もう来なくていい。支店長の黒崎達彦がその言葉を吐き捨てた瞬間、フロアの空気が凍りついた。目の前で立ち尽くす新人行員の白石しおりは唇を震わせながらも、何も言い返すことができなかった。
就職活動に長く苦しみ、二年の歳月を経てようやく念願の銀行に入った一年目の女性が、たった一枚の契約解除書で職場を追われようとしている。
「聞こえなかったか?今日付けで契約解除だ。」
「支店長、理由を」
「言う訳など聞かない。聞く価値もない。お前みたいな落ちこぼれはな、入った時から分かってたんだよ。タイミングの悪いやつはずっとそうだ。何年就活しても決まらなかった理由が、今ようやくわかったよ。」
黒崎は懐から契約解除の書面を取り出し、近くの机に叩きつけた。
「サインしろ。」
「……わかりました。」
だがこの時、黒崎は完全に見落としていた。彼女が助けた老人の正体を。
「その話、ちょっと待ってもらおうか。」
上質なスーツに身を包んだその老人こそが、この銀行の運命を変えさせる存在だった。
土砂降りのあの日、全ての物語が始まった。
朝七時、美藤総一郎は一人分の朝食を整えていた。妻のみさ子がいた頃と同じことを、十五年経った今も変わらずに続けている。朝食を済ませると、総一郎は仏壇の前に座り、静かに手を合わせた。
「みさ子よ。お前が逝ってもう十五年か。」
そのつぶやきと共に、あの夜の病室の景色が胸の奥に静かに蘇ってきた。痩せ細った妻の手を両手で包み、総一郎は祈るように呼びかけたのだった。
「みさ子、わしを一人にしないでくれ。行かないでくれ。」
妻はかすかに目を開け、震える指で総一郎の方にそっと触れ、ささやくように告げた。
「あなた、泣かないで。明日はきっと今日よりいい日になるわ。」
「お前がいない明日なんか、いい日になるわけないだろう。」
「大丈夫、大丈夫だから。」
その夜、妻は静かに息を引き取った。総一郎は変わり果てた妻の遺体に取りすがり、声をあげて泣き続けた。
「嘘だろ、みさ子。」
あの時は、妻が残してくれた言葉の意味など何ひとつ受け入れられなかった。それでも、どれだけ泣き叫んでも朝は必ずやってくる。妻が死んでから十五年、総一郎はこの一言だけを支えにここまで歩いてきたのだった。
「みさ子、行ってくるよ。今日もいい一日にしてくるからな。」
仏壇に深く頭を下げ、総一郎はゆっくりと立ち上がった。色あせた紺のカーディガンを羽織り、古びたハンチング帽をかぶったその姿は、どこから見てもただの年金暮らしの老人だった。
買い物袋を下げた近所の主婦が声をかけてくる。
「あら、そうさん、おはようございます。今日もまた雨ですね。」
「ああ、おはようさん。お互い足元には気をつけないとな。」
この界隈で総一郎は、穏やかで気さくな近所の優しい年寄りとして慕われていた。その人柄から、近所の子どもたちにも「そうじいちゃん」と呼ばれて親しまれている。
家から歩いてすぐのところに黒塗りの車が止まっていた。傘を差した秘書の長谷川が小走りで駆け寄ってくる。
「おはようございます。藤堂さん。」
「ああ、すみません。そうさん。社外ではその呼び方は禁止だといつも言ってるじゃないか。」
「申し訳ありません。つい。」
総一郎は苦笑いを浮かべながら後部座席に乗り込んだ。
「今日はまず神田の小道具屋さん。お昼は蕎麦屋さん。夕方には銀座で早めの一杯です。」
「うん。いいな。今日はお前さんの誕生日をちゃんと祝う日だ。」
「いえ、そんな。僕の誕生日のためにわざわざ有休まで取っていただいて、本当に恐縮です。」
「お前さん、いつもわしの世話ばかりしとるじゃないか。一日くらいお前さんのために使わせてくれ。」
「とんでもないです。僕の方こそ、いつも仕事でお世話になってる側で。」
「うん。うん。誕生日ぐらい仕事は忘れろ。」
雨がフロントガラスを激しく叩いていた。総一郎は窓の外に視線を流す。河川敷の向こうの空が、不自然なほど黒く沈み込んでいた。
「今日は何かが起きそうな日だな。」
「え、何かありましたか?」
「いや、なんでもない。」
そう答えながらも、総一郎の胸の奥で何かが確かにざわついていた。
その日の午後、雨はワイパーが追いつかないほどの土砂降りになっていた。車は河川敷沿いの道をゆっくりと走っていた。その時、車の窓に子供の悲鳴のような声が総一郎の耳に届いた。
「だ、誰か助けて!」
総一郎は窓の外に身を乗り出した。視線の先、濁流の中に小さな男の子の顔が見え隠れしていた。岸辺には誰もいない。両親の姿どころか、通りかかった人影さえなかった。
「長谷川、車を止めろ。」
「え?どうしたんですか?」
