「親の顔見せてみなよ。」
朝八時、桜場総合病院の外科病棟。外科部長・白崎麗子の手から紙コップがゆっくりと傾いた。
「あら、ごめんなさい。手が滑ったわ。」
コーヒーが紺色のユニフォーム姿の青年、派遣清掃員・誠の胸元に黒い染みを広げた。誠は声を上げず、ただ唇を結んだ。
「掃除一つまともにできないなんて。派遣ってこの程度なのね。二十二歳の若さで清掃員って、親の顔見てみたいわよね。」
周囲の医師たちは目を伏せ、看護師たちは誰一人として口を挟まない。だが誠は静かに顔を上げた。
「了解です。」
ポケットからスマートフォンを取り出し、電話をかける。
「おじいさん、今、外科病棟にいます。来てもらえますか?」
「あら、おじい様にお迎えを頼むの?派遣の坊や。」
ほどなく廊下の奥から重い足音が響く。自動扉が静かに開いた。そこに立っていたのは、銀縁メガネの老紳士。その姿を認めた瞬間、麗子の口から笑みが消えた。派遣の青年は一体何者なのか。地獄は彼女の足元に開きかけていた。
—
朝の理事長室はいつものように静まり返っていた。高神武郎、七十歳。窓辺に立ち、磨き上げられたガラスの向こうに広がる街並みを見下ろしている。冬の空は白く曇り、遠くのビル群を薄い霞が覆っていた。
机の上には一枚の写真がある。銀の額縁の中で、亡き娘・絵里子が穏やかに微笑んでいた。三十五歳当時の娘だ。八年前の冬、突然の心臓発作でこの病院に運ばれ、そのまま帰らぬ人となった。
あの夜、私は出張に出ていて学会の会場に立っていた。連絡を受けたのは別の医師だった。だが、あの時もし私がこの病院にいたら。もし病院全体に目が行き届いていれば、こんなことにならずに済んだはずだ。
あの夜の出来事以来、武郎は自分を許せずにいた。外科部長の白崎麗子は涙ながらに報告した。「ベストを尽くしました」。その言葉を信じるしかなかった。そして信じてきた八年間、ずっと。
写真の隣には色あせたもう一枚が立てかけてあった。小学校に上がる前の孫・誠が、母の膝に座って笑っている。十七年前、誠の父はまだ若くして交通事故でこの世を去った。それから九年後、母も逝った。武郎は誠を引き取ったが、向き合うことはできなかった。
お前は今、何を考えている?娘を救えなかった自分が、孫の顔を見るたびに胸を締めつけられた。武郎は仕事に逃げ、理事長室の扉の向こうに一人、立てこもった。気がつけば孫はもう医学部の六年生になり、国家試験を控える年齢になっていた。たった一人残された孫とは、もう何年もまともに言葉を交わしていない。
その時、ノックの音が響いた。秘書が静かに入ってきて書類を差し出す。
「当面、三ヶ月以上働いている派遣スタッフの一覧でございます。」
武郎は形式的に目を通した。だが、その指がある一行で止まる。
「誠、二十二歳。日勤と夜勤のシフト勤務。所属、清掃。」
それは八年前に亡くなった娘の、と。武郎はその名前を指でなぞったまま、しばらく動けなかった。
なぜだ。なぜ自分がこの病院で清掃員を。なぜ私に何も知らせずに。
—
地下一階、清掃ロッカー室の前。ちょうど夜勤明けの誠が出てきたところだった。紺色のユニフォーム、栗色の短髪。亡き娘によく似た目元が武郎を認めて、わずかに伏せられた。
「誠。」
誠は静かに頭を下げる。
「おじいさん。」
「なぜここで働いているんだ。なぜ私に何も言わなかった?」
誠は視線を合わせず、やがてゆっくりと口を開いた。
「失礼します。これから大学に行かないといけないので。」
それだけ言って、誠は武郎の横を通り抜けていった。
「待ちなさい。」
呼び止める声は廊下の冷たい空気に吸い込まれていく。振り返らない誠の背中が、やがて廊下の角を曲がって見えなくなった。
—
夕方四時。地下の清掃員ロッカー室。誠は紺色のユニフォームに袖を通しながら、ロッカー内側に貼られた一枚の写真を見つめた。幼い頃、母と父と自分が映る家族写真。
「僕はしっかりやってるよ、母さん。」
誠は左手に細いシルバーのリストバンドをはめている。亡き母の形見だった。それを身につけることが、いつしか出勤前の儀式になっていた。
廊下を磨き始めて三十分ほど経った頃、背後から白衣のグループが連れ立って通りかかった。先頭を歩いていたのは外科部長の白崎麗子。四十八歳。東京都立大学医学部主席卒。次期院長候補と噂される桜場総合病院の中心人物だ。手にはカルテの束を抱えている。
麗子はわざとらしく足を止めると、抱えていた書類の何枚かを誠の磨いたばかりの床にひらりと落とした。
「あら、滑っちゃった。派遣の坊や、ちゃんと拾っといてね。それも仕事でしょ。」
誠は無言で身をかがめ、書類を一枚ずつ拾い上げた。若手医師たちが抑えきれない笑いをもらす。看護師たちは目を伏せ、誰一人として口を挟まない。それだけの威圧感を放っていた。
「ねえ、二十二歳でこの仕事って、よっぽど他に取り柄がないのね。学校もろくに出ていないのかしら。」
