朝の支店に、監査部の連中が踏み込んできたのは、窓口の準備が始まる前のことだった。千代の机を開けられ、顧客の書類を指でなぞられ、「本日付けで出社停止を命じます」と告げられた。何を言われたのか、一瞬理解が追いつかなかった。朝から人の店に押しかけて机を漁っておいて、出社停止だと?「私が何をしたっていうんですか?」と声を荒げたが、答えは「調査の内容はお答えできません」の一点張りだった。
その日から、監査部の聞き取りが毎日のように始まった。公平も別室に呼ばれ、長い時間出てこなかった。数日後の夜、千代は副支店長のワニブのマンションに呼び出された。ワニブはYシャツ姿でグラスを傾け、落ち着いた様子だった。「まあ、座ってください。私はすぐに戻りますよ。本部に人脈のない男だと思いますか?」と余裕の笑みを浮かべる。ワニブはテーブルにスマホを滑らせた。画面には千代の筆跡で埋められた「移行確認書」が写っていた。「これ、君の字ですよね。私は承認した覚えがないし、記録にも残っていない。つまり、このままだと君は顧客の書類を勝手に書いた課長になる。文書偽造だ。一人でやったなら主犯だ」と、ワニブは静かに言った。
千代の顔から笑みが消えた。「だから、口を揃えましょうという話です。販売は水島たち現場の独断。記録の整理なんてものは初めからなかった。それで君も私も無傷で帰れる」とワニブは続けた。千代は深く頭を下げ、「わかりました」と答えた。テーブルの下で、千代の親指がスマホの画面を一度だけ撫でた。
数日後、ワニブのマンションに本部の監査部から出頭命令が届いた。ワニブはそれを眺めて笑った。「上等じゃないか。感謝ごときが何を調べたところでな。直接会って弁明すればいい。数字の分かる人間なら俺を選ぶはずだ」と、一番高いネクタイを締め、鏡の前で営業用の笑顔を練習してから出かけた。
本店のヒアリング室の前の廊下で、ワニブの足が止まった。すりガラスの向こうに、先に呼ばれた人影が二つ見えた。短い首の丸い輪郭。千代だ。その隣の細い影は水島。ワニブは胃の底が冷えた。あの婆さんの契約、裁談した記録、辞めていった若手……数え始めた指を途中で握りつぶした。だが、俺には数字がある。前行1位だ。上は数字しか見ない。ワニブはネクタイを締め直し、ドアを自分から開けた。
席につくなり、ワニブは先手を打った。「はっきり申し上げて迷惑しています。私は遠取り省の候補ですよ。どこの誰かの言葉一つでこの扱いですか?」監査部長は答えず、書類の束を読み上げ始めた。「調査の中間報告です。一つ、80歳を超えるお客様に家族の同席なく外貨建て保険の契約を強行しようとした事実。移行確認書は担当者による代筆。二つ、本部への報告義務があるお客様相談記録、約1年分が裁談廃棄されていた事実。三つ、昨年10ヶ月で若手行員3名の退職。常態的な失績と数字の共容を複数名が証言しています」と事務的に告げた。
ワニブは反論した。「書類に不があったなら、それは現場の判断です。記録の廃棄は知りません。退職者は指導です。数字の作れない人間に作り方を教えて何が悪いんですか?」その時、神座の扉が開いた。ノコンのスリーピースを着た白髪の老人が入ってきた。胸には金色の徽章、片手に何かを持っている。秘書室長が立ち上がり、黙って神座の椅子を引いた。ワニブは反射的に立ち上がり、腰を折った。偉いことは分かる。そういうお辞儀をこの男は一万回してきた。
老人は席に着くと、静かにワニブを見て「続けなさい」と言った。ワニブは用意してきた台本を最初から並べ直した。販売は現場の判断、記録の破棄は預かり知らぬこと、退職者は指導への逆恨み。誰も遮らなかったから、ワニブは喋り続けた。喋れば喋るほど助かる気がして、喋り尽くした。「ですから、全てはこのための数字作りに過ぎなかったということです。私から申し上げたいことは以上です」と、肩で息をした。部屋は沈黙していた。
