高級会員制ホテル、グランドアジュールのラウンジ。シャンデリアの光が大理石の床に降り注ぎ、女社長のわざとらしい笑い声が冷たく響いていた。目の前には、地味なスーツに身を包んだ男と、その妻が並んで立っている。
「中学卒業してすぐ働きに出たんでしょ。で、奥さん騙して連れてきたんじゃないの?」
「もういいだろう。長い話でもない」
夫の高幸はグラスを揺らしながら、男の方を一切見ようとしなかった。視界に入れる価値もないという顔だった。
「りん、行こう」
「ええ」
夫婦は背を向け、ラウンジの入り口へとゆっくり歩き出した。
「ああ、おかしい。中卒夫婦、本当に出ていったわよ」
その数週間後。
「ご紹介申し上げます。本日からのオーナーは、ゆき誠です」
嘘だ。
高幸の手からシャンパングラスが落ちた。床に砕ける音が、凍りついた会場に小さく響いた。
この夫婦は知らなかった。目の前で黙って耐えていたこの男が、十六年前、自分たちが一度その運命に手をかけた相手だということを。
***
会員制ホテル、グランドアジュールの正面玄関を、一組の夫婦がゆっくりと歩いていた。男の名は、勇誠。四十歳。経営コンサルティング会社を一人で営む男である。隣を歩く妻の名は、勇気りん。三十四歳。穏やかで控えめな女性だった。
「今日のお仕事はもうおしまい?」
「ああ。あとはお前を連れて帰るだけだ」
誠は装飾を一切した黒のシングルスーツに身を包んでいた。腕には父から譲られた古い機械式時計。靴は何年も磨き続けてきた一足。確かに質は良いが、ブランドの主張も肩書きを似合わせる小物も、何ひとつ身につけてはいない。誰の目にも特別な客には見えない、どこにでもいる中年男の立ち居振る舞いだった。りんの方も誠に似て控えめだった。長く使い込んだバッグに、上品だが手の届く価格のワンピース。けれど、その佇まいには、裕福な暮らしの中で長年連れ添ってきた女性だけが持つ静かな品格が滲んでいた。
「じゃあ、ラウンジで一杯付き合うか?」
「いいわね。あそこのバーテンダー、私の好きなカクテルを覚えてくれてるの」
「ああ、嬉しい」
ロビーの奥、ラウンジへ続く廊下を歩きながら、二人は静かに会話を交わしていた。誠は普段、目立つ場所には立たない男だった。ラウンジの重い木の扉が静かに開かれる。柔らかなピアノの音色と、ほのかな照明。誠はりんの腰に手を添えて奥のソファーへと案内した。その時、誠の視線がふと止まった。奥の席に、シャンパングラスを傾けながら談笑している一組の男女がいた。女の顔に、誠はうっすらと見覚えがあった。その隣の男の顔にも、誠の記憶のどこかがわずかに反応した。
「あなた、どうかなさった?」
「いや、なんでもない」
中学を出てから二十五年以上、ほとんど思い出すこともなかった顔だった。
シャンパングラスを傾けていた女が、ふいに顔を上げて誠を凝視した。
「ねえ、ちょっと待って。あなた、もしかして、ゆき君?」
女はゆっくりと立ち上がり、誠の前まで歩いてきた。
「ゆき君よね。中学で一緒だった。私、月島よ。月島れい。覚えてない?」
「ああ、月島か。久しぶり」
誠は最低限の礼儀を添えて静かに頭を下げた。二十五年ぶりの顔だった。
「こんなとこで会うなんて、奇遇じゃない。あら、こちら奥様?」
「ゆきりんと申します」
れいはにっこり微笑みながら、りんの頭から足元までを流れるように一度視線を這わせた。「ふん。ねえ、ゆき君、ちょっとうちのテーブルに座らない? 夫もいるし。ああ、紹介するわ」
れいは連れの男を手招きした。グラスを片手にゆっくり歩み寄ってきた男は、れいより一回り年上に見えた。
「私の夫、月島高幸。ネクサスゲートの共同経営者よ」
「どうも、月島です」
高幸は軽く会釈だけ返した。まるで興味がないかのように、誠に目を合わせようともしなかった。
「ゆき君は中学の同級生ねえ。ゆき君、今は何してるの?」
「経営コンサルの小さな会社をやってる」
「え、会社? あなたが? ごめんなさい、驚いちゃって。ゆき君って、確か中学卒業した翌月から働きに出たわよね。それで自分で会社まで。へえ、すごいじゃない」
口では褒めながら、れいの目の奥は笑っていなかった。誠の地味なスーツ、装飾のない時計。れいの視線は誠の身につけている全てをもう一度確認するように這わせた。
「ねえ、社員何人?」
「一人だ。月島はどうなんだ?」
「うちは八十名くらいかしら? 高幸、今八十名くらいよね。現場の社員も入れればもう少し」
「そうそう。取引先も業界の主要なところだけで十社以上はあるしな。れいが私の妻だから、私は社長業に集中できるのよね。あなたとは立っている場所が違うけど」
