拳を握ったまま小さく頷く。

「以後、気をつけます。」

「それに正直さ、3年やってまだプロになれてないって、向いてないんじゃないの?」

凛の肩がわずかに跳ねた。

「才能って残酷だよね。努力で埋まるものじゃないし。そろそろ誰か気づいてあげなきゃね。次のスポンサー枠、別の子にしようかなって、ちょうど考えてたとこなんだよね。」

その一言に凛の視線が落ちた。

「考え直してください。今年の枠は私の最後の挑戦で。」

「はいはい。最後最後って、もう聞き飽きたよ。じゃあ頑張って。向いてないけどね。」

安田はクリップボードを一瞥し、肩をすくめて立ち去った。

入れ替わるように、同じ研修プロ仲間の高橋美樹、27歳が心配そうに駆け寄ってくる。一歳年上で、凛にとって唯一胸の内を話せる同期生である。

「瀬川さん、大丈夫?あれはさすがに言いすぎだよ。」

「うん。ありがとう。」

凛は微苦笑でもう一度アドレスに入った。グリップを握る指の震えを、自分で抑え込もうとしている。

エントランスのガラス越しに、その一挙手一投足を目にしている老人がいた。

あのスイングの癖、どこかで見たことがある。軸のぶれ方も、押し込み方も、間違いない。記憶の底の何かがゆっくりと動き出す気配を感じた。小山はじっと黙って、ガラスの前に立ち尽くした。

しばらくして、小山はエントランスへと進んだ。カウンターの男の顔を見て、胸の奥で一度だけ息を吐く。

あの顔は知らんな。新しい人間が立っているのか。

安田は老人の姿に気づくと、上から下まで値踏みするような視線を這わせた。並んだ若いスタッフの一人が、思わず目を伏せる。

「失礼ですが、ご予約はお持ちですかね。」

声だけは丁寧に整えていたが、唇の端に浮かんだ笑みが本音を物語っていた。

小山は帽子のつばに軽く触れ、穏やかな調子で答える。

「昔は持っていたんだがね。随分前に返してしまって、そのままになっている。古い名簿には私の名前もまだ残っているはずなんだが。」

「名簿。今、更新中でね。古い会員はこっちで整理させてもらってるんで。」

取り繕った丁寧さんの仮面が、音を立てて剥がれ落ちる。

「じいさん、このクラブは会員制だよ。会員証ない人はお断りしてますんで、いい加減にしてくれますか。」

「そうか。」

「こぼされても、俺は新しい体制を任された人間なんで、昔の人の甘い基準とは違うんですよ。」

嘲りが混じったその物言いに、小山はキャップのつばを少し押し上げ、静かに返す。

「そうかね。昔はフラッと来ても、よく回れたものだったがな。」

「今は俺が基準を決めてますので。分かります?会員制って意味。」

小山は黙って帽子のつばに指をかけた。カウンター越しに身を乗り出し、安田は追い打ちをかける。

「お金を払ってる会員様がいいんの隣でプレイしたいと思います。普通でしょ?」

「分かったよ。今日は帰ろう。」

「そうしてください。あ、その格好じゃ、よそでも断られますよ。ウェアくらい揃えてから出直してきた方がいいんじゃないですか。」

少し離れた柱の影で、練習から戻ってきた凛がその一部始終を見ていた。

「あの、支配人、ひどくないですか?」

「あ、何、お前?会員証がないのは分かりますが、そこまでおっしゃらなくても。」

「研修プロが口出すことじゃないけど、自分の仕事してくれる?」

凛は唇を噛み、それ以上言葉が出なかった。

小山はゆっくりと帽子を取り、静かに一礼して踵を返す。凛は拳を握りしめたまま立ち尽くす。その輪に向かって、ほんの少しだけ首を横に振る。

「気にするな。あんたが悪いんじゃない。」

独り言のように呟き、老人はエントランスへと背を向けた。残されたロビーには、スタッフたちの沈黙だけが気まずい余韻として漂っていた。

夜、小山の書斎には古時計の振り子の音だけが静かに響いていた。小山はクローゼットの奥から、長らく開いていなかったフリーアルバムを取り出した。ページをめくると、色褪せた写真が現れた。

