「今日で首だ」
総務部長の黒川正雄がその言葉を吐き捨てた瞬間、会議室の空気が凍りついた。罵倒された派遣社員の緑は、唇を震わせながらも何も言い返すことができなかった。
「聞こえなかったか?契約は更新しない」
「何か私に不があったのでしょうか?」
隣に立つ白木るりが薄い笑みを浮かべた。
「仕方ないわよ。派遣ってそういうものだから。もう決定事項よ。明日から来なくていい。引き継ぎの準備をして」
20か月間。誰よりも早く出社し、誰よりも遅くまで残った女性が、たった一言で職を追われようとしている。
だが、この時誰もが見落としていた。
直後、会議室の扉が開き、一人の老人が現れた。
「今の話、全部聞かせてもらった」
この二人はまだ知らなかった。自分たちがしたことの代償が、どれほど思いものになるのかを。
人生劇場
10月の昼下がり。劇場エンタープライズが入居するオフィスビルの1階に、ラウンジ形式の共同食堂がある。テナント各社の社員や客が自由に使えるその場所に、一人の老人がいた。薄いカーディガンに地味なスラックス、葉ばれた帽子。ラーメン用のバッチを胸に下げているが、それ以外にこれといった特徴はない。どこにでもいるごく普通の老人に見えた。
「いつもありがとうございます。今日もコーヒーでよろしいですか?」
「ああ、頼むよ。今日は少し肌寒いね」
「本当ですね。もうすっかり秋ですね。お体に気をつけてください」
「ありがとう。お嬢さんもね」
「おじいさんっていつ来ても穏やかですよね」
「そうかね。まあ、急いでも仕方ない年齢だからね」
食堂スタッフは小さく笑ってカウンターに戻っていった。この老人が食堂に来るようになって、もう3か月になる。受付で来客バッチを受け取り、窓際の席でコーヒーを飲む。それだけのことだったが、スタッフには顔を覚えられ、今では自然な常連になっていた。
やがて昼休みの時間になると、食堂に社員たちが流れ込んできた。笑い声、食器を運ぶ音。賑やかになった食堂の中で、老人は静かにコーヒーカップを両手で包み、行きかう人々をただ穏やかに眺めていた。古い革の手帳を開き、日付を書き入れる。それが今日の観察を始めるためのいつもの儀式だった。
昼休みが始まって10分が過ぎた頃、一人の女性が食堂に入ってきた。飾り気のないブラウスにグレーのスカート、手には小さな弁当箱を持っている。周囲の社員たちがひそひそと話し始めた。
「ねえ、あの人、今日で首になったんだって」
「派遣だからね。もう来ないんだろうな」
女性は俯いたまま、食堂の隅の席に座った。老人は彼女を見つめ、何かを確かめるように手帳に視線を落とした。彼女の顔には疲れがにじんでいたが、誰にも気づかれないように必死に平静を保っていた。
昼休みが終わり、社員たちが席を立つと、老人はゆっくりと立ち上がった。コーヒーカップをカウンターに戻し、受付でバッチを返却した。そして、誰もいなくなった食堂を見渡すと、静かに建物の外へと出ていった。
その日の夕方、劇場エンタープライズの本社に一本の電話が入った。
「わしは電産グループの人間じゃ。今日の昼、そちらの食堂で行われた派遣社員への対応を見ておった。あれはあまりにもひどい」
電話の相手は、人事部の若い社員だった。彼は慌てて上司を呼び寄せた。
「どちら様でしょうか?」
「名乗る必要はなかろう。ただ、確認したいだけじゃ。あの女性はどのような契約で働いておったのか?」
人事部は慌てて書類を調べ始めた。すると、その女性が何のために契約を打ち切られたのか、その理由が明らかになった。彼女は単なる派遣社員ではなく、重要なプロジェクトの中心人物だった。しかも、彼女はここ数年、誰にも言わずに膨大な仕事をこなしてきた。彼女を解雇したのは、完全なミスだった。
翌日、黒川部長と白木るりのもとに、電産グループからの正式な通知が届いた。
「お前たちの会社は、あの女性を不当に解雇した。これは重大な契約違反だ」
黒川部長は青ざめた。電産グループは、このビルのオーナーであり、テナント企業の運命を握る巨大な存在だった。
「どうやら、あの老人は電産グループの役員だったようだ」
情報が広がるにつれ、黒川部長と白木るりの間に亀裂が生じた。
「お前がやったんだろう!」
「何を言ってるのよ!あなたが決めたんでしょ!」
二人は責任を押し付け合ったが、時すでに遅しだった。電産グループは劇場エンタープライズとの契約を解除することを決定し、さらに、あの女性の契約を復活させることを要求した。
一方、解雇された女性は、自宅で荷物をまとめていた。そんな彼女の元に、電産グループから電話が入った。
「あなたが、あの老人と関係があるのですか?」
女性は小さく笑った。
「いいえ。ただ、昔お世話になっただけです」
彼女は言った。あの老人は、かつて彼女が働いていた小さな会社の社長だった。倒産寸前だった会社を、彼女が必死に支えたことがあった。その恩を、老人は決して忘れていなかった。
黒川部長と白木るりは、結局、会社を追われることになった。そして、あの女性は、新しいプロジェクトのリーダーとして再び働き始めた。
老人は、その後も同じように食堂に現れた。薄いカーディガンに地味なスラックス、葉ばれた帽子。コーヒーを飲みながら、時折手帳に何かを書き込むだけの、穏やかな老人のままだった。
だが、それを知る者だけが、彼の本当の姿を理解していた。



