「母さん、今月の援助がまだ振り込まれてないんだけど」 朝の8時、開口一番の息子のその言葉に、私は驚くほど冷静にこう答えました。 「ああ、それは停止させていただきましたので」 「は?何言ってるんだ?困るよ!」 でも、私はもう何も動じなかった。孫の無邪気な一言から始まった、この3年間の真実。家計簿に書かれた数字。ふたりの会話。そして、あの日の言葉。…

「母さん、今月の援助がまだ振り込まれてないんだけど」 朝の8時、開口一番の息子のその言葉に、私は驚くほど冷静にこう答えました。 「ああ、それは停止させていただきましたので」 「は?何言ってるんだ?困るよ!」 でも、私はもう何も動じなかった。孫の無邪気な一言から始まった、この3年間の真実。家計簿に書かれた数字。ふたりの会話。そして、あの日の言葉。...

孫の大機が無邪気な声で言った言葉に、私は手に持っていたおもちゃを落としそうになった。
「ママのおじいちゃんとおばあちゃんも、ここに住むんだって!楽しみだね、おばあちゃん」
息子夫婦の新居で、大機と遊んでいた穏やかな午後。その一言の意味が、すぐには飲み込めなかった。
「大きちゃん、それってどういうこと?」
私が優しく尋ねると、台所から慌てて出てきたのは義理の娘のリカさんだった。その顔は明らかに焦っていた。
「余計なことを言わないで」
リカさんの鋭い声に、大機は驚いたように黙り込む。私の胸に、冷たいものが広がっていった。
私は長谷川ゆ子、65歳。夫の明と二人、静かで穏やかな日々を送ってきた。病院の受付として30年間働き、コツコツと貯めたお金は全て息子のために使ってきた。新太郎の教育費に850万円。大学まで全て私たちが出した。結婚式には200万円。新居の頭金として300万円。そして今も、毎月15万円を援助し続けている。3年間で540万円になる。
そのお金が、リカさんのご両親との同居費用に使われていたのだとしたら?
その夜、私は一睡もできなかった。大機の言葉が頭の中で何度も繰り返される。翌週、私は決意して息子の家を訪れた。
「お母さん、今日はどうされたんですか?」
リカさんの声には、明らかに迷惑そうな響きがあった。
「少しお話があって。新太郎はいるかしら?」
リビングに通された私の目に、テーブルの上に置かれた家計簿が飛び込んできた。リカさんが慌てて隠そうとしたが、一瞬見えた文字に、心臓が凍りついた。
『両親との同居準備費用 月8万円』
新太郎が仕事から帰ってきて、私は静かに尋ねた。
「私が援助しているお金、何に使っているの?」
息子は一瞬目を泳がせた。
「生活費だよ、母さん」
「リカさんのご両親との同居費用には使っていないの?」
その言葉に、二人の顔色が変わった。
「お母さん、それは生活費の一部ですから」
リカさんが先に口を開く。
「一部?毎月15万円も援助しているのに、それを義理のご両親のために?」
私の声は、怒りではなく悲しみで震えていた。
新太郎が言い訳を始める。
「母さんは一人だし、遠慮できるだろう。リカの両親は色々教えてくれるから、同居した方が助かるんだ」
「私たち夫婦は、私たちとの同居は考えなかったの?」
新太郎が言葉を濁した瞬間、リカさんが冷たく言い放った。
「正直に言えばいいじゃない。お母さんとは価値観が合わないんです」
その言葉が、胸に鋭く刺さった。

数日後、私はもう一度息子の家を訪れた。夕方、開いた窓から聞こえてくる会話に、足が止まった。
「お母さんは遠いし、正直面倒なのよね」
リカさんの声だった。
「そうよね。でもお金は出させればいいのよ。うちは同居して孫の教育もできるし、一石二鳥じゃない」
返事をしたのは、リカさんのお母様だった。
「新太郎も、私の両親の方が話しやすいって言ってますし。お母さんは正直時代遅れなところがあって」
笑い声が聞こえてきた。
私はその場に立ち尽くすことしかできなかった。
玄関のチャイムを鳴らすと、リカさんが驚いた顔で出てきた。
「お母さん、いつから?」
「今来たところよ」
嘘をついた。真実を知った今、まだ心の準備ができていなかった。