若き自分と肩を並べた、一人の選手。瀬川健二。30年前、誰よりも才能があった男だ。

「やっと、お前の顔を正面から見られた。」

かれた声が古い写真の上に落ちる。指先が、写真の中の若い選手の肩の線をそっとなぞった。

「あの一言で、お前は競技を離れた。俺のせいだ。ずっとそう思ってきた。」

ページをめくる手がそこで止まった。次のページに貼られていたのは、競技中の一枚。軸が揺れながらも、最後の瞬間にグリップで押し込む、あの粘り強いスイング。

さっき凛が見せたアドレス前の深呼吸、グリップを握り直す仕草。軸がぶれながらも、諦めずに打ち続けた粘り強さ。二つのスイングが、一本の糸で結ばれていく。

軸のぶれ方も、手首の使い方も、間違いない。

「俺の日の」写真の笑顔に、今日の凛の顔がゆっくりと重なる。同じ目の光、同じ眉の角度。

あの子は、健二の娘か。

アルバムを閉じ、胸に当てた。畳の床がわずかに軋んだ音を立てた。

もう、同じ過ちは繰り返さん。今度こそ、最後まで見届ける。

胸の奥で、30年ぶりに硬い何かが鳴った。小山は箪笥の手帳を開き、古いメモ欄に書き留めてある番号を指でなぞる。それから受話器を取り、ダイヤルを回した。数回のコール音の後、相手は少し驚いたような声で出る。

