「おろし、やめます。店、潰れますよ」
大手食品卸・王勢フーズの相談室で、若社長の芹澤颯斗が笑いながら言い放った。相手は門前仲町の小さな寿司屋「寿司処 新藤」の大将・新藤と、二代目女将の千夏だった。
「社長、でも当然ですよ。小口のくせに生意気なんですから」
隣で囃し立てるのは、社長室長の白鳥麗奈。元受付から社長に取り入って成り上がった女だ。
「待ってください。私たちは、全量の魚を卸してほしいとお願いしているだけです」
「はいはい、全量全量。本当うるさいな。時代遅れの昭和の店は」
だが若社長はまだ知らない。目の前の「ボロ寿司屋の老人」こそ、全国500店を束ねる巨大グループの創業会長であることを。
潰れるのは、そちらですが。
これは、寿司一筋50年の老人が、人を値札で見る男に静かに引導を渡す物語である。
全ては、数週間前の朝に遡る。
夜明け前の豊洲市場。白い息を吐きながら歩く老人の姿があった。
「よう、親父さん。今朝も一番乗りかい」
「おう。その奥の本マグロ、目利きを見せてくれ」
「へい。こいつは今朝一番のやつだ。相変わらずいい目をしてなさる」
「何せ、50年魚と人しか見てこなかったからな」
そこへ、発泡スチロールの箱を抱えた若い女が駆け寄ってきた。
「新藤さん、おはようございます」
「おお、千夏ちゃんか。今日は何を仕入れた?」
「真鯛です。でも、池中締めかじめで、まだ目が慣れなくて」
「エラの奥と尾の付け根を見な。魚は正直だ。嘘をつくのは、いつだって人間の方だからな」
「はい、目利きしておきます。父がよく言ってました。新藤さんの目利きは下町一だって」
千夏は32歳。2年前に父を亡くし、一人で築地の寿司屋の暖簾を守り続ける、新藤と同じ二代目だった。
門前仲町の路地の奥、寿司処に戻ると、新藤は炊きたての米に酢を回しかけた。浜っぱい香りが湯気と共にふわりと立ちのぼる。ガラスの引き戸の向こうで雀が鳴き、昭和40年から動き続ける柱の振り子時計が、変わらぬ音で時を刻んでいた。ラジオからは野球中継が小さく流れている。
奥から顔を出したのは、50年連れ添った妻の加代。夫の包丁の全てを知り、店の帳場を預かってきた。
「あなた、今朝もいいマグロが入ったのね」
「ああ。市場で千夏ちゃんにも会ったよ。あの子の目は、日に日に良くなってる」
「あら、嬉しそう。加代が屋台から始めた頃のあなたに似てるんでしょう」
「自転車で出前を走り回ってた頃の話か。もう50年も前の話だ」
「ふふ。あの頃は、氷屋さんが氷を届けてくれて、夕方には豆腐屋さんのラッパが鳴って、いい時代だったわね」
「時代は変わる。だが、変えちゃならんもんもある」
新藤は、父の位牌に湯飲みを備え、手を合わせた。
「親父。魚を運ぶ手を粗末にする店に、いい寿司は握れん。あんたの言葉、今も守ってるよ」
その時、帳場の電話が鳴った。
「おはようございます。柏木です。会長、月次のご報告を」
「ほう。だが、柏木店で会長は寄せと言ってあるだろう」
電話の主は柏木悟。52歳。26の年に新藤に拾われ、握りより帳簿の才を見出された一番弟子である。今は新藤に代わり、グループ全体の全てを預かっていた。
「失礼しました、大将。しかし、相変わらずですね。日本中の魚屋が頭を下げるお方だというのに」
「大げさを言うな。俺の仕事は、寿司を握ることと人を見ること。それだけだ」
「ええ。ですから、私は26の時からあなたについてきたんです」
「ふう。口の上手い弟子だ。そっちは任せる。困ってる店があったら、真っ先に知らせろ」
受話器を置いた新藤の背中を、朝の光が静かに照らしていた。
同じ朝、銀座の高層ビルにある王勢フーズでは、月曜朝礼の社内朝礼が開かれていた。壇上に立つのは三代目社長の芹澤颯斗、36歳。1年前、先代会長である父の入院を機に社長の座に就き、次々に社内改革を進めていった。その斜め後ろでは、笑顔をつけた撮影クルーがカメラを構えていた。SNSに流す「若き改革者の密着動画」のために、颯斗が自ら雇い、社内のあらゆる場面を撮らせている専属クルーである。
「じゃあ、回して。皆さん、おはようございます。我らが王勢フーズは、創業60年、食卓に真心を、胸にお客様と取引先様に寄り添う企業であり続けます。大きな取引先も小さな取引先も、我が社にとっては等しく宝です。共に新しい時代へ参りましょう」
「はい、カット。いただきました」
「はい、お疲れ。カメラ切った?」
