「今日、俺が定年なのを忘れてねえよな。お疲れ様でした。愛想もないな。まあいい。単刀直入に言うぞ。離婚だ。」…

「今日、俺が定年なのを忘れてねえよな。お疲れ様でした。愛想もないな。まあいい。単刀直入に言うぞ。離婚だ。」...

今日、俺が定年なのを忘れてねえよな。お疲れ様でした。愛想もないな。まあいい。単刀直入に言うぞ。離婚だ。

はい。

三十年一緒に暮らして、もうお前には吐き気がしてるんだよ。顔も性格も貧乏臭いところも、お前の全てが大嫌いなんだ。

急にどうしたのよ。

今日まで私はあなたを支えてきたつもりよ。

支える?笑わせるな。毎日茶色い煮物ばかり食わせやがって。お前のせいで俺の人生はくすんでたんだよ。

それはあなたの血圧や健康を考えてのことよ。

うるせえ。その押し付けがましさが一番吐き気がするんだよ。俺は本来もっと華やかな男なんだ。お前みたいな底辺の味覚に合わせるのがマジで苦痛だったわ。

三十年もそんなふうに思ってたの?息子を育てて、やっとこれから二人でゆっくりできると思ってたのに。

お前と地獄かよ。俺はもうお前の筆跡で離婚届を出しておいた。

え?勝手に出したの?そんなの無効よ。

世間知らずは黙ってろ。受理された以上、今日から俺たちは他人なんだよ。

私はサインしてないわ。勝手に書いて出すのは確か犯罪じゃなかった?

お前が黙ってれば済む話だ。もし騒いだら一文無しで追い出してやるからな。

私にもいくらかもらう権利はあるはずよ。

退職金のことなら残念だったな。俺の退職金が出るのはまだ先の話だ。今日離婚が成立した以上、今後俺の口座に入る金についてお前には一円も権利がない。

はあ。

会社の後輩で司法試験を目指してたやつに聞いたから間違いないはずだ。

そんな。三十年一緒にいて、最後がこれなの?

お前との時間は人生の損失だった。これからは真実の愛に全力投資する。

ひどいこと言うのね。私の人生は何だったのよ。

知らねえよ。俺にとっては無駄な時間だったけどな。もっと早く捨てればよかったわ。

真実の愛ってことは、浮気相手がいるのね。

浮気じゃねえよ。本気だ。あの人は俺の才能を愛してくれてる。お前みたいな無能な家庭婦人とは違うんだよ。

珍しい名前ね。なんて読むの?

お前は教養もないんだな。まいさんだよ。二十九歳で独立してるんだぞ。すごいだろう。

そうね。すごいと思うわ。

お前みたいに年増じゃないし、若くて綺麗だ。

私だっておしゃれくらいするわよ。

嘘つけ。お前の服は全部セール品だろ。あの人は銀座でエステを経営してて、全身ハイブランドだぞ。お前じゃ俺の格が下がるんだよ。

そんな素敵な女性が、どうしてあなたと?

悔しくて言葉も出ないか。

別に、不思議なだけよ。

強がりやがって。どうせ今頃泣いてんだろう。

そうね。泣きそうだわ。

俺らはハワイに永住するつもりだ。

英語喋れないのに大丈夫?外国人が近づいてきたら逃げるくせに。

三ヶ月ありゃペラペラになるわ。

私はこれからどうしたらいいのよ。

ここは俺とあの人の新居にするから、すぐに出ていけ。

そんな急に言われても無理に決まってるでしょ。

預金に残ってる金は当面の生活費としてお前にくれてやる。

昨日銀行におろしに行ったばかりだけど、残金は八万しかないわよ。

遠慮せず受け取れ。

八万じゃ家も借りられないわ。

知るか。あとお前のカレー臭もちゃんと消して出ていけ。

私のはダメで、あなたのカレー臭はいいの?