れいはまた誠の方に向き直り、にっこり微笑んだ。
「あら、お一人いいじゃない。気楽でいいわよね」
「高幸、ゆき君ね。コンサル会社を、お一人で頑張ってるんですって」
「ほう」
高幸は軽く頷いただけだった。一人会社のコンサル業など、視界に入れる価値もないという顔だった。
その時、誠が初めて高幸に視線を向けた。
「月島さん」
「はい」
「以前、どこかでお会いしたことがありませんか?」
高幸はゆっくりと首をかしげた。誠の顔を改めてじっと見つめたが、その目には何の反応も浮かばない。
「いえい。お会いした記憶はございませんな」
「そうですか」
誠はそれ以上、何も言わなかった。
「何よ、ゆき君。急に変なこと聞いて。うちの夫があなたなんかと会うわけないでしょ。ねえ、りんさん、失礼だけどお聞きしてもいい? ご主人と同じくらいの学歴かしら?」
「学歴が関係ありますか?」
りんの声は穏やかだったが、芯のある響きが滲んでいた。誠がりんの手をそっと握り返す。
「あら、ずいぶんご立派ね。ごめんなさい。だってねえ、ゆき君は中卒でお一人で会社。奥様も見るからにお育ちが良さそうでしょ。本当に、なんていうか、お似合いのご夫婦ね」
れいの「お似合い」という言葉に、初めてはっきりとした侮蔑が滲んだ。隣の高幸がシャンパンを口に運びながら薄く笑った。
「無礼なさいますか?」
りんの声が初めて低くなった。
「あら、無礼だなんて。私、ただ事実を申し上げただけよ。ねえ、高幸」
「さあ、れいもいいだろう。長い話でもない」
その「長い話でもない」という一言は、誠とりんの存在そのものを片付けるべき些事として扱っていた。
「あら、ごめんなさい。じゃあ最後に一つだけいいかしら。ここ、会員制よ。中卒夫婦は来れないわね」
れいは自分の言葉に自分で笑った。高幸はもう一度シャンパンを口に運び、誠の方を向こうともしなかった。りんの手のひらに、爪が食い込むほどの力がこもっているのを、誠は感じた。
「りん、ここでは何も言わなくていい」
その一言で、りんは背筋を伸ばしたまま黙った。
「ご主人がそうおっしゃるなら、奥様も大人しくなるのね。中卒同士は、やっぱり似たもの夫婦ね」
「りん、行こう」
「ええ」
誠とりんは月島夫婦に背を向けて、ラウンジの入り口へとゆっくり歩き出した。
「はあ、おかしい。中卒夫婦、本当に出ていったわよ」
れいの声が、ラウンジにもう一度響いた。誠の足が、その声に一瞬だけ止まった。視線が月島夫婦の方へと戻る。シャンパングラスを傾ける高幸の左手首に、銀色の腕時計が光っていた。
「あなた?」
「いや、なんでもない」
誠はそれ以上何も言わず、りんの手を引いてラウンジを後にした。
ラウンジを出た誠は、ロビーから離れた人気のない廊下の片隅で、ふと足を止めた。
「あなた、本当に何も言わなくてよかったの?」
「りん、すまないが先に車に戻っていてくれ。少し、一人で歩く」
「そう。分かったわ」
りんは何かを言いかけたが、誠の横顔を見て静かに頷いた。
一人残った誠は、ゆっくりと拳を握りしめた。
「月島高幸」
その名を、誠は十六年ぶりに自分の声で口にした。誰もいない廊下に、誠の靴音だけが落ちていく。
***
それは、十六年前のある春に遡る。
勇誠の春。中学校の卒業式の翌日から、彼は働き始めた。父は誠が幼い頃に亡くなり、母も体が弱かった。高校に進む選択肢は、最初から誠の手の中にはなかった。工場の住み込み、深夜の倉庫の仕分け、配送のアルバイト。誠は職場を点々としながら、簿記と経営を独学で身につけていった。
十八歳で誠は、工場勤務で貯めた金を元手に個人事業を始めた。中古の工作機械を一台、町工場の余剰能力を借りて、大手の下請けの末端から仕事を取り始めた。二十歳で法人化。月に二社の取引先と、ささやかな利益を確実に積み上げていった。
そして、二十四歳の春。
「これがあれば、うちは飛躍できる」
誠の手の中には、一冊のノートがあった。表紙には貴重面字で「拡大事業計画書」とだけ書かれている。中古の工作機械を共同で複数台導入し、町工場のネットワークを束ねて大手の下請けを横から取りに行く。誰もまだ手をつけていない市場の隙間を狙った計画だった。必要なのは、拡大のための運転資金だった。実績はある。取引先もある。けれど、銀行を回るには、中卒の誠一人の名前ではまだ弱かった。
そこで誠は、信頼できる町工場の社長に紹介を頼んだ。
「ゆき君、よくここまでやってきたな。一人紹介してやろう。月島高幸という男だ。最近独立して、若い経営者の世話もしとる」
その名前を、誠はノートの一番上に書き留めた。