秘書室長がペンを置き、「おっしゃりたいことは以上ですか?」と確認し、「では、ご紹介が遅れました。今、見えられたこちらの御方が、当銀行の遠取りです」と告げた。時間が止まった。ワニブは弾かれたように直立し、90度に腰を折った。「あ、はい。こ、こちらこそであります」と声が裏返った。目の前で老人が何も言わずに、持っていたものを机の上に置いた。それは作業棒だった。「ん? なんだあの帽子? 随分汚い帽子だな。日に焼けてよれよれの……。待て。どこかで見たことがある。あの帽子。毎朝、裏口でネズミ色の作業着の……。まさか」とワニブの頭の中を記憶が駆け巡った。
ワニブの目が帽子から老人の顔へ動いた。節くれだった大きな手。あのジジイ。嘘だろ? じゃあ、なぜ遠取りが作業着で床を……。俺は何をした? 罵声を浴びせた。バケツを払い倒した。雑巾を投げた。この人に……。よりによって、銀行の一番上の人に。ワニブは立ったまま動けなかった。顔から色が抜けていくのが、その場にいる全員にも分かった。
「ワニブ君、座りなさい」と老人が言った。ワニブは椅子に崩れるように腰を落とした。老人は静かに話し始めた。「遠取り賞の審査はな、書類でやるもんじゃない。最終の候補に残った店はこの目で見る。わしはそう決めとる。今年の候補があんたの店だった。妙だとは思っとったんだ。あんたの店の苦情はゼロ。ところが、本部へ直接かかる苦情の電話だけは増えとった。髪は消せても電話までは消せんからな。数字は嘘をつかんが、数字で嘘をつく者はおる。だから、この目で見に行った。あんたが欲しがった賞の審査はな、ワニブ君、とっくに始まっとったんだ。あんたの視点の床の上でなあ」
それでもワニブの口は動き続けた。「あ、あの、遠取り殿。雑巾の件はその、投げたと言いますか、手が滑ったと言いますか……。ほう、バケツも滑ったか。あれはその、しかし、き、気づけという方が無理でしょう。まさか遠取りが作業着で床を拭いているなどと、誰が思いますか?」老人は「そうだな。誰も思わん」とあっさり頷き、声を一段だけ低くした。「だがな。わしの顔なら本店のロビーにも毎年のディスクロージャーにも乗っとる。あんたも何度も見とるはずだ。あんたは三週間、帽子の下のわしの顔を一度も見んかった。作業着を見て、それで人を見た気になっとった。しかしなあ。この場で一人だけ、毎朝わしの顔を見て挨拶をしてくれた男がおる」
その時、壁際の公平の肩が震えた。ワニブはすがるように千代へ首を回した。「いや、千代君からも説明を。販売は全部現場の判断だったと。そういつも言っていただろう? ねえ、千代君」千代は俯いたまま何も答えなかった。そして、立ち上がった。「いえ。全て、副支店長のご指示でした」千代はスマホを机の上に置いた。「販売の号例も、相談記録を裁談しろというご指示も、それから口裏を合わせろとご自宅に呼ばれたことも。全部、ここに録音してあります」
ワニブの口が開いたまま固まった。千代は深く頭を下げた。計算された角度ではない、生まれて初めての深いお辞儀だった。「私も同罪です。指示に従ってこの手で書類を書きました。処分はお受けします」ぶつりと、何かの糸が切れる音がした。
次の瞬間、ワニブは薄気味悪く笑った。「なんだ、千代もこいつも。数字を作って何が悪い。銀行は慈善事業じゃないでしょう。数字だ。数字が全部だ。本部がノルマを課すのを、誰が埋めてやったと思ってる。私が作ったんだ。年寄りの金なんぞ、寝かせておくだけ無駄だろうが。どうせ使い道もない金だ。銀行が回してやって何が悪い」