その夜、新太郎から電話がかかってきた。
「母さん、来月の援助の件なんだけど。義父の誕生日も近いから、できれば20万円にしてもらえないかな」
私は握っていた手に力を込めた。
「新太郎、私、聞きたいことがあるの。私はあなたたちにとって、何なの?」
「何って?母さんだろう?何を言ってるんだ?」
「本当に、母親として見てくれているの?それとも……」
言葉が続かない。沈黙が流れるだけだった。
「母さん、変なこと考えないでよ。俺たちは感謝してるって」
その言葉が、どれほど空疎に聞こえたことだろう。

翌日、私が偶然通りかかった喫茶店で、リカさんとそのお母様が話しているのを見かけた。窓際の席で、二人は楽しそうに笑っている。
「お母さんには援助だけしてもらえばいいのよ」
義母の声が、開いた窓から聞こえてくる。
「そうですね。同居なんてとんでもない。価値観が違いすぎますもの」
リカさんが頷きながら答えた。
「お金は便利だけど、人は必要ないってことよね」
二人の笑い声が、町の喧騒に溶けていく。
私はその場から静かに立ち去った。涙は出なかった。ただ心の中で、何かが音を立てて壊れていく感覚だけが確かにあった。

家に帰ると、夫の明が心配そうに私を見つめていた。
「ゆき子、顔色が悪いぞ。何かあったのか?」
私は全てを話した。大機の言葉から始まり、家計簿で見た数字、盗み聞きした会話、そして喫茶店で耳にした残酷な言葉まで。
明の顔が見る見るうちに強張っていく。
「そんな……息子が……そこまで」
「私たちは、利用されていただけなのよ」
言葉にすると、現実がより鮮明になっていった。30年間必死に働いて貯めたお金。それは息子の幸せのためだと信じていたのに、実際には義理の両親を養うために使われていた。

その夜、新太郎からメールが届いた。
「母さん、来月の援助よろしくね。あと義父母の誕生日も頼むよ。できれば3万円くらいで」
画面を見つめながら、私の中で何かがはっきりと音を立てて切れていく。
「明、私、もう許せない」
夫が静かに頷いた。
「ゆき子、俺たちの老後はどうするんだ?このまま息子に援助を続けていたら、俺たちの貯金はなくなってしまう」
その言葉に、私ははっとした。そうです。私たちにも老後がある。病院のパートを続けてきたが、体力的にもそろそろ限界だ。これから先、医療費も介護費用も必要になるかもしれない。なのに、息子は私たちの将来を考えてくれているだろうか?
「遺言を書き換えます」
私が言うと、明が驚いた顔で私を見た。
「ゆき子?」
「このままでは、私たちが亡くなった後も息子は当然のように遺産を受け取るでしょう。でも、もうそれは許せない」
明は長い沈黙の後、ゆっくりと頷いた。
「そうだな。息子には厳しいかもしれないが、これは必要な教訓だ」

翌朝、私は弁護士事務所に電話をかけた。昔病院で知り合った患者さんのご主人が弁護士で、信頼できる方だと聞いていたのだ。田村法律事務所。遺言書の作成について相談したいと伝えると、その日の午後、私たち夫婦は田村弁護士の事務所を訪れていた。
白髪交じりの穏やかな表情の先生が、私たちの話を丁寧に聞いてくださる。
「なるほど。長谷川さん。これは明らかな経済的虐待のケースですね」
田村先生の言葉に、私は目を見開いた。
「経済的虐待ですか?」
「親御さんから金銭を取り上げ、本人の意思に反して使用する。これは立派な虐待行為です」
その言葉で、私の中のモヤモヤが晴れていくように感じた。私が感じていた違和感は、間違っていなかったのだ。
田村先生は、遺言書の書き方について詳しく説明してくださった。
「息子さんへの相続を完全に無効にすることはできません。法律で守られた遺留分というものがあります。しかし、それを最低限に抑えることは可能です」
「最低限とは?」
「全財産の8分の1程度です。長谷川さんの場合、総資産が約2800万円とのことですから、息子さんへは約350万円。残りの2450万円はご主人様や慈善団体に遺贈することができます」
私は明の顔を見た。夫も真剣な表情で頷いている。
「それでお願いします」
決意が言葉となって、口から出ていく。
「ただし」
田村先生が続ける。
「公正証書遺言にすることをお勧めします。自筆証書遺言では、息子さんに破棄されたり無効を主張されたりする可能性があります。公証役場で作成する公正証書遺言なら、法的に最も強い効力を持ちます」
「わかりました。それでお願いします」
事務所を出る時、私の心は不思議なほど軽くなっていた。罪悪感はない。これは復讐ではなく、自分たちの人生を守るための正当な権利なのだと、ようやく理解できたのだ。