「うわ、こ、こんなんで一人で?」
総一郎はすでにドアを開けていた。傘も差さず、雨の中に飛び出していく。
「す、すみません、そうさん、僕、金槌で。誰か助けを呼びましょう。」
「そんなもん待っとられん。わしが行く。」
「そんな、そうさん、お年なんですから。」
総一郎はカーディガンを脱ぎ捨て、土手を駆け下りながら振り返って笑った。
「若い頃な、飛び込みのそうちゃんって言われてたんだ。任せとけ。」
長谷川は慌てて土手を駆け下りる。何かつかまるものをと、木や枝を必死で探した。総一郎は水中で男の子に追いつき、しっかり抱き抱えると岸に向かって押し上げる。ずぶ濡れの少年を腕に抱き上げた。
ちょうどその時、土手の向こうから髪を振り乱した若い母親が転がるように駆け下りてきた。少し離れた後ろから父親も必死の形相で走ってくる。
「たっくん!たっくん、よかった!」
長谷川の腕の中から子供が母親に抱き渡された。母親は泣きながら何度も頭を下げた。
「ごめんね。ごめんね。ちょっと目を離した隙に。本当にごめん。」
長谷川はその光景を見てようやくほっと息を吐いた。だが、安堵する間もなかった。総一郎自身の足が流木に絡まり、濁流に引きずられながら流されていく。
「そうさん!そうさん!」
長谷川は長い枝を握って岸を走った。だが総一郎は遠ざかっていく。
「そうさん!届かない。くそ、届かない!」
その時だった。川下から一人の若い女性が現れた。スーツ姿のままベージュのトレンチコートを脱ぎ、傘とビジネスバッグを投げ捨てて、躊躇なく濁流に飛び込んでいく。女性は迷いのない泳ぎで総一郎に追いつくと、片腕でしっかりと抱え、岸まで引き上げた。長谷川が駆けつけ、二人で総一郎を岸に運んだ。
「おじいさん、しっかりしてください。聞こえますか?」
「お、お嬢さん。」
意識がもうろうとする中、総一郎は自分を救った女性の胸元に見慣れた銀色のバッジがあった。
「あんた、うちの……」
そこで総一郎の意識は途切れた。長谷川は震える手で救急車を呼んだ。
「呼吸はあります。大丈夫。頑張ってください。」
数分後、サイレンが近づき、総一郎はストレッチャーで救急車に運び込まれた。子供の身柄は駆けつけた警察官に引き渡された。
「あ、あの、お名前を。」
しおりは時計を見てはっと顔色を変えた。
「すみません。私はこれで。おじいさん、お願いします。」
しおりはズブ濡れのまま傘とバッグを拾い、必死の形相で走り去ってしまった。
名前を聞けなかった。サイレンが鳴り響く中、長谷川は救急車に乗り込み、覚めた顔で総一郎の手を握った。
その頃、低都中央銀行・中央支店の支店長室では、一人の男が苛立たしげに腕時計を確認していた。支店長の黒崎達彦、五十一歳。出世欲の強い、典型的な数字至上主義の管理職だった。
「新人がまだ来ないのか?今日に限って一体何をやってる?」
机の上には午後の重要商談の資料が並んでいた。今日の商談を成功させれば、長年望んでいた本店営業推進部への移動がほぼ確定する。同期から二歩も三歩も遅れてきた自分が、ようやく這い上がれる絶好の機会だった。
その時、机の上の私物の携帯電話が震えた。妻からのメッセージだった。
「陽介、また泣いてもらえなかったって。あなた、本当になんとかなりそうなの?」
「ああ、もう少しだ。俺が出世さえすれば。」
その時、フロアの方から雨に濡れた誰かが駆け込んでくる足音が聞こえた。黒崎のこめかみに青筋がびくっと立った。
一方、しおりは雨の中を必死で走っていた。スーツはズブ濡れ、髪は頬に張り付き、川の水を吸ったビジネスバッグから水滴が垂れていた。
「まだ間に合う。低都中央銀行・中央支店は、河川敷からそう遠くなかった。」
ガラスの自動ドアを抜けると、フロアの行員たちが一斉にこちらを振り返る。
「ち、白石さん、どうしたの?その格好。」
その時、支店長室のドアが勢いよく開いた。黒崎達彦が青筋を立てて出てくる。
「白石、何時だと思ってるんだ?商談はもう始まるぞ。」
「申し訳ございません。すぐに着替えて準備します。ロッカーに着替えのスーツがあるので、五分だけ。」
「待て。なんだその格好は。銀行員が、客の前に出る人間がそんな格好で出社してくる人間がいるか。」
「すみません。ですが、理由があって。」
しおりは震える手でビジネスバッグから商談用の資料を取り出した。だがその資料は雨水を吸って、ぐしょぐしょにふやけていた。数字も文字も、もう読める状態ではなかった。
「お前、それ、商談の資料じゃないだろうな。」
「は、はい。途中で雨に濡れて。」
「ふざけるな。重要顧客に出す資料を、こんなにべちゃべちゃに濡らしてきただと。」