言い切った。部屋が静寂に包まれた。老人は組んでいた手をそっとほどいた。「あんたが無駄な金と呼んだ三千万はな。あの奥さんのご亭主が五十年、汗水垂らして貯めた金だ。あの人はそれを増やしてくれとは一言も言っとらん。守ってくれと、うちに預けたんだ。銀行が預かっとるのは金じゃない。人の信用だよ。わしは集金カー一つから、信用一つで飯を食ってきた。あんたの店が売った外貨保険と投資信託、総額三十八億。前を調べ直す。売り方に火があれば、契約も取り消す。あんたの言う実績は、今日から全部うちの後始末だ」老人は机の上の作業棒に目を落とした。「わしが磨いてきたのは床だけじゃないよ。この銀行の看板だ。あんたは客を切り捨てたんじゃない。その看板に泥を塗ったんだ」
ワニブの体が椅子の上でずるりと沈んだ。「わ、私は、私は首ですか? 住宅ローンがまだ……。せめて、せめて依願退職の形に……」「処分は懲罰委員会が決める。当局への届け出も検討に入る。わしが今日ここで言うのは事実だけだ。あんたが一番大事にしとった数字と同じくらい、動かんものだ」監査部長が手元の書類を閉じた。「なお、遠取り賞候補の推薦は本日付けで取り消されています」その一言に、ワニブの口からは反論が出てこなかった。監査部員が二人、ワニブの両脇に立った。連れられて出ていく足は、入ってきた時の半分の速さもなかった。
ドアが閉まると、老人は壁際の公平に目をやった。「水島君。あの日、わしが雑巾を投げられた時、君は体が前に出かけたな。わしが首を振らんかったら、あんたは飛び出しとった。謝ることはない。むしろ礼を言わせてくれ。こんな老いぼれのために。ありがとう。それが銀行員の本来の姿だ。数字より先に、人に誠実に向き合う心。その心を大事にしなさい」公平の目から涙がこぼれ、何も言わずに深く頭を下げた。
数日後の午前、支店のロビーに千代の姿があった。窓口で対応したのは公平だった。千代は「定期の書き換えをお願いします」と帳簿を差し出した。「息子がね、そのままにしときなさいって。お父さんのお金だもの。それが一番だって」公平は「承知しました」と応え、「先日は当店の者が大変なご無礼を」と頭を下げた。千代は「いいのよ。あなたが謝ることじゃないでしょうに。これからはね、あなたにしか頼まんから、よろしくね」と笑った。
その帰り道、ロビーの隅で作業着の老人が床を磨いていた。千代は慌てて近づき、エンジ色の手提げから包み紙の雨玉を二つ、老人の手に乗せた。「この前のお礼。あなたみたいな人がいてくれる銀行なら安心だわね」老人は雨玉を両手で受け取った。「頂戴します。だがね、奥さん。安心の種ならわしじゃありません。この店にはあんたの味方がちゃんとおりますよ」老人は窓口の公平を目で示した。「わからんことはあの窓口で聞きなさい。何時間でも付き合ってくれますよ」千代は窓口を振り返り、深く頷いた。老人はモップで床を一拭き磨き上げると、帽子を取ってロビーに一礼した。五十年磨いてきた看板に対する、深い深い礼だった。
一ヶ月後、懲罰委員会の結論が出た。ワニブは懲戒解雇。客への不適切な販売とその隠蔽、当局への届け出も行われた。銀行の世界は狭い。ワニブは最終面接で前行一位の実績を語るが、面接官は関心したように頷くだけで、採用されることはなかった。都内の妻からは電話が一本あったきりだった。「お年寄り相手にそんなことをしてたの」それが最後の言葉だった。ローンの払えなくなったマンションは売却したが、借金は消えず、ワニブは駅から遠い安アパートに移り住んだ。
数ヶ月後、ワニブはリフォーム会社の営業をしていた。拾ってくれたのは、経歴を調べない会社だけだった。尋ねる先は一人暮らしの年寄りの家ばかり。玄関先で、ワニブは営業用の笑顔を貼り付ける。「奥様だけの特別なプランなんですよ。今日までの話でして」三軒回って三軒とも断られた。四軒目では、奥から出てきた家族がスマホを構えていた。「おたく、さっきから録音してますからね。警察に相談しますよ」その月のうちに、ワニブは契約を打ち切られた。