月島高幸の事務所は、都心のオフィスビルの一室にあった。高幸はソファーに座ると、誠のこれまでの事業内容を丁寧に聞き取った。
「ゆき君、二十四歳でここまでやってきたのは立派じゃないか。それで、この拡大計画書か」
高幸は計画書をゆっくりとめくった。何度か頷きを挟みながら、誠の計画の確かさを確実に読み取っていった。
「これはよくできてるよ。中古機械の共同導入と町工場のネットワークか。市場の空白を正確についている。分かった。私の方でいくつかの銀行に話を通そう。一ヶ月ほど時間をくれ」
「ありがとうございます。本当にありがとうございます」
事務所を出た誠は、地下鉄の駅まで歩く間、何度も計画書を抱え直した。胸の奥に、ようやく光が差した気がしていた。
「よし、これで」
しかし、その期待は一ヶ月経ってもやってこなかった。高幸へ連絡しても、海外出張ということで繋がらない。その間にも、誠の会社の運転資金はじわじわと減っていった。誠は自力で別の銀行を回り始めたが、最初に尋ねた銀行で誠は妙な空気を感じ取った。
「誠様、申し訳ございません。では、お受けしかねます」
理由を尋ねても、銀行員は答えなかった。次の銀行も、その次の銀行も同じだった。一度は前向きだった話が、何の説明もないまま次々と消えていく。それだけではない。これまで安定して仕事をくれていた取引先からも、徐々に発注が減り始めた。
「一体どうして」
何が起きているのか、誠には分からなかった。ただ、自分の周りから糸を引くように、人と仕事が静かに離れていく。
三ヶ月が経った頃、会社の資金は完全に底をついた。誠は二十歳から積み上げてきた小さな会社を、二十四歳のその秋に、自分の手で畳んだ。
そして、その翌月。母が亡くなった。体の弱かった母は、もう何年も前から布団の中で誠の帰りを待つだけの生活を送っていた。会社を畳んだことを、誠は母に告げられないままだった。通夜の夜、誠は誰もいない部屋でただ一人、母の写真の前で何時間も泣いた。
「うっ、ごめんな、母さん。最後まで、楽させてやれなくて」
父が早くに亡くなってから、誠を中学までしか行かせられなかったことを、母は最後まで悔んでいたという。その母に、誠は「ちゃんと会社をやってる」と、最後まで嘘をついたままだった。
二十五歳。手元には、誰にも認められなかった計画書と、潰れた会社の残骸。そして、母を見送った後の誰もいないアパートだけが残った。何が起きたのか。その時はまだ何ひとつ分からないまま、ただ自分を責めるしかなかった。
それでも、生きていかなくてはならなかった。二十六歳の冬、誠は知人の紹介であるホテルの厨房裏の倉庫管理の仕事に就いた。ホテルの名は、グランドアジュール。会員制の高級ホテルとして、業界では名の通った場所である。
ある日、誠は配送伝票の狂いに気づき、夜遅くまで残って帳簿を整え直していた。ホテルの倉庫の隅、裸電球の下で一人作業を続ける誠の背中に、静かな声がかけられた。
「君、随分遅くまで残っているね」
振り返った先に立っていたのは、白髪を後ろに整えた七十近い男だった。
「その帳簿、君が直しているのか?」
「先月から伝票の数字が合わなくて、ずっと気になっていたものですから。経理の経験は独学です。中卒なので、ちゃんと習ったことはありません」
老人は誠の手元の帳簿を覗き込んだ。誠は丁寧に、これまで気づいた帳簿の癖を説明した。
「君、名前は」
「ゆき誠と申します」
「ゆき君。私は、このホテルのサ音寺慶造というものだ。明日から、私のそばで働かんか?」
「え? 僕なんかが」
「私は学歴より人を見る。それが私の信念だ。お前の目には、確かな光が宿っている」
「ありがとうございます」
その一言が、誠の二十六歳の冬を確かに動かした。
それから四年、誠は慶造のもとで全ての現場を回った。フロント、宴会場、財務、経営企画。三十歳の春、慶造は誠に自分の会社を立ち上げることを勧めた。
「もう一度、自分の会社を立ち上げなさい。お前の先見の目を生かすなら、経営コンサルティングがいいだろう。私がお前の最初の客になる」
「はい。精一杯頑張ります」
誠は深く頭を下げた。それから半年、誠は徹夜で数字を読み解き、グランドアジュールの利益を一・五倍に押し上げた。慶造の名立たる会の名士たちが、次々と誠を呼んだ。誠の名前は表に出ることなく、業界の本当に大事な席だけで静かに広がっていった。
会社を立ち上げて二年が経った頃、誠は事務所で業界誌の最新号を手に取った。ある記事が、誠の手を止めた。
「ネクサスゲート、月島高幸氏、新規事業本格展開。中古工作機械の共同導入による町工場ネットワーク。業界初の試み」