うるせえ。俺は臭くないんだよ。

分かったわ。もう何を言っても無駄みたいね。じゃあ、このまま出ていくわね。

なんだその態度は。

別に、出ていけと言われたから出ていくだけじゃない。

捨てられて土下座しろよ。

いやよ。離婚届が出てるなら、今さら何をしても無駄でしょ。

可愛げのない女だ。最後まで俺をいらつかせるんだな。

あなたが望んだことに応じてるだけなのに、どうして怒られなきゃならないのよ。

お前に行く当てあんの?実家は弟が住んでて行くところないんだろ。

なんとかなるわ。

まともに仕事したこともないくせに、どうやって落ちぶれていくか見物だな。

心配してくれてるの?

してねえわ。ざまあみろって思ってんだよ。公園でダンボールハウスでも作って、鳩に餌でもやればいいじゃん。

うーん。それもありかもね。じゃあ、さようなら。

二度と顔を見せんな。鍵はポストに入れとけよ。

はい。

お前の財布に入ってる家族カードをハサミで切って捨てとけよ。

はい。

最後に一つ教えてやるよ。俺はお前のこと、一度も愛してなかったわ。

わざわざ言わなくていいのに。

これからはあの人と本当の愛を育んでいくから。お前は遠くから指を加えて見てろ。

じゃあ、もう連絡しないでね。

二度とするか。お前は一人で絶望して生きてけ。

数分後、彼女は親友の七江に電話をかけていた。

ねえ、今ちょっといいかしら?今、裁判が終わったところよ。

どうしたの?

忙しい弁護士先生に頼み事するのは申し訳ないんだけど、離婚することになったの。というか、されたみたいなの。

はい?どういうこと?

勝手に離婚届を出したんだって。私の筆跡を真似たとか言ってたわね。

あんたの旦那、アホなの?

一応悪いことだとは分かってるみたいよ。だから騒いだら財産分与はなしだって脅されたわ。

文書偽造しといて、よくもまあ。

そういう人なのよ。まあ、私も浮気されてまで一緒にいようとは思わないから、離婚することは別に構わないんだけど。

はあ?浮気までしてたの?

銀座のエステを経営してる人らしいわ。専業主婦三十年やってた私と比べたら、そりゃ魅力的でしょうけど。

ちょっと待って。私も銀座のエステに通ってるけど。まいさんって人とハワイに移住するって、随分と嬉しそうだったわ。

え?どうしたの?

いや、銀座でエステをやってて、近々ハワイに進出する。まい、って言ったら心当たりしかないんだけど。

知り合いなの?

私の行きつけのエステよ。

そうなの?こんな偶然があるのね。

感心してる場合じゃないわ。こういう時はどうしたらいいのかしら?

まずは事実確認よ。あんたの旦那が勝手に熱を上げてるだけかもしれないし。

ありえるわね。退職金も独り占めするって言ってるし。

本当にあんたの旦那、アホねえ。そんなことさせるかっての。あんたには半分受け取る権利があるのよ。

そんなにもらえるの?

当たり前でしょ。三十年家庭を支えてきたのよ。当然その権利があるわ。

それはありがたいわね。

とりあえずまいさんの連絡先を教えるわ。私からもまいさんに事前に連絡しておくから。

ありがとう。

家はいつ出るの?

今日よ。すぐに出ていけって言われたから。

実家はもうないんでしょう。どこに行くのよ。

息子には迷惑かけられないし、しばらくホテルでも止まるわ。

狭いマンションでいいならあるわよ。仕事の資料を置くために借りてるの。殺風景だけど、適当に掃除して使って。

助かるわ。

親友のあんたには幸せになってほしい。そのためにできることは何でもやるから。それだけは忘れないで。

分かってる。七江がいるだけで心強いわ。

事務所に鍵を取りに来てくれる?

うん。後で行くね。

翌日、彼女はまいのエステサロンを訪れた。

私、昨日まで吉田の妻をしておりました。裕子と申します。

柏木まいさんですね。

はい。でも、吉田さんの奥様が私に何の用でしょうか。

まずは唐突に連絡をしてしまい、すみません。連絡先は共通の知人から聞きました。

誰でしょうか?

