娘の結婚式の日、私はいつもの服装で式場にいた。トイレ掃除のパートの制服ではなく、普段着のまま。それは娘の希望でもあった。
「母さんはそのままでいて。何も着飾らなくていいから」
まゆはそう言ってくれた。けれど、その優しさを長男の嫁であるれ子は笑った。
式の途中、親族の前でれ子は私を見て鼻で笑った。
「ワンルームで年金暮らしの一人ぼっち。貧しくて惨めな人生ですね」
大勢の親族がいる前だった。隣に座っていたまゆと新婿の優太さんが怒った顔で立ち上がろうとした。私は二人を目で制した。今日は大切な娘の晴れの日だ。この人のために結婚式を壊したくなかった。
私は笑顔を作り、黙って頭を下げた。その時、ふと長男の直と目が合った。助けを求めたつもりはない。ただ一言、「そんな言い方はやめろ」と言ってくれるだけでよかった。けれど直は私から目をそらした。
私の名前は奥田佳子、六十五歳。夫と結婚してから四十年近く、二人の子供を育てながら専業主婦として家族を支えてきた。長男の直は幼い頃、咳の発作がひどい子だった。夜中に何度もむせて起きるので、私は眠らずに背中をさすった。下の娘のまゆには卵と小麦のアレルギーがあった。食品の表示を一つずつ確認し、毎日の食事を手作りした。
母親なのだから当然だと思っていた。家族を守るのが私の役目。そう信じて、自分のことは後回しにしてきた。
子供たちが独立し、ようやく夫婦二人で静かに暮らせると思った矢先、夫は散歩の途中で倒れた。そのまま帰らぬ人となった。あっけないほど静かな最期だった。
夫が亡くなって一年ほど過ぎた頃、直が結婚すると言った。相手はれ子という女性だった。挨拶に来た日、直が何気なく口にした。
「結婚した後も母さんと一緒に住むのもいいかなって」
その瞬間、れ子の顔が明らかに曇った。彼女は直の袖を引いて、小さな声で言った。
「二人で話し合ったからにしようよ」
私は聞こえないふりをして微笑んだ。無理に同居しても、誰も幸せにはならない。
ところが半年後、夫と暮らした家が火事になった。仏壇のロウソクが原因だった。幸い怪我人はいなかったが、思い出の詰まった家は住めない状態になった。直夫婦は車で十五分ほどの場所に新居を構えた。私は駅から少し離れたワンルームのアパートを借りた。六十五歳にして初めての一人暮らしだった。
最初は心細く感じたが、狭い部屋は掃除が楽だった。東向きの窓からは朝日が入り、小さな台所でも一人分の食事を作るには十分だった。夫とデパートで買ったカップに好みのお茶を入れる。夜には夫の写真に話しかけた。
「今日も無事に終わったわよ」
豪華なものは何もない。それでも、誰にも気を使わずに過ごせるこの部屋を、私は少しずつ好きになっていった。
ところがれ子は、そんな私の暮らしを笑った。
「近くまで来たから寄ってあげました」
そう言って突然やってきては部屋の中を見回す。
「本当に狭いですね。この布団、随分薄くないですか? 炊飯器も古いでしょう。昭和から使ってるんですか?」
断りもなく押し入れを開け、台所の棚まで覗き込んだ。ある日、夫との思い出のカップを見たれ子は小さく笑った。
「この部屋にそのブランドのカップは不釣り合いですよ」
胸の奥が痛んだ。カップそのものを笑われたのではなかった。夫と過ごした時間まで見下されたように感じたのだ。
私は直に電話をした。
「れ子さんが何度も突然来るの。部屋のことや持ち物を笑われるのが少し辛くてね」
直は困った声で答えた。
「悪気はないと思うよ。ああいう性格なんだ。俺が注意すると大喧嘩になるからさ。母さんが少し我慢してくれないかな」
その言葉に、私は何も返せなかった。幼い頃に発作を起こすたび、私は何度も眠れない夜を過ごした。けれど今の直は、妻と争いたくないという理由で私に我慢を求めている。
