「中卒が最終面接?話を聞く価値もないな。無能のおっさんは帰れ。」…

「中卒が最終面接?話を聞く価値もないな。無能のおっさんは帰れ。」...

「中卒が最終面接?話を聞く価値もないな。」

人事部長の沢は、机に履歴書を放り投げ、口の端を持ち上げた。

「本当になんで最終面接まで残ったんだ。この経歴じゃどうせ落ちるのに。タイパが悪すぎますよね。」

隣の採用担当の白瀬も、タブレットを抱えたまま涼しげに目を細めていた。

「それがあなた方の答えですか?」

机の向こうに座っていたのは、地味な背広をまとった50歳の男だった。

「ああ、そうだよ。無能のおっさんは帰れ。」

「無能のおっさんね。なるほど。では、そのおっさんから一言申し上げます。」

「なんだ?もういいから出ていけよ。」

男はゆっくり立ち上がると、静かに口を開いた。

「私、次期社長ですが。」

「はあ?」

凍りついた沢の顔の前で、白瀬の手からタッチペンが床に落ちた。

学歴で人を見下したこの人事部長の人生は、その日を境に音を立てて崩れ始めた。

これは、たった一人の「無能のおっさん」を笑った会社が、完全に再生を遂げるまでの物語。

なぜ次期社長が面接の席にいたのか。時計の針は、その数日前へと静かに巻き戻っていく。

黒木健二の一日は、いつもと変わらぬ朝食から始まった。こんがり焼いたトーストと、淹れたてのコーヒーをゆっくりと口へ運ぶ。年は重ねていたが、手入れの行き届いたごく普通の一軒家に住んでいた。今年で50歳になるが、その暮らしぶりには華やかさがなかった。高級車もブランド物の時計も、健二には縁がなかった。

そこへスマートフォンが短く震えた。画面に表示されたのは、専務の平井の名前だった。

「社長。いえ、まだそうお呼びしてはまずいですね。」

「電話じゃ構わんよ。どうした?」

「例の結びフーズの件です。本当にお一人で行かれるおつもりですか?」

「ああ。傾いた会社を立て直すんだ。まず、人事が人をどう扱っているか、この目で見ておきたい。」

「しかし、新社長が応募者のふりをして潜り込むなど、前代未聞ですよ。」

「就任を公表する前じゃなきゃできないことだ。それに、放っておけない手紙を読んでしまったからな。」

「あの手紙ですか?」

「ああ。現場の人間が学歴だけで数字みたいに切られてる。そう書いてあった。」

通話の間、健二の脳裏には、前任社長から渡された会社の資料にひっそりと挟まれていた一通の手紙が蘇っていた。会社が傾いた原因はこれだ。胸の奥で、その思いが静かに沈んでいった。

「俺はな、平井。学歴だけで人を切る会社がどうしても許せないんだ。」

「はい。存じております。」

「昔、俺を拾ってくれた人がいた。柏木正一さんっていう食堂の親父だ。家を飛び出して彷徨ってた15の俺に、黙って飯を食わせて、働くかと言ってくれた。あの人は俺の履歴書も学歴も何一つ聞かなかったよ。」

通話を切った後も、正一の声はまだ耳の奥に残っていた。

「人の値打ちはな、履歴書には書いてねえんだよ。」

その夜、そう言って笑った顔を、健二は今も忘れていなかった。ただ、その恩を返せないまま、健二は正一を見送ってしまっていた。

「結局、俺はあの人に何一つ返せなかった。」

やがて健二は、古びた背広に静かに袖を通した。肩書きも身分も全て伏せ、一人の転職希望者として、その会社の本社をこの目で確かめるつもりだった。

「行ってくる。」

誰にともなくそう呟くと、健二は静かに家を出た。

同じ頃、結びフーズ本社の人事部では朝礼が開かれていた。人事部長の沢高幸は、その朝いつになく機嫌が良かった。

「いいか。これからの採用も人員整理も、全て数字でやる。上に流されるな。」

見習う部下を見回しながら、沢は得意げに言い放った。今の彼の頭を占めているのは、執行役員への昇格。ただそれだけである。その椅子のためなら、現場で働く人間の暮らしなど、沢にとっては取るに足らないものだった。