誠は拾い終えた書類を整え、両手で麗子に差し出した。だが、それを無造作に払い落とした。あっという間に書類が再び床に散らばる。
「私の手に直接渡さないで。汚れるじゃない。」
誠の指先がわずかに震えた。その時だった。
「白崎先生。」
生真面目な声が廊下に響いた。主任看護師の川口春子、五十八歳。外科病棟の主とも呼ばれるベテラン看護師である。
「患者様もご家族も通る場所です。これ、少し控えていただけますか?」
「あら、川口さん、また派遣の坊やをかばうの?あなた、本当にお優しいこと。」
「かばっているのではありません。彼はいつも丁寧に仕事をしてくれています。それを見ているだけです。」
「そうならちゃんとしつけておいてちょうだい。みんな行くわよ。」
麗子は鼻で笑い、白衣の裾をひるがえして若手医師たちと去っていった。廊下に残されたのは、書類を拾い直す誠と、それを見守る春子だけだった。
「ごめんなさいね。あの方はいつもああなの。」
「いえ。ありがとうございます。」
春子は誠の隣にしゃがみ込み、散らばった書類を一緒に拾い始めた。
—
その夜。清掃員休憩室。誠はすり切れた一冊のノートを開き、几帳面な文字でその日の記録を書き加えた。書き終えるとノートを閉じ、左手首のリストバンドをそっと指で撫でた。
誠が母のことを思う時、記憶はいつもあの瞬間から始まる。
深夜二時頃。十四歳の誠が自宅の扉を開けると、母・絵里子が胸を押さえて倒れていた。震える指で救急車を呼ぶ。十分後、サイレンが響き、救急隊員が母を担架で救急車内へ運び込んだ。
「坊や、お母さんは急性心筋梗塞の疑いがある。今すぐ病院を探すからな。」
サイドドアを開けたまま隊員が無線機を握りしめる。
「こちら救急。三十五歳女性、急性心筋梗塞の疑い。受け入れをお願いします。」
無線の向こうから帰ってくる声は短い。一件目、断られた。二件目も満床。
その頃、桜場総合病院。深夜二時の当直室。白崎麗子はソファーに体を沈め、長い息を吐いていた。夜十時から救急を五件対応し、ようやく全員が安定したばかりだ。目元に苛立ちがにじむ。
「ああ、疲れた。次はもう何があっても受けない。私は休む。」
苛立った本音が静かに転がった。そこへ内線が鳴った。
「先生、救急隊からの要請です。三十五歳女性、急性心筋梗塞の疑いがある患者の受け入れ要請です。」
「断っといて。今夜はもう手が回らないって。」
「で、でも先生。ベッドは空いています。」
「受け入れたら、また朝まで対応が続くのよ。私は休む。」
春子はしばらく黙ったが、やがて「はい」と答え、内線を切った。
救急車内。
「お願いします。心拍が。」
「受け入れられない?」
「はい。三件目です。桜場総合病院、受け入れ困難の返事でした。」
救急隊員の表情が曇った。
「お母さん!お母さん、しっかりして!」
住宅街に止まったままの救急車の赤色灯が、向かいの家の壁に点滅を映している。
その時、誠の頭にある人物の顔が浮かんだ。
「おじいちゃんなら。」
震える指でスマートフォンを取り出し、電話をかけた。
「おじいちゃん、お母さんが倒れて。桜場が受け入れてくれないって。」
学会出席中の武郎は、誠の声を聞いた瞬間、立ち上がった。
「誠、わかった。今すぐ連絡する。」
もう一度当直室に戻ろうとした麗子の耳に、内線電話の鋭いベル音が響いた。発信元の表示を見て、麗子の表情が凍りつく。理事長からの直通電話だ。
「はい。白崎です。」
「白崎先生か。今、救急隊から救急の連絡が入ったはずだ。」
「はい。」
「私の孫から聞いた。三十五歳女性、心筋梗塞の疑い。今、ベッドは開いていないのか?」
「い、いえ。先ほどの救急対応が終わり、ベッドに空きが出ました。」
「なら、すぐ受け入れろ。」
「わかりました。」
電話が切れ、麗子は内線を握ったまま動けなかった。だがすぐに白衣の襟を整え、鏡を一瞥し、髪を撫でつける。表情はもう完璧に医師のそれだった。
ようやく救急車が病院に向けて走り出した時、すでに四十分が経過していた。到着するや否や、母は救急処置室へと運ばれた。誠は一人、ロビーの硬い椅子に取り残された。
やがて処置室から白衣の医師が出てきた。
「お母様は処置中に永眠されました。我々はベストを尽くしましたが、本当に申し訳ございません。お顔を見ていただけるように準備いたします。少々お待ちください。」
「え?母さんが?」
十四歳の誠は声をあげて泣き崩れた。
やがてふらつきながら立ち上がる。母に合わせてもらえる前に、せめて顔を整えたい。冷たい水を求めて廊下を歩き出した時、ある部屋の前で足が止まった。当直室だ。扉がわずかに開いている。中から聞き覚えのある女性の声が漏れていた。
誠は息を殺して扉の隙間に近づいた。
「仕方なかったのよ。私はベストを尽くしたわ。」
「でも先生、あの時、最初に救急隊から要請があった時、断りましたよね。すぐに受け入れていれば、四十分も無駄にしなかったはずなのに。」
「こっちはずっと対応して疲れてたのよ。一回断ったぐらい、誰でもやってることでしょう。」
