「おい、さえ、いくら忘れっぽいからって、しっかりしろよ。」五年前に離婚した元夫のたくから、突然そんな電話がかかってきた。春の午後、私はベランダで洗濯物を干していたところだった。「何の話?」と聞き返すと、彼は「離婚しても、ちゃんと住宅ローンの支払いしろって話だよ」と言った。私は思わず笑ってしまった。五年間、一度も払っていないローンを、今さら請求されたのだ。「お前が忘れてるだけだろ。今回は許すけ…

「おい、さえ、いくら忘れっぽいからって、しっかりしろよ。」五年前に離婚した元夫のたくから、突然そんな電話がかかってきた。春の午後、私はベランダで洗濯物を干していたところだった。「何の話?」と聞き返すと、彼は「離婚しても、ちゃんと住宅ローンの支払いしろって話だよ」と言った。私は思わず笑ってしまった。五年間、一度も払っていないローンを、今さら請求されたのだ。「お前が忘れてるだけだろ。今回は許すけ...

「おい、さえ、いくら忘れっぽいからって、しっかりしろよ。」

突然かかってきた電話の声に、さえは眉をひそめた。元夫のたくからだった。

「何の話?」

「離婚しても、ちゃんと住宅ローンの支払いしろって話だよ。」

「は? 私たち、五年前に離婚したわよね。それに、この五年間、一度も払ったことなんてないわよ。」

「それは俺が、お前が払うのを待ってたんだよ。最初はうっかりかと思ったけど、お前の忘れっぽさを考えると、支払い自体を忘れてそうだなってな。」

「支払う義務があるとは思えないんだけど。」

「お前、離婚の時に書類にサインしただろ。あれで支払い義務が発生してるんだよ。」

「そんな話、離婚の時には聞いてなかったわよ。」

「お前が忘れてるだけだろ。今回は許すけど、忘れずにちゃんと振り込んどけよ。」

さえは仕方なく「分かったわ。一応確認はするけど」と答えて電話を切ったが、どうしても納得できなかった。五年前の離婚の時に、そんな取り決めがあっただろうか。確かに財産分与やら何やらで書類にはサインしたが、ローンの支払い義務が発生するという話は記憶にない。

「多分、あなたの勘違いよ。頭、大丈夫?」

さえはそう言い返したが、たくは「お前が何と言おうと義務は義務なんだよ。分かったら早く払え」と一方的にまくしたてて、電話を切った。

その日の午後、さえは隣の家の庭で植木の手入れをしているげんさんの姿を見かけて、声をかけた。

「げんさん、ちょっと聞いてもらってもいいですか?」

「おや、さえちゃん、どうしたんだい? 植木の剪定はさっき終わって、今お茶を飲んでるところだよ。こんな隣のおじいちゃんでよければ、話を聞くよ。」

「実は、元夫から住宅ローンの支払いを請求されてしまって。」

「ローン? そうなの? でも、この五年、一度も払ってないんだろう?」

「なのに、どうして今更なのかって話で。離婚の時に書類にサインした記憶はあるんだけど、それがローンの支払い義務だったかどうか、私も覚えてなくて。」

げんさんは優しくうなずいた。「確かに、いきなり支払い義務があるとか、書類にサインしたからと言われると不安になるね。」

「私も義務なんてないと思うけど、なんか自信がなくて。」

「ねえ、さえちゃん。離婚の時の書類、まだ持ってるかい?」

「探せばあると思います。」

「よければ、知り合いに弁護士や税理士がいるから、聞いてみるよ。専門家に聞いた方が早いし、その方が元旦那さんも納得してくれるだろう。」

「あ、でも、そんな、いいんですか?」

「困った時はお互い様だからね。じゃあ、任せて。」

げんさんは「それと、もし元旦那さんが怖いことを言ってきたら、スクショを取っておくんだよ。そういうのも後で使えるかもしれないからね」と付け加えた。さえは「使う?」と首をかしげたが、げんさんはただ「うん」と微笑むだけだった。