「おお、小山さん。お久しぶりです。どうされましたか?こんな時間に。」

電話の向こうで、窮地の男の姿勢が正されたのが伝わってくる。安田ホールディングスの創業者、安田聖。65歳。業界内で長年、小山の仕事ぶりを間近で見続けてきた男だ。

「ちょっと話をしたくなってな。少し、いいか。」

「小山さん?一体どうされましたか?」

「今日な。久しぶりに、あるゴルフ場へ行ったんだが、門前払いされてしまってな。」

「え?どちらのクラブですか?それは冗談じゃ済まない話ですよ。」

「面白いだろう。この年になっても、こんなことが起きる。それでな、明日もう一度行ってみようと思っている。」

「小山さん、待ってください。場所だけでも教えてください。」

「すまん、すまん。それだけだ。今日はもう寝ることにする。すまんね、付き合わせて。」

「せめて、明日の朝、迎えを寄させてください。」

「いらんよ。自分の足で行きたいんだ。」

「おい、小山さん、切らないで。」

受話器を静かに戻し、小山は一度だけ目を閉じた。

今度こそ、筋を通す。あの子の前で、逃げるわけにはいかん。

電話の向こうで、聖は受話器を握ったまま動けなくなっていた。

夜が明け、聖は心当たりのクラブへ片っ端から問い合わせを入れていく。数件目、相手のスタッフの声が少し戸惑った。

「昨日、ご年配の男性をお一人お断りした件でしたら、確かにございます。」

「応対したのはどなたですか?」

「支配人の安田春典でございます。」

受話器を握る指に力が入る。胸の底で、静かに、しかし確実に怒りが燃え上がった。

「すぐそちらへ向かう。支配人には、その場で待たせておいてくれ。」

スタッフに向けて短く告げ、電話を切る。

小山さんに顔向けできん。

黒塗りの車が、朝の光の中で静かに動き始めた。

同じ朝、クラブ敷地内の練習コースでは、凛が一人でドライバーを振っていた。朝靄がまだ芝の先に残る。昨日の支配人の声と、追い出された老人の背中が頭から離れなかった。

「3年やって、まだプロになれない。向いてないのかな、私。」

ドライバーのグリップを指先で何度も握り直した。構えに入り、振り抜く。しかしインパクトの瞬間、力が肩に乗り、ボールは大きく右へそれた。

「またか。」

軌道が浅くなってる。額の汗を手の甲で乱暴に拭う。もう一球、また右へ。

フェンスの向こうから、穏やかな声が届いた。

「また来てしまったよ。こりないじいさんだろ。」

振り返ると、傷だらけのスパイクシューズを履いた老人が、キャップのつばを少し上げて柔らかく笑っていた。

「あ、昨日の。大丈夫でしたか?あんな風に言われて。」

「私は平気だよ。気にしないでおくれ。それより、スイングを見ていていいかね?」

「はい。お願いします。正直、自分じゃもう何が悪いのか分からなくて。」

凛は戸惑いながらも、断る理由が見つからない自分に内心驚いていた。もう一球打って見せる。やはり力が抜けず、ボールは右へそれた。

「力で回そうとしているね。大事な場面になればなるほど、もっと力が入る。違うかね?」

「なんで分かるんですか?初めて会ったはずなのに。」

小山は答えない。代わりにフェンスのワイヤーに軽く指をかけ、視線を凛のアドレスから手元、肩、膝の順にゆっくりと下ろしていく。

手元の握りと、膝の角度。そこに答えがもう出ている。あとはあなた自身が気づくかどうかだ。

そして低い声で告げた。

「一番遠くに飛ばすより、一番正直に打て。」

「正直にですか?」

「見栄も焦りも、コースには通じない。あなた自身のゴルフをすればいい。」

その言葉に、凛は胸の奥を指先でそっと押されたような気がした。

正直に打つ。見栄も焦りも置いて。そうだ。それだけでいい。

「今年ダメだったら、帰っておいで。」の声も、一度だけ置いてか。

胸の底から、細い軸が一本、ゆっくりと立ち上がる感覚があった。

「もう一度打ってみます。見ていてもらっていいですか?」

「いくらでもな。ゆっくり、自分のリズムでな。」

凛はもう一度構えに入った。呼吸を整え、肩の力を抜く。ドライバーのヘッドがバックスイングで自然な軌道を描き、そのままダウンスイングに入った。インパクトの音は、先ほどまでとは違って芯を捉えた重い響きになる。ボールはまっすぐに、美しい弾道で朝の空へ伸びていった。

「まっすぐ飛びました。」

「芯を捉えたな。今のは、何かが違いました。全然。」

「それが、お前の本当の音だよ。」

フェンスの向こうの老人は、それ以上何も言わず、ただ小さく微笑んでいた。

その時、クリップボードを小脇に挟んだ安田が、フェンスに立つ老人の姿を見つけ、露骨に顔をしかめた。

「また来たのか、じいさん。昨日追い返された話、まだ飲み込めてないんですか?」

荒い声が、爽やかな朝の空気を一気に濁らせた。小山は笑みを消し、静かに答える。

「少し、見学させてもらっていただけだよ。邪魔はしていないつもりだが。」

「見学?うちのクラブは、誰でも覗けるテーマパークじゃないんで。」

鼻で笑い、安田は凛の方へ視線を滑らせた。

「瀬川さん、こんな非会員の爺さんと仲良くしてるから、お前はいつまで立ってもプロになれないんだよ。」

その一言で、凛の顔色が変わった。昨日までの自分なら、拳を握りしめ、視線を落としていたかもしれない。しかし今日は、胸の底に一本、通っているものがある感覚があった。凛はグリップを握ったまま、姿勢を伸ばして声を返す。

「支配人、このおじいさんとは何も関係ありません。私が勝手にアドバイスを頂いていただけです。」

「あ、何?いきなり口ごたえする気?」

「機会さえあれば、誰からでも学ぶべきだと思います。それと、プロになれるかどうかは、支配人が決めることではないはずです。」

「何言ってんの?お前、教科書通りにやってりゃいいんだよ。黙って練習でもしてろ。」

「黙って練習しても、結果が出ないから悩んでいるんです。それに、支配人がお客様にこんな態度を取っていて、このクラブの品格が保たれると思っているんですか?」

安田の顔が一瞬で赤くなった。凛もまた、自分が何を言ったのか分かって、心臓が早鐘を打っていた。しかし、引くわけにはいかなかった。

「は?お前、今なんて言った?研修プロが支配人に意見するとはいい度胸だな。」

「意見ではありません。事実を言ったまでです。支配人は、会員でもないお年寄りを、理由もなく侮辱しました。それは、このクラブの名に傷をつける行為です。」

辺りが水を打ったように静まり返った。スタッフたちは、気まずそうに目を伏せている。安田は一瞬言葉に詰まり、次には怒りに震える声を絞り出した。

「よくも…よくも生意気な口をきいてくれたな。お前、明日からもうここに来なくていいよ。研修プロも解雇だ。私の一存で決められることだ。」

その瞬間、凛の顔から血の気が引いていった。解雇。自分の口が、自分の首を絞めた。だが、もう後には引けなかった。

「解雇は、仕事をしないことへの罰です。私は、正当なことを言っただけです。」

「黙れ!私はね、このクラブの顔だ!その顔に泥を塗るような真似をしたお前を、私は許さない!さっさと荷物をまとめて出て行け!」

絶叫にも似た声がロビーに響き渡った。その時だった。

「おや、随分と賑やかだな。」

穏やかな、しかし妙に通る声。振り返ると、フェンスの向こうにいたはずの老人が、いつの間にかエントランスに立っていた。一人のスーツ姿の男を連れて。

「またあなたですか!何度も言ってるでしょう、会員証がないなら……って、あれ?」

安田の言葉が途中で止まる。その老人の隣に立つ男を見て、顔色がさっと変わった。

「あ…社長…?」

「おい、のり。お前、何をしているんだ。」

安田聖が、鉄のような低い声でそう問いかけた。社長。安田ホールディングスの社長、安田聖。春典の叔父である。

「し、社長!どうしてこちらに……?」

「うるさい。そこの方を見ろ。」

聖に指し示され、安田は改めて老人を見た。古びたポロシャツと白いキャップ。昨日は、ただの物好きな老人だと思っていた。しかし、よく見れば、その立ち居振る舞いに、並々ならぬ風格がある。