「切ったね」
「じゃあ、ここからが本題ね。いいですか? 社員の皆さん。数字にならない付き合いは切る。それが経営です。親父の時代の義理人情はもう終わり。小口は切る。大口に集中する。さっきのは外向けの営業トークなんで、間に受けないでね」
「さすが社長。切り替え早い。本当、古いって罪ですよね」
颯斗の隣で手を叩くのは白鳥麗奈、28歳。元は受付だったが、颯斗に取り入って異例の出世を遂げた女である。二人の関係は社内では公然の秘密だった。
社員たちは小声で呟いた。
「また始まったよ、あの二人」
「白鳥出町様。今日もお隣で拍手かよ」
「なあ。あの二人になってから、もう何十件切った? 昔からの小さい店」
「30は超えたろう。数えるのはやめたよ」
「逆らったら、次は俺たちだ」
その頃、本社の応接室に呼び出されていたのは、寿司処の千夏だった。店の仕入れは、父の時代からそのほぼ全てを王勢フーズに頼っていた。
「えっと、はせさん。ああ、先月の売上、これだけ貰うんですけど」
「個人ですので、あの、今日はどういったご要件でしょうか?」
「単刀直入に言いますね。来月から、小口さんのおろし価格、4割上げますよ」
「4割? そんな、うちみたいな店にいきなり」
「いきなりじゃないですよ。経営判断です。嫌なら他を当たってください。まあ、オタクの規模で受けてくれるおろし、他にないと思うけど」
「せめて段階的にしていただくことは。半年でも、3ヶ月でも構いません。仕入れの値段を、お客様にすぐ載せるわけには」
「あのね、オタクの客の懐事情なんて、うちの知ったことじゃないんですよ。ていうか、これお店の写真ですか? この外観でよくお客さん来ますね。昭和の番組のセットかと思っちゃった」
「父の時代からの店です。値上げは飲むしかないのかもしれません。でも、それならせめて、父の時代からの品質だけは落とさないでいただけませんか?」
「それ、感情の話ですよね。品質はコストの関数なんですよ。払った分のものが届く。それだけの話。そこに感情を挟むから、昭和の商売は潰れるんですよ」
「そう、そう。古いって罪ですよ」
「ああ、それと、返事が遅れたら自動的に取引見直しリスト入りなんで、よろしくです」
「そんな、一方的に」
「泣いても数字は変わらないんで。以上。返事は今週中に。俺も暇じゃないんで。ああ、ドア閉めてってください」
千夏は言葉を失い、唇を噛んで頭を下げるしかなかった。帰り際、エレベーターを待つ千夏の耳に、廊下の社員たちの囁きが届いた。
「あの店も切られるな」
「この1年で何十件目だよ」
「先代会長が倒れてから、この会社は変わっちまった」
「昔はな、小さい店ほど大事にしろって言われたもんだけどな」
閉まる扉の向こうで、千夏は箱を抱える手にぐっと力を込めていた。
数日後の昼下がり、寿司処のカウンターで新藤は届いたばかりの箱を開けて、眉を寄せた。
「加代。今日の納品からだな」
「ええ、いつも通りよ。どうかしました?」
「この国産と書いてあるが、身の締まりも匂いも違う。ラベルと中身が合ってない」
「まあ、先週もあなた首をかしげてたじゃない」
「ああ。1度くらいは間違いもある。しかし2度目は」
「大将、どうしたい? 難しい顔して」
「何? 魚の顔が名札と違うもんだね。昭和の頃はな、魚屋も魚も顔と顔で商いしてたもんだ。名札なんぞいらなかったね。先代もよく言ってたぜ。うちは魚売ってんじゃねえ。信用売ってんだって。ありゃいい親父だった」
「全くだ」
新藤は前掛けを外し、静かに立ち上がった。
「加代、ちょっと出てくる。王勢さんと話をしてくる。本社にね」
「あなた」
「分かってるよ。相談だ。喧嘩じゃない」
王勢フーズの応接フロアで順番を待っていた新藤の耳に、仕切りの向こうから聞き覚えのある声が届いた。
「ですから、産地証明を出していただきたいとお願いしてるだけなんです」
「産地証明ね。ご立派なことだ。おかげでうちの担当は伝票をひっくり返して、オタクの分だけ配送を組み直した。カウンター6席のために、うちの人間を何人動かす気なんですか?」
「で、でも、規定では納品書に産地の記載が」
「そういうところが、取引先の手間を増やすんですよ。大体ね、女将さん。オタクの客が産地なんて気にします? たった6席しかないお店の客がさあ」
「うちのお客さんは、父の時代からうちの魚を信じて食べてくださってるんです」
