母さん、もう二度とうちの敷地をまたがないでください。
東京の夜景が宝石のように輝くタワーマンションの最上階で、私はその冷たい言葉に手にしていたスマートフォンを落としそうになりました。息子のかずきからの電話でした。先週まで「お母さん、いつでも遊びに来てね」と言っていた同じ口から、まるで他人を追い払うような言葉が発せられたのです。
「かずき、何を言っているの?」
震える声で問い返しても、帰ってきたのは無機質な声でした。
「お母さん、はっきり言いますね。もう来ないでください」
五千万円。私が三十三年間、薬局の事務として朝から晩まで働いて貯めたお金。それを全て息子夫婦のタワーマンション購入に援助したのに――。窓に映る自分の顔は青ざめていました。六十八歳の私には、この仕打ちがあまりにも残酷でした。息子のために全てを捧げてきた人生が、たった一本の電話で否定されたのです。
私は今井さち子、六十八歳。三十三年間、地元の薬局で事務員として働いてきました。朝八時から夕方六時まで、一日も休まず。給料は決して多くはありませんでしたが、コツコツと貯金を続けてきたんです。夫は十五年前に病気で亡くなりました。それからは女手一つで息子のかずきを育てました。大学の学費も就職活動の費用も、全て私が負担しました。
そして半年前のことです。
「母さん、俺たち家族で一緒に住もう」
息子夫婦からの提案に、私は心から喜びました。老後の不安も消え、孫と過ごせる日々を夢見ていたんです。息子夫婦のために、退職金と貯金を合わせた五千万円を援助しました。都心のタワーマンション購入資金として。
「お母さん、本当にありがとうございます」
嫁のなおも涙を流して感謝してくれました。あの時の「ありがとう」が、今思えば全て演技だったなんて。三十三年間の努力の結晶を、こんな形で裏切られるとは思っても見ませんでした。
引っ越し当日のことを、私は今でも鮮明に覚えています。朝から張り切って息子夫婦の新居となるタワーマンションへ向かいました。エプロンを着け、掃除や荷物の整理を手伝うつもりでした。
「お母さん、お疲れ様です」
なおの笑顔が、今思えば不自然でした。でもその時の私は、新生活への期待で胸がいっぱいだったのです。
午後二時頃、玄関のチャイムが鳴りました。なおが玄関へ向かうと、大きなスーツケースを持った中年夫婦が立っていました。
「なおちゃん、お邪魔するわね」
「お父さん、お母さん、どうぞどうぞ」
なおの両親でした。挨拶もそこそこに、二人は次々と荷物を運び込み始めたのです。
「あの、なおさん。ご両親は……」
私が尋ねると、なおの母親が振り返りました。
「ええ、実は私たちのアパートが急に取り壊しになってしまって。二ヶ月だけお世話になるの」
二ヶ月――。私は息子の顔を見ました。かずきは目をそらしながら言いました。
「母さん、急な話で申し訳ないんだけど……なおの両親も一緒に住むことになったんだ」
「でも、部屋の数は大丈夫よ」
なおの母親が得意げに付け加えました。
「お母さんはリビングのソファーで寝れば十分でしょう。年金生活者は、特に寝る場所にこだわりもないでしょうし」
年金生活者――。その言葉が胸に突き刺さりました。三十三年間働いてやっと得た年金生活を、まるで価値のないもののように言われたのです。
それから数日が経ち、私の立場は急速に悪化していきました。
「お母さん、朝ご飯の準備をお願いします」
「洗濯物、まだ終わってないの?」
「買い物行ってきてもらえる?」
なおと彼女の母親からの要求は、日に日に増えていきました。私は朝五時に起きて朝食を作り、掃除、洗濯、買い物、夕食の準備と、まるで召使のような扱いを受けていました。
ある夕方、私が夕食の準備をしていると、リビングからなおの両親の会話が聞こえてきました。
「なおは賢いわね。リボをうまく使って。年寄りは動かさないとボケるからな。ちょうどいい」
私の手が止まりました。使う――私を「使う」と言ったのでしょうか。
「お母さん、私の部屋も掃除しておいて」
なおが顔を出しました。