平島七江です。

ああ、そういえば連絡が来てました。知人に連絡先を教えたので、対応してほしいと。

七江とは古い友人なんですよ。

そうなんですね。てっきりエステの紹介だと思ってたんですが、どうやら違うようですね。一体どのようなご要件でしょうか?

吉田が退職金三千万を注ぎ込んで、あなたとハワイに移住すると言ってます。

はい?何の話ですか?

その反応は、初耳といったところでしょうか?

もちろんです。吉田様は弊社のメンズ脱毛のお客様というだけですし。

やはりそうでしたか。あなたのような成功者が、あんな臭くて薄汚いカレー臭モンスターを選ぶはずがないと思ってました。

そこまでは言いませんが、あくまでもお客様のうちの一人と言うだけです。

二人で食事に行ったことはありますか?

いえ。ただ一度だけ、友人と食事中に偶然お会いしたことがありました。その時にワインを一本奢ってくださいました。

それだけですか?その程度のやり取りでハワイ移住を考えるかしら。

確かに変ですね。脱毛の施術は私ではなくスタッフが行いますし、受付で何度かご挨拶した程度の仲ですから。勘違いするにしても材料が足りないですね。もし私の態度で誤解させてしまったなら、大変申し訳なく思います。ただ、あくまでもお客様として接していました。

分かってます。あなたを疑っているわけではありません。

ありがとうございます。

連絡先は交換してるんですか?

はい。知り合いの社長を紹介したいと言われて、ありがたい申し出なので特に意図もなく交換しましたが、特にプライベートのやり取りはありません。

分かりました。あなたが嘘をついているようには見えませんし、あなたの言葉を信じます。

でも、実際に離婚されてしまったのですよね。

それはいいんです。時間の問題でしたから。

え?

先月、息子の結婚式が終わりましてね。もう両親が揃っている必要もありませんし、大丈夫です。

そうでしたか。

お願いなんですが、今後は吉田の予約を受けず、連絡も無視していただきたいんです。

それはちょっと。

あなたへの疑いを晴らすためなんです。どうかお願いできませんか?

分かりました。スタッフにそう伝えておきます。

よろしくお願いいたします。

数日後、夫が怒鳴り込んできた。

お前の仕業か。

何が?

サロンの予約も取れないし、あの人とも連絡が取れなくなった。

いい年して女の尻を追いかけてて、見苦しいわよ。

黙れ。やっと俺にふさわしい女を見つけたんだ。別れたお前に邪魔する権利なんかないだろう。

脱毛サロンの女社長に一目惚れして、付き合ってもないのにハワイですって。笑わせるんじゃないわよ。

ああ、なんでお前が知ってんだよ。

別にいいでしょ。

調べたのか。お前、まだ俺に未練があるんだな。だから俺の恋を邪魔しようとしてるんだろう。

いいえ。まいさんという女性が浮気相手なら、慰謝料請求しないと気が済まないと思っただけよ。

頼む。俺の最後の恋を応援してくれ。

別に、あなたがひとりで暴走しようが、私には関係ないから。それに、まいさんがあなたを好きになるとは思えないから、諦めた方がいいわ。

そんなのまだ分からないだろう。俺の退職金三千万を全部あの人に渡す。それで俺の愛を証明するんだ。

仮にお金になびいたとして、そんな女性が好みなの?

