電話越しに聞こえてきた息子の声で、私の手が止まりました。夕食の支度をしていた包丁を、まな板の上に置きました。
「母さん、結婚式の日程なんだけど、向こうの親の決定で6月15日に決まったから」
「え、向こうの親が……私には相談なしで?」
声が震えました。
「だから今伝えてるじゃん。向こうの親が全部決めてくれたから、母さんは来てくれればいいよ」
息子の声は、事務連絡のように淡々としていました。
私は前田静、68歳です。病院の清掃員として28年間、真面目に働いてきました。地味な仕事ですが、誇りを持って続けてきたつもりです。
隣で夕食を作っていた夫の幸夫が、心配そうにこちらを見ています。
「向こうの親」。その言葉が胸に重く突き刺さります。32年間、愛情を注いで育ててきた息子の口から出た冷たい言葉。私は何なのでしょうか。実の母親は、もう必要ないのでしょうか。
結局、私たち夫婦は息子のためにどれだけ尽くしてきたでしょうか。大学の学費は4年間で800万円。就職が決まった時には、スーツ代や引っ越し代として50万円を援助しました。結婚式の費用には300万円、新居の頭金として500万円。さらに、生活が安定するまでと思い、毎月5万円ずつ3年間送り続けてきました。合計すると1830万円。
私は清掃員という地味な仕事です。でも、夫の退職金と合わせて、息子のためなら惜しまず使ってきました。
「母さん、ありがとう。必ず恩返しするから」
あの時の言葉が今も耳に残っています。
でも、結婚してから変わりました。嫁のみささんが来てから、連絡は月に1回あるかないか。誕生日も母の日も、まるで忘れたかのように何の連絡もありません。
「みさのお母さんが」「みさのお母さんの意見で」
いつの間にか、そんな言葉ばかりが増えていきました。
「向こうの親が決めたのか。俺たちは蚊帳の外だな」
夫がぽつりとつぶやきます。
「私たち、これだけ援助してきたのに」
「まあ、結婚したら嫁の意見が強くなるのは仕方ないさ」
でも、実の親なのに。胸の奥に、言葉にできない違和感が広がっていきます。
翌日、私は息子夫婦の心境を尋ねることにしました。ちゃんと話せば、きっと分かってくれるはずだと信じていました。
玄関のチャイムを押してから、30分近く待たされます。ようやくドアが開いて、みささんが顔を出しました。
「あら、お母さん。いらっしゃい。ごめんなさい、ちょっとバタバタしてて」
リビングに通されましたが、お茶も出てきません。ソファーに座って待っていると、一が奥の部屋から出てきました。
「結婚式の準備、私も手伝えることがあれば」
私の言葉を遮るように、みささんが答えます。
「あ、大丈夫です。うちの母が全部やってくれてるので」
「そうそう。向こうの親が全部決めてくれてるから、母さんは気にしなくていいよ」
一も軽い調子で言いました。まるで私の申し出が迷惑だと言わんばかりの口調です。
「でも、私も一の母親だから。一緒に準備できたら嬉しいと思って」
「お母さんはお仕事もお忙しいでしょうし」
みささんの言葉には、清掃員という私の仕事を暗に軽く見るような響きがありました。
テーブルの上には、立派な結婚式場のパンフレットが広げられています。私が手を伸ばそうとすると、みささんがさっとそれを引き寄せました。
「これは母が選んでくれたんです。お母さんには難しい内容だと思いますから」
その言葉に、胸が締めつけられます。
1週間後、みささんの実家で両家の顔合わせがありました。立派な一軒家に、夫と二人で伺います。みささんの母親の洋子さんは元教師だそうです。玄関で迎えてくれましたが、その目は私たちの服装を上から下まで値踏みするように見ていました。
大広間に通されて、改めて挨拶をします。
「あら、お母さんはお仕事は?」
洋子さんが紅茶のカップを手に尋ねてきます。