黒崎は資料をひったくり、フロアの行員たちに向かって怒鳴った。
「おい、誰か急いで印刷してまとめろ。商談まであと十分しかないんだぞ。早くしろ。」
行員たちが慌てて走り回り始めた。プリンターがフル稼働で唸り出す。フロアは騒然となった。
「お前、自分の立場が分かってるのか?入行一年目の新人が、よりにもよって今日こんなギリギリの時間に、しかもビショ濡れで顔を出すなんて正気か。」
「はい。すみません。」
「なぜだ。なぜよりにもよって今日なんだ。この女のせいで、俺の人生まで。息子の話まで。全部、全部台無しになる。」
腹の底から黒い感情が突き上げてくる。黒崎はしおりの顔を睨みつけた。
「白石、お前みたいな落ちこぼれはな、入った時から分かってたんだよ。タイミングの悪いやつはずっとそうだ。何年就活しても決まらなかった理由が、今ようやくわかったよ。」
「支店長、お話を聞いてください。私は……」
「聞かない。聞く価値もない。」
黒崎は懐から契約解除の書面を取り出し、近くの机に叩きつけた。
「サインしろ。今日付けで契約解除だ。もう来なくていい。」
しおりの喉が小さく鳴った。フロアの行員たちが息を飲んで成り行きを見守っている。
「ま、待ってください。支店長。私、銀行に来た理由が……」
「父親が銀行員だったから入れたなんて勘違いするなよ。お前は中途採用のペーパーだ。それ以上でも以下でもない。明日から来るな。いいな。」
そう吐き捨てて、黒崎は支店長室に戻っていった。しおりはずぶ濡れの姿のままフロアに立ち尽くした。同僚たちは誰も声をかけようとしなかった。
雨はまだ降り続いていた。しおりは私物の入った紙袋を抱え、銀行を出ると力なく歩き始めた。スーツも髪も濡れたままだった。傘を持つ手の感覚がなかった。
しおりは立ち止まり、自分の手元を見つめた。
「あ、傘、忘れた。」
朝、河川敷で投げ捨てたのだった。あの時のしおりは、傘のことなど考えもしなかった。目の前で流されていくおじいさんを助けることしか頭になかった。
「あの時助けなければ、商談に間に合っていれば……」
考えすぎだと、しおりは自分を叱った。あの状況で助けないなんて、できるわけがない。父の言葉がずっと頭にあったから、迷う暇さえなかった。
雨に打たれながら、しおりの脳裏に父の最後の姿が蘇ってきた。
十一歳の冬。病室のベッドの上で、父・白石信吾は痩せ細った手でしおりの頭を撫でていた。膵臓癌との戦いはすでに半年に及んでいた。だがその週、医師からは治療が効いて少しずつ良くなる傾向にあると告げられたばかりだった。父も母もしおりも、ようやく希望が見え始めたと心から喜んでいた。
「しおり、これだけは覚えておきな。明日はきっと今日よりいい日になる。」
「お父さん?」
「父さんの銀行の店長さんが教えてくれた言葉なんだ。父さんがしんどい時、その言葉が支えになった。だからしおりにも渡しておくよ。」
「分かった。ちゃんと覚えとくね。」
「うん。父さん、まだまだお前と一緒にいたいからな。明日も、その次の日も、ちゃんと頑張るよ。」
しおりは嬉しそうに何度も頷いた。父の手はまだ少し冷たかったが、その目には確かに以前より光が戻っていた。
だがその夜、父の容態が突然変異した。深夜のうちに病院から電話が入り、母としおりが駆けつけた時には、もう意識は戻らなかった。父は夜明け前に静かに息を引き取った。明日を迎えることなく、父は逝ってしまった。あれほど信じた希望は、たった一夜で消えた。しおりが父から受け取った最後の言葉だけが、ずっと耳の奥に残り続けた。
葬儀の日、しおりは母の隣で涙が出なくなるほどに泣き叫んだ。母は娘の手を握り、震える声で言った。
「しおり、お母さんね、ちゃんと頑張るから。あなたを大学にも行かせてあげるから。」
「お母さん。」
「だからしおりもちゃんと生きるのよ。お父さんの分まで。」
それから母は看護師として朝から晩まで働いた。しおりも中学から家事を引き受け、奨学金を借りて大学を出た。卒業後、低都中央銀行に新卒で挑戦したが、結果は一次試験で落選。父の遺影に向かって何時間も泣いた夜だった。
その後、就職活動を続けながら二年間の浪人生活を耐え抜いた。アルバイトを掛け持ちし、母に少しでも仕送りをするために働き続けた。二十五歳で採用試験に再挑戦し、ようやく合格。入行式の日、しおりは父の遺影に向かって初めて笑顔で報告したのだった。
「お父さん、入れたよ。お父さんと同じ銀行に、私、入れたよ。」
だがその喜びも長くは続かなかった。半年前のある朝、母が突然自宅の台所で倒れた。脳出血だった。一命は取り止めたものの、母はそれから一度も目を覚まさない。医師からは回復の見込みは厳しいと告げられた。