「なおさん、私も少し疲れているのだけど」
「あら、年金生活者は暇でしょう。私たちは働いているんですから」
その夜、私の部屋だったはずの場所を見に行くと、そこは物置きになっていました。なおの両親の荷物が山々になっていたのです。
「これは……私の荷物はどこに?」
「ああ、それなら廊下の収納に入れておいたわ」
なおの母親が悪びれもなく言いました。
「狭いマンションなんだから、効率的に使わないとね」
五千万円援助して購入した広いタワーマンションが「狭い」というのです。
一週間後、私は体調を崩してしまいました。連日の重労働と心労が重なったのでしょう。熱があり、起き上がるのも辛い状態でした。
「なおさん、今日は少し休ませてもらえないかしら」
「はあ? 朝ご飯は誰が作るんですか?」
なおの冷たい声に、私は涙が出そうになりました。
「母さん、大丈夫?」
かずきが心配そうに顔を覗かせましたが、なおがすぐに遮りました。
「かずき、仕事に遅れるわよ。お母さんなら大丈夫でしょ」
息子は妻の言葉に従い、そのまま出勤してしまいました。高熱でふらつきながら、私は朝食を作り続けました。なおの母親はそんな私を見ても、何も手伝おうとはしませんでした。
「義母さん、味が薄いわよ。もっとしっかり味付けして」
文句を言いながら朝食を食べるなおの両親。私の居場所は、もうどこにもありませんでした。
その夜のことは、一生忘れることができません。体調が悪くリビングのソファーで横になっていた私は、深夜十二時過ぎに目が覚めました。喉が渇いてキッチンへ水を飲みに行こうとした時、隣の部屋から息子夫婦の話し声が聞こえてきたのです。
「なお、母さんの具合が心配なんだ」
かずきの声でした。少しは私を心配してくれているのかと思い、胸が温かくなりました。しかし、次に聞こえてきたなおの言葉に、私は凍りつきました。
「何言ってるの、かずき。あの人はただの金づるよ」
金づる――。その言葉が、鋭い刃物のように私の心を切り裂きました。
「なお……そんな言い方」
「事実でしょ。五千万円も出させて、まだ使える価値があるんだから。年金だって毎月入ってくるし、貯金もまだあるはずよ」
私は壁によりかかり、震える手で口を押さえました。信じたくない。信じられない。でも、これが現実でした。
「でも母さんは、俺たちのために尽くしてくれてる」
「かずき、甘いわね。親が子供に尽くすのは当たり前でしょ。それに、あのばあさんには他に行く場所もないんだから」
ばあさん――。息子の妻が、私をそう呼んでいたのです。
「それより、早く土地の名義を変更しないと。今は土地がお母さん名義のままでしょ」
「あ、でも母さんが了承してくれるかな?」
「大丈夫よ。もう少し精神的に追い詰めれば、言いなりになるわ。毎日疲れさせて判断力を奪えばいいの」
私の全身から血の気が引いていきました。体調不良を押して家事をさせられていたのは、計画的だったのです。
「なおの両親は、いつまでいるんだ?」
「ずっとよ。だって、あの部屋は最初から両親のために用意したんだから」
「え、でも母さんには……」
「嘘に決まってるじゃない。アパートの取り壊しなんて、ないわよ。でもお母さんは信じたでしょ」
なおの笑い声が聞こえました。悪魔のような笑い声でした。
「それに、もうすぐお母さんから全部奪えるわ。貯金通帳の場所も分かったし、委任状だって……」
「なお、それは犯罪じゃ……」
「何言ってるの? 家族間のことよ。それに、認知症っぽい症状も出てきたって医者に言えば、成年後見人になれるかも」
認知症――。私は正常なのに、認知症扱いしようとしているのです。
「二度とうちの敷地をまたがせないようにしないとね」
「え、だって邪魔でしょ。タワマンを手に入れたら、もう働かないもの。施設にでも放り込めばいいのよ」
私は涙を流しながら、声を押し殺して泣きました。三十三年間、朝から晩まで働いて貯めたお金。息子の幸せだけを願って差し出した五千万円。それがこんな形で裏切られるなんて。
「母さんを施設になんて……」