「病院で清掃の仕事をしています。28年間勤めさせていただいています」
「あら、それはご苦労様です」
その表情には、明らかな軽蔑の色が浮かんでいました。隣に座るみささんの父親も、同じような目で私たちを見ています。
「結婚式は帝国ホテルに決めました。私どもの親族は皆、あそこで式を挙げていますので。費用はもちろん、私どもが全て負担いたします。お母さんたちは気になさらず」
洋子さんの言葉は一見親切に聞こえますが、その裏には私たちには負担できないだろうという侮りの気持ちが透けて見えました。
その後も、引出物の選び方、料理のコース、式の進行、全て洋子さんが決めたことが次々と発表されていきます。私が何か口を挟もうとすると、一の視線が私を制しました。
「私の親戚も呼びたいのだけど」
勇気を出して言ってみました。
「人数に限りがございますので、主に私どもの関係者で。お母さんの方は3名までということで、お願いできますか?」
「3名でも。一を可愛がってくれた叔父や叔母もいるし」
「申し訳ございませんが、会場の都合もありますので」
洋子さんの声は、うむを言わさぬ強さがありました。
帰宅してから、どうしても我慢できずに一に電話をかけました。
「一、さっきの顔合わせだけど、ちょっと話したいことがあって」
「母さん、余計なこと言わないでくれよ」
「余計なこと?」
「そう。向こうの親が全部決めてくれてるんだから、母さんは黙ってて。下手なこと言って恥かせないでくれよ」
息が止まりそうになります。
「でも、私もあなたの母親よ。一緒に準備したいと思うのはおかしいこと?」
「向こうの親の方が経験もあるし、社会的地位も高いんだ。母さんは清掃員でしょ。正直、恥ずかしいんだよ」
言葉を失いました。恥ずかしい。28年間真面目に働いてきた仕事を、そんな風に言われるなんて。
「一、あなた本気でそんなことを」
「正直言うと、もう向こうの親が本当の親みたいなものだから。向こうの親は僕の将来のことも真剣に考えてくれてるし、色々とコネクションもあるんだ」
「本当の親じゃ、私は何なの?」
「母さんは関係ないから。当日来てくれればそれでいいよ。それ以上、口出さないでくれる?」
電話が一方的に切れました。スマートフォンを握りしめたまま、涙がこぼれそうになります。関係ない。実の母親が、関係ない。
「静代、全部聞こえたぞ」
夫がいつの間にか隣に立っていました。泣きながら全てを話しました。
「なんだと。本当の親が関係ない?」
夫の声が震えています。優しい夫がこんなに怒った様子を見せるのは初めてでした。
「ふざけるな。俺たちがどれだけ……1830万円も援助して。それで恥ずかしいだと。もう、もう耐えられない。静代、無理に耐える必要はない。俺たちは何も間違っていない」
夫の温かい手が、私の冷えた手を包み込んでくれました。
32年間、愛情を注いで育ててきた息子。清掃員という仕事をバカにされ、存在を否定され、もう関係ないと言われる。胸の奥で何かが音を立てて崩れていくのを感じました。でも、同時に、別の何かが静かに、しかし確実に固まり始めていました。
それから数日後、郵便受けに結婚式の正式な招待状が届きました。封筒を開けて中身を確認した瞬間、私の手が止まります。座席表を見て、言葉を失いました。
新郎新婦の親族席の最前列には、みささんのご両親の名前がありました。そして、私たち夫婦の名前は、会場の一番後ろの端に、小さく記されていたのです。
「これはどういうこと?」
夫が肩越しに覗き込んで絶句しています。さらに式次第を見ると、「新郎の母からの挨拶」という欄に、みささんのお母さんの名前が書かれていました。「新郎の父からの乾杯の発声」も、みささんのお父様です。
手に持つ招待状を持つ手が震えて、手が止まりません。すぐに一に電話をかけました。
「一、この招待状、どういうこと?」