「はいはい。信じて信じて。ねえ、はせさん。うち、オタクに卸すのやめよっか」
「え?」
「ああ、社長、ひどい」
その光景を、新藤は廊下の椅子から静かに見つめていた。よその相談に部外者が口を挟むものではない。だが、俯いて拳を握る千夏の姿に、50年前の若い自分が重なっていく。気づけば新藤は立ち上がっていた。
「お嬢さんの言っていることは、商いとして全うですよ」
「はあ? 何、あんた?」
「新藤と申します。オタクから卸してもらっている、門前仲町の寿司屋です」
「新藤? ああ、ありました。個人商店の売上、はせさん以下じゃないですか? ボロ寿司屋の親父さんは黙っててもらえます? これ、うちと先方の話なんで」
「おじいちゃん、正義の味方ごっこはお家でやってください」
「そうですか。では、私の話は私の相談の時に」
二人の笑い声を背に、新藤は千夏の肩にそっと手を置いた。
「千夏ちゃん、今夜、店を閉めたらうちに来なさい」
「新藤さん」
「湯飲み一つ余分に出すだけだ。遠慮はいらんよ」
その夜、暖簾をしまった新藤のカウンターに千夏の姿があった。
「すみません。閉店後に。昼間はその、お見苦しいところを」
「いいから、座んな」
新藤は何も聞かずに、反対の蓋を開け、氷で締められた車海老をふわりと取り出すと、中トロの柵に刃を入れた。包丁がまな板を打つ音が一つだけ響き、薄紅色の断面が照明の下でしっとりと光る。
「まず食え。話はそれからだ」
「いただきます」
一巻を口に運んだ瞬間、千夏の目が大きく見開かれた。
「酢飯がほぐれる。ネタの油と一緒に、口の中で溶けていく。おかしいな。美味しいのに。なんで涙?」
「疲れてる証拠だ。ほら、次は小肌だ。飯ってのはな、塩と酢の配分より、待つ時間が仕事だ。急かすならん。魚にも人にもな」
「はい」
「で、どうした。父が死んで1年経った頃からか? 芹澤社長の代に変わってから、値上げの話か」
「はい。でも、それだけじゃないんです。3ヶ月ほど前、納品の箱の中に、ラベルが二重に貼られたパックを見つけました。上のラベルを剥がしたら、下から輸入品の表示が出てきたんです。伝票は国産のままでした」
「ラベルの張り替えか」
「何かの間違いであって欲しくて、問い合わせました。そうしたら、次の週から、うちにだけ検品をさせてくれなくなって」
「なるほどな。それで今日の、産地証明の話か」
「はい。うちみたいな小さな店。おろしを切られたら、それで終わりです。分かってて言ってるんです。あの人たちは」
「親父さんが亡くなったのは、急だったのか」
「はい。朝の仕込みの最中に倒れて、まな板の上で包丁を握ったままでした」
「継いだばかりの頃は、ひどいものでした。女将になったら味が落ちたって、常連さんが何人も離れて。最初は女が来たって相手にされなくて」
「だろうな。俺も見てたよ。あんたが毎朝誰より早く来て、誰より遅くまで魚を見てたのを」
「見ててくれたんですか?」
「市場の年寄り連中はな。ああ、見えてる。全員見てる。あんたが最近、いい顔で仕入れをするようになったこともな」
「父はいつも言ってたんです。商いだけは絶対するな。誠実な商いは必ず報われるからって。でも、報われるどころか、正しいことを言うたびに、店が潰される方へ近づいていく。誠実なんて、報われないのかもしれません」
新藤は答える代わりに、湯飲みに熱い茶を注ぎ直した。
「変ですよね、この店。レジも手打ちで昭和のまんまで。友達には、早く回転寿司にしなよって笑われます」
「変わらんものには、変わらんだけの理由がある。うちだってこの通りだ」
「本当だ。この振り子時計、うちのと同じ音がします」
「お品書きも、まだ父の字のままなんです。書き直せなくて。あの字を見てると、まだ父と一緒に板場に立ってる気がして」
「魚って不思議ですよね。同じ魚でも、扱う人の手一つで味が変わる。父の口癖でした」
その言葉に、湯飲みを持つ新藤の手がピタリと止まった。
「親父と同じことを言う言葉だ。魚を運ぶ手を粗末にする店に、うまい寿司は握れん。千夏ちゃん、その張り替えのパックと伝票、まだ持ってるか?」
「え? あ、はい。何かの時のためにと思って、箱ごと冷凍庫の奥に。納品書の控えも、父の時代の分から全部あります」
「そうか。偉いな。あんたはちゃんと商人の手をしてる」
「商人の手」
「ああ。誠実ってのはな、口で言うもんじゃない。手が覚えてるもんなんだ。あんたの親父さんは、いいものを残したよ」