数時間後、またたくから電話がかかってきた。

「おい、さえ。さっき確認したけど、まだ振り込んでないよな。早くしてくれよ。困ってるんだ。」

「今、確認してるから、ちょっと待って。」

「確認? 何を確認してんだよ。お前が払う義務があるのは確定してるだろう。」

「でも、念のため弁護士さんに聞いてるの。」

「弁護士? お前、そんな金あるのかよ。」

「知り合いが紹介してくれたのよ。ちゃんと私に支払い義務があるって専門家が判断したら、その時は振り込むから。」

たくは「まあいい。とにかく早く頼むわ」とぶっきらぼうに言った。さえはふと気になって尋ねた。

「それにしても、困ってるってどういうこと? あなた、借金でもしたの?」

「なんだよ。いきなりお金が欲しいって言うから、そう思うのも無理ないけど、借金とかじゃねえよ。本当に。」

「じゃあ、なんでそんなにお金が必要なの?」

「ちょっと勉強代がかさんだんだよ。」

「勉強代? どういうこと?」

「セミナー代だよ。今、投資の勉強をしてるんだ。」

「セミナー? 投資の?」

「そうだよ。俺、今すごい先生に教わってるんだ。この先生についていけば、俺は成功できる。生徒の中には、億万長者になった人もいるんだぞ。」

さえはその話を聞いて背筋が寒くなった。

「ねえ、それってもしかして詐欺じゃない?」

「詐欺? ふざけんなよ。俺の先生を詐欺師呼ばわりするな。お前に何が分かるんだよ。」

「だって、見るからにおかしいじゃない。それに、セミナー代で生活が苦しくなるって、かなり高額だったってことよね。よくある話じゃない、そんなの。」

「それじゃあ、そのセミナー代、いくらしたのよ?」

「月十五万だよ。あと入会金とか、そんなのを含めるともっとだけど。」

「ああ、そんなに高くないのね。」

「だろ? 月十五万は安い方だ。」

「へ? 月十五万?」

「そうだよ。それくらいすごい人なんだ。」

「いや、それ絶対騙されてるわよ。」

「そんなわけない。お前みたいな平凡な人間には分からないんだよ。俺は成功するんだ。お前とは違うんだ。」

「ちょっと落ち着いて。とにかく、さっさと金を振り込め。今だからな。」

「今は何を言っても無駄みたいね。」

さえはがっくりと肩を落とした。次の日、彼女はげんさんに相談した。

「げんさん、元夫なんですけど、もしかしたら詐欺に遭ってるかもしれないんです。」

「詐欺? それはまた物騒な話だね。」

「有名な先生から投資を学んでいるそうなんです。セミナー代に月十五万かけてるらしくて、それで今日中にローンを振り込めって。」

「十五万か。また絶妙な金額だね。」

「一応、詐欺かもしれないって言ったんですよ。でも、信じ込んでて。」

「うん。そういう人は本人が気づかないと難しいからね。ほとんど洗脳状態に近いから、詐欺かもしれないなんて言うと逆に怒り出すだろうね。ねえ、さえちゃん。たくさんは、セミナーの先生の名前とか言ってた?」

「聞いてなくて。ただ『すごい先生』としか。」

「そうか。先生の名前が分かれば、調べやすいのになあ。」

「調べるんですか?」

「いや、ちょっと気になってね。」

「まさか、げんさんも投資に興味が…」

「いやいや、ただのじじいの興味本位さ。」

その頃、たくはセミナーの先生から電話を受けていた。

「村田さん、例の件、どうなりました? 今月の振り込みが遅れてるので、気になってしまって。すみません、お金は何とか用意するので。」

「ああ、急かしてるとかじゃないんですよ。村田さんは熱心な生徒さんなので、このまま脱落するのはとてももったいないなって思ってるんです。僕個人の希望で申し訳ないんですけど。」