「使えない人間に椅子はない。学歴も経歴もない人間をいつまでも抱えておく余裕は、うちにはないんだ。」

採用評価担当の白瀬香が、タブレットを操作しながら涼しい顔で頷いた。

「データが最適解を出します。費用対効果の低い層から整理する。極めて合理的ですよ。」

「ちょうどいい。今期、現場の契約は何人切れる?」

「学歴フィルタにかければ9人。いずれも現場の評価は高いそうですが、代わりはいくらでもいます。」

「結構。現場評価なんていくらでも調整が効く。要は見せ方だ。」

「現場が反発したらどうします?」

「反発?有名大卒を入れれば即解決だ。嫌ならやめればいい。それだけだ。」

二人にとって、現場で汗を流す人間など、画面に並んだ数字のただの一に過ぎなかった。だが、その数字の一行の中にこそ、契約社員の柏木ゆいはいた。気づけば28歳。中卒で結びフーズの製造現場に入り、もう5年が経っていた。

「ゆいちゃん、また残ってるの。ほどほどにしときなよ。」

「あと少しだけ。ここを頑張ると、私が約束した分なので。」

同じ現場の先輩、戸田舞子が呆れたように笑った。

「約束したことは守りたいんです。仲間にも取引先にも。」

ゆいは、そう言って笑った。その手仕事は誰よりも丁寧で、そして誰よりも早い。ゆいの作るものに手抜きが一度もないことを、現場の誰もが知っていた。それでも、その確かな腕は、人事部の画面の上では何の意味も持たなかった。

昼前、ゆいは契約更新の面談に呼ばれ、人事部のドアを叩いた。沢はゆいの顔も見ず、手元の書類に目を落としたまま淡々と切り出した。

「柏木さん。現場の評価がどうであれね、これからは数字で決めるんだ。中卒で5年よく続いたとは思うよ。でも、それだけだ。」

「それだけですか?」

「君みたいな経歴の人に、この先任せられる仕事はない。そういう時代なんだよ。分かるだろう。」

「現場の評価は見ていただけないんですか?私は契約した仕事を一度も落としたことはありません。」

「だから、その真面目さは数字には出ないと言ってるんだ。」

ゆいはそれ以上言葉を紡げなかった。膝の上で握りしめた拳だけが、小さく震えていた。

「来月の更新は、こちらで判断させてもらうよ。立場をわきまえておくことだ。」

部屋を出る時、沢はもう次の書類に目を移していた。ゆいのことなど、初めから単なる一人の契約社員としか思っていないのだ。雇い止め。その言葉が、ゆいの足元に冷たい影をくっきりと落としていた。

その日の午後、結びフーズの受付に地味な背広の男が現れた。健二は数日後に控えた最終面接を前に、この会社を自分の目で見ておこうと足を運んでいた。磨かれたエントランスを行き交う社員たちの表情は、なぜか一様に強張っていて、その張り詰めた空気を健二は肌で感じ取った。

「普段からこういう空気なのか。」

受付へ歩きかけたところで、健二の足がふと止まった。フロアの一角で、人事部長の沢が一人の女性社員を人前で問い詰めていたのだ。

「柏木さん。夕べ君の報告で製造ラインが止まったそうだね。納期が丸一日遅れた。」

俯いていたのは、ゆいだった。

「製品に不良が混じっていたんです。気づいてすぐ班長に報告して、規定通り止めてもらいました。」

「規定通りね。ご立派なことだ。おかげで現場は止まったがね。ほんのわずかな不良を大げさに報告して、納期まで遅らせる。そういうところが現場の足を引っ張るんだ。」

「でも、わずかでもお客様の口に入るものですから。」

ゆいはただ規定通りに動いただけだった。もし止めていなければ、不良品はそのまま客の口に入り、会社の信用ごと地に落ちていたはずである。本来なら褒められこそすれ、責められる言われなどどこにもなかった。それでも、行き交う社員たちは関わりを避けるように目をそらし、足早に通り過ぎていった。誰もがゆいの正しさを知っていながら、一人も声を上げようとはしなかった。

「言い訳はいい。さあ、みんなの前で頭を下げなさい。それくらいの誠意は見せられるだろう。」

正しいことをした人間に、衆人の前で頭を下げさせる。その手口は、いかにも手慣れていた。ゆいは唇を噛み、ただじっと耐えていた。ここで言い返せば、雇い止めが早まるだけだと痛いほど分かっていたからだ。