「お母さん、お母さん、起きてよ。今度は私がお母さんを支える番なのに。」
意識のない母の手を握り、しおりは何度もそう呼びかけた。父を失い、また母までも。それでもしおりは崩れなかった。父の遺言を支えに毎日銀行へ通い、仕事の後は必ず母の病室に寄った。母の治療費と入院費を支えるため、誰よりも丁寧に、誰よりも真面目に働いた。
それなのに、今日、たった一日で全てを失った。
アパートに戻り、シャワーを浴び、乾いた服に着替えると、しおりはベッドの端に座り込んだ。私物の入った紙袋を見つめ、しばらく何もできずにいた。
「お母さん。」
母の顔が浮かんだ。半年間毎日通い続けた病院。今日もきっと母は、一人で機械の音だけが響く病室で眠っている。
「行かなきゃ。」
しおりはゆっくり立ち上がり、玄関で紐靴を結び直すと、改めて家を出た。雨はまだ降っていた。
ICUの個室には人工呼吸器の音だけが静かに響いていた。しおりは母の冷たい手を握り、ベッドの脇に膝をついた。
「ごめんね、お母さん。私、銀行、首になっちゃった。お父さんの銀行でちゃんと働けたのに、たった一日で全部……」
涙が母の手の上に落ちた。
「お母さんの治療費、どうしよう。私、来月からどうやって生きていけばいいの?」
「明日はきっと今日よりいい日になる。」
父の遺言を無意識のうちに口に出していた。十一歳の時から、辛い時に必ず唱えてきた言葉。だが今日だけは、その言葉が呪いのように虚しく響いた。
「嘘だよ、お父さん。」
しおりは母のベッドに顔を埋めて、声をあげて泣いた。
「明日なんて、ちっとも良くなんてならないよ。お父さん、嘘つきだよ。お父さん。」
窓の外、雨はまだ止みそうになかった。
総一郎が目を覚ましたのは、病院の白い天井だった。うっすらとした視界の先で、男性が心配そうな声をかけている。
「そうさん!そうさん!」
点滴の管が腕につながり、体の節々が鈍く痛む。
「ここは……みさ子か。」
「そうさん!ああ、良かった。本当に良かった。」
ベッドの脇に座っていた長谷川が、泣きそうな顔で身を乗り出してきた。
「なあ、あの子供は無事だったか?」
「な、なんじゃないですよ。はい、無事です。ご両親も何度も何度も御礼を言ってました。」
「そうか。それは良かった。」
総一郎はほっと息を吐いた。だが、もう一つ気がかりがあった。
「それで、あの娘さんはどうなった?わしを助けてくれたあのお嬢さん。」
長谷川の表情がすっと曇った。
「それが、お名前を聞き損ねてしまいました。申し訳ありません。」
「そうか。それならわしがきちんと礼を言わにゃいかん。そういえば、あの娘さんの胸元にうちのバッジがあったぞ。」
「本当ですか?」
「ああ、見間違うはずがない。すぐに調べます。」
長谷川は弾かれたように立ち上がり、病室を出ていった。数時間後、戻ってきた長谷川の顔は真っ青になっていた。
「どうした?その顔は。」
「そうさん……あの方は白石しおりさんという、中央支店の入行一年目の行員でした。」
「うん。それで?」
「それが……今日付けで解雇されたという通知が。」
「なんだと?」
「商談前のギリギリの時間に、ビショ濡れで出社したという理由で、支店長から契約解除を言い渡されたと。」
長い沈黙が病室に落ちた。総一郎はただ静かに点滴の管を見つめていた。
「つまり、わしを救ってくれた人間が、よりにもよってわしを救ったその日に、わしの銀行から首になったと。そういうことか。」
「はい。」
長谷川は言葉を切り、少しためらってから、もう一つの書類を取り出した。
「そうさん。それと、気になる情報がもう一つあります。」
「行ってみろ。」
「中央支店長の黒崎達彦ですが、最近、人事部副部長に頻繁に接触しています。複数のメールと通話記録から、どうやら自分の息子さんを中途採用枠で銀行に押し込もうとしている様子です。」
「ほお。」
「息子さんは就活がうまくいっておらず、何十社も落ちているそうです。黒崎は『中央に空きを作ってから』と副部長に伝えており、それで人事部も準備を始めていると。」
総一郎の目がすっと細くなった。
「空きを作ってから、ね。」
「つまり、白石しおりさんを辞めさせれば、空きができるということだ。」
「おっしゃる通りです。」
総一郎はふっと小さく鼻で笑った。だがその目は、まるで笑っていなかった。
「面白い。誰が、どのような権限でそんな茶番を仕組んだのか。この目で確かめさせてもらおう。」
総一郎はよろける体を無理やりに起こし、点滴を外そうとした。