「かずき、しっかりして。あのばあさんのせいで私たちの生活が窮屈になってるのよ。それに、遺産だってまだあるはずでしょ」
「父さんの生命保険金のことか」
「そうよ。全部で一億近くあるって聞いたわ。それを早く手に入れないと」
夫が私に残してくれた大切なお金まで狙っているのです。
「でも、母さんは家族だろ」
「家族? 冗談でしょ。あんな古臭い価値観のばあさんが家族なわけない。金づるは金づるらしく、黙ってお金だけ出してればいいのよ」
その時、なおの母親の声も聞こえてきました。
「なお、そろそろ本格的に動いた方がいいわよ。弁護士の知り合いに相談したら、いい方法があるって」
三人で、私の財産を奪う相談をしていたのです。家族だと信じていた人たちが、私を食い物にしようとしていました。
私は震える足で自分の寝床に戻りました。もうこの家にはいられない。でも、どこへ行けばいいのでしょう? 六十八歳の私に、他に行く場所などありません。布団をかぶり、声を殺して泣き続けました。
息子を信じていた自分が愚かでした。でも、まだ信じたい気持ちもありました。かずきはなおに流されているだけで、本当は――。
しかし、翌朝の出来事がその最後の希望も打ち砕いたのです。私は誰よりも早く目覚めました。昨夜の会話が悪夢ではなかったことを改めて実感し、静かに涙を拭いました。もう泣いている場合ではありません。私も戦わなければ、全てを奪われてしまいます。
幸い、重要な書類は全て私の実家に保管してあります。通帳も委任状も、すぐには見つからない場所に隠してあります。三十三年間、事務員として働いた経験がこんな形で役立つとは思いませんでしたが。
「おはようございます、お母さん」
なおがいつものように現れました。昨夜の悪魔のような本性を知った今、その笑顔が恐ろしく感じられました。
「おはよう、なおさん」
私は努めて普通に振る舞いました。相手に気づかれてはいけません。
朝食後、私は体調不良を理由に外出を求めました。
「病院に行ってきます。薬をもらわないと」
「一人で大丈夫ですか?」
なおの心配そうな声が、今は全て演技に聞こえます。
タワーマンションを出て、私はまず近くの喫茶店に入りました。そして震える手でスマートフォンを取り出し、ある人物に電話をかけました。
「山田先生、お久しぶりです。今井さち子です」
電話の相手は、亡き夫の友人で弁護士の山田先生でした。夫の相続の時にもお世話になった、信頼できる方です。
「さち子さん、どうされました?」
「実は、緊急でご相談したいことがあるのですが」
私は昨夜の内容と現在の状況を詳しく説明しました。山田先生は黙って聞いていましたが、話を終わると深いため息をつきました。
「ひどい話ですね。まず、絶対に成年後見人などつけさせてはいけません。それと、土地の名義はさち子さんのままですね?」
「はい。税金対策でそうしていました」
「それは不幸中の幸いです。すぐに手を打ちましょう」
山田先生の事務所で、私は震える手で書類を確認しました。タワーマンションの土地は、確かに私の名義のままでした。
「さち子さん、この土地の時価は、今なら一億五千万円はあります。都心の一等地ですからね。購入時より値上がりしています」
私は息を飲みました。五千万円で購入した土地が、三倍の価値になっているのです。
「それから、これは息子さん夫婦への貸し付けという形にしましょう。五千万円の援助も、正式な金銭消費貸借契約書を作成すれば、返済を求めることができます」
「でも……息子は返せないと思います」
「その場合は、土地と建物で相殺することも可能です。つまり、実質的にさち子さんが全てを取り戻せるということです」
希望の光が見えてきました。
「ただし、向こうも動いているようですから、急がなければなりません。まず、土地の処分禁止の仮処分を申請しましょう」
山田先生の迅速な対応により、その日のうちに必要な手続きが進められました。事務所を出た後、私は不動産会社にも立ち寄りました。
「このタワーマンションの売却を検討しているのですが」