「我慢だ。でも、こんな理不尽なことって。」

その思いが声にならないまま、胸の奥へ沈んでいった。健二はその一部始終を黙って見つめていた。まだ口を出す場面ではないと頭では分かっていた。だが、ゆいが震える肩で頭を下げようとしたその瞬間、理屈より先に健二の足は前へ出ていた。

「あの、横から失礼ですが。その人は規定通りに報告して、不良品を止めたと言われましたね。それを責めるんですか?」

「はあ?誰だ、あんたは?」

「黒木と申します。今度の最終面接を受けるものです。御社を一度拝見しておきたくて伺いました。」

「それはそれはご立派なことで。しかしね、面接応募者が現場に口出しか。余計なことはしないことだ。」

沢は健二を頭の先から足の先まで値踏みするように眺めた後、ゆいに向き直った。

「いいか、柏木。次はないぞ。」

そう言い捨てると、沢は背を向けて去っていった。

「あの、どうしてかばってくださったんですか?私、あなたのことも何も知らないのに。」

「あんたが悪いことをしたわけじゃない。ただそれだけのことですよ。」

見ず知らずの自分のために前へ出てくれたこの男に、ゆいは深々と頭を下げた。そこへ、心配そうに舞子が駆け寄ってきた。

「ゆいちゃん、大丈夫?」

「うん。平気。」

平気だと言ったその小さな声が、帰ってまるで平気でないことを物語っていた。去っていく二人の後ろ姿を、健二は静かに見送った。

「いい目をしてる。あれだけ踏みつけられても、まだ折れちゃいない。」

それは、遠い昔鏡の中にいた若い自分とよく似た目だった。

その日の昼休み、健二は会社の近くにある小さな定食屋の暖簾をくぐった。湯気と出汁の匂いに満ちたその店は、遠い日の柏木食堂を健二にふと思い出させた。奥のテーブルに目をやると、偶然にも先に座っていたゆいがいた。

「ああ、先ほどは本当にありがとうございました。私、ちゃんとお礼も言えなくて。」

「気にしないでください。よかったら、相席いいですか?」

向かい合って座り、二人は同じ日替わり定食を頼んだ。

「ここの飯はうまいな。昔世話になった店を思い出すよ。」

「そうなんですか。なんだかほっとする味ですよね、ここ。」

「ああ。こういう店の飯には、作る人間の人柄が出るものなんだ。」

「失礼ですが、さっきのようなことはよくあるんですか?」

少し躊躇ってから、ゆいはぽつりぽつりと話し始めた。

「最近、変わってしまったんです。前は現場の頑張りをちゃんと見てくれる会社でした。でも今は、人を数字でしか見ない。特に学歴のない人間から順番に切られていくんです。私みたいな中卒の契約社員は、もういつ切られてもおかしくなくて。」

「現場の人間が数字で切られるのを、みんな見て見ぬふりなんだと思います。逆らえば、次は自分が切られますから。私も、間違ってることを間違ってるって言う勇気なんて、なかなか出ません。でも、せめて自分の仕事だけは胸を張れるようにしておきたくて。」

「立派だよ、それは。胸を張れる仕事をしてる人間を数字で切る会社の方が、よっぽど間違ってる。」

「ありがとうございます。そんな風に言ってもらえたの、久しぶりです。」

「褒められることじゃないさ。本当のことを言っただけだ。」

「あんたはずっとここで働いてきたのか?」

「はい。私、両親を早くになくして、中学を出てすぐ祖父の食堂を手伝うようになったんです。その祖父も亡くなって、店を畳んで。それからこの現場に拾ってもらいました。だから、この仕事だけはどうしても失いたくなくて。」

「そうか。ご両親もいないのに、立派じゃないか。」

「そんなことないです。いつも私を支えてくれたのは祖父なんです。お金にはいつも困ってましたけど、仕入れ先への支払いだけは一日も遅らせない、真面目で誠実な人で。『約束を破ったら、それでその人との関係は終わりだ』って。それが口癖でした。」