そこへ奥から加代が風呂敷包みを抱えて現れた。
「千夏ちゃん、お腹空いてるでしょう。これ、巻き寿司のあまりだけど、持って帰りなさい」
「え、いいんですか? ありがとうございます、女将さん」
「あら、やだ。加代さんでいいのよ。千夏ちゃんのお父様にはね、うちの人も昔市場で随分世話になったのだから。遠慮はなしよ」
千夏が帰った後、加代は湯飲みを片付けながらぽつりと言った。
「あなた、もう決めているんでしょう」
「50年。この手は寿司だけ握ってきた。今更騒ぎを起こす年でもない」
「あら、誠実な商いは必ず報われる。素敵な言葉じゃないの? あの子のお父様。その言葉を嘘にする世の中を、黙って見ていられる人でしたっけ? あなたは」
「お前には叶わんな」
新藤は帳場の黒い電話を取り、一番を押した。
「大将、珍しいですね、この時間に」
「柏木。調べてもらいたいことがある」
「なんなりと」
「明日、太陽一をそっちへ送る。魚を調べられる限り調べてくれ。それと、王勢フーズの近頃の商売もだ」
「王勢? 大将の仕入れ先の。承知しました。大将、何かあったんですね」
「1つだけ言っておく。俺は今、50年ぶりに腹の底から静かに怒ってる」
受話器の向こうで、柏木が息を飲む気配がした。
「その言葉、26年ぶりに聞きました。総力を上げます」
数日後の朝、豊洲の通路を歩く新藤の懐で、携帯が低く震えた。
「大将、ご報告です。お預かりした検体を第三者機関に回しました。DNAの産地判定、真っ黒です。国産表示で、中身は輸入でした。それから、市場と漁港の出荷を突き合わせました。王勢フーズが国産として売った魚は、実際に国内で仕入れた量を大幅に超えています。数字が合いません」
「そうか。一箱の問題じゃない。組織ぐるみだな」
「ええ。それともう1つ、面白い話が。あの若社長、自分の密着動画のために撮影クルーを雇って、相談の席にまでカメラを入れるそうです。その制作会社が、うちの系列の古い付き合いでして、色々と聞けました。カメラの前では立派な真心経営。カットの一言の後が本番。随分と真逆の経営スタイルのようです。データの管理は、契約上、制作会社側にあります。本人が切ったつもりの本音まで、全部残っているそうですよ」
「自分の仕掛けたカメラが、自分の口を一番よく覚えてるわけだ」
「先代会長は今、入院中です。会社の実情は、ほとんど耳に入っていないかと。いかがいたしますか? 大将、ご指示一つで、いつでも」
「いや、まずは相談だ。取引先として正式に席をもらう。千夏ちゃんの最後通告の席に、俺も同席する」
「現場をこの目で、ですね」
「ああ。それがうちの流儀だよ」
通話を終えて歩き出すと、市場の男たちがすれ違い様に次々と頭を下げていった。
「会長、おはようございます」
「よせ。ここじゃ俺はただの寿司屋の親父だ」
「へい。ですが会長、今朝はお顔がいつもと違いますぜ」
「そうかい。何せ、久しぶりに大事な用があるんでね。役者が揃うのが楽しみだ。この目で確かめさせてもらうよ」
その日の午後、王勢フーズの相談室には、おろし停止の最後通告を受ける千夏と、同席を求めた新藤の姿があった。自分の相談をクレーマー案件として握り潰されたままの新藤は、取引先として千夏の席への同席を申し入れたのである。壁際には、この日も密着の撮影クルーが控えていた。契約上、颯斗の勤務中は朝礼からまで、あらゆる場面が撮影の対象なのだ。
「ああ、カメラはもう止めていいよ。ここからは相談。ていうか、面倒な後始末なんで、絵にならないから」
「は、はい」
ディレクターは小さく頷いた。だが、三脚の上の録画ボタンは、静かについたままだった。
「社長、今日も絶好調です」
「あの、今日は取引継続のご相談に伺ったんですが」
「ていうか、お隣。ああ、クレーマー案件の新藤さんじゃないですか。なんでここにいるんですか?」
「私の相談の順番が、いつまで待っても回ってこんのでな。取引先として、はせさんの席に同席させてもらいました」
「はあ。勝手に同席とか、ありえなくないですか?」
「ああ、それね。結論から言うと、無理。オタクみたいな小口、うちにはコストでしかないんで」
「これは、はせさんの決算書ですけど、この数字で取引継続のご相談って、逆にすごくないですか?」
「うっ。それでも、うちには常連のお客様が」
「その前に、1つ伺いたい。オタクの国産は、どこの海で取れたものですか?」