「そんな先生に期待されてるなんて、光栄ですよ。すみません。お金もすぐに用意できるはずだったのに。元嫁が確認中だって言ってて、弁護士にも相談してるとか何とか。」

「確認中…。それはまずいですね。」

「え? どういうことですか?」

「元さん、弁護士に相談してるんでしょう? 知り合いが紹介してくれたって言ってたけど、それですよ。弁護士を使って、支払い義務はないって主張するつもりなんですよ。」

「そんな、でも、ちゃんと契約したのに。」

「そうです。離婚してもローンは払う義務がある。それを元さんはあなたに押し付けるつもりなんですよ。だから言ったでしょ。女は平気で嘘をつくって。何もかも先生の言う通りだでしょ。」

「しかも、村田さん、もっとまずい状況になりましたね。」

「まずい状況?」

「もし元さんが支払い義務を放棄したら、違約金が発生するんですよ。」

「違約金? そんなのがあるんですか?」

「ええ、契約の違約金です。ほら、スポーツジムでも、安いプランで契約したけど、途中でやめたら後で請求されるって話、あるでしょう? それと同じです。」

「確かに、そういう話はよくありますよね。」

「だから、場合によっては、あなたにそのお金の請求が来るかも。それもかなりの額になります。下手したら、数千万円レベルですよ。」

「数千万…。そんな。俺はどうしたら。」

「だから、一度でも振り込ませることが重要なんですよ。一度でも振り込めば、支払い義務を認めたことになりますから。いいですか、村田さん。今日中に振り込ませてください。じゃないと、本当に逃げられますよ。そうなったら、村田さんが違約金を全額負担することになります。」

「分かりました。今すぐ連絡します。」

「頼みましたよ、村田さん。あなたの成功がかかってるんですから。」

三十分後、さえのスマホが鳴った。画面には、たくの名前と、怒りに満ちたメッセージが並んでいた。

「さえ、いい加減にしろよ。お前、支払い義務を放棄するつもりか?」

「放棄って…。私に義務があるのか確認してるだけなんだけど。」

「義務があるに決まってるだろう。それにお前の魂胆は分かってる。違約金を俺に押し付けるつもりだろう。」

「違約金? 何のこと?」

「契約を破棄したら、数百万円の違約金が発生するんだよ。お前、そんな金払えるのかよ。」

「そんな契約した覚えないんだけど。っていうか、本当に何の話?」

「先生が言ってたんだ。契約違反は違約金が発生するって。ローンだって、ちゃんとした契約だろ。」

「そうだけど…。あのさ、もし違約金が発生するとして、私、五年も払ってないのよ。もし発生してたら、とっくに請求されてるでしょ。」

「五年、猶予があるんだよ。けど、もう期限が近づいてる。ローン返済義務違反ってことで、違約金が請求されるんだ。先生の生徒に、それでものすごい請求が来た人がいたんだよ。」

「何よ、そのめちゃくちゃな説明。とにかく、今すぐ振り込め。これ以上待てない。」

「だから、今弁護士さんに確認してるから、もう少し待ってよ。」

「弁護士…。お前、俺を訴えるつもりか?」

「そうじゃなくて、ちゃんと確認したいだけ。」

「ふざけんな。お前が逃げようとしてるだけだろ。いいか、今日中に振り込まなかったら、お前が違約金全額負担だからな。」

さえは電話を切った後も、その言葉が頭から離れなかった。わけが分からない。たくはどうかしてしまったのだろうか。

翌日、げんさんがさえの家にやってきた。

「さえちゃん、弁護士から返事が来たよ。」

「どうだった?」

「大丈夫。さえちゃんにはローンの支払い義務はないって。離婚の時の書類にも、そんな記載はなかったってさ。」

「本当? よかった…。昨日、怖いメッセージが来て、心配だったの。」

「怖い?」

「うん。違約金がどうのこうのって。」

「それ、スクショ取ってるかい?」

「はい、これなんですけど。」

げんさんはスマホの画面をじっと見つめて、ため息をついた。「これはまたひどいなあ。多分だけど、セミナーの主かその関係者が、たくさんに変なことを吹き込んで、煽り立てたんだろうね。なんか言ってることも支離滅裂で、現実をちゃんと見られなくなってるよ。」