「いいおじいさんだったんだな。」

「はい。私、勉強は全然でしたけど、『お前はよく気がつく。それが一番の取り柄だ』っていつも言ってくれて。」

「気がつくか。それは立派な才能だ。机の上の勉強じゃ絶対に身につかない。」

「あの言葉がなかったら、私とっくに自分なんてどうでも良くなっていたと思います。」

「おじいさんはいい目を持ってた。人を肩書きじゃなく中身で見られる人だ。」

「はい。多分、私が今もここで踏ん張れてるのは、祖父のおかげなんです。よく言い聞かせてくれました。『人の値打ちは履歴書には書いてねえ』って。」

え、その言葉を耳にした瞬間、健二の箸がぴたりと止まった。35年前、飢えた自分に黙ってどんぶりを差し出してくれたあの人の口癖そのものだったからだ。

「失礼だが、その食堂は何という名前でした?」

「柏木食堂です。もう随分前に亡くなってしまいましたけど。」

「そうか。」

健二はしばらく言葉を失っていた。湯気の向こうに、にこにこと笑うあの人の顔がありありと浮かんできた。

「まさか、正一さんの孫娘だったのか。」

あの人の血を引く孫娘が、今目の前で、あの同じ言葉を口にし、権力に踏みつけられまいと踏ん張っている。それは偶然と呼ぶにはあまりにも強い巡り合わせだった。だが、健二はあえて名乗らなかった。ここであなたの祖父に世話になったと告げてしまえば、それは恩を着せることになってしまう。そんな真似は健二の流儀ではなかった。

「正一さん。諦めかけていたあんたが渡してくれた恩、やっと返せる時が来たようだ。」

湯呑みを静かに置き、健二はそっと心を決めた。数日後の最終面接で、あの男が人を学歴で切り捨てる。まさにその瞬間を、この目で抑えてやる。あの人の孫が泣かされる会社など、このまま放ってはおけなかった。

店を出る時、ゆいがもう一度深く頭を下げた。

「あの、お名前もう一度伺ってもいいですか?」

「黒木です。」

「あんたは何も間違ってない。どうか胸を張っていなさい。」

「はい。ありがとうございます。黒木さん。」

健二は彼女の目に、あの人の面影を重ねた。

その夜、健二は長く信頼を置いてきた専務の平井を自宅へ呼んだ。

「平井。結びフーズの人事部、沢という男の行動と評価の記録を、洗えるだけ洗ってくれ。」

「承知しました。何か掴まれましたか?」

「ああ。この目でたっぷり見せてもらった。あの男は人を数字や学歴だけで切ってる。それも悪びれもせずにな。」

「そうでしたか。それならば、今度の最終面接では好都合ですね。面接には、沢部長が応募者のクレーマー対策と称して自ら入れた常時録画のカメラがあります。」

「クレーマー対策ね。自分の仕掛けで自分の首を絞めてるわけだ。あの男に言い逃れの隙は一分も与えない。」

「お任せください。」

それから数日後、平井の元から届いた報告は、健二の予感をはっきりとした確信に変えた。学歴の欄にわずかでも傷があれば、現場でどれだけ慕われようと、沢は能力も人柄も問わず片っ端から切り捨ててきたのだ。その数は、この2年の間だけでも優に10人を超えていた。

「一人の気まぐれじゃない。これは学歴で人を選り分ける仕組みそのものだ。そして、次に切られるのがあの子だ。いや、もうその手にかけられかけ始めている。」

報告を閉じた健二の脳裏に、あの日のエントランスの光景がありありと蘇った。正しいことをしただけの娘を衆人の前で踏みつけにした、あの男の傲慢な顔を。

「その報いをもう一度この目で確かめてやる。今度は逃がさん。」

胸の奥で、静かな熱がゆっくりと膨らんでいった。

「平井。最終面接では手配通りに。」

「承知しました。タイミングは合わせます。」

窓の外では、街の灯りが静かに瞬いていた。

最終面接の当日、地味な背広に身を包んだ黒木健二は、その面接室へ通された。机の向こうには、人事部長の沢と採用評価担当の白瀬が退屈そうに腰掛けていた。そしてちょうどその頃、別室では舞子に付き添われたゆいが、雇い止めの通告を受けようとしていた。