誠の手から業界誌が落ちた。記事には、誠が八年前に高幸の事務所で見せた計画書の中身が、ほぼ全て高幸の言葉で書かれていた。誠が一ヶ月かけて練り上げたあの拡大計画が、ほぼそのまま高幸の事業として動き出していた。
「あの男」
誠の胸の奥で、やり場のない怒りが込み上げてきた。
その夜、誠は一人の銀行員の元を訪ねた。八年前、誠の話を最後まで聞いてくれた唯一の人物だった。喫茶店の片隅で、その銀行員は声を潜めてこう言った。
「君の融資が止まったのは、業界の若手経営者から『あの中卒の若造は信用できない。手を出すな』と、複数の担当者に話が回っていたからだ。出元は、月島高幸さんだ。私もね、当時おかしいと思ったんだ。だから独自にメモを残していた。いつか君が必要とする日が来るかもしれない」
銀行員は一枚の便箋を誠の手に握らせた。誠はその便箋を、書斎の引き出しの一番奥にしまった。それから八年、誰の目にも触れさせなかった。
三十二歳のその夜、誠は一人の男の名前を自分の中に確かに刻んだ。それを使う日が来るとは、当時の誠は思っていなかった。それが今夜のラウンジで、十六年ぶりに目の前に現れた。
***
ラウンジの一件から数日が経った。誠は一人の居室を訪ねた。窓の外には夕暮れの空が広がっている。慶造は誠の顔を見るなり、何かを察したようにソファーを勧めた。
「珍しいな。お前から来るとは。何かあったか?」
「慶三さん。今日は、私の方から聞いていただきたいお話があって参りました」
「言ってみろ」
「私が慶三さんに出会う前のことです。十六年前、私が起業して、その会社を畳んだ理由のことで」
「うん」
「当時、私の融資を妨害した男がいました。今日まで、私は誰にもその名前を口にしてきませんでした。慶三さんにも、りんにも」
「そうか。それを言える日が来たということだな」
「先日、ラウンジで偶然その男に再会しました。あちらは私のことを完全に忘れていましたけれど、私とりんさんを見下しました」
「りんを?」
「はい」
慶造は長い間、誠の目を見つめていた。
「この男の名前は、月島高幸。ネクサスゲートの共同経営者です」
慶造の眉がわずかに動いた。「うん」
誠は書類鞄から古い便箋を取り出し、慶造の前に差し出した。
「これは当時、月島高幸の妨害発言を記録したある銀行員の方から頂いた書面です。八年前から、私の書斎の引き出しに眠っていました」
「こんなことがあったのか」
「十六年、私はこの男のことを忘れて生きてきました。けれど、妻まで辱められた以上、私の中でもう放っておくことはできません。私の胸の中で、言いようのない気持ちが込み上げてきているんです」
「動くのか?」
「はい。今度のパーティーの場で、私自身の手で決着をつけさせていただきたい」
慶造はもう一度、便箋に目を落とした。
「月島高幸か。お前が動くなら、私も席を外さん。それだけは約束しよう」
「ありがとうございます」
「誠、今度のパーティーは長くなるかもしれんぞ」
「はい」
誠は深く頭を下げ、居室を後にした。扉が閉まる音を、慶造は静かに聞いていた。
その夜、誠は自宅の書斎でパーティーの招待客リストを開いた。当日の段取りをもう一度確認するためである。リストの中ほどに、見覚えのある名前が二つ並んでいる。誠の指が、その行で止まった。
「月島高幸 五十二歳 ネクサスゲート株式会社」
その時、書斎の扉が静かに開いた。
「あなた、まだお仕事?」
「いや、もう終わる。りん、来てくれるか?」
りんは誠の隣に立ち、リストを覗き込んだ。誠が指していた行を見て、りんの表情がわずかに動いた。
「あの方たち、おじい様のお招きで?」
「ああ、ずっと昔からの付き合いだそうだ」
りんはリストをじっと見つめたまま、しばらく動かなかった。
「あの夜、私、本当は悔しくて。あなたが『何も言わなくていい』とおっしゃった時、私、自分が情けなくて、爪が手のひらに食い込むほど握りしめていました。でも今は分かります。あなたがずっと一人で抱えていらしたものが、あの夜、動き出したんだって」
りんはリストから顔を上げて、誠の目をまっすぐに見た。
「あなたが十六年、お一人で背負って来られたもの。今度はお一人にしないでください」
「りん」
「私、当日は何も言わずに、ただあなたの隣に立っています。でも、もしもあの夜の続きが私にも巡ってきたら、その時は私の言葉でお返しさせてください」
誠はしばらくりんの顔を見つめていた。やがてゆっくりとその手を取り、両手で包み込んだ。
「ありがとう」
「いえ。あなたの妻にしていただいて、私の方こそ」
りんは誠の方にそっと肩を寄せた。