「たくさんが関わってるセミナー、やっぱり怪しいんですね。」

「でも、怖がらなくて大丈夫だよ。君は何も悪いことはしてないんだから。これで、はっきりした態度が取れるわ。」

翌日、さえはたくからの何通目の電話にもう一度出た。

「お前、いい加減にしろよ。やっぱり金を振り込まなかったな。お前に違約金を支払わせるから、覚悟しろ。」

「たく、弁護士さんに確認してもらったよ。私には一切、支払い義務はないってさ。」

「は? 何言ってんだよ。そんなわけないだろ。」

「離婚の書類にも、そんな記載はなかった。つまり、あなたが嘘をついてたってこと。それか、誰かから変なことを吹き込まれたか、ね。」

「嘘って…。俺は本当のことを…。」

「本当のこと? じゃあ、証拠を見せてよ。離婚時の書類のどこに、私がローンを払うって書いてあるの?」

「それは…でも、先生が…。」

「あなた、詐欺に遭ってるよ。その先生の言うことがそもそも間違いなの。」

「詐欺じゃない。俺の先生は本物だ。」

「本物? じゃあ聞くけど、そのセミナーで何か成果出た?」

「それは…これからだよ。」

「これから? もう何ヶ月も通ってるんでしょ? いくら使ったの? 軽く百万は使ってそうだよね。で、成果はゼロ。それ、詐欺だよ。」

「うるさい! そんなはずないんだ。」

「あっそう。それじゃあ現実的な話をしましょう。あのね、たく。私はあなたに騙されて、ありもしないローンを払うところだったんだけど。それって、詐欺未遂だよね。」

「詐欺って…俺は本気で…。」

「本気? 嘘をつくのが本気なの? あなた、私を騙してお金を取ろうとしたんでしょ? 違約金とか、ありもしない話でさ。」

「それは、先生が…。」

「いい加減、人のせいにするのやめたら。その先生とやらに騙されたとはいえ、私からお金を奪おうって考えたのは、あなたでしょ。もう、あなたには騙されない。これで最後にするね。もう二度と、私に連絡しないで。もし来たら、詐欺で警察に相談するから。」

「警察…。お前、そこまでするのかよ。」

「当たり前でしょ。あなた、私を騙して金を取ろうとしたんだから。今、あなたがやってること、詐欺師と同じだよ。いい加減、目を覚ましなよ。」

さえはそう言い放つと、電話を切った。

その翌日、とあるセミナー会場で、初老の男性が講師に話しかけていた。

「こんにちは。田中先生。本日はセミナーを受講させていただきました。とてもいいお話で、是非先生の教えをもっと聞きたいと思いまして、LINEを送らせていただきました。」

「おお、ありがとうございます。えっと、すみませんが、お名前を聞いても?」

「立花と申します。」

「ああ、覚えています。なんせ、最年長の方でしたから。人生の先輩に僕なんかが偉そうで、なんだか申し訳ないです。」

「いえいえ。とても勉強になりました。実は、もっと深く学びたいと思いまして。セミナーなどの案内は、どこを見ればよろしいのでしょうか?」

「それでしたら、僕が案内しますよ。立花さんのような意欲的な方、大歓迎ですから。」

「ああ、ありがとうございます。」

一週間後、二人は再び会っていた。

「今日も有意義なお話をありがとうございます。若い方の視点は、本当に大切ですね。」

「そう言っていただけて、よかったです。ちゃんとしたセミナーでしたら、もっと深い学びを提供しています。立花さんなら、きっとすごい成果を出しますよ。」

「こんな老いぼれに、そんなことを言っていただけるなんて。」

「こうして学ぼうとしているだけでも、あなたはそれだけで優れているんです。僕は常々、人が成果を出せる世界を望んでいました。僕はブラック企業に勤めていて、それで体を壊して働けなくなってしまったんです。高度成長期を支えてくださった方々には感謝していますが、身を粉にして働く時代はもう終わっているんですよね。」