「柏木さん、ここに署名を。沢部長より、契約は今月いっぱいで終了とのことです。」

「そんな。5年、精一杯やってきました。それも関係ないんですか?」

「上の決定ですので。」

「こんなちゃんとした理由もなく、私が頑張ってきたことは無意味だったの。」

ゆいは、その無情な指示に従うしかなかった。

場面は戻り、面接。やがて顔を上げた沢は、健二を見るなりふと眉を潜めた。

「あんた、この前現場で口を出してきた人だな。」

「ええ。」

「その節はどうも。あんなことをしておいて、よく証拠もなく来たものだ。」

鼻を鳴らしながら、沢は手元の履歴書にようやく目を落とした。そして、その指が学歴の欄でぴたりと止まった。

「はあ。中卒。」

一瞬の沈黙の後、沢の口元がにやりと釣り上がった。

「中卒が最終面接。この前の口出しといい、大した度胸じゃないか。あるいは、あんたの話を聞く価値はこれっぽっちもない。無能のおっさんはもう帰ってくれ。」

「そうですね。なんで最終面接に紛れ込んでるんだか。正直、タイパが悪いんですよね。経歴を見れば結果は最初から出てますから。」

「そういうことだ。履歴書の一行で、人間の値打ちなんて大体知れる。」

健二は何も言い返さず、ただ静かに二人を見つめている。その揺るがぬ落ち着きが、かえって沢を苛立たせたらしい。

「はあ。もうどうせ受からないから、教えてやっとくか。いいか、おっさん。うちはな、学歴で人を選ぶんだよ。それが一番効率がいい。現場の中卒なんてのはな、評価を少しいじって頭数を整理すりゃいい。誰も困らん。頭のない人間に考える仕事は任せられん。言うことを聞くただの頭数だよ。」

「ねえ。上で人を残していたら、会社は回りませんから。」

その得意げな声を、部屋の隅のカメラが一言残らず録画していた。それは沢自身がクレーマー対策と称して得意げに取り付けたものだった。

「それがあなた方の答えですか?」

「ああ、そうだよ。無能のおっさんは帰れ。」

「無能のおっさんね。なるほど。では、そのおっさんから一言申し上げます。」

「なんだ、もういいから出ていけよ。」

健二はゆっくり立ち上がると、静かに口を開いた。

「私、次期社長ですが。」

一瞬の沈黙の後、沢がこらえきれないというように吹き出した。

「聞いたか、白瀬。この中卒のおっさん、自分が社長だってよ。」

「やだ。とうとうおかしくなっちゃったんですか?」

「いいか、おっさん。妄想も休み休み言うんだな。お前みたいな人間が会社の社長になれるわけが。」

その言葉を断ち切るように、面接室の扉が外から静かに開かれた。入ってきたのは、白髪の紳士、専務の平井だった。笑いを引っ込めた沢が、軽く会釈をした。

「平井さん。今、面接の最中ですが。」

平井は沢には目もくれず、まっすぐ健二のそばへ歩み寄ると、深々と頭を下げた。

「お待たせいたしました。」

そして沢と白瀬に向き直り、静かにしかしはっきりと告げた。

「ご紹介が遅れました。こちらは、本日付けで当社の新しい社長に就任される黒木健二様です。」

その瞬間、沢の顔から笑みが音もなく剥がれ落ちた。

「はあ?」

白瀬の手からタッチペンがカタンと床へ落ちた。二人とも声を失ったまま、たった今まで「無能のおっさん」と罵っていた人物を、ただ呆然と見上げているばかりだった。

「え?いや、待ってくれ。次期社長?そんな報告は私は聞いて。」

沢の声が裏返った。その額には、見る間に玉のような汗が浮かんでいた。

「と、ドッキリか何かですか?悪い冗談はよしてください。」

「冗談でこんなことを申し上げると思いますか?」

「だっておかしいでしょ。新社長がわざわざ中卒の応募者に化けて面接を受けるなんて。」

「ええ、常識ではありえません。だからこそ、社長はそれをなさったんです。人を学歴で切る現場を、肩書きの力で上から正すんじゃ意味がない。同じ目線で確かめたかったんだ。」

白瀬は震える指で手元のタブレットを操作した。そこに開かれたのは、社内でもごく限られたものしか知らない人事の内示だった。その名を目にした瞬間、白瀬の顔がすっと青ざめていった。