「素晴らしい物件ですね。土地建物合わせて一億八千万円は下らないでしょう。この地域は再開発で人気が高まっていますから、すぐに買い手も見つかりますよ」
不動産業者の名刺を受け取り、私は最後にもう一箇所立ち寄りました。昔からの友人で、探偵事務所を経営している佐藤さんのところです。
「さち子、久しぶり。どうしたの?」
事情を説明すると、佐藤さんは真剣な表情になりました。
「音声の録音が必要ね。証拠があれば、いざという時に有利よ」
「でも、どうやって……」
佐藤さんが渡してくれたのは、ペン型の録音機でした。
「胸ポケットに差しておけば、自然に録音できるわ。念のため、動画も撮れるものも渡しておく」
私は友人たちの協力に、涙が出そうになりました。一人じゃない。味方がいる。その事実が私に勇気を与えてくれました。
夕方、タワーマンションに戻るとなおが不機嫌そうな顔をしていました。
「お母さん、病院に随分時間がかかりましたね」
「検査があったものですから」
「そう。それより、お母さんの通帳、どこに保管してます?」
来ました。いよいよ本格的に動き出したようです。
「どうして?」
「いえ、もし何かあった時のために、場所を知っておいた方がいいかなと思って」
「そうね。考えておくわ」
私は曖昧に答えました。もう騙されません。
その夜、私は山田先生からのメッセージを確認しました。全ての準備は整った。明日、正式に内容証明郵便を送るとのことでした。ペン型録音機を胸ポケットに忍ばせ、私は静かに微笑みました。三十三年間の事務経験と、信頼できる友人たち。そして何より、土地の名義という切り札。今度は私の番です。金づる扱いした報いを受けさせてあげましょう。
運命の日は、思ったより早くやってきました。内容証明郵便が息子夫婦に届いたのは、私が準備を始めてから三日後の朝でした。
「お母さん、これは一体どういうことですか?」
なおが形相を変えて書類を持って私の前に現れました。その顔は真っ青で、手が震えていました。
「土地の即時返還請求? 五千万円の返済要求? 何ですか、これは!」
「四通の内容証明郵便ですよ」
なおさん、私は冷静に答えました。もう怯える必要はありません。
「かずき! かずき、大変よ!」
なおの叫び声に、息子が慌てて部屋から飛び出してきました。パジャマ姿のまま、髪も乱れています。
「どうした?」
「これ……」
かずきも書類を見て、顔面蒼白になりました。内容証明郵便の重みを、二人は理解したようです。
「母さん、これは何の冗談だ?」
「冗談ではありませんよ。あなたたちが私を金づる扱いしたことへの、正当な対応です」
私がその言葉を口にした瞬間、二人の顔がさらに青ざめました。
「き、聞いていたんですか?」
「ええ、全部聞きました。私を精神的に追い詰めて財産を奪う計画も、施設に放り込む三段構えも」
ペン型録音機を取り出し、テーブルに置きました。小さな機械が、今は何よりも重い存在感を放っていました。
「証拠もあります。必要なら、警察にも相談できますよ」
なおが膝をついて、土下座を始めました。プライドの高い嫁が初めて見せる姿でした。
「お母さん、お願いします! 許してください!」
「今更、何を言っているんです? 『二度とうちの敷地はまたがせない』んでしたよね」
私はなおの言葉をそのまま返しました。
「あれは……その時の勢いで」
「勢い? 計画的に私を追い詰めていたくせに」
かずきも土下座しました。息子のこんな姿を見るのは初めてでした。
「母さん、俺が悪かった。なおに流されて……。でも、母さんは大切な家族だ」
「家族? 昨日まで『金づる』『ばあさん』と呼んでいたのに?」
私の言葉に、二人は何も言えなくなりました。
その時、なおの両親も騒ぎを聞きつけて現れました。
「何事? なお、どうしたの?」
事情を聞いたなおの両親も、顔色を失いました。
「ちょっと待ってください。私たちはどうなるんですか?」
なおの母親が声を荒げました。
「あなた方には関係ありません。そもそも、アパートの取り壊しは嘘だったんでしょう」
