夫との二泊三日の温泉旅行から帰ってきた私を待っていたのは、玄関に置かれた旅行かばんを睨みつける長男の嫁、みさの鋭い声だった。
「随分いいご身分ですね」
「え、どうしたの、みささん?」
「温泉旅行もですけど、友達とお茶したり、ガーデニングにお金使ったり。いい加減にしてもらえませんか?」
私は意味が分からず、みさの顔を見つめた。すると彼女はさらに強い口調で続けた。
「私の夫が稼いだお金で、老後を贅沢に過ごすのをやめてください。もう六十ですよね。少しは身の丈にあった生活をしてくださいよ」
リビングにいた長男の浩司が立ち上がった。
「みさ、お前何言ってるんだよ」
「だって本当でしょ。浩司さん、毎月この家に五万円も入れてるじゃない。そのお金で温泉なんか行かれたら、こっちはたまらないんですけど」
私はようやく、みさが何を勘違いしているのかを理解した。彼女は、浩司が入れてくれる五万円が、私と正夫の生活費になっていると思い込んでいるのだ。
「そう、分かったわ」
みさは勝ち誇ったように笑った。
「分かってくれればいいんです。じゃあ来月から」
私は静かに続けた。
「この家の住宅ローンも半分払ってもらいましょうか。固定資産税も、光熱費も、食費も。あなたたち三人が住んでいるんだから、半分でも安いくらいよね」
みさの顔から笑みが消えた。
「ちょ、ちょっと待ってください」
「あら」
私は笑った。
「人のお金で暮らすのは嫌なんでしょ」
私の名前はさち子。六十歳。夫の正は六十二歳だ。三十五年前に結婚し、二人で働きながら今の家を建てた。七年前に水回りなどを大きくリフォームしたため、住宅ローンは月々約十万円と、まだ少し残っている。それでも正は現役で働いているし、私も週に三日、昔勤めていた会計事務所の手伝いをしている。年金を受け取るまで、自分たちの生活くらい自分たちで十分やっていける。
そんな私たちの家に、一年ほど前から長男の浩司一家が暮らすようになった。浩司三十六歳、妻のみさ三十四歳、そして七歳になる孫のユナ。きっかけは浩司からの相談だった。
「母さん、しばらく一緒に住ませてもらえない?」
当時住んでいたマンションの家賃が上がり、ユナの教育費もこれからかかる。マイホーム購入の頭金を貯めたい。そう言われたのだ。
もちろんいいわよ。私も正も快諾した。浩司は何も払わないのは悪いからと、毎月五万円を家に入れることにした。ただし、それは援助ではない。三人分の食費と光熱費のほんの一部。家のローンや固定資産税、修繕費、それらは全て私と正が負担していた。
同居を始めた頃のみさとの関係は、本当に良かった。
「お母さん、この煮物、どうやって味付けするんですか?」
一緒に料理したり、私が洗濯すればみさが掃除をする。みさが忙しい日は私がユナを迎えに行く。
「お母さんがいると本当に助かります」
そう言ってくれるみさを、私は本当の娘のように思っていた。
ところが、二ヶ月ほど経った頃から、少しずつ彼女の態度が変わり始めた。
ある朝、少し寝坊した私が食卓へ行くと、三人分の朝食だけが並んでいた。
「あれ? 私の分は?」
みさは笑顔で言った。
「ご自分でお願いします。私は家族の分しか作ってませんので」
家族の分。その言葉だけが妙に耳に残った。
別の日、洗濯機の横には私の服だけが残されていた。
「みささん、これって」
「お母さんの分はご自分で洗ってください。私は家族の洗濯物で精一杯なので」
また、家族の分。
夕食を作ろうとすると「触らないでください。私たちの食事は私が作りますから」と言われ、掃除を手伝えば「勝手に物を動かさないでください」と言われた。リビングで正と話していると「お疲れならお部屋で休んだらどうですか」と冷たく言われる。
まるで私だけが、この家の中で透明になったようだった。それでも私は浩司には言わなかった。息子夫婦の仲を壊したくなかった。それに、一緒に暮らしていれば多少のすれ違いくらいある。そう思っていた。
でも決定的な言葉を聞いたのは、友人とお茶をして帰宅した日だった。
「お母さん、また遊びに行ってたんですか?」
「ええ、昔の友達とね」
するとみさは大きくため息をついた。
「あんまり浩司さんのお金で遊び歩かないでください。そのお金は私とユナのために稼いでるんですから」
私は呆然とした。
「私、浩司からお金なんてもらってないわよ」
みさは鼻で笑った。
「はいはい。そういうことにしておきます」
その時初めて思った。この人、何かがおかしい。
それから気になり始めたことがある。みさは異常なほど郵便物を気にしていた。私がポストから郵便を取っただけで「触らないでください」と怒る。金融会社から届いた封筒も何度か見かけた。もちろん中身を開けたことはない。