「ああ、それ。向こうの親が決めたことだから」
またあの言葉です。
「でも、私たちが末席で、みささんのご両親が最前列って」
「社会的地位を考えて決めたんだよ。向こうの親の方が会社の重役とか知り合いが多いから」
胸が苦しくなります。
「社会的地位? 私たちは息子を育ててきた親なのよ。それとこれとは別でしょう」
「母さんは清掃員だろ。来賓の前で紹介するの、正直恥ずかしいんだよ」
一の言葉が心に突き刺さります。恥ずかしい。
「それに、母さん、式の時は目立たないようにしてくれよ。地味な服で来てくれ。あまり派手だと、周りの人に何か言われるかもしれないから」
地味な服。息子の結婚式に、母親が地味な服で。
「一、あなた本当にそんなことを言ってるの?」
「向こうの親が本当の親なんだから、母さんは端役でいいだろ。分かってくれよ」
電話の向こうで、みささんの笑い声が聞こえました。まるで私を笑っているかのようでした。
「……そう。分かったわ」
力なく答えると、一の声が少し明るくなります。
「ああ、そうだ。もう1つお願いがあるんだけど」
「何?」
「結婚式のご祝儀、100万円お願いできる?」
耳を疑いました。
「100万円?」
「向こうの親が200万円出してくれるから、母さんたちも同じくらい出してくれないと釣り合わないんだよ。分かるでしょう?」
清掃員だと言って恥ずかしがるくせに、お金は要求する。その矛盾に、頭がクラクラしました。
「私たち、清掃員なのに」
「それは母さんの都合でしょう。親なら、子供のために出すのが当然だよ」
当然。1830万円も援助してきて、まだ足りないというのでしょうか。
「……分かった。考えておくわ」
「よろしく。あ、それとさ」
「まだ何かあるの?」
「式の後なんだけど、向こうの親の近くに引っ越すことにしたから」
「引っ越す?」
「うん。来るまで5分くらいのところにいい物件があってさ。向こうの親がそう決めたから」
またあの言葉です。向こうの親が、向こうの親が。
「そうしたら、母さんたちとは月に1回くらいしか会えないと思う。向こうの親が、最初のうちは嫁姑問題を避けるために、あまり頻繁に会わない方がいいって」
月に1回。実の息子に会うのに、月に1回の許可制。
「孫が生まれても、最初は向こうで面倒見るから。母さんには後から合わせてあげるよ」
後から。初孫なのに、後から。
「それも、向こうの親が決めることだから。じゃ、ご祝儀よろしくね」
電話が切れました。スマートフォンを持ったまま、私は立ち尽くします。目の前が真っ白になって、何も考えられません。
「静代、全部聞いた」
夫の声が遠くから聞こえてきます。
「ご祝儀200万円。清掃員だと恥ずかしいと言いながら……月に1回しか会えない。孫にも合わせてもらえない。でも金だけは出せと」
夫の声が怒りで震えていました。私は何も言えませんでした。涙も出ません。ただ、心の中で何かが完全に壊れていくのを感じました。
「静代」
夫が私の肩を抱いてくれます。
「もう無理」
ようやく声が出ました。
「ああ、もう限界だ。決めよう、静代」
「決める?」
「親をやめよう。あいつはもう、俺たちの息子じゃない」
夫の言葉に、私は顔を上げました。
「親をやめる?」
「ああ、完全に縁を切る。そして、思い知らせてやる」
夫の目には、これまで見たことのない強い光がありました。私の目にも、涙と共に、何か別の感情が湧き上がってきます。
「そうね。もう決めましょう」
32年間の愛情が、一瞬で憎しみに変わったわけではありません。でも、これ以上傷つけられるわけにはいきません。清掃員という仕事をバカにされ、存在を否定され、金だけは要求される。もう、母親である必要はないのです。
夫と私は、静かに頷き合いました。これから始まる戦いに向けて、覚悟を決めた瞬間でした。暗い部屋の中で、二人の決意だけがはっきりと輝いていました。