***
数週間後の夜。グランドアジュールの大宴会場は、シャンデリアの光に満ちていた。業界の名士たちが、シャンパングラスを片手に談笑している。誠とりんは、正面玄関から会場へとゆっくり歩を進めていた。
会場の入り口で誠は深く一礼し、案内係から招待状を受け取った。その時、横手から聞き覚えのある声が飛んだ。
「あら」
振り返ると、シャンパングラスを片手にした月島れいが、目を見開いて立っていた。隣には高幸もいる。
「ゆき君? やだ。本当になんでこんなところに?」
「先日はどうも」
「先日はどうも、じゃないわよ。ここ、サ音寺会長のパーティーよ。会員制ホテルどころの話じゃないわよ」
れいは誠の招待状を覗き込んだ。
「え、招待客? あなたが?」
れいの声が大きくなる。高幸は軽く眉をひそめて妻を嗜めた。誠の方はちらりと一瞥した。
「ゆきさんでしたな。失礼ですが、どちらのご紹介で?」
「サ音寺会長から、直接」
「ほう。会長から直接?」
「会長はお優しい方ですからな。よくあなたのような零細企業の取引先までお招きになる」
「それよ、それ。ゆき君、良かったわね。会長のおこぼれで」
「ああ、奥様も今夜はご一緒ね。先日はどうも」
「こちらこそ」
れいはそう言って笑ったが、目は笑っていなかった。
「ねえ、ゆき君、お席はどちら? 後ろの方かしら? 私たち、もう少し前の席なの。ごめんなさいね」
その時、横から支配人が静かに歩み寄ってきた。
「ゆき様、奥様。お席のご案内をさせていただきます。メインテーブルまで、こちらからお進みください」
支配人は月島夫妻の方には目もくれず、誠とりんにぷかりと一礼し、先導するように歩き出した。
「メインテーブル? あら、何かの手違いかしらね」
誠とりんは月島夫妻に背を向けて、支配人の後を歩いた。会場の中央へ進むにつれ、業界の名士たちが誠の姿を見て、次々と静かに頭を下げていった。
「ゆきさん、お久しぶりです。本日はようこそ」
「ゆきさん、また後ほど」
「宮崎社長、山岡社長。お世話になっております」
短いやり取りだったが、月島夫妻のいた入り口付近にもその光景は届いていた。
「ねえ、見て。なんか変よね、あの席」
「気にするな。今夜の主役はサ音寺会長の後継者だ」
月島夫妻は、会場の脇のサブテーブルへと向かった。まさに、りんや誠のメインテーブルから二十メートルほど離れた位置だった。
その時、会場の照明がわずかに絞られた。司会の声が、会場を静かに包む。
「皆様、お待たせいたしました。本日はグランドアジュールのオーナー、サ音寺慶造よりご挨拶を申し上げます」
ステージ脇から、白髪を後ろに整えたサ音寺慶造がゆっくりと歩み出てきた。会場の全員が、自然と背筋を伸ばす。
「皆様、本日はお集まりいただき誠にありがとうございます。私、サ音寺慶造。本日をもちまして、当ホテルの経営の一切を後任に引き継がせていただきます」
会場に拍手が広がっていった。
「ご紹介申し上げます。本日からのオーナーは、私の孫娘・りんの夫でもあります、勇誠です」
その瞬間、会場の空気が止まった。業界の名士たちが次々と立ち上がって、拍手を始めた。
「やはり、勇誠先生でしたか」
その音の中で、れいの口だけが半開きのまま固まっていた。
「はあ? 嘘でしょ」
高幸の手から、シャンパングラスが落ちた。床に砕ける音は、誰の耳にも届かなかった。
「ゆき君が、後継者?」
高幸は答えられなかった。中学卒業後すぐに働きに出たという、あの冴えない同級生が、なぜ業界の大物サ音寺慶造の後継者なのか。その繋がりが、高幸の頭の中で全く組み立てられないでいた。
「高幸、あなたどうしたの? 顔、真っ青よ」
「わからん。何が起きている?」
ステージの誠は、慶造と並んで深く一礼した。
「皆様、本日はお越しいただきありがとうございます。ゆき誠と申します。サ音寺会長より、当ホテルを引き継がせていただくことになりました。皆様のお力添えあってのことと、深く感謝申し上げます」
会場から改めての拍手が湧いた。
「学歴や肩書きではなく、人を見て、人を大切にする。会長から受け継いだこの信念を、これからもこの場所で守り続けてまいります。ここで皆様に、一つだけ私自身のお話をさせていただいてもよろしいでしょうか?」
会場が静まり返る。
「私は二十歳で起業し、二十四歳でその会社を自分の手で畳みました。長く自分の力不足だと思っておりました。けれど、後になって、ある人物に計画書を盗まれ、業界に悪い噂を流されていたと知りました」
サブテーブルで、高幸の眉がわずかに動いた。二十歳で起業、二十四歳で畳んだ。その二つの数字に、何かが引っかかった。