「でも結果として患者さんは亡くなった。」
「あなたは黙っていなさい。いい?こんなこと日常なんだから、いちいち感傷的になってやってられないでしょ。」
「で、でも。」
「これからもここで働きたかったら、黙ってなさい。いいわね。」
「はい。」
誠は扉の前で凍りついた。最初の受け入れは断られた。四十分以上の遅れ。「日常」という言葉。看護師への脅し。全ての言葉が頭の中で繋がる。涙が乾いた頬に、初めて怒りが滲んだ。顔は見えない。声しか聞こえない。だが、その声を決して忘れない。心に焼きつけた。
—
そして現在。清掃員ロッカー室。二十二歳の誠は鏡の前で襟を正していた。左手首に母の形見のリストバンドが鈍く光る。あの日から八年。あの声を、まだ忘れてはいない。
夜勤明けの朝。まだ人のいない地下二階の廊下を、誠は静かに歩いていた。書庫の整理という口実で十分だった。清掃カートを押す手は穏やかに。しかし足取りは確かに廊下の奥、過去の勤務シフト表が眠る書庫を目指す。
三ヶ月の観察で頭に叩き込んだ警備員の巡回時刻。次の足音がここに届くまでは、まだ二十分ある。誠は深く息を吸い、扉の取っ手に手をかけた。
古い紙の匂いが誠の頬を撫でた。蛍光灯のジリジリという音だけが響いている。誠は迷いのない足取りで奥の棚へ向かい、八年前のシフト表ファイルを抜き出した。
十二月。母が運ばれたあの夜。
当直、白崎麗子。当直看護師、川口春子。
「やっと見つけた。」
つぶやく声が書庫の静寂に小さく響いた。
「お母さん。あの夜の声の主は、この二人だ。」
スマートフォンを取り出し、震える指でシャッターを切る。胸の底で、八年分の重みが静かに溶けていった。ファイルを元の位置に戻し、書庫を出る。清掃カートを押す誠の表情は、いつも通り穏やかだった。
—
翌日の昼休み。誠は外科病棟のナースステーション前を磨いていた。狙いは当直室で休憩する春子の動き。午後一時、春子が当直室へ向かう。誠も後を追った。
当直室で、春子が一人コーヒーを入れている。誠は扉をノックして入った。
「失礼します。床を磨かせていただきますね。」
「どうぞ。」
誠は床に膝をつき、雑巾をかけながら口を開いた。
「あの、川口さん。少しお聞きしたいことがあるのですが。」
「何かしら。」
「八年前、この病院で勤務されていましたか?」
春子の動きが止まった。少しの沈黙の後、慎重な声が返ってくる。
「ええ。この病院で長年勤めているから、当然ね。」
「八年前の冬、急性心筋梗塞で運ばれてきた女性のことを覚えていますか?絵里子という女性です。」
その瞬間、ガチャン。春子の手からコーヒーカップが滑り落ちた。
「あなた…誰?」
誠は答えず、まっすぐ春子の目を見つめる。春子の瞳に明らかな動揺が走った。その時、当直室の扉が開いた。
「あら、こんなところで何の話?」
廊下の足音もなく、麗子は扉に立っていた。視線が足元のカップの破片に向く。
「あら、割ったのはあなた?清掃員のくせに、床の清掃もまともにできないの?」
「申し訳ありません。すぐに片付けます。」
麗子は当直室の中ほどまで歩み入り、二人を交互に見た。
「それより、勤務時間中に世間話?」
「白崎先生、カップを割ったのは私です。彼は片付けを手伝ってくれていただけです。」
「ふん。」
麗子は鼻で笑い、誠の顔を覗き込むようにして言った。
「派遣の方って本当に困ったものね。三ヶ月もいて、責任感ってものを覚えないのかしら。」
それだけ言うと、麗子は白衣の裾をひるがえして当直室を出ていった。残された誠と春子は、しばらく黙って息を整えた。
「…本当に、誰なの?」
「今はまだ。でも、いつかお話しします。」
春子は何かを言いかけて、結局何も聞くことができなかった。
—
その夜、春子は眠れぬまま朝を迎えた。何度もスマートフォンを手に取ったが、理事長室へ連絡する勇気が出ない。それでも当直室で見た誠の目が頭から離れなかった。あの青年が口にした「絵里子」という名前。八年前、自分が助けられなかった患者の名前だった。
八年。私は八年も黙ってきた。
押し殺してきた声が静かに揺れた。
翌日、春子は決意を胸にエレベーターで最上階へ向かった。理事長室の扉の前で、深く息を吸う。ノックする手がわずかに震えていた。
「どうぞ。」
扉を開けると、机に向かっていた武郎が顔を上げた。秘書を通さずに尋ねてきた看護師に、武郎は意外そうな表情を浮かべた。
「川口さん、珍しいね。どうしました?」
「理事長、お時間いただけますでしょうか。お孫様のことで。」
武郎の表情がわずかに変わった。
「誠のことか。派遣の若い清掃員さんに、誠さんという方がいます。」
「ああ。」
「私、まさかと思いました。彼が、八年前のことを私に訪ねてきたんです。絵里子さんが運ばれてきた、あの夜のことを。」
武郎はペンを置いた。ゆっくりと立ち上がり、窓辺に向かう。背を向けたまま、しばらく沈黙が続いた。やがて武郎は静かに振り返った。