翌朝、私たち夫婦は銀行に向かいました。
「定期預金の残高を確認したいのですが」
窓口の女性が通帳を確認してくれます。
「前田様、定期預金は2500万円でございます」
夫の退職金と、私が28年間コツコツと貯めてきた貯金を合わせた金額です。清掃員という仕事でも、真面目に働けばこれだけ溜まるのです。
「それから、投資信託の残高も教えていただけますか?」
「こちらは800万円ですね」
さらに、私たちが住んでいるマンションの評価額は約3000万円。夫が定年前に購入したものです。総資産は約6300万円。
「これだけあれば」
「ああ、十分だ」
清掃員をバカにした息子は、まさかこれだけの資産があるとは思っていないでしょう。
銀行を出て、次に向かったのは弁護士事務所です。夫の知人が紹介してくれた、信頼できる先生でした。
「息子への援助金について、ご相談したいことがありまして」
私はこれまでの援助の記録を全て、弁護士の先生に見せました。大学費用800万円、就職関連費用50万円、結婚費用300万円、新居頭金500万円、生活補助180万円。総額1830万円。
「これらは全て贈与として処理されていますか?」
「いいえ、実は」
私は封筒から、もう1つの書類を取り出しました。全て借用書です。弁護士の先生が、驚いた表情で書類を確認します。
「これは、万が一に備えて、全ての援助に対して借用書を作成していました。清掃員という仕事柄、将来何が起こるか分からないと思いまして。実は、これは夫の提案でした」
公務員として長年働いてきた夫は、こういった書類の重要性をよく理解していたのです。
「なるほど。では、法的には返還請求が可能ということになりますね」
「お願いします」
弁護士の先生は、書類を丁寧に確認しながら頷きました。
「承知しました。内容証明郵便で通知書を作成いたします」
事務所を出ると、夫が私の手を握ってくれました。
「よくやった、静代」
「あなたが借用書を作っておけと言ってくれたおかげよ」
「まさか、本当に使う日が来るとは思わなかったがな」
二人で少しだけ笑いました。悲しい笑いでしたが、これから始まる戦いへの覚悟がそこにはありました。
自宅に戻ると、私たちは証拠の整理を始めました。一からの侮辱的なメール、LINEのやり取り。
「清掃員でしょ?」「恥ずかしい」「関係ない」「本当の親?」
そんな言葉が画面に並んでいます。
「これだけあれば十分だ」
夫が言いました。
「でも、もう少し証拠があった方がいいかもしれない」
「録音か?」
「ええ、今度、一が来たら、会話を録音しましょう」
夫が頷きます。
「分かった。俺もスマートフォンの録音機能を確認しておく」
その夜、私たち夫婦は今後の計画を細かく確認しました。リビングのテーブルに書類が山のように積まれています。援助の記録、銀行の通帳、不動産の評価書。
「本当にいいのか? 息子だぞ」
夫が最後にもう一度確認してくれます。
「もう息子じゃないわ。あの子は向こうの親の息子になったの」
私の声には迷いがありませんでした。
「そうだな」
夫も静かに頷きます。
「私たち、清掃員だけど、バカじゃないわ」
「ああ、本当の力を見せてやろう」
清掃員という仕事を28年間続けてきて、真面目に貯金をしてきました。派手な生活はしていませんが、それは将来のため、そして息子のためだと思っていたからです。でも、その息子は私たちを捨てました。
「結婚式、楽しみね」
私がつぶやくと、夫が少し驚いた顔をしました。
「楽しみ?」
「ええ、あの日が、あの子たちの人生の分岐点になるわ」
夫の顔に、静かな笑みが浮かびます。
「そうだな。俺たちの反撃の日だ」