隣にいてくれるだけでいい。あのレベルの女と一緒に歩けたら、俺の人生は輝くんだ。

くだらない。悪いけど、まいさんは七江の行きつけにするほど素晴らしいサロンを経営してるのよ。そんな方が三千万ぽっちで、カレー臭い男になびくわけがないと思うんだけど。

金なんていくらあっても困るもんじゃない。

彼女はお金に困ってないはずよ。だったらあなたの出番はないわ。

女は見にくいな。見てられないぜ。

その退職金は私にも半分もらう権利があるらしいの。

はあ?ふざけんなよ。俺が働いて俺が稼いだ金だぞ。

それを支えたのは奥さんだよね、ってことで、財産分与と同じ扱いになるそうよ。

冗談だろう。千五百万じゃあの人が納得しない。

私だって三十年いろんなことを我慢してきた。その退職金を待ち望んでたのは私も同じなのよ。

金に汚い女だな。

節約ばかりの毎日だったのよ。少しは贅沢したいと思うのはダメなことかしら。

欲張りババアめ。

あなたも私に限界を感じてたかもしれないけど、私だっての昔に限界だと思ってたのよ。息子の結婚が済んだ今、何の足かせもないわ。

家で専業主婦してただけのお前が、偉そうに金なんか請求すんな。

ほら、そうやって私がやってきたことは認めないのね。専業主婦してるだけで食事が出来上がると思う?子供が育つと思う?

うるせえ。俺の金のおかげだ。

じゃあ、全面的に戦うわ。覚悟してなさい。

受けて立ってやるよ。

翌日、まいから連絡が来た。

夫からの連絡を無視していただいてるようでありがとうございます。

いえ、私にできることはこのくらいですので。

退職金三千万のうち、私が半分もらうと言ったら随分と慌てておりました。

そうですか。

お店の方にはもう来てないですか?

はい。予約をお取りできないとお伝えしています。

私が妨害をしていると気づいたようですが、そのままで構いません。引き続きお願いします。

かしこまりました。

ところで七江から聞いたんですが、ハワイにもサロンを出すご予定だとか。

はい。七江様にはハワイの弁護士を紹介していただきました。ただ、あちらは物件も人件費も高いので、まだまだ先になりそうですが。

それで吉田はハワイ移住とか言い出したんでしょうか?

私には分かりません。

吉田に夢を語るような仲だったんですね。

え?あ、いや、違いますよ。うちのスタッフがぽろっとこぼしたんだと思います。

そうでしたか。口の軽いスタッフは困りますね。

本当に私も、今後は一人で生きていかなくてはいけません。本当は浮気しててほしかったくらいなんですが、千五百万だけは取りっぱぐれないようにしないと。

今は女性でも稼げる時代です。奥様の今後の人生を影ながら応援しております。

まいさん、協力してくれてありがとうございます。

数日後、彼女は七江に相談を持ちかけていた。

ねえ、今いい?

うん。

旦那の退職金は確定したの?

三千万ですって。さすが大企業ね。半分いただくわよ。あとは預貯金と家と車と、他に何かある?

株がいくらかあったはず。こっそり投資してたのは知ってるの。

分かった。調べておくわ。

そんなことが可能なの?

弁護士会に紹介すればいい。他にも方法はあるわ。

はあ、すごいわね。ところで、あのエステなんだけど。名前の紹介だと言ったら心よく対応してくれたけど、何か裏があるように思えて仕方ない。

よく見抜いたわね。

え?私がなぜあのエステサロンに行ってるか分かる?

それは単に美しくなりたいからでしょ。

違う。クライアントがあの女から時間外労働を強いられて病んじゃったのよ。ひどい話ね。スタッフから話を聞き出すためにしばらく通ってるの。実際、施術自体は悪くないし、私も綺麗になったけど。

で、どうだったの?