その夜、私は一人で書斎に座り、これまでの援助の記録を整理し始めた。通帳のコピー、振り込み明細、息子からのメール。全てを時系列に並べていく。
教育費用850万円、結婚式200万円、新居の頭金300万円、月々の援助15万円×36ヶ月で540万円。合計1890万円。
これだけのお金を注ぎ込んできたのだ。それなのに、私たちは「面倒」「時代遅れ」「お金だけ出せばいい」と言われてきた。
明が部屋に入ってきて、私の肩にそっと手を置く。
「ゆき子、後悔はしていないか?」
「ええ、もう迷いないわ」
私は夫の手を握り返した。
「これは私たちの人生を取り戻すためなのよ。息子のためではなく、私たち自身のために生きる。それがこれからの私たちの選択なの」
明が優しく微笑む。
「そうだな。俺たちにも幸せになる権利がある」

翌週、私は銀行に向かった。自動振り込みの停止手続きをするためだ。窓口で手続きをしながら、不思議と心は穏やかだった。
「毎月15万円の自動振り込みを、今月分から停止してください」
職員の方が確認する。
「本当によろしいですか?一度停止されますと、再開には手続きが必要になりますが」
「はい。もう二度と再開することはありません」
その言葉に、自分でも驚くほどの確信があった。
銀行を出た私は、次に保険会社へ向かう。生命保険の受取人変更だ。現在は新太郎が受取人になっているが、これを明に変更する。
全ての手続きを終えた時、窓の外は夕焼けに染まっていた。オレンジ色の光が町を優しく包み込んでいる。私は新しい人生の第一歩を踏み出したのだと感じていた。

それから1週間後、私たち夫婦は公証役場を訪れていた。重厚な建物の中は静寂に包まれ、これから行うことの重大さを感じさせる。
「長谷川様、こちらへどうぞ」
公証人の先生が私たちを個室に案内してくださった。田村弁護士も同席し、厳粛な雰囲気の中で手続きが始まる。
「それでは、遺言の内容を確認させていただきます」
公証人の先生がゆっくりと読み上げていく。
「遺言者、長谷川ゆ子は次の通り遺言する。第一条、遺言者の有する全財産のうち、長男、長谷川新太郎に相続させる財産は、法定の遺留分に相当する金額のみとする」
その言葉を聞きながら、私の心に迷いはなかった。
「第二条、遺留分を除く残りの財産は、夫、長谷川明に2分の1を相続させ、残り2分の1を社会福祉法人に寄付する」
明が隣で私の手をそっと握ってくれる。その温かさが、私の決意を支えてくれた。
「長谷川さん、この内容で間違いございませんか?」
「はい、間違いありません」
私ははっきりとした声で答えた。
「それでは、証人の方々にもご確認いただきます」
二人の証人の方が内容を確認し、署名していく。そして最後に、私が署名と押印をする番が来た。
ペンを持つ手がわずかに震える。でも、それは恐れからではなかった。長い間背負ってきた重荷からようやく解放される瞬間だったのだ。
署名を終えた私は、深く息を吸い込んだ。
「これで公正証書遺言の作成は完了です。原本は公証役場で保管し、正本と謄本をお渡しします」
公証人の先生から、温かい封筒を受け取る。この中に、私の最後の意思が記されているのだ。
田村弁護士が優しく声をかけてくださった。
「長谷川さん、よく決断されましたね。これで息子さんが遺言を破棄したり改ざんしたりすることは不可能です」
「ありがとうございます」
公証役場を出ると、秋の風が頬を撫でていく。空は高く、雲一つない青空が広がっていた。

その帰り道、私たちは市役所に立ち寄った。もう一つ、やっておかなければならないことがあったのだ。
「住民票の閲覧制限の申請をしたいのですが」
窓口の職員の方が、書類を用意してくださる。
「ご家族からのDV等の被害を受けておられるのですか?」
「経済的虐待を受けています」
私がそう答えると、職員の方は理解のある表情で頷いてくださった。
「承知いたしました。こちらの書類にご記入ください」
この手続きをしておけば、息子が私たちの住所を役所で調べることはできなくなる。将来もし私たちが引っ越したとしても、居場所を知られることはない。
全ての手続きを終えて帰宅すると、新太郎からのメッセージが届いていた。
「母さん、今月の援助まだだけど忘れてない?早めに振り込んでくれると助かるんだけど」
その文面には、感謝の言葉も気遣いの言葉も一切なかった。ただお金を要求するだけのメッセージだ。
私は返信しなかった。今はまだ、その時ではないのだ。