「本当です。部長。新社長、黒木健二様で間違いありません。」

「そんなバカな。」

その時、沢の頭に、たった今放った自分の言葉が生々しく蘇った。学歴で人を選ぶ、中卒は切ればいい。その全てを、間近で目の前の男に聞かれていたのだ。

「まさか。」

恐る恐る目を向けた部屋の隅で、赤いランプが静かにともっていた。それは自分がクレーマー対策と言って得意げに取り付けた、あのカメラだった。

「沢さん。今あなたが言ったことは、全部そこにあるカメラが撮ってる。あんたが自分の手でつけたものだ。皮肉なものですね。」

「消してくれ。消してください。あれは、その、ただの言葉の綾で。」

「言葉の綾?あんたは現場で何人の人間にその言葉を浴びせてきたんだ。」

静かに、しかし言い逃れを許さぬ声で、健二は続けた。

「人事部長、沢高幸。評価担当、白瀬香。両名を、本日付けで職務停止する。」

「そ、そんな権限が。」

「権限は社長の権限ですよ。あんたがついさっきまで好き勝手に振る舞っていた権限だ。」

何も言えない沢を残し、健二は平井へ目をやった。

「平井。今、別室で雇い止めの通告を受けている社員がいる。すぐに止めてくれ。」

「はい。もう手配は済ませております。」

ほどなくして、ゆいが面接室へ通された。不安げに部屋へ入ったゆいは、そこに立つ男を見て思わず息を飲んだ。

「失礼します。新社長がお越しと聞きまして。」

「柏木さん。先日ぶりだね。」

「あなたは、あの時の黒木さん。」

「ああ。紹介が遅れた。私が新社長の黒木だ。それで早速だが、あなたの雇い止めは撤回だ。もう何も心配いらない。あんたは何一つ間違っていなかった。間違っていたのは、こっちの方だ。5年もよく踏ん張ってくれた。こんな目に合わせてすまなかった。」

その一言に、ゆいの目には見る見る涙が盛り上がっていく。ずっと一人きりで耐えてきた。正しいことをしても、誰一人助けてはくれなかった。それなのに、今、たった一人だけ、はっきりと「間違っていない」と言ってくれる人がいる。

「ありがとうございます。でも、急にそんなこと言われて、私、夢じゃないですよね。」

「夢じゃない。あんたの5年は、ちゃんと再評価される。」

「はい。はい。」

ゆいは何度も何度も頷いた。それから健二は、青ざめたまま膝を震わせる沢へ、ゆっくりと向き直った。

「沢さん。あんた、口癖のように言ってたそうだな。『使えない人間に椅子はない』と。いい言葉だ。だから、そっくりお返ししますよ。会社の信用を守った人間を人前で踏みつけ、評価を改ざんして人を数字のように切り捨てる。あんたにこそ、この会社に座る椅子はない。使えない人間に椅子はない。あんたの椅子のことですよ、沢さん。」

「待ってください。私は会社のために効率を。」

「効率の名の元に人を踏みつけにした。それはただの弱いいじめだ。」

かつて何十人もの人間をその椅子から引きずり下ろしてきた男が、今まさに自分の椅子を失おうとしていた。沢はその場にへなと膝をついた。そこへ、元社長の辻本が数人の役員を従えて現れた。

「黒木さん。お待たせしました。事情は平井から全て聞いています。私からも改めて、この件、会社として徹底的に調査いたします。」

「辻本さん。長い間、現場には辛い思いをさせました。」

「いえ。声を上げず、見て見ぬふりをしてきたのは私の責任です。あとはおっしゃる通りに。」

健二の計画を最初から承認していた辻本は、迷うことなく健二の隣に並んだ。空気はもう完全に変わっていた。

数日後、結びフーズの役員会議室では、長い机を挟んで沢と白瀬が蒼ざめた顔で座らされていた。その前で、社内調査の結果が一つずつ明らかにされていった。机の上に並べられた、復元された評価記録のログとカメラの録音。それらが二人の所行を一つ残らず映し出していた。平井が淡々と事実を読み上げていく。

「過去2年間で、現場社員の評価が書き換えられた件数、17件。いずれも学歴を理由とした不当な引き下げです。」

「契約を打ち切られた方が9名。全て沢部長と白瀬さんの手によるものと判明しました。」

「9名のうち、現場の評価はどうだったんだ?」

「7名が、現場で最上位の評価を受けていた人たちです。それを人事部の判断だけで覆していました。」

「そんなことがまかり通っていたのか。」

「人事の権限が一人に集中していたためです。誰も口を出せませんでした。その中には、20年現場を支えてきた職人もいます。ある日突然、数字だけを理由に職を追われました。」

「20年勤めた人間を、紙の上の数字だけで切ったのか。」

「数字が全てです。情を挟んでいては経営は成り立ちません。」

「その数字を、あなたが都合よく書き換えた。それも全てログに残っています。」

「9人だけじゃないんだろう。書類で弾かれたものまで入れれば、もっといるはずだ。」

「はい。この2年だけで10人を超えます。いずれも学歴だけを理由に職場から消されました。」

室内に低いどよめきが広がった。言い逃れの言葉を探す沢と、唇を噛んで青ざめる白瀬。だが、もはや互いに罪をなすりつけ合う気力さえ、二人には残っていなかった。誰がいつどの数字を書き換えたのか。その指紋のように消せない痕跡の前では、どんな言い訳もただ虚しく響くだけである。沢と白瀬は、同じ証拠の上に並んで沈んでいくしかなかった。