「川口さん。あの清掃員は、私の孫だ。亡くなった私の娘、絵里子の息子。今年で二十二歳。医学部の六年生だ。」
春子の手が自分の口元を覆った。
「やはり…そうでしたか。絵里子さんのお子さん。」
「なぜあの子が派遣の清掃員として私の病院で働いているのか。三ヶ月前に人事報告で気づいたが、本人は何も語ろうとしない。私もずっと聞かずにいた。」
春子は床を見つめた。八年前に泣き崩れていた少年の影が、今の青年の姿と一つに重なった。
「理事長。私、もう黙っているわけにはいきません。八年間、ずっと胸に閉じ込めてきました。でも、あの子の目を見て。もうこれ以上、黙っておくのは耐えられません。」
「一体、何の話だね。」
春子は深く息を吸い、覚悟を決めて口を開いた。
「八年前のあの夜。白崎先生は、最初に救急隊からの受け入れ要請を断っていたんです。『今夜はもう手が回らない。私は休む』と、そうおっしゃいました。私は目の前で、内線のやり取りを聞いていました。先生はただ、疲れていて休みたかっただけです。それで四十分以上の遅れが出て、絵里子さんは…」
「それは本当か?」
「はい。私は内線で、救急隊に断りの返事を入れさせられました。でも、その後、理事長から先生に直接お電話があった時、先生は『先ほど空きが出ました』と。あれは嘘です。」
武郎の口から小さな息が漏れた。指先が書類の上で強く震えている。八年間信じてきた言葉。「ベストを尽くしました」。あの時の涙の報告が鮮明に蘇ってくる。
「そんなことが…あったのか。」
「私、あの夜の後、白崎先生に脅されました。『これからもここで働きたかったら黙っていなさい』と。当時、私の夫は介護が必要だったため、仕事を失えなかった。私は黙るしかありませんでした。」
春子は深く頭を下げた。
「申し訳ありません。私が八年前に声を上げていれば…」
「川口さん。頭を上げてください。」
武郎の声は静かだった。だが、その目にはこの八年間見たことのない光があった。
「責められるべきは、あなたではない。」
「でも、申し訳ありませんでした。」
その八年間、私は自分を攻め続けてきた。病院全体に目が行き届いていればと。だが、真実はそうだったのか。武郎の指先が机の縁を強く握りしめる。窓の外、冬の夕日が血のように赤くビルの輪郭を染め始めていた。
—
退院後の外科病棟。フロアの隅で、紺色のユニフォーム姿の青年が黙々と床を磨いていた。
廊下の隅から白衣の集団が現れる。先頭は外科部長、白崎麗子。学会から戻った翌朝、その歩みはいつも以上に堂々としていた。だが、視界の隅で麗子の足が止まった。
しゃがんで床を磨く青年。その背中を見つめる麗子の目に、薄い苛立ちがにじむ。学会前、部下から漏れ聞いた言葉が頭をよぎった。最近、変なことを嗅ぎ回っている清掃員がいるそうですよ。この清掃員の坊やがね。
立ち止まった口元が薄い笑みに変わっていく。麗子は手にしていた紙コップを片手に、わざとらしい足取りで誠の前に歩み寄った。
「清掃員の坊や、お疲れ様。」
誠が顔を上げる。その瞬間、麗子の指から紙コップがゆっくりと傾いた。
パシャ。
「あら、ごめんなさい。手が滑ったわ。」
コーヒーが弧を描き、誠の胸元に黒い染みを広げていく。誠は声を上げず、ただ唇を結んだ。紙コップを足元に投げ捨て、麗子は腰をかがめて誠の顔を覗き込んだ。
「掃除一つまともにできないなんて。派遣ってこの程度なのね。」
麗子は立ち上がり、誠を見下ろす。
「それより、最近何か嗅ぎ回ってるんじゃない?」
フロアの空気がさらに冷えた。看護師たちは目を伏せ、若手医師たちは視線を交わすだけだった。
その時、ナースステーションの方から川口春子が歩いてきた。何かを言いかけて、麗子と目が合った瞬間、その足が止まる。
麗子の口元が薄く釣り上がった。
「あら、川口さん。ちょうど良かったわ。」
「白崎先生。」
「最近、私の知らないところで変な噂を流す人がいるそうじゃない?長年勤めていると言ってもね、いらない人材はいつでも切れるのよ。覚えておいてね、春子さん。」
春子は何も言えず、両手を白衣の前で握りしめた。誠の、雑巾を握る指の関節が白くなっていく。
麗子は再び誠に視線を戻し、薄い笑みを浮かべた。
「それで、この派遣の坊やね。二十二歳でこの仕事って、親の顔を見せてみろってのよ。どうせロクでもない親なんでしょうけど。」
その瞬間、誠の頭に八年前の冬の夜が蘇った。冷たくなっていく母の手。救急車の赤い光。病院の廊下で泣いた十四歳の自分。扉の隙間から聞こえた、あの女の声。
「両親のことを、悪く言わないでください。」
低く、しかしはっきりとした声だった。フロアの空気がピンと張り詰める。麗子は一瞬目を見開き、それからわざとらしく笑い声をあげた。
「はあ。本当のことを言われて怒ったの?面白いわね。」
「僕の両親は、立派な人たちです。」
「何よ、急に強がって。じゃあ、その両親を呼んでみなさいよ。立派なら見せられるんでしょ。」