窓の外はすでに真っ暗でした。でも、私たちの心には確かな決意の光が灯っていました。これまでずっと耐えてきました。息子のため、家族のためと思って、自分を抑えてきました。でも、もう終わりです。清掃員という仕事をバカにされ、母親としての存在を否定され、それでも金だけは要求される。そんな理不尽な扱いを、これ以上受け入れるわけにはいきません。
「明日から、本格的に準備を始めましょう」
「ああ。完全勝利まで、一緒に戦おう」
夫婦は固く手を握り合いました。32年間育ててきた息子への愛情は、まだ心のどこかに残っています。でも、それ以上に、自分たちの尊厳を守ることの方が大切だと、ようやく気づいたのです。
結婚式まで、あと3週間。その日が私たちの反撃の日になります。
結婚式の前日、一とみささんが私たちの家を尋ねてきました。
「母さん、例のご祝儀、用意してくれた?」
玄関に入るなり、一がそう言いました。挨拶もなく、まるで金を取り立てに来たかのようです。
「ええ、用意したわ」
私は静かに答えます。
「よかった。うちの親が200万円出してくれるから、お母さんたちも100万円は出してくれないと」
みささんが当然のように言いました。
「それと、母さん。明日は目立たないようにしてくれよ。地味な服で」
一の言葉に、心の中で何かが冷たく固まっていくのを感じます。
「お母さんは清掃員だから、あまり派手にすると恥ずかしいですもんね」
みささんが軽い調子で笑いました。
「そうそう。向こうの親は社会的地位が高いから、母さんは端役で十分だよ」
「そう。よかったわね」
私の返事に、一が少し不思議そうな顔をします。
「母さん、なんか変だぞ」
「いいえ、何も。明日、楽しみにしてるわ」
私は微笑みました。夫も隣で静かに微笑んでいます。一とみささんは何か引っかかるものを感じたようでしたが、すぐに帰って行きました。
そして、結婚式当日。
6月15日。朝から晴れ渡った天気です。私たち夫婦は帝国ホテルに到着しました。会場に入ると、みささんのご両親が最前列に座っています。私たちの席は、やはり一番後ろの端でした。
式が始まり、披露宴へと進んでいきます。「新郎の母からの挨拶」では、みささんのお母さんが壇上に上がりました。
「本日は誠にありがとうございます。私ども、一君を本当の息子のようによ子さんの挨拶を聞きながら、私は夫と目を合わせました。夫が小さく頷きます。
披露宴が始まって30分ほど経った頃です。一のスマートフォンが振動しました。最前列に座っている一が画面を確認して、突然、顔色が変わります。
それは、弁護士からの内容証明郵便でした。援助金1830万円の返還請求について。
一の手が震えています。隣のみささんが心配そうに覗き込みました。
「どうしたの?」
「母さんが……返還請求」
一の声が会場に小さく響きます。周りの人たちが不思議そうにこちらを見ました。さらに、銀行からの通知メールが届きます。毎月の自動送金を停止いたしました。
一が立ち上がりかけましたが、みささんが必死で止めています。でも、一の顔は真っ青です。
披露宴が終わると、一が私たちのところに駆け寄ってきました。
「母さん、これはどういうことだ?」
周りの目を気にしながらも、一は必死でした。
「何のこと?」
私は静かに尋ねます。
「返還請求って。1830万円って」
「ああ、それ。借用書があるでしょう。全部、貸し付けだったのよ」
「嘘だ。贈与だって言ってたじゃないか」
一の声が大きくなります。何人かのゲストがこちらを振り返りました。
「いいえ。全て借用書を作成してあるわ。返してもらうのは当然でしょう」
私の声は、驚くほど冷静でした。
「そんな金、ない」
「それはあなたの都合でしょう」
夫が一の言葉をそのまま返しました。
「お前の言葉だよ、一。『それは母さんの都合でしょう』」
一が言葉を失います。みささんも駆け寄ってきました。
「お母さん、そんな!」
「向こうの親に出してもらえばいいじゃない」