「私はその事実を、十六年間誰にも告げずに胸にしまってまいりました。けれど先日、その人物に私の妻が見下されました」
誠は内ポケットから一枚の古い便箋を取り出した。
「これは当時の融資を担当した銀行員の方が、私に残してくださった書面です。その人物が複数の銀行担当者に対して私の名前を出して妨害発言をした記録が、ここに残っております」
誠の視線が、静かにサブテーブルへと向いた。会場の視線が、誠の視線の先を追って高幸に集まった。
「その人物とは、月島高幸さん。あなたです」
どよめきが走り、会場全体が低く揺れた。
「いや、待ってください。ゆきさん、何かの誤解では?」
高幸はハンカチを取り出し、冷静に額の汗を拭ったが、声は誰の耳にも分かるほど震えていた。
「私はあなたの計画書を見ましたが、私の事業は私自身がゼロから組み上げたものです。仮に当時の私が何か業界に話したとしても、それは若い起業家の評価として、業界の人間が当然行うことです。それであなたが潰れたなら、それはあなたの実力の問題でしょう。むしろあなたが今こうして業界で立っていられるのは、当時の経験があったからではないんですか? それからあなたは、サ音寺会長に拾われて今があるのでは?」
高幸はとっさに理屈を並べて反論してきた。論点をすり替えれば、この場をまだ持ち越せる。高幸の中で、そんな計算が急速に動き出していた。
その時。
「月島」
慶造が、静かに口を開いた。その一言で、高幸の体が一瞬で硬直した。
「お前は私のかつての部下だ。お前が独立してから、私が頭を下げて紹介した取引先は十社を超える。東洋通商も、私が隙を見て依頼して繋いだ縁だ。お前が今業界で立っていられるのは、お前一人の努力ではない。違うかね」
「それは…」
「それは、何だ? 私が信じた男が、私が今夜の後継者として迎えた人間を、十六年前に潰そうとしていた。今のお前の口から、『業界の人間が当然行うこと』という言葉が出た」
慶造の言葉は終始穏やかだった。しかし、穏やかなまま、高幸の逃げ場を少しずつ塞いでいった。
「ゆき君が提出したその便箋、私の方でも本日中に内容を確かめさせてもらう。私自身が、当時の銀行員を何人も知っているからな。お前の言い分が正しければ、何も恐れることはない。違うかね」
高幸の口が、ゆっくりと閉じた。額の汗が、頬を伝って落ちていった。
会場が静まり返った。誰も、高幸の弁明に賛同する声をあげなかった。
「サ音寺会長。東洋通商として申し上げます。月島さんとの取引は、本日付けで見直させていただきます」
「当社も、取引条件を改めてご相談させていただきます」
会場のあちこちで、高幸と取引のある社長たちが目を伏せながら静かにグラスを置いた。誰一人として、高幸と目を合わせない。
「ちょっと待ってよ。高幸、ねえ、本当なの? あなた、本当にゆき君の会社を潰したの?」
高幸は答えられなかった。喉の奥に何かが詰まったまま、口が動かない。
「ねえ、答えてよ。私の会社よ。ネクサスゲートは。なんで? なんで私の取引先が一斉に?」
「俺、俺は知らなかった。まさか会長の後継者だなんて」
「知らなかったって何? あなた、何を今頃になって」
高幸はもう答えなかった。テーブルの端を握りしめなければ、立っていられない様子だった。れいはようやくそこで、ステージの誠と、メインテーブルのりんの方を見た。
「ゆき君。いえ、ゆきさん。お願いです。許してください。私、何も知らなくて」
「許す許さないの話ではありません。私の話は以上です」
「そんな」
誠は視線をれいから外し、慶造と並んでもう一度会場全体に深く一礼した。会場の拍手が、ゆっくりと戻ってきた。月島夫妻の周囲のテーブルだけが、静まり返ったままだった。
***
翌朝。グランドアジュールのオーナー室。窓の外には、抜けるような青空が広がっていた。誠の机の上に、秘書からの連絡が置かれた。
「月島様がお見えになっております。お通ししてもよろしいでしょうか?」
「通しなさい」
大臣のドアを開けると、れいと高幸が並んで立っていた。れいの顔から、昨夜の余裕は完全に消えている。化粧は控えめで、目の下には濃い隈が浮かんでいた。高幸の方は、一晩で痩せて見えた。
大臣のソファーには、誠とりんが並んで座っていた。
「ゆきオーナー、サ音寺会長。本日は突然のご面会を申し訳ございません。ゆきさん、奥様、昨夜は本当に申し訳ありませんでした。会長、改めてお詫び申し上げます。十六年前、私が勇気オーナーの会社を妨害したことは、事実でございます」
「思い出すのが、遅すぎたな」
「ゆきさん、お願いです。最後にもう一度だけ、私と高幸にチャンスをいただけませんか?」