フロアの誰もが息を飲んで二人を見つめていた。誠はしばらく俯き、やがてぽつりと呟いた。
「やっぱり、もう僕だけの問題じゃないな。」
「は?今、何て?」
誠はゆっくりと顔を上げた。その目にはもう揺らぎはなかった。
「今、親を呼べとおっしゃいましたね。」
「言ったけど、それが何よ。」
「了解です。」
雑巾を握ったまま立ち上がる。スマートフォンを取り出す指は、驚くほど落ち着いていた。
「育ての親ですけどね。」
「何ですって?」
誠はスマートフォンを耳に当て、短く告げた。
「おじいさん。今、外科病棟にいます。来てもらえますか?」
通話は十秒も続かなかった。スマートフォンをポケットに戻す誠を見て、麗子は鼻で笑った。
「あら、おじい様にお迎えに来てもらうの?派遣の坊や。」
両側の若手医師たちも追従して笑い声をあげた。
その時、廊下の奥から重い足音が聞こえてきた。フロア中の視線が廊下の奥に集まる。笑い声が少しずつ消えていった。奥の自動扉が静かに開いた。
立っていたのは、銀縁メガネの老紳士。仕立てのいいダークグレーのスーツに包まれた背筋は、七十歳とは思えぬほど真っすぐだった。フロアの全員が一斉に背筋を伸ばした。誰かが小さく息を飲む。
「理事長。」
その一言が空気を凍らせた。麗子の口から笑みが消えた。指先が震え、白衣の袖を強く握りしめる。地獄は彼女の足元に開きかけていた。
重い静寂の中、武郎はゆっくりと歩を進めた。
「理事長…。」
武郎は麗子を一瞥した後、誠の前で足を止めた。胸元に広がった黒い染み。傍らに転がった紙コップ。武郎の表情が曇った。
「誠。一体、何があった?」
「おじいさん。ごめんなさい、ありがとうございます。」
その一言で、フロアの空気が一段下がった。おじいさん?周囲の医師や看護師たちが視線を交わす。麗子の表情がさらに凍りついた。
「胸元の汚れはコーヒーか。」
「はい。手が滑られたそうです。」
武郎の眉がわずかに動いた。だが何も言わず、ゆっくりとフロアの全員に向き直る。背筋を正し、深く息を吸って口を開いた。
「皆さんにご紹介しよう。誠。彼は、私の孫です。」
フロアが一斉にざわめいた。孫?派遣の清掃員が?声が波紋のように広がっていく。
「私の娘、亡き絵里子の息子です。そして現在、大学の医学部に在籍しています。」
亡き娘、絵里子。その言葉が麗子の頭の中で繋がった瞬間、表情が一変した。
「絵里子…」
つぶやく声は震えていた。フロア中の視線が麗子に集中する。麗子は自分の口に手を当てた。指先が唇の上で震えている。
「嘘…でしょう?」
忘れていた名前ではなかった。忘れたことにして、八年間、心の奥に押し込めてきた名前だった。絵里子。八年前の冬の夜、自分が一度受け入れを断った患者。
「気づきましたか、先生。」
武郎の声は低く、冷たかった。フロアの誰もが、その声の重みに身を震わせる。
「あなたは先ほど、孫の親を侮辱した。それは、私の娘を侮辱したのと同じです。」
「そ、それは知りませんでした。私はそんなつもりでは…」
「知らなければ、人を見下してもいいのですか?」
麗子は言葉を失った。言い訳を探す唇が何度も開きかけては閉じる。武郎は傍らに立つ春子に視線を移した。
「川口さん。こちらへ。」
「はい。」
春子は震える足で前に出た。八年間、胸に閉じ込めてきたものが、今、押し出されていく。
「川口さん、待ちなさい!」
「白崎先生。彼女には話す権利があります。」
春子は深く息を吸い、フロアの全員に向かって口を開いた。
「八年前のあの夜。絵里子さんが運ばれてきた時、白崎先生は救急隊からの受け入れ要請を一度、断られました。」
「ま、待って。いきなり何を言うの?違うわ!」
「白崎先生は、『今夜はもう手が回らない。私は休む』とおっしゃいました。私は内線で、救急隊に断りの返事を入れさせられました。」
その言葉に、フロアの空気がわずかに揺れた。春子の声は震えながらも止まらない。八年間、目を背けてきた光景が、ようやく言葉になっていく。
「あの時点で絵里子さんが必ず助かったと、私には断言できません。でも、桜場には受け入れられる余地はありました。少なくとも、あの四十分は命を左右する時間でした。」
「何を言って…あの夜は本当に別の救急対応で…」
「他の救急患者は、夜十時の時点で全て処置完了しておりました。白崎先生はただ、当直室のソファーで休んでいただけでした。私は目の前で、内線のやり取りを聞いていたんです。その後、理事長から直接お電話があった時、白崎先生は『先ほど空きが出ました』と答えられました。あれは嘘です。」
武郎が静かに麗子を見る。
「白崎先生。あの夜、私が直接電話した時も、同じ言葉を聞いた。だが、川口さんの証言によれば、最初から受け入れる余地はあった。あなたは自己都合で一度断り、その事実を私に隠した。『ベストを尽くした』というあの言葉は、嘘だったということになる。」
武郎は深く息を吐いた。八年間、毎朝あの写真を見つめてきた重みが、声に滲む。
