病院で一晩検査入院をした翌日のことでした。玄関を開けると、見覚えのない赤いパンプスが目に入りました。嫌な予感がして、ゆっくりとリビングへ向かいました。
そこには夫の達也と、私より二十歳ほど若い女性が、まるで夫婦のように並んで座っていました。そしてテーブルの上には、一枚の離婚届。
「何これ?」
達也は私を見るなり鼻で笑いました。
「お前、介護サボってただろ。もう離婚だよ」
言葉が出ませんでした。私が昨日倒れたのは、岐阜の義父に付き添っていた病院です。しかも七年間、休まずに続けた介護の末に。
それなのに、女性が立ち上がって私を見下すように笑いました。
「今日から私がお父さんのお世話をしますから。もう必要ないから、消えてね」
私は二人を見ました。怒りより先に、体の奥から力が抜けていくようでした。でも、私は静かに尋ねました。
「本当にあなたが介護してくれるのね」
女性は胸を張ります。
「介護くらい余裕でできますよ」
私はその言葉を、はっきりと覚えておくことにしました。
私の名前はみわ。六十二歳。夫の達也は六十五歳。結婚して四十年以上になります。息子の翔太は今年三十九歳で、妻の美咲さんと小学生の息子と暮らしています。
私が岐阜の正尾さんを介護することになったのは、七年前のこと。正尾さんが階段で転んで足を骨折したのが始まりでした。退院後も一人では危ない。家族で相談した結果、うちで引き取ることになりました。
もっとも、相談と呼べるようなものではありませんでした。達也の姉たちは「うちは無理。仕事があるから」と言い、最後に達也が言いました。
「うちは美和がいるから」
それだけで決まりました。私は専業主婦だったため、できないとは言いづらかったのです。
最初の頃、義父の正尾さんは一人で立つことさえ難しく、夜中にも何度も呼ばれました。
「みわ子さん、午前一時にトイレに行きたい」
「二時半、水をくれ」
「明け方、ちょっと起こしてくれ」
私はリビングのソファーで寝ました。二階の寝室では声が聞こえないからです。一度だけ達也に頼みました。
「交代で寝ない?」
すると即答でした。
「俺は仕事がある」
「でも、私も昼間家にいるだろう」
それで終わりでした。
昼間は昼間で、することが山ほどありました。血圧を考えた食事、薬の管理、洗濯に入浴の介助から病院への送迎まで。正尾さんは体格の大きな人で、お風呂に入れるだけで腰が悲鳴をあげました。
ある日、仕事帰りの達也が言いました。
「お父さんの肌着を買ってきてくれない?」
私は靴を履きながら言いました。
「そんなの自分で行けばいいでしょ。今日は病院にも行かなくちゃいけないの」
「俺は働いてるんだぞ」
そう言って出ていきました。聞いていた正尾さんは黙って俯きました。
正尾さんは昭和気質の人でした。嫁が家のことをするのは当然。最初はそんな考えの人だったと思います。ありがとう、の一言もなかなかありませんでした。
でも一年ほど経った頃、食事を終えた正尾さんがぽつりと言いました。
「みわ子さん」
「はい」
「すまなかったな」
たったそれだけ。私は思わず台所で泣きました。それでまた頑張れてしまったのです。
ところが骨折が治った頃から、今度は認知症の症状が出始めました。同じことを何度も聞くようになり、財布を探す。そして夜中に外へ出ようとする。
ある朝は、会社へ行くと言って玄関を開けようとしました。
「お父さん、もう会社はやめたでしょ」
そう言うと、正尾さんは困った顔をします。
「しばらくしたら、じゃあ母さんを迎えに行かなくちゃ」
義母はもう何年も前に亡くなっています。否定すると余計に混乱しました。だから私は「じゃあ、少し散歩してから行きましょう」と言って、一緒に家の周りを歩きました。
毎日毎日、そんな生活が続きました。
それなのに達也は、退職しても変わりませんでした。昼間から寝てはテレビを見る。私が「一時間だけでいいから、朝を変わって」と頼んでも。
「俺に押し付けるの」
その言葉を聞いた時、何かが切れそうになりました。でも目の前には正尾さんがいる。私はまた我慢しました。
気づけば毎朝四時起き。夜も熟睡できません。ドアが鳴った気がする。正尾さんに呼ばれた気がする。夢の中でも私は介護をしていました。
髪が抜け始めたのは、介護六年目。病院では「過労と強いストレスでしょう」と言われました。達也に話すと、
「年のせいだろう」
それだけ。
私は最後にもう一度頼みました。
「週に一日だけでも助けて。このままだと本当に倒れる」
達也はテレビから目も離しません。
「大げさなんだよ」
そして七年目、私は本当に倒れました。
正尾さんを病院へ連れて行った日。待合室には椅子が一つしか空いていませんでした。私は正尾さんを座らせ、横に立っていました。少し目の前が暗くなった。そう思った次の瞬間、記憶がありません。
目を覚ますと、私は病院のベッドにいました。幸い大きな病気ではありませんでしたが、医師からは一日休むように言われました。念のため達也へ電話をしました。
「私、倒れたの」
すると。
「親父はどうしたんだよ」
数秒の沈黙。そして達也が言いました。