「耳が痛い話ですな。僕みたいな思いをする人を減らしたくて、こうしてセミナーを開いたんです。僕自身、投資で救われていますし、立花さんだって、もう無理して働けないでしょう。」

「そうですね。老体ですから。」

「もうたくさん働いてくださった、立花さんのような世代の人にも、お金に困らない生活をしてほしいんです。なので、よければ本格的にセミナーに参加しませんか? 立花さんは意欲的なので、セミナー代は十万で構いません。」

「セミナー事項の時には、二十万と伺ったのですが。」

「こうして話しているうちに、僕も立花さんに成功してほしいと思うようになりまして。あ、他の受講者には秘密ですよ。僕が個人的に期待しているだけですので。」

その言葉を聞いて、立花と名乗った男性はふっと笑みを浮かべた。

「そうやって、個別に特別対応を取っているんですね。いやはや。あっぱれな手口だ。」

「何の話でしょうか?」

「田中さん、もういいですよ。はっきり言って、私は金には興味がありません。あなたに用事があるんです。」

「どういうことですか?」

「質問に質問を返して申し訳ないですが、あなた、村田拓さんという方をご存知ですよね。」

「村田? ああ、生徒の一人ですが、それが何か。」

「その村田さんが、元さんにお金を要求したんですよ。あなたの指示で。」

「指示? 何のことか、分かりませんね。確かに彼は僕の生徒ですが、僕はそんな詐欺染みたことはしていませんよ。失礼ですね。もういいですか? 入るつもりもない冷やかしなら、相手をする必要もないので。」

「そうですか。それは残念です。では、あなたが詐欺をしているという証拠を、全て警察に持っていくことにします。」

「詐欺の証拠? 何を言ってるんですか? そんなもの、捏造でしょう。」

「田中さん、往生際が悪いですね。ああ、田中という名前も偽でしょう。本名はもういい。あなたの活動拠点、被害者のリスト、過去の犯罪歴、あと大体の被害総額まで計算していますよ。」

「そ、そんなの、捏造ですよ!」

「田中さん。あなたには、二つの選択肢があります。一つ目は、今すぐこの詐欺を解散し、被害者全員に返金すること。二つ目は、この証拠を私が警察に提出すること。」

「返金って…。そんな金、あるわけない。」

「は言わせませんよ。あなたの資産、全て調べさせてもらいました。詐欺以外にも会社を経営していて、かなり資産をお持ちのようで。まあ、調べた上でできることはいくらでもありますからね。よろしければ、一つ教えて差し上げましょうか。金を積めば、大抵のことはできるんですよ。それこそ、法律に触れないギリギリのところまでね。まあ、今回はそんなことせずに済みましたよ。できれば、そんなことは私もしたくないですしね。」

「あ、分かりました。返します。」

「賢明な判断ですね。でも、これで終わりですよね?」

「いいえ。返金はスタートです。それと、警察には通報させてもらいます。」

「そんな! 約束が違う!」

「約束? 詐欺師が約束を語るんですか? 人を騙しておいて、自分だけ約束を守ってもらえる。そんな考えは、頭の足りないガキがすることですよ。あなたがやったこと、全て清算してもらいますよ。」

一ヶ月後、さえの元に、一通のメッセージが届いた。たくからだった。

「助けてくれ、さえ。俺、全部失ったんだ。先生は詐欺師で、金は一部戻ってきたけど、全部は戻ってこなかった。しかも、警察から俺まで詐欺容疑をかけられて。俺だって被害者なのに。」

さえは冷静に返信した。

「被害者? 確かにセミナーに関しては被害者ね。でも、私にとっては加害者だから。」

「は? 私に対して虚偽の請求をしたことは、詐欺未遂に当たる可能性があるって、そう警察に言われたんでしょう。」

「なんで、それは…。」

「だって、私も被害届を出したもの。証拠は、スクショで残していたしね。」

「そんな…お願いだ。待ってくれよ。俺は被害者なのに。なんでみんな、俺に同情してくれないんだよ。」

「そりゃ、しないでしょうね。あなた、お金を集めるために、同僚や後輩に無理やりセミナーを受講させようとしたんでしょ。」

「なんで、それを…。」

「私が、元あなたの同僚だって忘れてない? 会社の後輩に色々聞いたのよ。『最近、たくの様子がおかしいんだけど、会社でちゃんとやってる?』って。そしたら、出るわ出るわ。そりゃ、こうなったら信用を失うわよね。」