「八年間、私は自分を責めてきました。私が病院全体を見渡せていれば、と。その責任は今も私にあります。だが、それ以上に責められるべきは、医師としての本分を忘れたあなただ。」
「ま、待ってください。あの時、私は疲れていたんです。あの夜は本当に大変で…」
「医師が疲れてはいけないとは言いません。だが、命に関わる判断を自分の都合だけで曲げていい理由にはならない。私は娘の件を全てあなた一人の責任だと断言するつもりはありません。」
誠がゆっくりと祖父を見る。
「最初に複数の病院で受け入れを断られていたこと。搬送時点で容態が厳しかったこと。それは記録に残っています。しかし、桜場には受け入れる余地があった。あなたはそれを知りながら断った。そしてその事実を隠し、『ベストを尽くした』と報告した。私が問うているのは結果だけではありません。医師として、病院の責任者として、その判断と隠蔽です。」
麗子はもう言い返せなかった。誠がゆっくりと前に出る。
「おじいさん。僕もお話ししてもいいですか?」
「ああ、わかった。」
誠は武郎を見つめる。八年間、口にできなかった言葉が、今ようやく光の中に出ようとしていた。
「清掃員としてここにいた理由を、今からお話しします。」
誠は深く息を吸い、フロアの全員に向き直った。
「僕が派遣の清掃員としてこの病院で三ヶ月働いてきた理由は、二つあります。」
フロアが息を飲んで彼の言葉を待った。若手医師も看護師も、研修医も。誰一人として動かない。
「一つ目は、真実を知りたかったからです。八年前、母をなくした夜。僕は当直室の前で、二人の声を聞きました。救えなかった夜の、会話。あの声の主が本当はどんな人間なのか。母を奪ったのは本当に避けられないことだったのか。それを内側から確かめたかった。正直に言います。その内容が本当だったなら、自分の手でその人を追い詰めたい気持ちもありました。」
麗子は俯いたまま、奥歯を噛む。指先が白衣の袖を強く握りしめた。
「でも、それはただの復讐でしかない。ここで働いて、わかりました。」
麗子の頭がわずかに動いた。復讐。その一言を麗子は反射的に拾った。復讐で終わらせるつもりなら、まだ言い逃れる余地がある。
「ま、待ってください。八年前のことを今更掘り返すのが復讐だと思えますか?川口さん、あなたも八年前、私と一緒にいたじゃない。一緒に判断したのよ。あなたも共犯でしょ?」
「白崎先生。」
春子の声は震えていたが、もう逃げなかった。
「私はあの夜、何度も『受け入れましょう』と申し上げました。でも先生はそれを退け、最終的にご自身の判断で断られたんです。脅されて沈黙していたことは、私の罪です。それは私が一生背負います。でも、判断した人は先生でした。」
麗子は何かを言いかけて、言葉が出なかった。
「白崎先生。もういいでしょう。話の続きを、孫から聞かせてください。」
麗子は唇を強く噛みしめ、押し黙った。誠は祖父に頷き、再び口を開く。
「僕一人があなたを追い詰めても、母は戻ってこない。同じ過ちが、また誰かの大切な人を奪うかもしれない。それじゃ何も変わらない。だから、二つ目の理由が生まれました。いつかこの病院を、おじいさんから受け継ぎたい。そのための覚悟を自分の中に作ること。そして、もう二度と母のように、病院の扉の外で待たせる人を作らないこと。」
誠の声は静かだったが、フロアの隅々まで響いていた。
「母は生前、僕に何度もこう言っていました。『本当の医師は、患者だけを見るのではない。病院全体を見て、一番下に立つものだ』と。」
武郎の手が、わずかに震えた。
「それは、おじいさんが生前、母に語った言葉だと。母は教えてくれました。母は私に医師になってほしいと願いながら、その根底に置くべき言葉として、何度も優しく語り聞かせてくれたんです。」
武郎の目に涙が滲んだ。八年間、毎朝写真の前で呟いてきた言葉。娘が自分の中で確かに生き続けていたことを、孫の口から知らされる瞬間だった。
「僕は母の言葉の意味を、頭じゃなく体で知りたかった。だから机の上から始めるんじゃなく、一番下から始めたんです。」
「絵里子。お前は、ちゃんと伝えてくれていたのか。」
つぶやく声はもう抑えきれなかった。フロアの誰もが、その瞬間に立ち会っていた。八年の時を超えた、祖父と孫の見えない再会だった。
その時、麗子が突然声を張り上げた。
「理事長!」
その声はほとんど悲鳴に近かった。
「私を外せば、外科の手術スケジュールが回らなくなります!来週予定されている患者さんたちの手術はどうするんですか?あの人たちの命に関わるんですよ!」
麗子は最後のカードを切ったつもりだった。自分がいなければ病院は困る。患者の命を盾にすれば、理事長も強くは出られない。そう計算したのだ。
だが、武郎は静かに麗子を見据えた。
「白崎先生。患者の命を交渉材料にする者に、外科部長を任せるわけにはいかない。あなたは今、自分の口で、医師失格を証明した。」