「こんな、こんなことって。」

沢はもうこれ以上反論する言葉も持たなかった。それまで壁際でじっと聞いていたゆいが、ふいに一歩前へ出て、まっすぐに沢を見据えた。

「あの、私からも一言お伝えさせてください。あなたは、今読み上げられたその9人のことを覚えていますか?」

沢はゆいの顔をぼんやりと見て、そして、もはや諦めたのか、どうでも良さそうに吐き捨てた。

「はあ。いちいち覚えてられるか。学歴のない人間なんて、吐いて捨てるほどいるんだ。」

その一言に、部屋の空気が凍りついた。切り捨てられた者にとっては、それぞれが人生を左右された出来事である。それをこの男は、誰一人として覚えてすらいない。同じことを数えきれないほど、何の痛みもなく繰り返してきたからだ。辻本も思わず目を伏せた。

「これが、長年人事を任せてきた男の本音か。」

誰かの低い声が漏れた。だが、ゆいはもう俯かなかった。

「あなたは人を、紙の上の経歴でしか見なかった。でも、あなたが切り捨てたその人たちは、現場で誰かと約束を交わし、それを守って働いてきた人たちです。私も同じです。現場で何年約束を守り通してきたか。そんなことは、どの履歴書にも書いていません。履歴書よりずっと確かなものを持っていた人たちです。それだけは、どうか忘れないでください。」

沢は何も言い返せなかった。ただ、初めて自分が踏みつけてきたものの重さに気づいたように、その顔は引きつっていった。

「よく言った。」

健二はゆいの言葉に静かに頷いた。

やがて、この一件は社内だけでは収まらなかった。採用差別と評価の組織的な改ざん。その事実が外部に漏れて報道されると、取引先や株主からも厳しい声が上がり始めた。長年の取引先までもが次々と契約の見直しを口にし、「人を大切にしない会社の製品は使えない」と残して離れていった。効率だけを追って人を切り捨てた。その結果がこれだ。会社を支えていたのは、数字じゃない、人だったんだ。沢と白瀬が目指そうとした効率は、皮肉にも会社の信用そのものを内側から静かに蝕んでいたのである。

「長年見て見ぬふりをしてきた。これは我々全員の責任でもある。」

全てが明らかになったその席でのことだった。

「黒木さん。一つ伺いたい。あなたはこうなることを分かっていたのですか?」

健二はようやく静かに口を開いた。

「どうして俺がここまでするのか。その理由を話しておきましょう。」

その声に滲んでいたのは、怒りではなく、もっと深く静かな何かだった。

「35年前、俺は家を飛び出して、行き場をなくしていた。金もない、学歴もない、頼れる相手もいない。腹を空かせて雨の中、ある食堂の軒先で湯気を見ていた。そんなどこの誰とも知れない小僧に、一杯の飯を食わせて、『働くか』と言ってくれた人がいた。その人は、俺の学歴も何一つ聞かなかった。ただ、俺を一人の人間として受け止めてくれた。そして言ったんです。『人の値打ちは履歴書には書いてねえ』と。」

その言葉に、ゆいがはっと顔を上げた。

「それ、おじいちゃんがいつも言っていた。」

「俺はその一言に救われた。今の俺があるのも、何もかもあの人のおかげなんです。だから決めてるんですよ。人を経歴で値踏みして、平気で踏みつける会社とは付き合わない。たとえ、自分の手で立て直す会社でもだ。」

膝をついたまま、沢はただ項垂れていた。

その後の二人の末路は、惨めなものだった。沢は懲戒解雇となり、改ざんによる損害の賠償まで求められた。再就職を試みても、前職での不祥事が業界中に知れ渡り、30社を超える企業から書類で落とされ続けた。「使えない人間に椅子はない」。かつて自分が放ったその言葉が、そっくりそのまま自分自身に帰ってきたのである。そうして最後に残ったのは、かつて誰より見下していた、その日暮らしの仕事だけだった。