「月島社長。昨夜の会場で私は申し上げました。私の言葉は、もうあれだけです」
れいの顔から、わずかな光が消えた。誠の心は揺がない。どれだけ謝罪しても、希望を持てないことを、すでに悟っていた。れいの視線が、ふと誠の隣に座っているりんの方へ流れた。
「奥様」
「はい」
「奥様、お願いです。ネクサスゲートには社員が八十名おります。その家族を含めれば二百人を超えます。私と高幸の過去のことで、何の罪もないあの子たちが路頭に迷うんです」
れいはソファーから立ち上がり、その場で床に膝をついた。高幸も、それに続いた。
「奥様、社員のためです。どうかお助けください。私たちの命でも何でも差し上げます」
「月島社長、床からお立ちください。奥様も、お立ちください」
れいはハンカチで目元を抑えながら、ゆっくりとソファーに戻った。高幸も、力なく座り直す。
「ネクサスゲートの従業員八十名のことは、ご心配なく。昨夜のうちに、こちらが宮崎社長と山岡社長にお話を通しております。東洋通商様を中心に、こちらのクライアント数社が連携して、ネクサスゲートの社員のうち希望される方は、雇用を引き受けさせていただきます」
「そ、そんな勝手に…」
「従業員の皆様を救うのは、月島社長たちではありません。月島社長。私、先日のラウンジで、あなた方から『中卒』だと決めつけられました。学歴のことなど、私はどうとも思いませんけれど。あの夜、あなた方が見下していらしたのは、私の学歴ではなく、私たち夫婦そのものでした」
「奥様、それは言葉の綾で…」
「月島社長。あなたが本当に守るべきだったのは、八十名の社員でも、ご主人の体面でもなく、目の前の方々への人としての誠実さと、敬意そのものだったと、私は思います」
「人としての…誠実さと、敬意」
「お引き取りください」
れいはハンカチで顔を覆ったまま、しばらく立ち上がれなかった。高幸がれいの腕を取り上げた。二人は改めて深く一礼し、大臣を後にした。
「りん、俺の気持ちを代弁してくれて、ありがとう」
「ひどいわ。私だって怒ってたんだから。あなたにあんなこと言われて」
「ああ、そうだな」
重い扉が閉まる音を聞きながら、誠はりんの手をそっと握った。りんの手のひらは、昨夜とは違って、温かかった。
***
月島夫妻が去ってから一ヶ月。ネクサスゲートの主要取引先は、約束通り全社が契約を打ち切った。銀行は融資を容赦なく引き上げた。資金繰りは、三週間でショートした。
社員たちは、驚くほど穏やかにネクサスゲートを去っていった。
「社長、私たち、勇気コンサルティング様で新しいお仕事をいただきました。条件も、こちらよりよくしていただきました」
三週間目には、れいが信頼していた幹部の社員までもが、無言で去っていった。一人一人が、れいよりも穏やかな顔で会社を出ていく。それが、れいには最も応えた。
高幸の方は、業界の集まりから完全に締め出されていた。久しぶりに顔を出した銀座のバーで、隣にいた同業の経営者が高幸の顔を見るなり席を立った。
「月島さん。私はもう、あんたとは付き合えないな」
高幸の隣のスツールは、その夜誰にも埋められなかった。
臨時再生の申し立てが受理されたその日、れいは社長の座を退任した。高幸も、共同経営者の肩書きを返上した。月島の名前は、会社の登記から完全に消えることになった。
会社を失った夫婦が家に帰ると、リビングには四人の子供たちが揃っていた。長男は大学院生、長女は大学生、次女は高校生、末っ子は中学生。誰も、両親を出迎えようとはしなかった。
「お母さん、ちょっと何やってくれてるの?」
長女が開口一番、れいに詰め寄った。
「私のお友達、全員去ってったんだけど。あの子たち、私のこと、裏であの月島の娘って…ありえない」
「私もだよ。学校でみんな私のこと避けてる」
長男も、サークルで散々こき下ろされたと吐き捨てた。末っ子は何も言わず、ただ床を見つめていた。中学校でいじめが始まっていることを、両親はまだ知らなかった。
「あなたたち、それを今お母さんに言うの?」
「お母さんのせいでしょ? お母さんがなんかやらかしたんでしょ?」
「お母さんのせいじゃないわよ」
「お父さんが昔変なことをしたからだ。お前のせいだろう。お前があの夫婦を見下したからだ」
「ちょっと、あなた。子供の前で何言ってるの?」
両親の口から出てくる言葉は、最後まで自己弁護と責任転嫁ばかりだった。夫婦の言い争いがヒートアップしていく。長女は次女と末っ子を連れて、自分の部屋へと引き上げていった。リビングには、れいと高幸だけが向かい合って残された。
「ねえ、なんで私がこんな目に? 私、何も悪くないでしょ」