「明日、支店に行く。」
「え、そうさん、まだ安静にしないと。」
「これが待っとられるか。今のうちに一時帰宅の準備をしておろう。」
総一郎は窓の外を見た。雨はようやく止み、雲の隙間からわずかに夕日が差し込みかけていた。
「みさ子、今日もお前のおかげで生き延びたよ。あの子の明日だけは、わしが必ず守って見せる。」
翌日、しおりはきちんと整えたスーツ姿で中央銀行の自動ドアをくぐった。契約解除の書類はすでに昨日提出済み。今日はもう、本当に最後の私物を回収するためだけの訪問だった。ロッカーから万年筆を取り出して胸ポケットに収めた時、フロアに出る通路でばったりと黒崎達彦と鉢合わせした。
「お前、何の用だ?もう関係ない人間だろう。」
「忘れ物を取りに来ただけです。すぐに帰ります。」
「うん。本当にそれだけか?どうせ未練がましく復職を頼みに来たんじゃないだろうな。」
「そんなつもりはありません。」
黒崎はしおりの前に一歩踏み込み、見下すように冷たい笑みを浮かべた。
「お前みたいな落ちこぼれはな、入った時から分かってたんだよ。新卒で落ちて、何年も就活してフラフラして、結局採用された時には二十五だ。同期はみんな二年も三年も先を走ってる。結局は出来損ないなんだよ、お前は。父親が銀行員だったから入れたなんて勘違いもいい加減にしろ。お前自身に何の実力もない。」
しおりの喉の奥が震えた。何か言い返そうとしたが、言葉が出てこなかった。父のことを言われた瞬間、目の奥が熱くなり、視界が滲んでくる。
「父のことは、関係ないでしょう。」
「関係なくはないさ。お前みたいなのを採用したのが、そもそも間違いだったんだよ。」
しおりは唇を噛んだ。胸ポケットの父の万年筆を、触れる指でぎゅっと握りしめる。涙がこぼれそうになるのを必死でこらえた。
「もう来るな。二度と顔を見せるな。」
その時だった。フロアの自動ドアが勢いよく開いた。
「失礼いたします。」
凛とした声がフロア全体に響き渡った。端正な顔の長谷川が先頭で大股に入ってくる。その背後には、本部の役員らしき三人の男たちが続いていた。
「中央支店の皆様、業務中失礼いたします。ただいまより、緊急の連絡がございます。」
「え、秘書の長谷川さん?何があったんですか?」
行員たちが顔を見合わせる中、長谷川はフロアの中央まで進み、姿勢を正して声を張り上げた。
「低都中央銀行、代表取締役、藤堂到着。」
「え?」
フロアの空気が一瞬で変わった。パチパチと椅子の引かれる音が響き、行員たちが一斉に立ち上がる。黒崎もはっとしたように振り返り、慌てて姿勢を正した。
「あと、取締役?なぜここに?」
役員たちが左右に別れ、その中央からダークグレーのスリーピーススーツに身を包んだ白髪の老人が悠然と歩み出てきた。一歩、また一歩。その足取りは年齢を感じさせない、重みを備えていた。行員たちが深々と頭を下げる。フロアに、針一本落ちる音さえ聞こえそうな静寂が落ちた。
だが、その顔を見た瞬間、しおりの目が大きく見開かれた。
「あ、あの時のおじいさん……」
遠くから見ていた黒崎も、当然その顔を知っている。年に数回、役員会議で遠めに見る顔。だが今目の前にいるその老人と、しおりの言葉が頭の中で結びつかない。
総一郎はゆっくりとフロアの中央へ出た。しおりの前まで歩み寄り、静かに微笑んだ。
「白石しおりさん、改めて礼を言わせてもらおう。あなたが先日、わしの命を救ってくれた。」
「え、いえ、私は当然のことをしただけで。」
「いいや、わしの命の恩人だ。心から感謝している。」
黒崎の顔が一気に青ざめていった。
「救った、命を?あ、待って。まさか本当に?」
頭の中でピースがゆっくりと噛み合い始めていた。総一郎がしおりの手を握って深く頭を下げた。その光景を、黒崎は呆然と見つめていた。
総一郎はここで初めて、ゆっくりと黒崎の方に視線を移した。
「さて、黒崎達彦支店長。」
「は、はい。」
「白石さんは、わしを救うために商談ギリギリの時間にビショ濡れで駆け込んできた。これを君は確認もせずに、この娘さんを首にした。違うかね。」
「え、取締役、お聞きください。私は支店長としての判断で、人事部に懲戒処分を申請しただけです。最終的な解雇の判断は人事部が。」
「ほお。黒崎君が人事部にどう報告したか、もうわしの手元にあるんだよ。」
長谷川が書類の束をすっと前に差し出した。
「『業務時間内の私的活動による重大な業務妨害』『虚偽の弁明』『顧客対応における重大な過失』。支店長、あなたが昨日人事部に提出した懲戒申請書の内容です。」
「事実無根の理由を並べ立てて、彼女を懲戒解雇に追い込もうとした。違うかね。」