夕食の後、明と二人でリビングに座り、これからのことを話し合った。
「ゆき子、援助をやめたら、息子はすぐに気づくだろうな」
「ええ、来月の初めには連絡が来るでしょうね」
「その時、どう対応する?」
私は少し考えてから答えた。
「事実だけを伝えます。援助は停止した。二度と再開しない。それだけよ」
明が心配そうに私を見つめる。
「息子はきっと怒るぞ」
「構いません。もう息子の顔色を窺って生きるのは終わりにしたいの」
その言葉に、明が静かに微笑んだ。
「そうだな。俺たちも自分たちの人生を楽しまないとな」

翌日、私は久しぶりに友人の悦子さんに電話をかけた。悦子さんは私の数少ない親友だ。長年の付き合いで、何でも話せる相手だった。
「ゆき子さん、久しぶりね。どうしたの?」
「悦子さん、実は相談があって」
私はこれまでの経緯を全て話した。悦子さんは黙って聞いてくれて、最後にこう言ってくださった。
「ゆき子さん、あなたは正しい選択をしたわ。親だって、自分の人生を大切にしていいのよ」
その言葉に、涙がこぼれそうになった。
「ありがとう。悦子さん、これからは私たちも一緒に楽しみましょう。来週、陶芸教室に誘ってもいい?」
「ええ、是非」
電話を切った後、私は窓の外を見つめる。庭の金木犀が、小さな花をつけ始めていた。甘い香りが、開けた窓から流れ込んでくる。
秋は終わりの季節であると同時に、新しい始まりの季節なのだと、ふと思った。私の中で何かが終わり、そして何かが始まろうとしている。
書斎の机の引き出しには、公正証書の謄本が大切にしまわれている。それは、私たちの新しい人生への確かな一歩なのであった。

月が変わって3日目の朝、予想通り新太郎から電話がかかってきた。時刻は午前8時。私がまだ朝食の準備をしている時間だ。
「母さん、今月の援助が振り込まれてないんだけど」
開口一番、怒鳴るような声が聞こえてくる。挨拶も、体調を気遣う言葉もない。
「ああ、それは停止させていただきましたので」
私は驚くほど冷静に答えることができた。
「え?何言ってるの?困るよ」
「義理のご両親との同居費用は、ご自分でお支払いください」
電話の向こうで、新太郎が言葉に詰まる気配が伝わってくる。
「な、何のこと?」
「大きちゃんから聞きましたよ。リカさんのご両親と同居されるんですってね」
沈黙が流れた。長い、重い沈黙だ。
「母さん、それは……」
「私が援助しているお金を、義理のご両親のために使っていたこと、全て知っていますよ」
「違う。そんなんじゃ……」
「家計簿も見ました。『両親同居準備費用 月8万円』と書いてありましたね」
新太郎の呼吸が荒くなるのが聞こえる。
「それに、リカさんとそのお母様の会話も聞いてしまいました。喫茶店で、とても楽しそうにお話しされていましたね」
「母さん、盗み聞きしたのか?」
「偶然です。でも、おかげで真実が分かりました。『お金は便利だけど、人は必要ない』とおっしゃっていましたね」
電話の向こうで、何かが倒れる音がした。
「母さん、待ってくれ。説明させて」
「説明は結構です。援助は今月から完全に停止します。二度と再開することはありません」
「そんな……母さん、俺たちどうすればいいんだよ」
初めて、息子の声に焦りが混じる。でも、私の心はもう動かなかった。
「それはあなた方で考えてください。私はもう関係ありません」
電話を切ると、明が心配そうに私を見ていた。
「大丈夫か?」
「ええ、不思議なくらい心は平穏よ」

その日の午後、今度はリカさんから電話がかかってきた。
「お母さん、どうか考え直してください」
声は、泣いているように震えている。
「何を考え直すのですか?」
「援助のことです。お願いします。私たちには必要なんです」
「義理のご両親と同居されるなら、そちらに援助していただけばよろしいのでは?」
「それは……私の両親にはお金がなくて」
「そうですか。では、ご自分たちで何とかするしかありませんね」
「お母さん!」
リカさんの声が、悲鳴のように高くなる。
「私のことを『面倒』『時代遅れ』とおっしゃっていましたよね。そんな人間からの援助など、受け取りたくないでしょう」
「それは……あの時は……」
「本音だったのでしょう。構いません。正直でよろしいと思います。ですから、私も正直に申し上げます。もう援助はしません」
電話を切った後、携帯電話が何度も鳴り続けた。でも、私は一切出なかった。