「お前は、結局何も変わっていないんだな」
「はあ? 何よそれ。今、私を責めてるの?」
「ああ、責めている」
「ふざけないで。原因はあなたでしょ」
「もう何を話しても無駄だ。離婚しよう」
「望むところよ」
れいは結婚指輪を外し、テーブルの上に投げ捨てた。そして、寝室へと消えていった。
高幸は暗いリビングで一人、まだ外していなかった自分の指輪を見つめていた。十六年前の春、自分の事務所の応接室で、計画書を抱えて深々と頭を下げていたあの中卒の青年の顔が、ふいに浮かんだ。
「あの男だったのか」
リビングには、もはや誰も答えるものはいなかった。
***
季節が変わり、グランドアジュールの中庭に植えられた桜が、薄紅の花びらを風に乗せていた。朝の大臣室は静かだった。誠は窓辺に立ち、中庭を見下ろしている。その肩越しに、りんがそっと歩み寄ってきた。
「おじい様、今朝も中庭を散歩していらしたわ」
「慶三さんは、桜の頃が一番好きだそうだ」
りんは誠の腕に、自分の手をそっと添えた。
「基金の第一期生、今日から面談が始まるのね」
「ああ。学歴がなくても起業を志す若者が、四十七人応募してきた。全員と会うつもりだ」
「あなたらしいわね」
「慶三さんが、私にそうしてくださった」
その時、大臣の扉が控えめにノックされた。
「ゆき様。第一期生候補の方が、お見えになっております」
「通してくれ」
扉が開き、入ってきたのは二十代前半の青年だった。装飾を一切した黒のスーツに、磨き込まれた古い靴。腕には、買ったばかりらしい安物の腕時計。胸の前で、ファイルを握りしめるように持っていた。
「失礼いたします。本日はお時間をいただきまして、ありがとうございます」
青年は深く頭を下げた。誠はその姿を、しばらく無言で見つめていた。十六年前の自分の姿が、そこに重なっていた。
「お座りください」
青年は緊張した面持ちでソファーに腰を下ろした。
「中学を出てから、何をされていましたか?」
「工場勤めを六年。その間に簿記と経営を独学で。今は小さな個人事業を一人でやっています」
「拡大したいんですね?」
「はい」
「計画書を見せてください」
青年は震える手でファイルから計画書を取り出した。誠はそれを受け取り、ゆっくりとめくり始めた。りんはその様子を、少し離れた場所から静かに見ていた。
青年が帰った後、大臣室にはまた静けさが戻った。誠は青年の計画書をもう一度開き直していた。
「あの方、緊張していらしたわね」
「ああ。十六年前の俺と同じ顔をしていた」
「採用なさるの?」
「計画書はまだ荒いけれど、目がしっかりしていた。あれは本物の経営者の目だ」
「あなたも若い頃は、そういう目をしていましたよ」
「そうか。その頃から、俺のことを見ていてくれたんだな」
りんは誠の隣に腰を下ろした。
「あのラウンジの時、あなたは月島社長に気づくチャンスを与えていた。あの方は、思い出す機会も、あなたのことを調べることも、十分できたはずです。それでも最後まで気づかなかった。それを、あなたはちゃんと見ていらした。あの方がどんな人なのかを」
「そうか。よく分かったな」
「もちろん。あなたのことですもの。人を見るというのは、相手を自分の物差しで図ることじゃないんですね。相手がどんな人なのかを、ちゃんと見届けることなんだって、私、今になって分かりました」
誠はりんの手をそっと握った。窓の外を、桜の花びらがまた一枚、ゆっくりと舞っていった。
その後、慶造が大臣に顔を覗かせた。「面談が始まったと聞いてな」
「はい。とても目に力がある子たちばかりですよ」
「うん。まあ、ただ一つだけお前に言っておこう」
「何でしょうか?」
「お前が十六年前、私の倉庫で逃亡を直していた時、私はお前の何を見ていたか、分かるか?」
「何でしょうか?」
「お前が誰にも見られていない夜に、一人で逃亡を直していた、その姿だ。人は、見られていない時にこそ、本当の顔を出す。お前は、誰も見ていない時に、人として真っ直ぐな男だった。その目を、次世代にも向けてやってくれ」
「はい。必ず。ありがとうございます」
慶造はそれだけ言って、大臣を後にした。
誠はしばらく窓の外の桜を見つめていた。りんが、隣に立つ。
「あなた」
「ああ」
「私たち、これからも人を見る仕事を続けていきましょう」
「ああ。それが、次の世代への架け橋になるからな」
窓の外を、桜の花びらが音もなく舞っていく。誠の胸の奥で、長く抱えていた重しが、確かに一つ軽くなっていた。肩書きでも、学歴でもない。ただその人が、誰にも見られていない時に何を続けているか。それだけが、その人の本当の姿を教えてくれる。