私の言葉に、みささんが固まります。
「え? みささんの親が、本当の親なんでしょう?」
みささんの顔から血の気が引いていきます。
「母さん、お願いだ」
一が懇願するような目で私を見ました。
「一、あなたは私たちを何だと思っていたの? それは、清掃員だと言って恥ずかしがり、『関係ない』といい。でも、お金だけは要求する」
私の声が、少しずつ強くなっていきます。
「母さん、それは……」
「清掃員でも、真面目に働けばこれだけ溜まるのよ」
私は封筒を取り出しました。
「私たち夫婦の総資産は約6300万円」
一とみささんが同時に絶句します。
「6300万円?!」
「夫の退職金、私の貯金、投資信託、不動産。全て合わせてね」
夫が頷きます。
「清掃員をバカにしたな、一。でも、真面目に働けば、これだけ溜まるんだ」
一が膝から崩れ落ちそうになります。
「そんな……知らなかった」
「そうでしょうね。でもね、あなたたちには1円も渡さないわ」
私の言葉が会場に響きました。
「なんで?!」
「私たちは関係ないでしょう。あなたがそう言ったじゃない」
夫も続けます。
「向こうの親が、本当の親なんだろう」
一とみささんが言葉を失っています。その時、みささんのご両親が近づいてきました。洋子さんが困惑した表情をしています。
「一さん、一体何の騒ぎですか?」
「お母さん、実は……」
一が説明を始めると、洋子さんの顔色が変わりました。
「1830万円の返還請求? そんな借金があったの?」
「借金じゃなくて、母さんからの援助で……」
「援助だったものが、今は返済になったということですか?」
洋子さんの声が冷たくなります。
「そんな話、聞いていませんよ。私たちは一さんには借金がないと聞いていました」
「お母様、これは……」
「みさ、あなたもこのことを知っていたの?」
「いえ、私も……」
洋子さんが私たちを睨みつけました。
「これは詐欺じゃないんですか?」
「いいえ。全て法的に有効な借用書があります」
夫が冷静に答えます。
「清掃員のくせに生意気な」
洋子さんが思わず口にした言葉。
「清掃員のくせに、ですか?」
私は静かに微笑みました。
「掃除という仕事をこれほどバカにされるとは思いませんでした。でも、その清掃員が6300万円の資産を持っているのです」
洋子さんが言葉を失います。
「お父さん、お母さん、お願いします」
一が泣きながら土下座をしました。みささんも涙を流しています。
「母さん、許してくれ。もう二度と……」
「もう遅いわ」
私の言葉が、一の言葉を遮ります。
「俺たちは、お前の親をやめることにした」
夫が静かに宣言しました。
「親をやめる?!」
「ええ。向こうの親がいるでしょう。そちらで幸せになりなさい」
一が何か言おうとしましたが、声になりません。
「私たちはもう、あなたたちの人生に関係ない。『向こうの親が全部決めてくれる』んでしょう」
夫が最後の一言を告げます。
「遺言書も作成済みだ。お前への相続は一切なし。そんな」
「さようなら、一。もう二度と連絡しないでちょうだい」
私たち夫婦は背を向けて、歩き出しました。後ろから、一とみささんの泣き声が聞こえてきます。でも、振り返りませんでした。
会場を出ると、初夏の風が心地よく吹いていました。
「終わったな」
「ええ、終わったわ」
夫と私は手をつないで、歩き出しました。32年間の母親としての人生が、この日、終わりを告げたのです。
あれから3ヶ月が経ちました。一とみささんの現状を、共通の知人から聞きました。援助が止まり、生活費が足りなくなったそうです。1830万円の返還請求に対する弁護士費用も必要になり、住宅ローンの支払いも滞り始めています。みささんのご両親も、「そんな借金がある人とは関わりたくない」と距離を置き始めました。「実の親を裏切る人間だ」と、近所でも噂になっているそうです。夫婦の間にも亀裂が入っていると言います。