「俺の椅子は、一体どこにあるんだ?」

誰もいない部屋で、男は一人力なく呟いた。

白瀬もまた同じだった。諭旨退職となり、目前だった昇格も全て白紙に戻された。「データが最適解を出す」。その信奉していた言葉の通り、データは誰よりも先に白瀬自身を切り捨てたのである。

「私の経歴が。」

力なく笑うその顔が、誰よりも虚しく見えた。

全てが終わり、人の消えた部屋で、健二はゆいと二人きりで向かい合っていた。

「黒木さん。あの、どうして私のこと、あんなにまでかばってくださったんですか?」

しばらく黙っていた健二は、やがてゆっくりと口を開いた。

「さっき話した、俺を拾ってくれた食堂の主人。その人の名前を、まだ言ってなかったな。柏木正一さん。あんたのおじいさんだよ。」

その瞬間、ゆいの時間が止まった。

「え?祖父を、おじいちゃんを知ってるんですか?」

「知ってるなんてもんじゃない。この命を救ってもらったんだ。35年前、飢えてた俺を、何も聞かずに雇ってくれたのは、あんたのおじいさんだ。俺はあの店で、飯の炊き方から人との向き合い方まで、何もかも教わった。正一さんは、俺の恩人なんだよ。」

信じられないというように、ゆいは首を振った。

「でも、祖父はそんな話、一度も。」

「言わなかっただろうな。あの人は、人に何かしてやっても、それを決して自慢しない人だった。」

「はい。そうです。そういう人でした。」

だが、健二の口から語られる店のことは、その一つ一つが紛れもなく本物だった。すり減ったまな板、油で滲んだ品書き。夕方になると決まって、近所の子供にこっそりコロッケを一つ多く持たせてた。

「内緒だぞって、笑いながらな。」

それは、幼いゆいが祖父の隣で毎日見ていた、あの光景そのものだった。

「知ってます。それ、全部、私の知ってるおじいちゃんです。」

「俺はその恩を返せないまま、正一さんをなくした。ずっとそれが心残りでならなかった。だから、あんたを見過ごせなかったんだ。あんたの中に、正一さんが確かに生きていたから。」

そう語る健二の声が、わずかに震えた。叩き上げの経営者。その目尻には、いつしか光るものが滲んでいた。

「おじいちゃん。」

幼い日に見送ったはずの祖父が、こんな形でもう一度自分のそばへ帰ってきてくれた気がした。

「縁なんだろうな。きっと正一さんが繋いでくれたんだ。」

「ありがとうございます。黒木さん。本当に。」

「あんたは立派に正一さんの意志を継いでる。だから、もう俯くな。胸を張っていい。柏木さん。いや、ゆいさん。あんたを、契約社員なんかじゃない。一人前の職人として迎えたい。」

「はい。はい。こちらこそ、よろしくお願いします。」

「これでやっと、正一さんに少しは顔向けできる。」

ゆいは涙を拭おうともせず、ただ深く、深く頭を下げた。

それから数日後、結びフーズは大きく生まれ変わっていた。学歴だけで人を選り分ける仕組みは全て廃止された。人をその働きと人柄で見る。評価の過程も全て職場に開かれ、誰の目にも分かるようになった。健二の元で、会社は当たり前のことを一つずつ取り戻していったのである。

やがて現場には活気が戻った。辞めていく人が減り、いつの間にか笑い声が戻ってきた。それは、ゆいが雇い止めに怯えながらも、何より守りたかったものだった。ゆいは正社員として採用され、今では現場のリーダーを任されている。舞子も正社員になり、二人は変わらず肩を並べて働いていた。

「ねえ、ゆいちゃん。なんだか職場が別の場所みたいだね。」

「うん。前は毎朝胃が痛かったのにね。」

「本当、あの新社長が来てくれてよかった。」

その帰り道、健二は隣を歩くゆいに、ふとこんなことを言った。

「『使えない人間に椅子はない』。そう言ってた男がいたな。でもな、ゆいさん。人の値打ちは、座ってる椅子で決まるもんじゃない。自分の足でどこに立つか。それで決まるんだ。」

そして健二は、ゆいに静かに告げた。

「『人の値打ちは履歴書には書いてねえ』。正一さんが言ったことは事実だ。今度は、俺があんたに渡すよ。」

ゆいはその言葉を両手で受け取るように、そっと胸に抱いた。

「ありがとうございます。私、これからも誠実に頑張ります。」

見上げた空は、どこまでもよく晴れていた。

Thumbnail