麗子の口が開いたまま、言葉を失った。武郎はフロアの全員に向き直った。
「皆さんにお伝えします。白崎麗子先生。本日付けで外科部長職を一時停止します。合わせて次期院長候補としての扱いも、調査終了まで凍結します。さらに院内の医療倫理委員会で、八年前の経緯について正式に調査を行います。正式な処分は、医療倫理委員会と外部委員を含めた調査の後に決定します。」
麗子の膝がついに崩れ、床に手をつく。
「待ってください、理事長!私はこれまでこの病院に貢献してきました!」
「貢献した医師は、患者を見下しません。患者を救えなくても、それを隠しもしません。あなたが患者を見捨てたのかどうか、それを今ここで断定するつもりはありません。」
武郎は一歩前に出た。
「だが、命を救う可能性のある扉を、あなたは自分の都合で一度閉じた。その事実からは、逃げられません。」
武郎はフロアの奥に控えていた警備員に目配せをした。二人の警備員が麗子の両側に立つ。
「麗子先生を一室までお連れしなさい。調査終了まで、外科部長としての診療判断に関わらせないように。」
警備員に促され、麗子はよろめきながら立ち上がる。歩き出す前に、麗子は誠を睨みつけた。
「あなた…忘れないわよ。」
誠はただ静かに、その目を見つめ返した。何も言わない。その沈黙が何よりも雄弁だった。麗子は警備員に挟まれ、廊下の奥へと連行されていった。
—
武郎は春子に向き直った。
「川口さん。」
「はい。」
涙ぐむ春子に、武郎は深く頭を下げた。
「あなたが八年間、苦しんでこられたこと。本当に申し訳ありませんでした。」
「理事長!頭をお上げください!私こそ、八年間声を上げられなかった臆病者です。」
「いえ。あなたが今日、ここで声を上げてくださったこと。それで十分です。」
春子の頬に涙が伝った。誠が春子の前に歩み寄り、深く頭を下げる。
「川口さん。本当に、ありがとうございました。」
春子は何度も首を振り、涙を拭った。その肩に、武郎が静かに手を置く。
「川口さん。これから、一緒にこの病院を立て直しましょう。」
「はい。」
冬の朝の光が、外科病棟の窓から差し込んでいる。武郎、誠、春子の三人がフロアの中央に立っていた。長く凍りついていた何かが、ゆっくりと解け始めていた。
—
二人の警備員に挟まれて、麗子は廊下を進んでいた。フロアを支配していたあの堂々とした姿は、もうそこになかった。白衣の裾は乱れ、結っていた髪は崩れ、その横顔は十歳も老けて見えた。
「こちらへ。」
「触らないで。」
すれ違う看護師たちは目を伏せ、研修医たちは壁際に身を寄せて道を分ける。こんなはずじゃなかった。こんなはずじゃなかった。麗子の胸の底で、震える声が低く転がった。
数日後。桜場総合病院、医療倫理委員会の会議室。長机には八年前のあの夜の証拠が並べられていた。春子の証言。誠のノート。当直のシフト表。内線通話記録。救急隊からの受け入れ要請ログ。そして誠が三ヶ月かけて記録してきた、白崎麗子の言動メモ。
「白崎先生。これだけの証拠の前で、まだ何かおっしゃることは?」
「私はあの夜、職務を全うしようとしただけです。」
「内線記録には、『今夜は手が回らない。私は休む』という発言が残っています。その後、理事長には『先ほど空きが出ました』と報告している。しかし記録上、最初の要請時点で受け入れ余地はありました。」
麗子は答えられなかった。
「ただし。絵里子さんの件と、あなたの判断との直接的な因果関係については、医学的に断定することはできませんでした。」
麗子の表情に、一瞬だけ安堵が浮かぶ。しかし委員長は続けた。
「ですが。受け入れる可能性があった救急患者を自己都合で一度断ったこと。その事実を、理事長に正しく報告しなかったこと。さらに当時の看護師に、沈黙を求めたこと。これらは医師として、また外科部長として、重大な倫理違反に当たります。」
「ま、待ってください。私は外科部長として、この病院に貢献してきました…」
「貢献と倫理違反は、別の問題です。」
麗子の唇が震えた。だが、もう反論の言葉は出てこなかった。委員会の結論は迅速だった。
「白崎麗子先生。本委員会の決定をお伝えします。部長職解任。次期院長候補からの除外。院からの退職勧告。さらに医療倫理上の重大な問題として、医師会への正式報告を行います。」
東京都立大学医学部主席卒業。その輝かしい肩書きは、もう彼女を守らなかった。
—
数ヶ月後。麗子は東京を離れ、地方の小さな診療所の門を叩いていた。
「履歴書を拝見しました。白崎先生。桜場総合病院の…」
「はい。外科部長を務めておりました。」
「申し訳ありません。採用前の照会で、桜場総合病院での調査結果について確認しております。うちのような小さな診療所では、そのリスクを抱えることはできません。お引き取りください。」
「待ってください。私は…」
院長はもう顔を上げなかった。麗子は診療所を後にした。冷たい風が、彼女の頬を打った。
私は、どこへ行けばいいの?