「あなたのお母さんのせいで」「俺が悪かったんだ」
喧嘩が絶えないそうです。
一から何度も謝罪の手紙が届きました。でも、私は一度も開けていません。夫も同じです。
「母さん、ごめん」
電話もかかってきましたが、着信拒否にしました。
一方、私たち夫婦の生活は、驚くほど穏やかになりました。都心のマンション、新しい部屋に引っ越しました。大きな窓からは、東京の街並みが一望できます。
「ここ、素敵ね」
朝、コーヒーを飲みながら窓の外を眺めます。
「ああ、やっと自分たちのために生きられる」
夫も穏やかな笑顔を見せてくれました。
ハワイ旅行を計画しています。来月には出発する予定です。絵画教室にも通い始めました。週に2回、同世代の友人たちと絵を描く時間は、本当に楽しいものです。
「前田さん、この色使い、素敵ですね」
先生に褒められると、心から嬉しくなります。フラダンスの教室でも、新しい友人ができました。みんな、私と同じくらいの年齢で、人生を楽しんでいる方ばかりです。
「静代さん、今度みんなでお茶しない?」
「ええ、是非」
こんな何気ない会話が、こんなにも心を満たしてくれるなんて。
病院でのボランティア活動も続けています。清掃員として培った経験を生かして、週に1回、病院の環境整備を手伝っています。
「前田さん、いつもありがとうございます」
看護師さんたちに感謝されると、この仕事への誇りを改めて感じます。清掃員という仕事を、息子は恥ずかしいと言いました。でも、この仕事があったからこそ、私は真面目に生きることの大切さを学びました。そして、28年間働き続けた結果が、6300万円という資産です。
ある日、夫と二人でマンションのバルコニーに出ました。夕日が町を赤く染めています。
「あの時、決断して本当に良かったわ」
「ああ、俺たちは間違っていなかった」
夫が私の手を握ってくれます。
「掃除という仕事をバカにされたけど、でも、お前は誇り高く働いてきた。それが一番大切だ」
「ええ、私は自分の人生に誇りを持っているわ」
理不尽に屈してはいけない。そう、私は学びました。親だからと言って、全てを我慢する必要はありません。自分の尊厳は、自分で守るものです。
因果応報という言葉があります。悪いことをした人には必ず報いが来る。そして、真面目に生きてきた人には必ず幸せが訪れる。私はそれを信じています。
もし、あなたも理不尽な扱いを受けているなら、一人で我慢し続ける必要はありません。正当な権利を主張し、自分を守る勇気を持ってください。年齢は関係ありません。68歳の私でも、新しい人生を始めることができました。あなたにも、きっと勝利する力があるのです。
夕日がゆっくりと沈んでいきます。夫は手をつないだまま、その美しい光景を眺めていました。
「これからも、一緒に歩いていこう」
「ええ、ずっと一緒に」
32年間、息子のために生きてきました。でも、これからは自分たちのために生きていきます。清掃員という仕事に誇りを持ち、真面目に働き続けた結果が、今の幸せです。
息子はきっと後悔しているでしょう。でも、もう遅いのです。私たちはもう振り返りません。前だけを見て、夫婦二人で残りの人生を歩いていきます。
窓の外の景色が夕日に照らされて、黄金色に輝いていました。私たちの未来も、きっとこんな風に輝いているはずです。
理不尽に屈しない強さ。自分を守る勇気。そして、真面目に生きることの大切さ。それが私が68年間の人生で学んだことです。
あなたも、どうか自分を大切にしてください。そして、決して理不尽に屈することなく、強く生きてください。
夕日が完全に沈み、町に明かりが灯り始めました。新しい夜の始まりです。そして、私たちの新しい人生も、今まさに始まろうとしています。