1週間後、息子夫婦が直接家を尋ねてきた。インターホン越しに見える二人の顔は、やつれているように見える。ドアを開けると、新太郎が頭を下げた。
「母さん、すまなかった。援助を再開してくれ」
「お断りします」
「お母さん!」
リカさんも、涙を流しながら訴えかけてくる。
「お母さん、お願いします。私が悪かったです。謝ります」
「謝罪は受け入れます。でも、援助は別問題です」
その時、背後から声が聞こえた。リカさんのご両親も一緒に来ていたのだ。
「長谷川さん、どうか息子さんたちを助けてあげてください」
義父が丁寧に頭を下げる。でも、その目にはどこか不遜な光があった。
「あなたがたが助けてあげればよろしいのでは?同居されるのでしょう」
「それは……経済的な余裕がなくて」
「では、同居はおやめになればいいと思います」
私の言葉に、四人の顔色が変わった。新太郎がついに膝をつく。
「母さん、俺が悪かった。本当に悪かった。だから頼む」
土下座をする息子を見ても、私の心は揺らがなかった。これまで何度、この息子のために涙を流してきただろうか?何度、自分を犠牲にしてきただろうか?
「新太郎、立ちなさい」
「母さん……」
「私はATMではありません。お金が必要なら、ご自分で働いてください」
リカさんが叫ぶ。
「お母さん!そんな!私たちには子供もいるんです」
「大きちゃんのためにも、ご両親がしっかりと働く姿を見せてあげてください。それが一番の教育です」
義母が、いらだったように放つ。
「長谷川さん、親子の情というものがないのですか?」
その言葉に、私は静かに笑った。
「親子の情?それを一番踏みにじったのは、どなたでしょうね」
四人が言葉を失う。
「あ、もう一つお伝えすることがありました」
私はリビングから、公正証書の謄本を持ってきた。
「これは何ですか?」
新太郎が不安そうに尋ねる。
「遺言書です。公証役場で作成した、法的に最も効力のあるものです」
書類を見せると、新太郎の顔が蒼白になっていく。
「残……母さん、何を……」
「あなたへの相続は、法定の遺留分のみです。私たちの財産、約2800万円のうち、あなたに渡るのは350万円程度です」
リカさんが悲鳴をあげた。
「残りの2450万円は、お父さんと社会福祉法人に寄付します」
「母さん、そんなことして……」
「私たちはもう十分に、あなたがたを尽くしてきました。教育費850万円、結婚式に200万円、新居の頭金300万円。そして月々の援助540万円。合計1890万円です」
具体的な数字を突きつけられて、息子夫婦は何も言えなくなる。
「それでもあなた方は、私たちを『面倒』『時代遅れ』『お金だけ出せばいい』と言いました」
義父が必死に取り成そうとする。
「長谷川さん、それは誤解です。娘たちは……」
「誤解ではありません。全て、この耳で聞きました」
私はきっぱりと言い切った。
「これは復讐ではありません。私たちの人生を、私たち自身のために生きる。それだけのことです」
新太郎が最後の懇願をする。
「母さん、せめて遺言だけは……」
「公正証書遺言は、公証役場に原本が保管されています。あなたが破棄したり改ざんしたりすることは不可能です」
その言葉に、完全に希望を失ったように、新太郎はその場に座り込んだ。
「もう二度と、私たちに関わらないでください。さようなら」
私はドアを閉めた。外では四人の怒声が聞こえている。でも、私の心に罪悪感はなかった。
明がそっと、私の肩を抱いてくれる。
「よく頑張ったな、ゆき子」
「ええ、これでやっと終わったわ」
窓の外では、秋の日が穏やかに輝いていた。