行き場のないつぶやきが、虚しく響いた。彼女が誇りにしていた経歴は、今や彼女を雇うことを医療機関に戸惑わせる、最も重い枷となっていた。患者の命を面倒と切り捨てた傲慢。派遣社員を使い捨てと見下した軽蔑。立場の弱い者を踏みつけ続けた非道さ。その積み重ねが、今、彼女自身の上に静かに降り積もっていた。あの夜だけではなく。彼女がこれまで目をそらし続けてきた全てが、彼女自身の足元にゆっくりと帰ってきたのだった。
—
翌春。桜場総合病院、外科病棟。医師国家試験に合格した白衣姿の青年が、勤務のためにナースステーション前を通りかかる。胸の名札には、「研修医・誠」。苗字のまま、彼はこの病院に戻ってきていた。清掃員として歩いた廊下を、今度は医師として歩いている。だが、その足取りに奢りはなかった。
ナースステーションから、川口春子が温かく頷く。
「誠先生。今日も早いですね。」
「川口さん。今日もよろしくお願いします。」
「ええ。よろしくお願いします。」
誠の左手首には、変わらず母の形見のリストバンドが揺れている。清掃員のユニフォームの下で握りしめていたものは、今、白衣の袖の下で静かに光っていた。
—
夕方。理事長室の窓辺で、武郎は外科病棟の方角を見つめていた。ノックの音と共に、誠が入ってくる。
「ご苦労様、誠。」
「おじいさん。」
誠は深く息を吸ってから、ゆっくりと口を開いた。
「おじいさん。ずっと、お話ししたかったことがあります。」
「何だ。」
「僕はこれまで、おじいさんにずっとそっけない態度を取ってきました。すれ違っても挨拶だけで通り過ぎたり、何も話さなかったり。でも、それは本当の気持ちじゃありませんでした。」
武郎の目がわずかに見開かれた。
「僕は、ずっとおじいさんを尊敬していました。母を救えなかった責任を一人で背負って、それでも病院全体を守り続けてきた、その背中を。でも、近づくのが怖かったんです。おじいさんの顔を見ると、母のことを思い出してしまう。おじいさんも、僕の顔を見るたびに苦しんでいる気がしていました。『一番下に立つもの』として母の言葉を本当に身を持って知っているから、おじいさんに頼る立場じゃなく、隣に立てる立場として向き合いたかった。ようやく、その入り口に立てた気がします。」
誠はまっすぐ、祖父を見つめる。武郎はしばらく言葉を失っていた。やがて静かに、机の上の二枚の写真に視線を落とす。亡き娘の笑顔と、幼い孫の姿。
「絵里子。お前は、立派な息子を私の元に残してくれたね。」
親の顔は、この世に残る。絵里子。お前の顔は、確かに誠の中で生きている。
武郎はゆっくりと振り向いた。窓辺から差し込む春の光の中で、その目は穏やかに澄んでいた。
「誠。一つ、聞かせてくれ。」
「はい。」
「これから患者を見る時、お前は何を思う?」
誠は左手首のリストバンドに、そっと触れた。母から受け継いだ、たった一つの誓いの言葉。
「一番下に立つこと。それが、母から受け継いだ医師としての私の根っこです。」
「そうか。」
窓の外。桜のつぼみが、春の光に膨らみ始めていた。医師の仕事は、人を救うこと。それを忘れた者の足元には、何も残らない。だが、それを根っこに据えた者の元には、必ず光が差す。八年の歳月をかけて。ある母が残した一つの言葉が、息子の体を通して、再びこの病院に芽吹いていた。