「じゃあ俺の飯は」
私は目を閉じました。
「自分で何とかして。それよりお父さんを迎えに来て」
電話を切った後、涙が出ました。
でもその夜、私は七年ぶりに朝まで眠りました。途中、一度も起きませんでした。翌朝、窓から入る光を見ながら思いました。
私、こんなに疲れていたんだ。
帰ったら、今度こそ介護サービスを使おう。翔太にも手伝わせよう。姉さんたちにも相談しよう。
そう思って帰宅した私を待っていたのが、冒頭の二人でした。
夫の隣に寄り添う女性の名前はゆかり。達也とは五年前から関係があったそうです。
「一日いなくなっただけで、家の中が大変だったんだよ。ゆかりが助けてくれた」
私は思わず聞き返しました。
「だから離婚?」
「そうだ」
「七年間、私が一人でやったのよ」
「もう終わった話だ」
ゆかりも笑いました。
「今日から私がやるんだから、いいじゃないですか」
そして離婚届を私の前へ滑らせます。
「早く書いて」
私はペンを取りました。震えていました。悲しかった。悔しかった。でも、名前を書き終える頃には、不思議なくらい心が静かでした。
それを確認すると、達也は嬉しそうに離婚届を受け取りました。
「荷物を取ってくるわ」
「必要ない」
「え?」
「俺の金で買ったものばかりだ」
ゆかりが台所からゴミ袋を持ってきました。
「これに入る分だけにしたら?」
私は歯ブラシ、下着、数枚の服。それだけを黒いゴミ袋へ入れました。七年間介護した家から、私はゴミ袋一つで追い出されたのです。反論する気力もありませんでした。
外は寒い夜でした。行く場所もありません。しばらく歩いて、ファミリーレストランへ入りました。温かい飲み物を一つだけ注文し、翔太へ電話しました。
「もしもし」
「母さん?」
「ごめんね……家を追い出されちゃった」
声が震えました。数秒後、翔太は言いました。
「今どこ?」
「え?」
「迎えに行く」
会話はそれだけでした。
一時間後、車から降りてきた翔太は、私のゴミ袋を見た瞬間、顔を歪めました。
「父さんが、これを」
私は頷きました。翔太は私を抱きしめました。
「母さん、今まで本当にお疲れ様」
その一言で、私は声をあげて泣きました。
翌日、翔太は業者と一緒に元の家へ行きました。洗濯機、テレビ、私のアクセサリー。私名義のものや、翔太が私へ送ったものを全て引き取りました。洗濯機を運び出す時、ゆかりが叫んだそうです。
「ちょっと、介護の洗濯どうするのよ?」
翔太は答えました。
「昨日、介護くらいできるって言ったんですよね」
その日から翔太は、父親とも距離を置きました。
私は息子夫婦の家に少しだけ世話になり、三週間後、アパートを借りました。
引っ越し初日の夜、私は目覚ましをかけませんでした。朝目が覚めたのは八時。私は時計を見て慌てて飛び起きました。
「お父さん、ご飯を……」
立ち上がってから気づきました。誰もいない。静かでした。
そうだった。
私はもう一度布団へ戻りました。そして笑いました。
その後は、自分のために料理をしました。柔らかさも塩分も食べる時間も気にしない。少し歯ごたえのある野菜。しっかり火の通った肉に、自分が好きな味。こんな当たり前のことが、嬉しくて仕方ありませんでした。
それから数ヶ月後、正尾さんが心配だと親戚から連絡が入りました。訪問介護の職員が異変に気づいたそうです。食事が十分ではない。着替えもされていない。ゆかりは、思っていた以上に介護が大変だと知ると、ほとんど手を出さなくなっていました。達也も同じでした。
結局、正尾さんは親戚と相談し、介護施設へ移ることになりました。
私は一度だけ会いに行きました。認知症はかなり進んでいました。正尾さんは私を見ても反応しません。
「お父さん」
私は笑いました。
「みわ子です」
正尾さんは首をかしげました。覚えていない。そう思った時、声が聞こえました。
「……みわ子さん、かな」
確かに聞こえた。私は息を飲みました。正尾さんは震える手を伸ばしました。
「長いこと……すまなかったな」
私はその手を握りました。
「もういいんですよ」
七年間。長い長い七年間。報われなかったと思っていた時間が、その一言で少しだけ救われました。
達也とゆかりには、弁護士を通じて慰謝料を請求しました。二人がその後どうなったのか、私はもう詳しく知りません。
ただ、数年後。達也から電話がありました。病気で倒れ、介護が必要になったそうです。
「みわ子、戻ってきてくれないか」
私は黙りました。
「俺の世話をしてくれたら、また家に住まわせてやる」
私は思わず笑いました。
「達也さん、もう飲んだでしょ。あの日、あなた何て言ったか覚えてる?」
私は静かに言いました。
「介護をサボる女はいらない。そう言ったのはあなたでしょ」
そして電話を切りました。
今の私は、朝まで眠れます。好きな時間に起きて、自分のために少し濃いお茶を入れます。七年間、私は誰かを支えることばかり考えていました。
でも今は違います。家族を大切にすることと、自分を壊すことは同じではありません。私はようやく、自分の人生まで介護する必要はないのだと気づくことができました。