ブラックね。労働基準法も無視よ。スタッフを犠牲にして利益を上げてるってこと。

どうやらそうみたい。

許せないわね。

まいさんは姑息な女だから、あんたに協力して無関係に見せることで慰謝料請求を回避しようとしたんだわ。危うく騙されるところだった。

まあ、そっちの方は私に任せて。あんたはあの人の不貞の証拠を探してほしい。

今さら離婚を覆したって無駄でしょう。私たちは離婚してるんだし。

私、前に向こうだって言わなかった?言ったけど、役所には受理はされてるのよ。だから離婚無効確認の調停を申し立てる準備をしてるの。

難しいことは分からないわよ。

それが認められれば、離婚届を提出した日以降もずっと夫婦だったってことよ。離婚は遡って無効になるの。

難しいけど、なんとなく分かった。

間違いなく認められるから、あんたらはまだ夫婦。当然、婚姻費用の請求もできる。

そうなのね。本当に知らないことばかりだわ。

離婚したと思って警戒せずに動き回るから、証拠集めは楽なはずよ。分かった?探偵さんに頼んでみるわ。

でも、あの人も女をバカにしすぎよね。三十年も尽くしてきた妻をぽいと捨てて、金も渡さず新しい女に乗り換えるなんて許せないわ。

本当よ。あの臭い靴下を付け置きして別々に洗うだけで、時給五万は欲しいくらいだわ。

うわ、きつい。私みたいな独身も寂しいけど、臭い靴下と添い遂げる人生とどっちがいいかなんて、最後になってみないと分からないわね。

うん。悪いことばかりじゃなかったから。私たち、まだ五十五歳よ。今から楽しまないともったいない。そのためには、この戦いに勝たないと。

頑張るわ。

二週間後、夫がまた怒鳴り込んできた。

お前、ふざけんな。俺のクレカを捨てろって言っただろう。

そうだったかしら。

なんで六十万も使ってんだよ。

どうしても必要だったの。

株式会社劇場ってなんだよ。何を買った?

何も買ってない。浮気調査の依頼をしただけ。

はあ?探偵事務所さんよ。今さら何を言ってんだ。離婚届を出した後に、俺が何をしようと自由だろう。

あなたが勝手に書いて勝手に出したのよね。それが違法だと知ってるから、私に口止めしたんでしょ。

そうだが、お前も財産分与欲しさに納得しただろう。

誰も了承なんてしてない。それに、本当は腹も立ったし、今でも憎んでるわ。

だったら言えよ。その前に離婚届は出してたじゃない。

そうだけど。

ちなみに七江に聞いたんだけど、有印私文書偽造罪と同行使罪に問われるらしいわ。

だから、お前が黙ってれば済む話じゃないか。

犯罪に加担するわけにはいかないわ。元夫婦じゃないか。少しは情けはないのかよ。

それをあなたが言う?ちなみに、公務員に虚偽の内容を記載させたことで、虚偽公正証書作成罪ってのも追加されるらしいわ。

しかも、自分が愛人とさっさと再婚したいという身勝手な目的なら、有罪は確実だって。

ちょっと待てよ。俺とお前はもう他人だし、不倫は関係ないだろ。

そう思って、この数週間、まいさんと仲良くしてたわね。

当然だ。俺は独身だと思ってたんだからな。

でも離婚は、あなたが提出した日に遡って無効になるらしいのよ。

はあ?なんで?

ということは、この数週間、私たちは夫婦だったってこと。当然、他の女と浮気することは許されないし、この間に追い出されたことで発生した費用も婚姻費用として請求できちゃうの。

ふざけんな。何のために離婚したと思ってんだよ。

だから何度も言うけど、私たちはまだ夫婦よ。残り短い間だけど、仲良くしましょうね。

お前、退職金を独り占めしようと思って無理やりこんなことをしたんでしょうけど、私にはもらう権利があるの。

くそ。そんなことは最初から分かってたんだよ。

え?

お前さえ丸め込めば泣き寝入りすると思ったのに。まさか弁護士の友達がいたとはな。

私の交友関係に興味を持たなかったあなたが悪いのよ。七江に助けてもらって、しっかりいただきますから。

まあ、取れるもんなら取ってみろよ。

どういう意味?