なおの父親が口ごもりました。
「ま、まあ……どうでもいいです。一週間以内に、全員出て行ってください」
四人全員が土下座する異様な光景が広がりました。昨日まで私を見下していた人たちが、今は地面に頭を擦りつけています。
「今井さん、本当に申し訳ありませんでした」
「皆さん、顔をあげてください。土下座なんて、意味がありません」
私は静かに続けました。
「土地は私の名義です。建物は息子名義ですが、土地がなければ意味がありませんね。住む場所がなくなります」
「あら、私もリビングのソファーで十分だったんですから。皆さんもどこか見つかるでしょう?」
山田先生から聞いた通り、土地を失えば建物も実質的に無価値になります。売却も賃貸も不可能でした。
「母さん、五千万円は返せない。収入だけじゃ……」
「では、土地で相殺しましょう。むしろ、今の時価なら一億五千万円。差額の一億円を請求してもいいんですよ」
一億円――。かずきは腰を抜かしそうになりました。
「お母さん、何でも言うことを聞きます。だから、どうか……」
なおが必死に訴えました。涙でメイクが崩れ、本当の顔が露わになっています。
「では、まず録音した会話の内容を親族全員に報告していただけますか? それは私の兄弟、亡き夫の親戚、そしてなおさんの会社の人たちにも」
「会社にまで? それは困ります」
かずきが青ざめました。
「困る? 私を認知症扱いして財産を奪おうとしたことがバレるのが、困るんですか?」
「違います。そうじゃなくて、できません……」
「できないなら、明日にでも売却の手続きを始めます。買い手はもう決まっていますから」
実際、不動産会社からは複数の購入希望者が現れたと連絡がありました。一億八千万円での即決。都心の一等地は、すぐに買い手がつくのです。
「母さん、俺たちには幼い子供もいる。孫のことも考えてくれ」
「子供のことを考えるなら、最初から親を大切にすべきでしたね」
私は立ち上がり、用意していた書類を取り出しました。
「これは和解案です。読んでみてください」
震える手で書類を受け取ったかずきが、内容を読み上げました。
「タワーマンションを即時売却。売却益から五千万円を返済。残りはさち子が受け取る……」
つまり、私が一億三千万円を手にするということです。
「そんな! 全財産じゃないか!」
「あなたたちが私から奪おうとした金額よりは、少ないですよ」
なおの両親が青い顔で口を開きました。
「は、私たちはどこに住めば……」
「さあ、でも娘さんが賢いそうですから、きっとなんとかなるでしょう」
私はなおの母親が言った言葉を、皮肉を込めて返しました。
「賢い娘さんなら、ご両親の面倒もきちんと見てくれるはずです。それに、年金生活者のご両親なら、特に住む場所にこだわりもないでしょうし」
私は、彼らが私に浴びせた言葉を一つ一つ返していきました。
かずきが震え声で言いました。
「母さん、せめて住宅ローンの分だけでも残してくれ」
「住宅ローン? 土地は私の名義ですよ。ローンはありません。建物のローンが残っているのは、あなたの問題です」
四人は顔を見合わせ、もはや抵抗する気力もないようでした。なおの両親は、娘夫婦を恨めしそうに見ています。
「『二度とうちの敷地はまたがせない』と言ったのは、あなたたちですよ」
私は最後に、あの冷たい言葉をそのまま返しました。情けは無用です。その場に崩れ落ちる四人を残し、私は部屋を後にしました。
タワーマンション売却から三ヶ月後、私は都心の高級マンションの一室で優雅な朝を迎えていました。大きな窓から差し込む朝日が、真っ白なカーテンを淡いオレンジ色に染めています。売却益の一億三千万円を手に、私は自分だけの新しい城を手に入れました。
広過ぎず、狭過ぎず。私一人にちょうどいい二LDK。セキュリティも万全で、コンシェルジュサービスも充実しています。毎月の管理費は高額ですが、もう誰に遠慮する必要もありません。
「おはようございます、今井様」
コンシェルジュの挨拶に、私も笑顔で答えます。ここでは、私は一人の人間として大切にされている。それだけで心が温かくなります。