あれから半月が経った。息子夫婦からの連絡は、ぱったりと途絶えた。最初の数日は何度も電話がかかってきたが、全て無視した。そのうち、着信も止んだのだ。
友人の悦子さんから聞いた話では、リカさんのご両親との同居計画は白紙になったそうだ。援助がなくなった途端、義両親が同居を断ったのだとか。
「結局、お金目当てだったのね」
悦子さんの言葉に、私は静かに頷いた。
「ええ。でも、それが分かってよかったわ」
新太郎は妻の両親から借金をしようとしたそうだが、断られたと聞く。夫婦の中も、最近はかなり険悪になっているとのことだった。
「自業自得ね」
悦子さんは厳しい表情で言う。でも、私の心には複雑な感情が渦巻いている。息子の不幸を喜んでいるわけではない。ただ、これが当然の結果なのだと。

今日は、明と二人で久しぶりに温泉旅行に来ている。紅葉が美しい季節だ。車窓から見える山々は赤や黄色に染まり、まるで絵画のように美しい景色が広がっている。
「綺麗だね」
「ああ、こんなにゆっくり紅葉を見るのは何年ぶりだろうな」
明が嬉しそうに笑う。これまで旅行に使うお金さえ、息子への援助を優先して我慢してきた。でも、もうそんな必要はない。私たちの人生を、私たち自身のために使っていいのだ。
温泉旅館に到着すると、仲居さんが丁寧に部屋まで案内してくださった。窓からは渓谷が見え、紅葉に彩られた山々が目の前に広がる。
「素敵なお部屋ですね」
「ごゆっくりお過ごしください」
仲居さんが去った後、明と二人で窓際に座った。
「ゆき子、後悔はしていないか?」
明が優しく尋ねる。
「全くないわ。むしろ、もっと早くこうすべきだったと思うくらい」
本心からの言葉だった。
夕食は、個室での会席料理だ。美しく盛り付けられた料理の一つ一つに、職人の技が感じられる。
「美味しいねえ」
「こういう贅沢も、たまには必要よね」
二人で笑い合いながら、ゆっくりと食事を楽しんだ。
翌朝、露天風呂から見る朝日は絶品だった。山の端から登る太陽が、空を薄紅色に染めていく。
新しい一日の始まりね。湯舟に浸かりながら、私は深く息を吸い込んだ。これからの人生は、全て私たち自身のものだ。

帰宅してから、私は陶芸教室に通い始めた。悦子さんが誘ってくれた教室だ。
「長谷川さん、なかなか筋がいいですよ」
先生が褒めてくださり、嬉しくなる。ろくろを回しながら、土をこねる感触が心地よい。何も考えず、作り物に没頭する時間は、私に新しい喜びを与えてくれた。
教室の仲間たちとも、すぐに打ち解けることができた。皆さん、私と同年代の方々だ。それぞれに人生の物語があり、その話を聞くのも楽しい時間だ。
「長谷川さんは、お孫さんいらっしゃるの?」
ある日、仲間の一人が尋ねてきた。
「ええ、一人いるんです。可愛いですよ」
私は少し考えてから答えた。
「でも、今は会っていないんです」
「まあ、何かあったの?」
詳しくは話さなかったが、皆さんは理解してくださったようだった。
「家族のことは難しいわよね。でも、長谷川さんが幸せそうでよかったわ」
温かい言葉に、胸が熱くなる。
不条理な扱いに我慢し続ける必要はないのだ。親子であっても、尊重し合えない関係は健全ではない。経済的虐待は、立派な虐待だ。自分の尊厳を守ることは、決して冷たいことではない。それは、自分を大切にするということなのだ。
無償の愛情は素晴らしいものだが、それを利用されてはいけない。親だからと言って、全てを犠牲にする必要はないのだ。正当な権利を守ることは、自分自身を守ること。そして、その勇気こそが本当の強さなのだ。

ある日の午後、私は書斎で日記を書いていた。この数ヶ月の出来事を丁寧に記録していく。明がお茶を運んできてくれた。
「ゆき子、何を書いているんだ?」
「日記。忘れないように、全部書き留めているの」
「そうか」
明が私の肩にそっと手を置く。
「俺たち、これからどう生きていこうか」
「そうね。やりたいことはたくさんあるわ。来年は二人で海外旅行に行きたいと思っています。ずっと憧れていた北欧の国々を訪れてみたい。オーロラを見て、美しい街並みを歩いてみたい。それから、ボランティア活動にも参加したいと考えています。社会福祉法人に遺産を寄付すると決めましたが、生きている今も、何か社会の役に立てることをしたい」
窓の外では、冬が近づいていることを告げる風が吹いている。でも、私の心は春のように温かく、希望に満ちていた。
人を大切にできない人に、大切にされる資格はない。私たちはもう自由だ。これからの人生を、心から楽しもうと思う。

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