「そんな…そんなことって…。」

「さらに言うなら、私の被害届が受理されて、詐欺未遂って証明されたら、会社はあなたの首を切るでしょうね。ただでさえ、会社でも金銭トラブルを抱えてる社員だったんだから。」

「頼むよ、さえ。許してくれよ。」

「なんで許されると思ってるのよ。」

さえは、そこで言葉を止めた。それから、静かに、けれどはっきりと言った。

「あのさ、この際、本音を言うけど。契約書にサインしたからとか言って、なんであれで私からお金を巻き上げられると思ったの? 正直、ずっと『こいつ、頭大丈夫か』って思ってたわよ。契約書にサインしたとか何とか言われたから、一応心配にはなって、知り合いに確認してもらったけど。ローンを払うって言ってるのに、五年も経ってから請求されるのも意味分かんなすぎて怖かったし。頭のおかしい人を相手にするのは疲れるから、もうあなたとは関わらない。一生、私のいないところで苦しんでて。」

その一ヶ月後、さえはげんさんの家でお茶を飲んでいた。

「さえちゃん、あれからどうだい? たくさんから、連絡は?」

「全く来なくなったよ。それにしても、びっくりした。まさか、詐欺の先生が逮捕されるなんて。」

「本当だね。タイミングよく逮捕されたからいいけど、もし逮捕されてなかったら、大変だったね。」

「そうですね。おかげであいつも目が覚めたみたいですし。げんさんがいなかったら、怖くてお金を支払ってたかもしれません。本当に、ありがとうございました。」

「いいんだよ。困った時はお互い様だからね。これからも、よろしくね。」

「はい。こちらこそ。」

さえはうなずいて、それから少し躊躇いながら口を開いた。

「…と言いたいんですけど、げんさんって、本当は何者なんですか?」

「何者? ただのおじいさんだよ。」

「いや、それが、さっき新聞の小さな記事で、今回の件が出てたんです。」

「おや、さえちゃんは新聞を読むのかい?」

「両親が未だに取ってて。それで、その記事には『立花グループ元会長、詐欺団壊に貢献。立花元会長が警察に情報提供した』って書いてて。調べたら、顔写真がげんさんに似ていたような…。」

「あはは。それかい。よく言われるよ。え? 苗字も同じで、顔も似てるから、勘違いされてね。でも、考えてごらん。そんな偉い人が、こんな住宅街の平屋で植木をいじってるわけないじゃないか。」

「それは…確かに。」

「そりゃ、私だって、それなりに稼いではいたからね。贅沢とは言えないけど、今の生活が気に入ってるんだ。」

「そうだよね。…そうか。他人の空似か。」

「そうそう。私はただの隣人だよ。これからも、ずっとね。」

たくは、詐欺未遂の容疑で逮捕され、出所後は全てを失った。会社からは解雇され、同僚から借りていた金のトラブルで弁護士を挟むことになり、借金を返すために安いパートで暮らしを立てなければならなかった。日雇いで食いつなぐ、ギリギリの生活。かつては自分は特別で、成功して贅沢な暮らしができると信じていた彼は、詐欺師に騙され、自分も詐欺に手を染めてしまったことで完全に人間不信に陥り、病んでしまった。最終的には、病院送りになったという。

一方、さえは平穏な日常を取り戻した。隣のげんさんとは変わらず仲良く過ごし、毎日挨拶を交わす穏やかな日々。げんさんは今日も、いつものように縁側で植木をいじりながら、優しい笑顔を返してくれる。げんさんが何者なのか、さえは今も気になってはいるが、聞かなくてもいいことは世の中にたくさんある。さえは今のげんさんと、これからも仲良くしていきたいと思っている。

Thumbnail