リビングで入れたてのコーヒーを飲みながら、私は新しく始めた趣味の陶芸教室のことを考えていました。
「さち子さん、今度の作品展、楽しみにしてるわ」
昨日、教室の仲間からそう声をかけられました。六十八歳にして始めた陶芸が、意外な才能があったようで、先生からも褒められています。来月には初めての個展も開く予定です。
午後は近所の高級スポーツクラブでヨガのレッスン。その後は、新しくできた友人たちとのアフタヌーンティー。帝国ホテルのラウンジで優雅なひと時を過ごすのが、最近の楽しみです。
「さち子さん、本当に生き生きしてるわね」
友人の佐藤さんが微笑みました。
「ありがとう。やっと自分の人生を生きている実感があるの」
毎日が充実していて、孤独を感じる暇もありません。
スマートフォンが鳴りました。画面を見ると、弁護士の山田先生からでした。
「さち子さん、お元気ですか? 実は、息子さんたちの件で……」
「どうされました?」
「タワーマンションを出た後、かなり苦労されているようです。かずきさんは会社でのストレスから体調を崩し、休職中とのこと。なおさんも、両親の生活費を稼ぐためにパートを掛け持ちしているそうです。四人で二DKのアパート暮らしだそうです。家賃も滞り気味とか」
「そうですか……」
正直、少し心が痛みました。でも、自業自得だとも思います。私を金づる扱いし、財産を奪おうとした報いです。
「それで、かずきさんから連絡がありまして、もう一度会って謝りたいと」
「お断りします」
私の答えは明確でした。
「『二度とうちの敷地はまたがせない』と言われましたから。ただ、生活が本当に困窮しているようで……」
「山田先生、私はもう彼らのために動きません。私は『外の人』ですから。外の人が援助する義理はありません」
電話を切った後、私は窓の外を眺めました。遠くに見えるタワーマンション群。あの中の一つに、かつての私の夢がありました。でも、今はもう未練はありません。
夕方、陶芸教室で知り合った田中さんから誘いがありました。
「さち子さん、今度うちの旅行サークルに参加しない? 来月は北海道よ」
「素敵。是非参加させてください」
「来月はニュージーランドクルーズもあるのよ」
「まあ、それも行きたいわ」
三十三年間、旅行なんて考える余裕もありませんでした。でも、今は違います。自分のお金で、自分の時間を楽しめるのです。一億三千万円あれば、残りの人生を優雅に過ごすには十分すぎるほどです。
その夜、私は日記を書きました。
『今日も充実した一日だった。誰かのために生きるのではなく、自分のために生きる。六十八歳にして、やっと本当の人生が始まった気がする。明日は美術館巡りの予定。ずっと行きたかった場所に、やっと行ける』
ふと携帯電話の着信履歴を見ると、かずきから何度も電話があったことに気づきました。留守番電話には、「母さん、お願いだから話だけでも聞いてくれ」という泣き声が入っていました。
でも、もう出る必要はありません。私は新しい住所も電話番号も、息子夫婦には教えていません。本当の意味で、縁を切ったのです。
先日、偶然町でなおを見かけました。やつれた顔で、スーパーの特売品を必死に探している姿は、かつての傲慢な嫁の面影はありませんでした。でも、私は声をかけませんでした。
人生の最後の章を、私は自分のために使うことにしました。三十三年間の努力が五千万円という形で奪われそうになりました。でも、結果的に一億三千万円というより大きな自由を手に入れることができたのです。
理不尽に屈しない強さ。自分の権利を守る勇気。そして、家族という名の呪縛から解放される決断。これら全てが、今の幸せな私を作っています。
タワーマンションでの悪夢のような日々は、遠い過去。今の私には、明るい未来だけがあります。来年は海の見える街も考えています。ハワイでのんびり暮らすのも、素敵かもしれません。
六十八歳。まだまだこれからです。人生は自分次第で、いくらでも輝かせることができるのです。