「はあ? 何、じじい、いきなり」
「先日納品された魚のラベルの下から、輸入品の表示が出てきましてね。こちらのお嬢さんの店にも、同じものが届いていた」
「ああ、はいはい。それね、うちでは『最適化』って呼んでるんですよ。いい客はね、味なんかわかんないの。国産って字を食ってるだけだったら、安い魚に高い名札をつけるのが経営ってもんでしょ。実際、原価率は業界最強。株主も銀行もニッコニコ。これが数字の力ってやつ」
「社長、それ深い。動画で使いましょうよ」
「そんな、それ偽装じゃないですか? お客様を騙してるって、ご自分で」
「騙す? 人聞きが悪いな。サービスですよ。サービス。夢を売ってるの」
「あんたの親父さんは、そういう商いをしなかったがね」
「親父の話すんなよ、じじい。ていうか、あんたこの前廊下で説教してきたじいさんじゃん。順番待ってろって言ったよね。ちょうどいいや。オタク、今日で終了ね。ボロ寿司屋が口ごえか。おろし、やめて。店、潰れるよ。2件まとめてダンジリー」
「そんな。新藤さんの店まで、私のせいで」
だが新藤は少しも慌てなかった。湯飲みを静かに置き、背筋を伸ばしてまっすぐに颯斗を見た。
「潰れるのは、そちらですが」
「はあ?」
一拍の沈黙の後、颯斗と白鳥が同時に吹き出した。
「ははっ。やば、このじいさん最高。カウンター6席の親父が、年800億のうちを潰す? どうやって?」
「やだ、社長。笑わせないであげてください。おじいちゃん、本気みたいですよ」
「いいね、その顔。おい、カメラ。今のは取っとけ。回せ、回せ。『昭和の老害、最後の抵抗』ってテロップ入れとけ」
その時、扉が2度静かに叩かれた。入ってきたのは、濃紺のスーツに身を包んだ男だった。男は颯斗には目もくれずに新藤の前へ進み出ると、深々と腰を折った。
「お迎えに上がりました。会長」
「は? 会長? え、何? ドッキリ? そういう企画?」
「ちょっと、勝手に入らないでもらえます? これ、営業妨害で訴えられますけど」
「申し遅れました。寿司読みホールディングス、代表取締役社長、柏木と申します」
「寿司読み?」
タブレットを操作していた白鳥の指がぴたりと止まった。
「社長。寿司読みホールディングスって、うちの最大口の御名党です。全国500店舗。当社との年間取引額は600億。当社の水産部門の柱です」
「で、その寿司読みの社長様が、なんでこのじじいに頭下げてんの? え、この人が会長? 嘘でしょ? その前掛けで?」
「そ、そうですよ。検索しても、寿司読みの創業者の顔写真なんて、どこにも出てこないんですけど」
「当然です。会長は表舞台に出ない主義ですので。名前より魚と手で語るお方だ」
柏木は一通の書面をテーブルの上に静かに置いた。
「本日付けで、当グループ系列500店舗との全契約を解除いたします」
「は、ちょ、ちょっと待って。なんで、あんたのとこの会長様が、こんなボロ、あ、こんな小さな寿司屋の店に」
「逆ですよ。この小さな寿司屋が、全ての始まりなんです。50年前、門前仲町の一軒の寿司屋から、弟子の暖簾分けを重ねて500の店になった。札幌の寿司処、名古屋の寿司処、博多の小水寿司。屋号は違えど、全て当グループの暖簾です」
「う、嘘だろ? それ、全部うちの大口の」
「その本店が、寿司処 新藤。そして、目の前にいらっしゃるのが、当グループ創業者にして名誉会長、新藤です」
「そ、そんな話、聞いてないぞ。取引先のどこにも」
「ええ。しかし、先代会長はご存知でしたよ。だから、新藤だけは50年前のまま、個人の自社取引で大切に扱っておられた。お父様の引き継ぎ資料をお読みにならなかったのですか?」
「うっ」
「芹澤さん、あんた、朝礼で言ってるそうですな。『数字にならない付き合いは切る。それが経営です』と。なら、これも経営だ。数字で申し上げましょう。年間600億。あんたが今、ご自分で切った数字ですよ」
「ま、待て、待ってくれ。あんたが会長だなんて、知らなかったんだ」
「知ってたら、頭を下げたか?」
「あっ」
「その言葉が一番いかん。相手が誰であっても、変わらんのが商いの誠実さでしょうが」
「うわ、分かった。話し合おう。せめて、違約金の相談を。段階的な解除とか、あるでしょう。普通」
「契約書の第12条をご覧ください。品質表示に偽りが認められた場合、即時解除。違約金は当社負担。当社のホームが作った、当社の刃ですよ」