それから私は、れ子が来そうな時間になると用もないのに外へ出るようになった。チャイムが鳴っても息を潜めて留守のふりをした。自分の城だったはずの部屋で、なぜ私が隠れなければならないのか。
そんな頃、海外でカメラマンとして働いていたまゆが、結婚したい人を連れて帰国した。優太さんは映像関係の仕事をしている穏やかな人だった。私の部屋へ入るなり、明るい声で言った。
「落ち着く部屋ですね。物が綺麗に整っていて、佳子さんらしさが伝わります」
まゆも窓際の植物を見ながら笑った。
「お母さん、ここで暮らし始めてから表情が柔らかくなったね」
二人の言葉が胸に染みた。
その時、またれ子が突然やってきた。
「近くまで来たから寄ってあげました」
まゆたちがいることを知っても、れ子の態度は変わらなかった。部屋を見回しながら言った。
「何回来ても狭いですね。息が詰まりそう」
さらに、夫との思い出のカップを指さした。
「まだこれを使ってるんですか? まあ、その人の品格が出ますよね」
すると優太さんが穏やかに答えた。
「そうですね。この部屋を見ると、お母さんが物を大切にして丁寧に暮らしていることがわかります」
まゆも続けた。
「私はこの部屋が好き。お父さんとの思い出も、お母さんが自分で選んだ暮らしも、全部大切なものだから」
れ子は一瞬黙ったが、すぐに鼻で笑った。
「貧しい暮らしを楽しめるなんて、ある意味才能ですね」
そのまま帰って行った。
ドアが閉まると、まゆが私の手を握った。
「お母さん、ずっとあんなことを言われてたの?」
私は笑ってごまかそうとしたけれど、まゆの顔を見ていると涙がこぼれた。
「もう家にいるのが怖いの。またチャイムが鳴るんじゃないかって考えてしまうのよ」
まゆは少し考えてから言った。
「それなら外に居場所を作ってみない? お母さん、昔から掃除が得意だったでしょ?」
優太さんも頷いた。
「短い時間の仕事でも、生活のリズムが変わると思います」
私は近くのショッピングモールで午前中だけの清掃員として働き始めた。制服を着て働くのは六十五歳にして初めてだった。床を磨き、手洗い場を拭き、トイレットペーパーや備品を補充する。体力は使う。それでも、汚れていた場所が綺麗になると心まで整っていくようだった。
利用者から「いつも綺麗にしてくれてありがとう」と言われた日は嬉しくて仕方がなかった。誰かのためにすることは苦痛ではない。感謝されるためでもない。自分のしたことが誰かの安心につながっている。その実感が私に誇りを与えてくれた。
働き始めて間もない頃、清掃中にれ子と出くわした。彼女は制服姿の私を見ると目を丸くした。
「まさかここでトイレ掃除をしてるんですか?」
そして声を潜めて笑いながら言った。
「年金暮らしの次はトイレ掃除のおばあさんですか? 知り合いに見られたら私まで恥ずかしいです」
私は悔しくてその場では何も言えなかった。けれどれ子が去った後、鏡に映った自分を見た。制服は綺麗に整っている。私は誰にも迷惑をかけず、自分で選んだ仕事をしている。恥ずかしいことなど何一つない。
「私は私の仕事をしている」
そう口にすると、少しだけ背筋が伸びた。
その夜、まゆから電話があった。
「お母さん、私たちと一緒に暮らさない?」
まゆと優太さんは結婚後に郊外へ平屋を建てる予定だった。でも新婚の二人に迷惑だろう。
「迷惑なら頼まないよ」
まゆは笑った。優太さんも言った。
「僕は両親を早くに亡くしているので、お母さんが一緒にいてくれたら家族が増えるみたいで嬉しいです。それにお母さんの作るご飯をまゆと一緒に食べたいです」