「そ、それは……商談の準備が間に合わなかった以上、現場として責任を……」
「業務時間内の私的活動。彼女がしたのは、溺れる人間を救う行為だ。虚偽の弁明。彼女の話は事実だった。顧客対応における重大な過失。商談自体は、別の行員がカバーできたはずだ。君は自分に解雇権限がないことを承知の上で、事実をねじ曲げて人事部に通そうとした。これを何と呼ぶか分かるか?」
「そ、それは……」
「権力の乱用だ。」
黒崎は何も言い返せなかった。額に脂汗が滲み、唇が小刻みに震えている。
「黒崎君は、何を基準に人を見ているのかね?」
「な、何をと申しますと?」
「数字か、学歴か。それとも自分にとって都合がいいか、悪いか。」
「そ、そんなことは……」
総一郎は内ポケットから古い皮の手帳を取り出した。黒崎の目がその手帳に釘付けになる。
「この手帳には、ここしばらくわしが街でこの目で見てきたことが全部書いてある。」
長谷川が口を挟んだ。
「支店長、こちらは私の方でも調べさせていただきました。過去三年であなたの元から辞めていった若手と非正規は合計で十三名。全員が『一身上の都合』となっていますが、退職時の面談記録には、あなたの名前ばかりが並んでいます。」
「それは、総合的な判断で色々と……」
「『総合的』とは便利な言葉だな。具体性がないということの言い換えだ。君が数字しか見ていない人間だということはよくわかった。だがな、銀行というのは人を見る仕事だ。」
長谷川がもう一冊のノートを差し出した。
「取締役。こちらが白石さんの業務日誌です。中央支店から取り寄せました。」
総一郎はしおりの方に向き直り、優しい声で言った。
「お嬢さん、君のこの日誌、よく見せてもらった。君は誰よりも丁寧に顧客と向き合っている。一人一人の事情まで、ちゃんと覚えている。」
しおりの頬を温かい涙が伝った。
「わしの銀行に、君のような行員がどれだけ必要か。それをわしはこの目で見て知ったよ。」
黒崎はその光景を見ながら、ガクガクと膝を震わせていた。
総一郎は黒崎の方にゆっくりと向き直った。
「黒崎君、もう一つ聞かせてもらおうか。」
「はい。」
「君は自分の息子のために、この白石さんを辞めさせようとしていたな。」
黒崎の顔が一気に青ざめていった。
「あ、何のことですか?私には息子のことなど、全く……」
「人事部副部長との通話履歴、メールのやり取り、全て記録があります。」
総一郎は長谷川が出した書類の一枚を手に取り、静かに読み上げた。
「『私の知り合いに優秀な採用候補がいます。中央支店に空きが出てから推薦を希望いたします。黒崎達彦』。これは君が人事部副部長に送ったメールの一節だ。間違いないかね。」
黒崎の膝がついに崩れた。床に手をつき、肩で息をしている。
「いえ、それは息子の将来を思って……親がこのために何かをするのは当然だ。」
「だがな、それは正しい道を通じてだ。君は自分の息子のために、他人の人生を踏みにじろうとした。」
しおりはただ呆然とその光景を見ていた。自分が解雇されかけた理由が、そこまで身勝手なものだったのかと、信じられない思いだった。
「白石さんは、ようやく念願の銀行に入った人間だ。家族のために必死で働いてきた人間だ。そんな人間を、君は自分の息子の採用のために切ろうとした。銀行員としていや、人間として最も腐った行為だ。」
「違います!取締役、私は……」
総一郎はもう黒崎の言い訳を聞こうとしなかった。床に這いつくばったままの黒崎を、まっすぐに見下ろす。
「黒崎達彦。」
「あ、はい。」
「君は昨日、この娘さんに『もう来なくていい』と言ったな。」
「言、言いました。」
「君こそ、もう来なくていい。」
「取締役!」
黒崎の体から力という力が抜き落ちた。床にペタリと座り込み、両手で顔を覆う。総一郎はもう黒崎の方を見なかった。
しおりに向き直り、深く深く頭を下げた。
「白石しおりさん。不当な懲戒申請は、今この場で取り下げる。だから、またわしらの銀行に来てほしい。」
しおりは涙を拭うこともできずに、何度も何度も頷いた。
「はい。はい。はい。父の銀行で、私、もう一度働かせてください。」
総一郎は優しく確かに頷いた。そして、ふとぽつりとつぶやくようにしおりの方に語りかけた。
「お嬢さん、君の父上も、きっとわしらと同じ銀行員として誇りを持っていたんだろうな。」
「は、はい。父はずっとこの銀行で働いていました。」
総一郎はそれ以上何も言わなかった。ただ静かに、その場の行員たちに向き直った。
「皆さん、騒がせした。これからもよろしく頼む。」