アパートの部屋で、ワニブは今夜も缶ビールを片手にテレビを見つめている。「数字を作って何が悪い。俺は前行一位だぞ。運が悪かっただけだ。あのジジイさえいなけりゃ……」誰もいない部屋で、ワニブはこれからも後悔をし続けていく。何がいけなかったのか、何が原因だったのか、どう向き合えば良かったのか。自分で気づくその時まで。
一方、千代には減給と降格の処分が下り、営業から外れてロビーの案内係になった。録音の提出と包み隠さぬ証言が考慮された形だった。十五年前、千代もまた窓口で年寄りの客に時間をかけては叱られてばかりの若手だった。生き延びるために千代は人の顔色を読む技術だけを磨いた。気づけば昔の自分と同じ若手に、同じあだ名を自分の口で言っていた。録音は保身のために取ったものだった。だが、懲罰の席で千代は取引を持ちかけず、自分から処分を求めた。理由を聞いた同僚に、千代は一度だけこう漏らした。「罵声を浴びせたじいさんが黙って床を拭き上げたんだ。土下座した男の足元だぞ。あの背中を見てたら、昔の自分を思い出しちまったんだよ。あの頃の俺は間違ってなかったんじゃねえかって。間違えたのはその後の十五年じゃねえかって」
今の千代は朝一番にロビーに立ち、杖の客が入ってくれば椅子を運ぶ。胸ポケットの手帳には客に頼まれた用事が書き並べてある。見て見ぬふりをしていた社員たちにも注意と研修が課された。「知らなかった」では済まない。それが支店の新しい当たり前になった。
支店が売った三十八億の外貨保険と投資信託は、一軒残らず調べ直された。行員が一件ずつ客の家を尋ね、頭を下げ、売り方に問題のあった契約は元に戻された。時間も金もかかったが、銀行はやり切った。
春、本店のホールで遠取り賞の授与式が開かれた。今年の遠取りは、創設以来初めて支店ではなく人に送られることになった。壇上に呼ばれたのは水島公平。本部に新しくできた「シニアのお客様相談窓口」の初代担当に選ばれたのだった。マイクの前で、公平は深く息を吸った。「僕はこの仕事の一番大事なことを、研修でもマニュアルでもなく、掃除の人に教わりました」ホールの後ろで温かい拍手が起きた。「お客様の顔を見て挨拶をする。分からないまま案内を押しつけない。それだけのことを、僕はこれから何十年もやっていきます」
式の後、ホールの隅で、掃除会社の早川と秘書室長が湯飲みを片手に並んでいた。三十六年前、同じ年に銀行へ入り、当時貸付け課長だった人物に鍛えられた二人である。「お前も結局、何も聞かなかったんだな」「聞かんよ。わしらはあの人にそう教わったからな。人様の事情は床に落ちても拾うなと」二人は短く笑って、湯飲みを軽く合わせた。
掃除会社の委託は切られるどころか、翌月から本店の清掃も任されることになった。早川は冗談を返した。「ありがたいお話ですがね。うちの一番腕のいい七十二歳の新人が、つい先日やめてしもうたばかりでして。人不足ですわ」秘書室長が遠慮なく笑った。
数日後の夕方。老人の家の前に、早川の軽トラックが横付けされた。「大将、それで次はどちらの支店へお伺いしましょうか?」老人は笑った。「廃業だよ。清掃員は当分はな」「おお、当分ですか?」二人は顔を見合わせて笑った。「なんの。あの支店の床が一番光っとったのは、大将が掃いた三週間ですわ」「そうか。またよろしく頼みます」「へへ、いつでも歓迎するよ」
家に入ると、老人は仏壇に線香を一本立てた。「行ってきたよ。若いのがいい顔で働くようになってなあ。年寄りの客が安心して座れる窓口もできた」遺影の中の妻は、微笑んでいた。五十年前、初任給で川カを買ってくれた日と同じ顔だった。老人は玄関へ行き、五十年使った川カの隣に、日に焼けた作業棒を並べておいた。「川カと作業着は違っても、やってきたことは同じだった。どっちも陽の下で働いてくれたよなあ」窓の外で、庭の柿の木が新しい芽を吹き始めていた。老人は思い出したようにポケットの雨玉を一つ、口に放り込んだ。とても甘かった。しかし、口の中には深い味わいと余韻が残った。