「かわいそうだから引き取る」でも「老後が心配だから仕方なく暮らす」でもなかった。ただ自然に、一緒に家族になりたいと言ってくれている。私は二人の申し出を受け入れた。
新居は三人で話し合いながら作った。玄関の近くに私の部屋を置き、夜でも安心して移動できるようトイレまでの廊下に手すりをつける。台所はまゆと並んで料理ができる広さにした。大きな窓のあるリビングと、花を育てられる小さな庭。私も火災保険と夫が残してくれた貯金の一部を出した。まゆたちは一度断ったけれど、私は言った。
「住ませてもらうのではなく、私もこの家を作る家族になりたいの」
そうして三人の家が完成した。
そして、娘の結婚式。れ子は私が同じドレスを着ていることや、清掃の仕事をしていることを大勢の前で笑った。
「孤独で貧しくて惨めな人生ですね」
私は言い返さなかった。もうすぐ自分を大切にしてくれる人たちとの生活が始まると分かっていたからだ。
結婚式から一ヶ月後、新居へ移った私たちは直夫婦を招待した。玄関から入ってきたれ子は明るいリビングを見回した。南向きの大きな窓、木の香りが残る床、庭に続く小さなテラス。そしてキッチンに立つ私を見て目を見開いた。
「お母さん、どうしてここにいるんですか?」
「ここが私の家ですもの」
まゆが笑顔で家の中を案内した。
「ここがお母さんの部屋」
扉の向こうには私が選んだカーテンとベッドがあった。夫との思い出のカップも、窓辺の棚に飾ってある。
れ子はしばらく言葉を失っていた。やがて絞り出すように言った。
「どうしてまゆさんたちにはそこまでしてあげるんですか? 私たちには何もしてくれなかったのに」
私はれ子を見た。
「逆ですよ。まゆたちが私を家族として迎えてくれたの。お金があるから一緒に住んでもらえたわけではありません。この二人は私がワンルームに住んでいた時から、私の暮らしを大切にしてくれました」
れ子は唇を噛んだ。直が口を挟む。
「母さん、れ子も少し言い方が悪かっただけだよ。家族なんだから、これから仲良くすればいいだろう」
私は静かに首を横に振った。
「私が何度辛いと伝えても、あなたは悪気がないと言った。妻と喧嘩をしたくないから私に我慢しろと言った。何もしなかったあなたも、れ子さんと同じように私を傷つけていたのよ」
直は俯いた。私は二人へ告げた。
「あなたたちを憎みたいわけではありません。でももう、自分を見下す人と無理に家族を続けるつもりもありません。これからは必要以上に関わらないでください。私の家へ来る時は、必ず先に連絡してください」
れ子は何か言い返そうとしたが、優太さんが穏やかに言った。
「ここはお母さんが安心して暮らすための家です。その安心を壊す人を、無条件で迎えることはできません」
直夫婦は何も言えずに帰って行った。玄関の扉が閉まると、まゆが心配そうに私を見た。
「お母さん、大丈夫?」
私は庭に目を向けた。小さな花が風に揺れている。
「大丈夫よ。やっと自分で、誰と一緒にいたいかを決められたから」
私は今もショッピングモールの清掃を続けている。広い家に住めるようになったから仕事をやめる理由はない。制服に着替え、自分の手で場所を綺麗にし、誰かから「ありがとう」と言ってもらう。それは私が自分で見つけた大切な居場所だ。
ワンルームで一人暮らしをしていた日々も、決して惨めではなかった。小さな部屋で私は自分の時間を取り戻した。清掃の仕事で自分の役割を見つけた。そして新しい家では、私を大切にしてくれる家族と暮らしている。
幸せは家の広さや持っているお金では決まらない。自分の暮らしを自分で選び、自分を大切にしてくれる人と穏やかに笑って過ごすこと。六十五歳になって、私はようやく自分の人生を生き始めたのだ。