とっくに隠してある。

それなら心配ないわ。七江が弁護士会に紹介して、あなたの銀行口座を見れるし、そこからお金の流れを追えるわ。

嘘だろう。それと証券口座もあったわね。

そんなことまで調べたのか。

株価が上がった時に買っといてよかったわって、にんまりしてたじゃない。

もうない。全部売った。

それも紹介して確かめるから、心配しないで。

弁護士に頼んだだけで全部見れるなんて、おかしいだろう。

簡単に見れるわけじゃないし、厳しい審査もあるそうよ。特に今回みたいな共有財産を隠そうとする場合は、申請が通ることは多いんだって。

そんな。家も車も株も退職金も全部没収かよ。無理だ。

それだと計算が合わないんだ。ハワイの移住の件、合計で一億は必要なんだよ。

へえ。

頼む。今回は諦めてくれ。俺がいないとあの人の夢が叶わないんだよ。そんなのあまりにもかわいそうじゃないか。

随分と入れ込んでるのね。

最後の恋なんだ。頼む。財産分与を減らしてくれ。

むしろ感謝してほしいくらいなんだけど。結果的に、私があなたを救ってあげることになるんだから。

どこがだよ。

あなたはあの女に騙されてるの。

捨てられた腹いせに、嘘までつくのか。俺がまいさんに嫉妬してるのは分かるけど、やめてくれよ。

違うわ。証拠もあるの。

捏造だ。

探偵さんがあなたたちを尾行したのよ。当然まいさんの自宅も特定すべく尾行するんだけど、あなたと別れた後は必ず別の若いイケメンに会ってるの。

え?三日前に彼女とデパートに行って、高級ブランドで買い物したわね。黒いマフラーを買ったけど、それが何だ?

そのマフラーを、若い男が付けてたのよ。

嘘だ。彼女が欲しいと言うから買ったんだぞ。

彼に似合うから買って、の意味だったみたいね。

違う。絶対にそんなわけがない。

その男は無職だったわ。ということは、まいさんのヒモ。あなたはまいさんを経由して、男に貢いでたの。

お前はアホなのか?

何が?

あの人は経営者だ。仮にヒモがいたとしても、小遣いをあげる余裕はある。まあ、ヒモなんているわけがないが。

実際にいるし、余裕はないわ。お前は一体彼女の何を知ってんだよ。

私というより、七江が詳しいんだけどね。

ババア弁護士のことか。

まいさんのエステは、労働基準法違反の働き方をさせてて、従業員たちが訴訟の準備をしてるの。

それ本当か?

法律を無視して無理をさせて荒稼ぎしたら、ハワイにとんずらする計画だったのかもね。俺といえ、まさか。じゃあ、俺をハワイに誘ったのはなぜなんだ?お金だけ出させるためじゃないの?

そんなの嘘だ。俺の子供が欲しいって言ってくれたんだぞ。

お金の間違いじゃない?脱税もしてたみたいだから、確実に捕まるわ。あり金全て奪われる前で良かったじゃない。

お前のせいだ。お前が余計なことをするから、あの人の心が離れていったんだろうが。

あなたと出会う前から、まいさんとは付き合ってたみたいよ。

そんなわけあるか。なんで俺の恋を邪魔するんだよ。お前みたいな嫉妬深いババアは、縁側で茶でもすすってろよ。

あんたこそ寝ていなさいよ、ボケ。どんな脳の作りをしてたら逆切れできるわけ?

俺への嫌がらせのために金と時間を使って邪魔してるだろ。

あんたに惨めに捨てられた女のままでいるのが嫌だったから、戦ったのよ。三十年我慢してきたのは私も同じ。飯を作って洗濯して、感謝の一つもない。息子が結婚したら離婚届を叩きつけてやるつもりだった。

お前も本音を言ったな。

あなたの家事ロボットでいるのは、もううんざりよ。

だからって、お前はどうやって生きていくんだ?

身一つで追い出したくせに、今さら生活の心配をしてくれるの?