「偽装って、何の話?」
柏木は2枚目の書面をテーブルに置いた。
「当社宛ての検体を第三者機関でDNA鑑定を行いました。国産表示で、中身は輸入。さらに市場・漁港の出荷と突合したところ、当社が国産として販売した数量は、実際の国内仕入れ量を3割以上超過しています」
「な、偽装? それも組織的な」
「しょ、証拠は? そんなの、ラベルの張り間違いかもしれないじゃないですか」
「張り替えられたラベルの現物と、納品書の控えは、こちらの林さんが全て保管しておられました」
「何かの間違いであって欲しいと、ずっと思っていました。でも、違いました。そして、先ほどの『最適化』の。安い魚に高い名札をつけるのが経営でしたか」
あの一部始終は、柏木は部屋の隅で唖然としている撮影クルーへちらりと視線を送った。
「当社が依頼したそちらのカメラに収まっています」
「え?」
颯斗が振り返ると、ディレクターが震える手で小さく頷いた。
「カメラは回しっぱなしでした。契約上、収録データの管理は、その制作会社側に」
「消せ。今すぐ消せ」
「証拠隠滅のご指示、いただきました。それも今、回っていますよ」
颯斗の顔から、見るみる色が引いていった。そっと後ずさり、扉へ向かおうとした白鳥の足が、柏木の声に縫い止められた。
「白鳥さん、どちらへ? 偽装の発注に、あなたの承認印が押されているのですが」
「わ、私は、言われた通りに」
「ええ。ですから、お二人並んでご説明いただくことになります。似合いですよ」
そこへ、颯斗の手の中のタブレットが鳴った。画面を見た白鳥が小さく悲鳴をあげる。
「し、社長。先代会長からメッセージが。お父様から」
白鳥は震える声でそれを読み上げた。
「今、病室で全てを聞いた。その方に頭を下げろ。お前はまだ、商いを知らん」
「親父。あんたまで」
「いい親父さんだ。あんたには、もったいないくらいに」
3日後、王勢フーズの大会議室では、緊急の取引先説明会が開かれていた。会場には取引先が詰めかけ、業界紙の記者たちもカメラを構えている。壇上に立つ颯斗の顔に、いつもの余裕はもうなかった。
「え、この度は、一部で報じられました品質管理上の、その、行き違いにつきまして」
「行き違い? 産地偽装でしょう。DNA鑑定の結果が出ていますよ」
「寿司読みホールディングスが、500店舗規模で契約解除に踏み切ったというのは事実ですか?」
「白鳥室長にも伺います。偽装ラベル発注の承認印について、ご説明を」
壇の袖に控えていた白鳥は、顔を伏せたまま一言も発しなかった。
「そ、それは、一部の報道に基づくもので」
その時、会場後方の扉が開き、柏木が新藤と千夏を伴って入場した。ざわめきが波のように広がっていく。
「おい、あれ? 寿司読みの柏木社長だ。隣の老人は、まさか噂の創業会長か」
「誤解がおありのようなので、では、事実をご覧に入れましょう」
スクリーンに検査報告書と出荷の突合表が映し出された。
「国産として販売された数量は、国内仕入れ量の1. 3倍。存在しない国産の魚を、3割売っていた計算になります。被害は当グループ500店舗にとどまりません。この会場の皆様のお店にも、同じ魚が届いています」
会場がどよめいた。
「じゃあ、うちの国産の看板も、ってことか」
「逆に、なんて説明すりゃいいんだ」
「うちは30年。あんたのとこ一本だったんだぞ」
「違う。あれは現場が勝手にやったことで、私は報告を受けていなかった」
その言葉を待っていたかのように、スクリーンの映像が切り替わった。相談室の颯斗が大写しになる。
「いい客はね、味なんかわかんないの。国産って字を食ってるだけだったら、安い魚に高い名札つけるのが経営ってもんでしょ。実際、原価率は業界最速。株主も銀行もニッコニコ。これが数字の力ってやつ」
会場が水を打ったように静まり返った。
「消せ。それを消せ」
「ご自分で雇われたクルーの映像だそうですね。社長、決断の瞬間は撮れましたか? もう1つ申し上げます。当社はこの1年、昔からの小口取引先を次々と切り捨ててこられた。値上げを飲めなければおろし停止。飲めば偽装品を掴まされる。我々の調べで、廃業に追い込まれた店は37件に上ります。日本橋で80年続いた川魚屋、月島の佃煮屋、神田の蕎麦屋。いずれも先代会長の時代からのお得意様でした。本日は、その次に切られる番だった方にお越しいただいています」