さらに、一ヶ月前にはなかったブランドバッグ、新しいネックレス、高そうな靴。身の丈に合わないものが次々と増えていく。
ある日、孫のユナが無邪気に言った。
「ばあば、ママ、またバッグ買ったんだよ。この前のはもう飽きたって」
私は浩司に一度だけ言った。
「ねえ、自分の口座、最近確認してる?」
「え? みさに任せっきりじゃない?」
浩司は笑った。
「まあ、家計はみさに任せてるけど」
「一度ちゃんと見ておきなさい」
それ以上は言わなかった。
そんな中、正が言った。
「さち子、今年結婚三十五年だろ? 久しぶりに温泉行かないか?」
決して豪華な旅行ではなかった。でも素敵な提案だった。それに、正がずっと行こうと思って貯めてたと出してくれた旅行だった。
久しぶりに二人きりで、温泉に入り、ゆっくり食事をした。朝寝坊までして、私は久しぶりに妻に戻ったような気がした。
そして幸せな気持ちで帰宅した私を待っていたのが、鬼のような形相のみさだった。
「ローン半分ってどういう意味ですか?」
みさが声を荒げた。私は無視してテーブルに家計簿を置いた。
「この家のローンは十万二千円。半分なら五万一千円。それから固定資産税に光熱費、食費や家の修繕費」
みさの顔が引きつる。
「浩司が毎月入れている五万円だけど、あれはあなたたち三人の食費だけでも足りないくらいなのよ」
浩司も言った。
「みさ、俺、最初に説明したよな。五万円は親へのお小遣いじゃない。住ませてもらってるから、生活費として入れてるんだって」
でもみさは叫んだ。
「この家だっていずれ浩司さんのものになるんでしょ」
一瞬、部屋が静まり返った。正の顔から笑みが消えた。
「みささん、俺たちまだ生きてるんだけどな」
そして私は浩司を見た。
「浩司、あなたの口座を確認しなさい」
浩司が慌ててスマートフォンを取り出す。数秒後、顔色が変わった。
「なんだこれ? みさ、貯金は? え、三百万円以上あっただろう。なんで四十万円しかないんだよ」
みさは黙った。
全て確認して分かったことがある。夫婦の貯金を使い込んだだけではなかった。みさ本人のカードローンで、約二百五十万円の借金が発覚した。バッグ、アクセサリー、服に美容。この借金は積み重なった浪費が原因だった。
浩司が震える声で聞いた。
「なんで黙ってたんだ?」
するとみさは逆に怒鳴った。
「仕方ないでしょ。私だってストレス溜まってたのよ。毎日この家にお母さんがいて、好きなようにできないし、ずっと見張られてるみたいなのよ」
私は静かに聞いた。
「だから私の食事だけ作らなかったの? 洗濯物も家族の分だけって、何度も言ったわよね?」
みさは顔を背けた。
「正直、邪魔だったんですよ。浩司さんが毎月五万円もお母さんたちに渡してるのも腹が立ったし。そのお金があれば、もっと私たちが楽できるでしょ」
その言葉で、浩司の顔が完全に変わった。
「お前、しばらく出て行ってくれ」
「は?」
「借金も、使い込んだ貯金も、一度全部整理する」
するとみさは突然泣き出した。
「そんな、家族でしょ。みんなで払えばいいじゃない」
私は思わず笑ってしまった。
「家族?」
みさが私を見る。
「あなた、私の洗濯物を残した時に何て言ったか覚えてる? 『私は家族の分だけ洗います』って言ったわよね」
みさの唇が震えた。
「私を家族から外したのは、あなたよ。都合が悪くなった時だけ家族だから助けて、なんて虫が良すぎるんじゃない」
その後、浩司とみさは別居し、話し合いを重ねた末に離婚した。借金についても、専門家を交えて整理することになったそうだ。ユナは浩司と暮らすことになり、しばらくして二人は近所の小さなマンションへ引っ越した。
「母さん、今まで甘えててごめん」
浩司はそう言った。
「いいのよ。でも、今度は自分の家庭のお金くらい、自分でもちゃんと見なさい」
久しぶりに、この家には私と正だけの静かな時間が戻った。数ヶ月後、正が言った。
「もう一回温泉行くか。今度は三泊四日ってのはどうだ?」
私は笑った。
「またみささんに怒られるわよ」
二人で顔を見合わせて笑った。
今度は少し遠くの温泉地へ行くつもりだ。自分たちで働き、自分たちで返してきた家のローン。自分たちで貯めたお金と、自分たちの時間。これは誰に遠慮する必要もない。
家族だから支え合うというのは、それは素敵なことだ。でも、家族だからと言って、誰か一人の善意やお金に勝手に寄りかかっていいわけではない。それを一番よく分かっていなかったのは、私の夫のお金で贅沢するなと言った本人だったのかもしれない。