フロアの行員たちが深々と頭を下げた。
翌日の朝、低都中央銀行本店の役員会議室には、張り詰めた空気が流れていた。役員たちの前に並べられたのは、黒崎達彦の過去の言動を裏付ける書類の山だった。
「黒崎達彦・中央支店長を、本日付けで懲戒処分。本店資料保管課に異動。給与は三割減。」
「異議ございません。」
この件はわずか十分で決した。さらに、人事部副部長も事に加担した責任で、同時処分が下された。
その夜、郊外の黒崎家のリビングに重い空気が落ちていた。
「あなた、どういうことなの?これは陽介の人生までめちゃくちゃじゃないの?」
「うるさい。俺だって今日、全部失ったんだぞ。」
「あなたがちゃんとやってくれてれば、陽介はあの銀行に……」
「お前のせいで僕の人生も終わりだよ。」
「お前も黙れ。三十社も落ちて、結局親のコネに頼ろうとしていたのはお前だろうが。」
「押し付けてきたのは父さんじゃないか。知らないよ。もう放っといてくれ。」
ドアの叩きつけられる音。黒崎はリビングのソファーに座り込み、両手で顔を覆った。妻はそのまま寝室に閉じこもり、家の中の明かりが一つずつ消えていった。
翌日、黒崎は本店の資料保管課に出社した。窓際の一席だけが用意されており、部下はゼロ。机の上には、ただ過去の書類が山積みになっているだけだった。廊下を歩けば、かつての同期や後輩たちが黒崎を見るなり目をそらした。挨拶を返してくれる者も、もう一人もいない。
「俺はどうなるんだ?これからどうやって……」
書類を整理しながら、黒崎の手がふと止まった。古い退職者名簿のページに、見覚えのある名前があった。三年前、黒崎が中央支店時代に切った若手の女性行員の名前だった。
「この女、確か後で体調を崩して……」
当時その情報を聞いた時、黒崎は自分には関係ないと一蹴した。仕事に向かない人間だったんだ。たまたまだ。と。だが今、その名前を改めて見つめながら、黒崎は初めて理解した。自分が「もう来なくていい」と言い放った相手が、その後どうなったのか。自分は考えたことすらなかった。黒崎の手から書類が滑り落ちた。窓の外を見ながら、絞り出すように呟いた。
「俺は、何をやってきたんだ?」
その頃、取締役室では総一郎が長谷川と話していた。
「そうさん、黒崎は完全に解雇しないんですか?」
「ああ、解雇はしない。一番下からやり直させる。」
「なぜですか?あんなことをした人間に、もう一度機会を与える意味があるんでしょうか?」
総一郎はゆっくりと窓の外を見た。
「長谷川、人を切るのは簡単だ。だがな、人を変えるのは難しい。あの男はまだ気づいていない。自分が踏みつけてきた人間が、どんな思いをしていたかをな。気づかせるためにも、わしはもう一度だけ機会をやろう。ただし、二度目はないがな。」
「はい。」
自分の欲のためだけに生きてきた男に下されたのは、罰だった。だが罰だけでは人は変われない。人を踏みつけてきた男が、人を支える側に回るまでには、きっと長い長い時間がかかるだろう。窓の外、雲の隙間から差し込む細い陽光が、黒崎の手元の書類をわずかに照らしていた。
数週間後、総一郎は緊急搬送された病院へ経過観察のために通院していた。
「藤堂さん、もう経過は完璧ですね。心配されていた数値も、すっかり正常に戻っています。今日で通院は終了で大丈夫ですよ。」
「おお、それは良かった。先生、本当ですか?」
「ああ、良かった。本当に良かった。」
長谷川は診察室から付き添ってきたまま、目元を真っ赤にして喜んでいた。
「ただ、藤堂さん、お年もお年ですから、もうあんな無茶はなさらないでくださいね。」
「うん。考えとくよ。」
「考えとく、じゃないですよ。そうさん、もう絶対、絶対に無茶しないでください。僕、あの日のこと思い出すたびに、寿命が縮む思いです。」
「お前は心配性すぎる。」
「心配性で結構です。もう二度と川なんかに飛び込まないでくださいよ。」
「ふん。だがな、長谷川、お前はいい加減泳げるようになっとけ。」
「へ?僕ですか?い、いや、その……」
「もしまた誰かが流されたら、今度はお前が飛び込むんだ。秘書ってのは取締役の手足だぞ。」
「……努力します。」
医師は二人のやり取りに思わず吹き出した。
診察を終え、病院の長い廊下をゆっくり歩いていた時、総一郎の目に見覚えのある後ろ姿が映った。
「白石さん。」
「あ、取締役。」
しおりは母の見舞いの帰りだった。今日も母の眠る病室で、一時間ほど一方的な報告を済ませてきたところだった。お互いに少し驚きながら、病室前のベンチに並んで腰を下ろした。
「最近、銀行の方はどうかね。」