千夏が静かにマイクの前に立った。
「父の時代から寿司をやっております、はせと申します。芹澤社長、あなたは私に何度もおっしゃいましたね。『それ、感情の話ですよね』と。違います。魚を偽らないこと、約束した魚を届けること。それは感情の話ではなく、商いの一番最初の約束です。父は倒れた朝も、オタクの納品を待っていました。まな板の前で包丁を握ったまま倒れて。それでも、最後まで魚を信じてました。あなたに切られた37件は、みんなその約束を守っていた店です。父の時代から続くうちの暖簾は、あなたの伝票じゃ測れません」
会場のどこからか拍手が起きた。1つまた1つと重なり、やがて会場全体を包んでいった。
「はせさん、王勢フーズに今、何を求めますか?」
「何も特別なことは。全量の魚を、全量の価格で売ってほしい。それだけです。商売って、本当はそれだけのことの積み重ねのはずなんです」
「新藤会長、一言いただけますか? なぜ今回、ご自身で動かれたのですか?」
「大したことじゃありませんよ。私は50年前、親父にこう教わりました。魚を運ぶ手を粗末にする店に、いい寿司は握れんと。魚を取る手、運ぶ手、握る手。商いというのは、その手と手の間を信用が流れていくことです。その流れの一番先で、この人はたった1人、6席のカウンターでその信用を守ろうとしていた。なら、年寄りが一肌脱ぐのに、それ以上の理由がいりますかな?」
「会長は、なぜ今も毎朝ご自身で市場に立たれるのですか?」
「そりゃあ、魚の顔と人の顔は、画面じゃ見えんからですよ」
会場に小さな笑いと大きな拍手が重なった。
その夜のうちに、報道は業界を駆け巡った。大口先の解約が相次ぎ、取引先の見直しを通告し、王勢フーズが3代かけて積み上げてきた信用は、音を立てて崩れていった。
それから1週間、王勢フーズを巡る知らせは嵐のように業界を駆け抜けていった。臨時取締役会は、颯斗の社長解任を全会一致で決議した。産地偽装の損害賠償は取引全体で数十億に上り、株主は代表訴訟の構えを見せ、個人資産の差し押さえが次々と進んでいく。真っ先に消えたのは、湾岸のタワーマンションと、磨き上げた会社の両腕で光っていた時計だった。皮肉なことに、手札のついたものから順に、あの男の元を去っていった。数十万人のフォロワーを誇った「若き改革者」のアカウントは、炎上の果てに沈黙した。動画は全て削除されたが、「客は字を食ってるだけ」と語る切り抜きだけは、今も拡散され続けている。
「頼む。誰か出てくれ。おい、昨日まであんなにすり寄ってきたじゃないか」
ガランとした社長室で、私物のダンボールを抱えた男の電話に応じる者は、もう1人もいなかった。数字で繋いだ付き合いは、数字が消えた瞬間に、跡形もなく消えていた。
一方の白鳥麗奈は、偽装隠蔽への関与が明るみに出て、懲戒解雇となった。大人関係と抜擢の経緯は週刊誌の見出しを飾り、華やかな業界に彼女の席はもう残っていなかった。ブランドのバッグを1つ、また1つと手放しながら、面接に落ち続ける日々。
「うちは経歴より人柄で取る店なんですよ。正直、すでにあなたのことは業界では広まっています」
「どうか、お取引を」
かつて自分が振りかざした言葉だけが、今は彼女自身の背中に深く刺さっていた。
「大将、王勢の経営は当面、先代会長が采配を振るそうです。社員に罪はありませんから、うちも段階を踏んで取引を戻します」
「ああ、それでいい。潰すのが目的じゃない。できないように戻すのが目的だ」
その日の夕暮れ、店の前に新藤の前に1台のタクシーが止まった。降りてきたのは、見る影もなく憔悴した颯斗だった。
「新藤会長」
颯斗はガラス戸の前の路上に膝をつき、額を地面にすりつけた。
「お願いします。もう1度、もう1度だけチャンスをください。会社が、何もかもが」
「頭を上げなさい」
颯斗は顔を上げた。
「麗奈も、白鳥も消えました。俺が全部失った途端、荷物をまとめて。会社も、家も、女も、全部」
「そうか。それがあんたの積んできた、数字の付き合いの正体だよ」
「知らなかったんです。あんたがあんな大物だなんて、知ってたら俺はあんなことを」
「芹澤さん、それが一番いかんと言ったはずだ。『知らなかった』ではすまん。あんたにはな、機会が毎朝あったんだよ」
「え?」