聞いてみただけだろ。

あなただって、万年ジャージの無能な家庭婦人とは一緒にいたくないでしょ。

まあ、そうだな。ただ、お前がどうしてもと言うなら、考え直してやってもいい。

まいさんに彼氏がいるという現実をやっと飲み込んだから、今必死に方向転換しようとしてるのが見え見えよ。

違う。年の近い老夫婦が助け合って生きるのも悪くないかなと思えてきただけだ。

何もかも遅いのよ。

黙って水に流せ。

人に物を頼む態度も知らないの。

くそ。俺が悪かったよ。黙って戻ってこい。

お断りします。

はあ。一人でどうやって生活しろって言うんだ?俺が何もできないのはお前が一番知ってるだろ。

知ったこっちゃありませんよ。あなたにできることは、財産を隠したりせず全て提示すること。それだけよ。

家はどうなるんだ?

売ってもらうわ。じゃないと分割できないでしょ。

俺はどこに住めばいい?

私に聞かないでくれる?

お前は今どこにいるんだよ。

いやよ。

まだ何も言ってないだろう。

私一人が生活するので精一杯なのよ。まあ、お金が入ったら引っ越すけど。

マンション暮らしは嫌だな。ああ、そうだ。息子の家は一部屋余ってないかな。

息子に迷惑かけないで。それにあの子たちはもうすぐ子供が生まれるんだから。カレー臭が抜けないじじいが来たら迷惑でしょ。

孫が生まれるのか。おお、それは嬉しいニュースだなあ。

まさか一緒に暮らせると思ってるの?当然でしょ。初孫だぞ。息子はなぜあなたに子供が生まれることを報告しなかったと思うの?お前に言えば伝わると思ったからだろう。

違うわ。あの子、怒ってるの。私を追い出して若い女に走ったことは、あの子に知られたのよ。今度遊びに行くわと言われて、家にいない理由をどう説明すればよかった?

そうかもしれないけどさ。でも良かったわ。俺は絶対に親父のようにはならないと誓ってくれたから。ちょっと美人にちやほやされて浮かれただけなんだ。遊びだと思って許してくれよ。

浮かれたから何をしても許されるわけじゃないし。遊びが全てを燃え尽くすこともあるわ。

頼むよ。一人にしないでくれ。

今さらすがりついても無駄よ。あなたは文書偽造の罪を償って、私に慰謝料と婚姻費用を支払ってください。それで私たちの関係はおしまい。

裕子、待ってくれ。

さようなら。

翌日、まいが怒鳴り込んできた。

まいさん、この度は色々とお世話になりました。

あんたねえ。ふざけんじゃないわよ。

あら、ご機嫌斜めですね。どうされました?

あの弁護士と組んで、何してくれたの?

別に私は夫の不貞を調べてたら、あなたに別の男がいたって教えてあげただけだし。

七江は仕事としてあなたの会社を調べただけ。

あんたの旦那からもらえるはずだった一億がパーよ。

私もあの男には腹を立ててるけど、持てないおじさんを騙すのは良くないわよ。

私レベルの女が手に入ると思うアホがいけないのよ。

確かにそうね。男女のことはどっちが悪いとかはないかもしれない。でも従業員は違うでしょ。厳しいノルマを課して達成するまで残業させ、心が壊れるまで使うなんて。経営者失格じゃないかしら。

専業主婦のおばさんに何が分かるのよ。

働く側の気持ちなら分かるわ。生活のため、お金のために耐えなきゃって無理しちゃうものなのよ。人は辞めればいいって簡単に言うけど、自分のお客さんや同僚を思えばできない場合もある。

知ったかぶりしやがって。

私もパートだけどスーパーで働いて、同じ目に遭ってたの。それを助けてくれたのは親友の七江よ。

本当あいつが邪魔だわ。ただの乗客だと思ってたのに。

彼女は素晴らしい弁護士よ。儲からない仕事だけど、弱者のために惜しみなく力を貸してくれる。あなたもそんな経営者でいればよかったのにね。

偉そうに。まあ、私は逃げるからどうでもいいけど。

彼氏の口座に隠したお金で高飛びする気ね。

そのお金は従業員への未払い金でしょ。持ち逃げしちゃダメじゃない。

なんでそれを?

七江はあなたの口座の動きを追ってたの。当然、彼の口座への資金移動が見つかるわよね。そこで裁判所に仮差し押さえを申請したってこと。

じゃあ、引き出せないの?