「はい。おかげ様で、毎日楽しく頑張っています。」
「うん。それは何よりだ。」
二人の会話には自然な間があった。しばらく銀行の話、しおりの同期の話、総一郎の通院終了の話が続いた。そして総一郎がふと言った。
「ところでな、お母様にも一言、御礼を伝えさせてもらえんかな。君がわしの命を救ってくれた。その娘さんを育てた方だ。」
しおりはほんの一瞬、視線を落とした。
「あ、それは……母は、その……」
しおりが言葉を濁したその時だった。すぐ脇の病室の中から、かすかな声が漏れてきた。
「……しおり……」
しおりの体がびくっと震えた。
「え?お母様の声か?」
「え?いえ、そんなはず……お母さんは半年も意識が……」
「しおり……」
今度ははっきりと聞こえた。しおりは弾かれたように立ち上がり、病室のドアを開けた。
「お母さん!お母さん!」
母がベッドの上で、うっすらと目を開けていた。半年間ピクリとも動かなかったまぶたが、ゆっくりと確かに上下していた。
「お母さん、お母さん、わかる?私だよ。しおりだよ。」
「ええ、ちゃんと分かりますよ。」
「お母さん!嘘?嘘でしょ?お母さん!」
しおりは母のベッドに飛びつくように膝をついた。母の手を両手で握りしめる。手はまだ細く、まだ冷たかったが、確かにわずかに握り返してきた。
「どうしたの?しおり。そんなに泣いて。」
「だって、だって、お母さんずっと……」
しおりは泣きじゃくりながら、言葉にならない思いを必死で唇にのせた。母は娘の涙を見るのがつらいそうに、優しく微笑んだ。
そして、ささやくようにゆっくりと告げた。
「泣かないで、しおり。明日はきっと今日よりいい日になるわ。お父さんがいつも言ってたでしょう。忘れちゃだめよ。」
「うん。うん。お母さん、私、ずっと覚えてる。お父さんの、その言葉。」
しおりの頬を温かい涙が次々と伝った。まさか母が目を覚ますなんて、夢にも思わなかった。半年もの間、機械の音だけが響く病室で、ピクリとも動かなかった母。ほんの数週間前、自分は理不尽な解雇を言い渡され、雨に打たれながら何もかも終わったと泣き崩れた。父の残してくれた言葉さえ嘘だと信じられなくなりかけた、あの夜。それでも信じて歩いてきた道は、間違っていなかった。
「明日は、ちゃんと今日よりいい日になるんだね。お父さん。」
しおりは母の手をぎゅっと握りしめ、声を殺して泣き続けた。廊下から開いたドアの隙間越しにその光景を見ていた総一郎は、息を飲んだ。
「あの言葉が、こんなところで……」
総一郎の胸の奥が、ふいに熱くなった。しおりの父が、自分の言葉に救われていたというのか。十五年前、亡き妻が残してくれたあの一言が、自分の知らないところで、こんな家族にまで届いていたのか。
総一郎はそっと病室の前を離れた。ふと隣を見ると、長谷川が鼻をすすりながら立っていた。
「そうさん……」
「うん。いいんだ。いい光景だ。邪魔をしちゃいかん。」
総一郎はそれ以上何も言わなかった。足音を立てないように、病室の前から離れていった。
その時、母の手を握っていたしおりは、ふと廊下の方に気配を感じた。取締役だ。声をかけたかった。一言御礼を言いたかった。でも、その背中は親子の対面に水を差すまいと、何も言わずに去っていく優しさそのものだった。
しおりは声をかけることをためらった。代わりに、その背中に向かって深く深く頭を下げた。
「ありがとうございます。本当に、本当にありがとうございます。」
何度も何度も頭を下げた。そして再び、ベッドの母の手を強く握り直した。
しばらく歩いて、廊下の窓辺で総一郎は足を止めた。窓の外、雲の隙間から夕日が差し込んでいた。総一郎はぽつりと、独り言のように呟いた。
「明日はきっと今日よりいい日になる。あの言葉が、こんなところで生きていたとはな。」
「そうさん。」
「みさ子、聞いとるか?お前の言葉はな、今日もちゃんと誰かを救ったよ。」
長谷川の目から涙がはらはらと落ちた。彼はずっと前から、その言葉が総一郎の妻の遺言だと知っていた。だが今日、この病室でその言葉が他人の家族を支えていたという事実を目の当たりにして、初めてその言葉の本当の重みを理解した気がした。
「そうさん、僕、今日初めて、本当の意味で分かった気がします。」
「うん。そうか。」
総一郎は空を見上げたまま、優しく微笑んだ。
「明日も、いい日にしような。」
肩書きは虚仮に過ぎない。だが誠実さだけは、誰にも奪えない。そしてその誠実さは、必ず誰かの目に届く。今日でなくても、必ずいつか。
「さあ、誕生日の続きをしようか。」
「はい。」
夕日の中、廊下に立つ二人の影が長く長く伸びていた。