「千夏ちゃんが産地証明を求めた朝。社員が昔からの店を守ろうとした朝。あんたの親父さんの引き継ぎ資料が机の上に置かれていた朝。その全部を、あんたは靴で踏みつけてきた。あんたは値札のついたものしか見てこなかった。だが、商いを支えているのは、値札のつかんもの。人の信用と誠実さです。それを踏みつけてきたあんたの元に、魚も人ももう集まらん」
「うっ。俺は、どうすれば?」
颯斗は路上に手をついたまま、声を殺して肩を震わせた。新藤はその姿をしばらく見下ろし、静かに告げた。
「償いを済ませて、いつか自分の手で1からやり直しなさい。魚を運ぶ側の一番下からだ。かじかむ手で箱を掴んでみれば分かる。あんたが『コスト』と呼んだものの中に、どれだけの人の朝があったか。あんたの親父さんの見舞いには、私が行く。三代目の話をしに行くよ」
「はい」
その夜、新藤は父の位牌の前に静かに座っていた。傍らには加代が寄り添っている。
「親父。あんたは言ったな。『一軒を守り抜くのが商いだ』と。俺が店を増やすと言った時、あんたは最後まで首を縦に振らなかった。納得もできんまま、あんたは言った。俺はずっと詫び切れずにいたよ」
「あなた」
「だがなあ、親父。俺は店を増やしたかったんじゃない。守りたかったんだ。魚を取る手も、運ぶ手も、握る手も。一軒の店じゃ守りきれんものを、500の暖簾で守ろうとした。あんたの言葉を破ったんじゃない。あんたの言葉を、俺なりに大きく握っただけなんだ。『魚を運ぶ手を粗末にする店に、うまい寿司は握れん』。あんたの一言が、500の店の看板の裏に書いてある。全部の店にだ」
「親父。知ってました。あなたが仕事場で吠えたのは、50年で2度だけ。お父さんと喧嘩した時と、今度のこの件。どちらも、誰かの暖簾を守るためだった。お父さん、きっと、当に分かってらっしゃいますよ」
「そうかい。だといいがな」
加代が差した位牌の父は、今日はどこか笑っているように見えた。
「さあ、明日も早いんでしょう。市場」
「ああ。千夏ちゃんに、アジの目利きを教える約束だ。忙しくなるぞ、加代」
「ふふ。結構なことじゃないの。お弁当、2つ作りましょうね」
昭和から動き続ける振り子時計が、静かな夜に刻む音を刻んでいた。
季節が1つ巡った頃、寿司処の店先には、夕方からの暖簾を待つ客の列ができるようになっていた。そしてその夜、店の後の新藤のカウンターには、千夏と加代、柏木の姿があった。今夜ばかりは、握るのは千夏である。
「ど、どうぞ。中トロです」
新藤は一巻を口に運び、ゆっくりと目を閉じた。
「酢飯の締まりが柔らかく光り、人肌の酢がネタの油と1つにほぐれていく。酢飯の温度、ネタの角、酢飯の甘み。先代の味に、若さが1つ乗ってる」
「ありがとうございます」
「大将がそこまで言うのは、私以来ですよ」
「最も、私が褒められたのは握りじゃなく、帳簿でしたが」
「ふふ。千夏ちゃん、お父様の言葉、本当だったわね」
「はい。お父さん。誠実な商いは、本当に報われたよ。それで、あの、私、春から弟子を取ることにしたんです。市場で声をかけてきた、18の女の子です」
「ほう。いいじゃないか。あんたが受け取ったもんを、今度はあんたが渡す番だ」
「芹澤さんは言った。数字にならない付き合いは切ると。だがなあ。商いの目方は、伝票じゃなく人で測るんだ。値札のいらん付き合いだけが、最後まで残る。この年になって、それだけは断言できるよ」
その頃、地方の港町の倉庫では、作業着姿の颯斗が黙々と発泡スチロールの箱を仕分けていた。かじかむ手に息を吹きかけ、ふと箱の中の魚に目を落とす。その手が魚を扱う仕草は、以前よりほんの少しだけ丁寧になっていた。
数日後の夕暮れ、新藤の暖簾を車椅子の老人がくぐった。王勢フーズの先代会長だった。
「新藤さん。颯斗が、とんでもないことを」
「頭をあげてください。あんたと一杯やる約束、随分伸びちまいましたな」
「ああ」
「今夜の酒はうまい」
2つの猪口が小さくなった。カウンターの奥では、昭和から動き続ける振り子が、今日も変わらぬ音で時を刻んでいた。
そしてまた次の朝。夜明け前の豊洲の通路に、並んで魚を覗き込む2つの影があった。
「アジはなあ、腹の針より、目の澄み方だ。あんたの親父さんも、この場所で、とても澄んだ目をしてたよ」
「はい」
朝日の差し込む市場を、老いた目利きと若い二代目が、ゆっくりと歩いていく。受け継がれていくのは、魚の見方だけではなかった。
「誠実な商いは必ず報われる」
その言葉ごと、確かに次の手へ渡っていた。