そうなるわね。

なんで邪魔すんのよ。

人聞きの悪い。私たちはあなたの悪事を暴いただけよ。

せっかくハワイで人生やり直そうとしたのに。

他人の犠牲の上に成り立つ人生なんて、すぐに崩れて壊れちゃうわよ。

うるさい。あんたみたいな世間知らずの主婦に私の何が分かるのよ。

分かるわけがないでしょ。あなたみたいに嘘で塗り固めた人生なんて送ってないもの。

茶碗洗ってご飯作るしか脳がないくせに。

五十歳過ぎのおばさんだけど、あなたのような見苦しい顔はしてない自信があるわ。いくら高い美容液を塗ったって、ごまかせないわよ。

ブスが憎しみで言ってるだけよ。

七江から聞いたわ。あなたの本命の彼氏のケント君だけど、警察沙汰になると教えたら、真っ先に逃げたそうよ。

嘘。そんなはずない。

たくさんお金をかけたのに、本当の愛じゃなかったのね。ケントと一緒にハワイで暮らすって言ったのに。刑務所で泣きながらフラダンスでもしてなさい。

数日後、夫がまた現れた。

裕子、頼む。もう一度だけ話し合おう。

七江を通せって言ったはずよ。

あんな頭の硬いババアじゃ話にならん。退職金も半分取られて、家も売ることになったんだぞ。

当然の結果ね。三十年分の清算よ。

裕子、俺が悪かった。飯も洗濯も、お前がいないと何一つまともに回らないんだ。

だろうね。炊飯器のスイッチすら押したことないもの。

定年後は二人でゆっくり過ごそうって言っただろう。

よく言うわ。一度も愛したことなかったとか言ってなかったっけ?そんな女と老後を過ごすのは苦痛でしょ。

あれはその場の勢いで言ったんだ。

三十年の間、いいこともあっただろう。

あなたに感謝してるのは、真面目に働いてくれたことと、息子を授けてくれたこと。それだけよ。

そんな寂しいこと言うなよ。三十年だぞ。

最後になってネチネチうるさいわね。

うっ、あなたが私の話をまともに聞いてくれたことがある?お前に任せる。勝手にやってろって。そればっかり。私がどれだけ孤独な三十年を生きてきたか、あなたには分からないでしょうね。

だから今それを謝ってるわけで。

あと何年生きるつもりか知らないけど、あなたにもその孤独をたっぷりと味わわせてあげるわよ。

もう何を言ってもダメなのか。

ええ。あなたはもう、私の人生には不要な存在なの。

なんて言い草だよ。

これ以上、私の時間を一秒だって無駄にしたくない。

何でもするから。毎日煮物でもいいし、靴下も自分で洗う。

アドバイスしておくわ。あなたの靴下は劇落ちだから、付け置きしないと匂いが取れないわよ。

嫌な仕事ばかりさせて悪かった。反省するから。

あなたという頑固な汚れとも、これで終わりにします。

その後、あの日から半年。離婚裁判は私の完全勝利で終わった。夫は財産分与で数千万を手にしたが、家事も家計管理もできない元部長の末路は悲惨だった。ゴミ屋敷でカップ麺をすすり、過去の栄光だけを語る孤独なおじさんに成り下がった。息子や生まれたばかりの孫にすら会えていない。財産分与で手にしたお金から私に慰謝料を払い、残った二千万で投資した先が詐欺会社だったとか。今は小さなアパートで孤独に暮らしているようだ。一方、まいは脱税と労働基準法違反で逮捕され、信じていたヒモ男に全財産を持ち逃げされた。刑務所の中でどんな思いでいるのだろうか。

私はと言うと、七江の事務所で働きながら、週末は孫と穏やかに過ごしている。お母さん、よくやったね、という息子の言葉が何よりの宝物になった。三十年という長い年月の洗濯を終えて手に入れた、真っさらな人生を心行くまで楽しもうと思う。

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