「昨日、こちらの老人を追い返したと聞いてな。嘘であってほしかったが、どうやら本当らしい。」

「は…はい。会員証をお持ちでなかったので、ルールに従って……」

「ルールだと?この方を誰だと思っている。」

「え……?」

「日本ゴルフコース設計協会の名誉会長、小山友巣先生だ。このクラブのコースを設計された方だ」

静かに告げられた言葉に、安田は凍りついた。いや、動けなくなった。小山を追い出したことではない。トラブルは、そのもっと根深いところにあった。

「これを見ろ。」

聖が、内ポケットから一枚の書類を取り出してカウンターに置いた。

「これは……?」

「このクラブの経理から、妙な報告が上がってきた。スポンサー料の一部が、別の口座に流れていると。その口座の名義が、お前個人だそうだ。」

安田の顔から、完全に血の気が引いた。

「ち、違います!それは、事務処理の都合で……」

「言い訳はいい。お前が何をしていたか、全て調べ上げてある。前のクラブでも、その前でも、同じことを繰り返していたな。口止め料を払って、揉み消してきたのだろう。」

「そ、それは……」

「今日で、終わりだ。」

聖の声は、悲しみと怒りが混ざったような重さを帯びていた。

「お前は、クビだ。今すぐ、荷物をまとめて出て行け。潔く認めて、家族の顔に泥を塗るな。」

安田は、その場に崩れ落ちるように膝をついた。

「おじさん!おじさん、お願いします!もう一度だけチャンスを!今度こそ、ちゃんとやりますから!」

「チャンスだと?お前は小山先生に、そして瀬川さんに、何てことを言ったと思っているんだ。お前の言葉は、もう誰も信じない。」

凛は、震えながらその一部始終を見ていた。自分が言い放った言葉が、ここまでの大ごとになるとは思っていなかった。

「瀬川さん。」

不意に、小山が声をかけた。凛は慌てて姿勢を正す。

「はい!」

「よく、あの場で正直な気持ちを口にできたな。あれは、並大抵の勇気ではない。」

「そんな……私、ただ黙ってられなかっただけで……」

「いいや。あれこそが、本当の強さだ。お前さん、スイングにも、ようやく芯が入ってきたな。」

そう言って、小山はにこりと微笑んだ。

「うちで、プロテストまで指導させてもらえないか。お前さんのゴルフが、もっと見てみたい。」

凛は、今度こそ涙が止まらなかった。

「はい……お願いします、先生。」

それから、季節が変わった。

凛は、小山の指導の下、実力を伸ばしていった。プロテスト当日。緊張で手が震えていたが、グリップを握り直すと、不思議と落ち着くのを感じた。フェアウェイにボールが真っ直ぐ飛んでいく。

コースは嘘をつかない。だから、自分も正直に打つ。

そして、結果発表。

「瀬川凛さん、合格です!」

凛は、待ってましたとばかりに号泣した。そして、泣き腫らした顔で、一番に小山へ報告に向かった。もう、魂を抜かれたような男の姿や、苦い思い出はどこにもなかった。

「先生!合格しました!」

「おう、見事だったぞ。」

後ろには、同じく合格した美樹がいた。2人は顔を見合わせ、力いっぱい抱き合った。小山は、夕日に染まるコースを静かに見つめていた。風の匂いは、50年前と同じだった。

その頃、安田は、全てを失っていた。支配人という地位も、信頼も。ただ一つの救いは、叔父の聖が、経営者として、ではなく家族として、最後の情けをかけてくれたことだった。

「お前は、もう一人で生きていけるだろう。だが、その人生の中で、いつかこの過ちを、自分の責任として受け止める日が来る。その時、初めてお前は、まっとうな人間に戻れる。」

聖の言葉を胸に、安田は何のコネもない世界に放り出された。何かを一から始めるには、若すぎた。しかし、何もしないには、まだ若すぎた。

数年後、ある地方の小さなゴルフ場に、一人の風変わりなコース管理人がいた。朝早くから、黙々と芝の手入れをしている。その男を見かけた常連客は、言う。

「あの管理人さん、だいぶ珍しいんだよ。スイングが素人離れしてるんだ。昔、何かやってたのかもしれないけどね。」

男の名前を、もう知る者は誰もいない。その男はただ、コースの隅から、日々を静かに見つめていた。かつて自分が傲慢に支配していた世界を、今度は泥だらけになって支える側に立って。

コースは、嘘をつかないのだ。

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