「お兄さん、突然なんの冗談ですか?」——深夜11時、夫が出て行ったあとのリビングで、私は浩司さんから信じたくない話を聞かされていた。半年前から、義姉のエリカが深夜にウォーキングと称して家を出るようになった。運動嫌いだったはずの彼女が、なぜ真夜中に濃い化粧をして出かけるのか。そして三日前、浩司さんはついに尾行した。二人は公園で落ち合い、多目的トイレに二十分もこもった。「三日連続で、具合が悪くな…

「お兄さん、突然なんの冗談ですか?」——深夜11時、夫が出て行ったあとのリビングで、私は浩司さんから信じたくない話を聞かされていた。半年前から、義姉のエリカが深夜にウォーキングと称して家を出るようになった。運動嫌いだったはずの彼女が、なぜ真夜中に濃い化粧をして出かけるのか。そして三日前、浩司さんはついに尾行した。二人は公園で落ち合い、多目的トイレに二十分もこもった。「三日連続で、具合が悪くな...

「お兄さん、突然なんの冗談ですか?」

「本気だ。行動がおかしいんだよ」

そう切り出したのは、夫の健一の兄・浩司だった。彼の妻であるエリカが、最近あまりにも怪しいという。運動が大嫌いだったはずのエリカが、突然ウォーキングを始めたのだ。

「健康のためじゃないんですか?」

「そう思いたいけど、23時頃に出ていくんだぞ。さすがにおかしいだろ」

「確かに、それは遅いですね。女性の一人歩きは危ないって言ったんですけどね。深夜の方が静かだからって聞かなくて」

「それ、いつからですか?」

「半年くらい前だよ」

健一が言葉を継いだ。自分もランニングだと言って、同じ時間帯に外に出るようになったのは、ちょうどその頃からだという。

「こっちは男だから、大して気にしてなかったんですが」

「何時頃帰ってきてる?」

「日付が変わる少し前くらいです」

「エリカも同じくらいだ」

浩司は最初、運動を応援していた。だが、どうにも引っかかることがあった。ウォーキングに行くにしては、化粧が濃いのだ。深夜に、そんなに綺麗に化粧をして出かけていくのは変だ。

そして三日前、浩司は二人の後をつけた。二人は家と家の中間地点にある公園で落ち合っていた。

「ホテルとかじゃないなら、相談事があったとかじゃないですかね」

「信じたい気持ちは分かるよ。でもな、二人で多目的トイレに入ったんだ。二十分も出てこなかった」

さとみは言葉を失った。

「私たち、仲良くしてますし、夫婦仲が悪いとかもないんですけど」

「うちもそうだった。だから驚いてるんだ」

さとみは夫に問い詰めるべきか悩んだが、浩司は待ったをかけた。エリカが体調不良で、健一が付き添いでトイレに入っただけかもしれないではないか、と。しかし浩司は首を振る。

「三日連続で、具合が悪くなってトイレに入ると思うか? あの日から毎日続いてるんだぞ」

確かに、本当に体調が悪いならウォーキングを休むはずだ。さとみは納得するしかなかった。

「さとみちゃんに言うべきか迷ったよ。でも妊活してるって言ってたし、真実を知るなら早い方がいいと思ったんだ。辛い思いをさせてごめんな」

「いえ、辛いのはお兄さんも同じですから」

浩司はスマホで動画も撮ったらしい。しかし暗くて、はっきりと顔が映っていなかった。弁護士の友人に相談したら、これでは言い逃れされるかもしれないと言われた。はっきりと顔が分かる証拠が必要だった。

「そのために俺は、直近でいくつか出張を入れることにした。さとみちゃんも、どこか行くことできないかな」

「私たちが同時にいなくなれば、相手が動き出すってことですか?」

「そうなんだ。その日に探偵をつけようと思ってる」

さとみは、ちょうど母の体調が良くないので実家に帰ろうと思っていたところだった。出張は来週の火曜日。その日で調整することになり、さとみは健一にそれとなく伝えておくと言った。

翌日、さとみは健一に実家に帰りたいと申し出た。母の体調が悪化したという話に、健一は快く送り出してくれた。「排卵日なのにチャンス逃しちゃうけどごめん」と謝るさとみに、健一は「また来月頑張ればいいじゃん」と笑った。「いい旦那さんでよかっただろ?」と得意げな顔で。さとみは胸の内だけで、その言葉がどれほど皮肉に聞こえたかを呑み込んだ。

数分後、さとみは浩司に連絡を入れた。出張の日、実家に帰ることになったと。浩司も健一に伝えたらしい。二人が家を空ける時間が確保できた。浩司は言った。

「俺が考えるに、普段はトイレでこそこそしてるから、家を空けたら羽を伸ばすと思うんだ。ホテルか、どっちかの家かに。」

浩司は小さなカメラを用意していた。見つかりにくい場所に設置してほしいという。

「そこまでするんですか?」

「家に入っただけだと、挨拶に寄っただけと言い逃れされるかもしれないだろう」

さとみは迷ったが、浩司の真剣な眼差しに頷いた。自分も真実を知りたい。そう思った。カメラはリビングと寝室に一つずつ設置することになった。

一週間後、さとみは予定より早く帰ってきた。母の体調が良くなったのと、「主婦がいつまでも家を開けるのはダメ」と言われたからだ。電車の中で、健一に買い物を頼まれ、駅の裏のパン屋でメロンパンを買って帰ることになった。

家に着くと、健一は慌てた様子だった。「部屋が汚い」と言って、さとみに掃除をさせまいとした。さとみが片付けようとすると、「疲れてるんだし、俺がやっとく」と言って、パンだけを渡した。

さとみは確信した。この家に、さっきまで他の女がいた。いや、他の男がいたのだ。エリカがこの家に来ていた。健一は、さとみが帰ってくる前に片付けようとして、時間を稼いでいたのだ。

さとみは浩司に電話した。探偵の報告では、エリカは一時間前にこの家に入ったらしい。

「私、無理です。あの二人が使ったベッドで寝られません」

「だよな。まさかそっちの家ばっかり使うとは思ってもみなかった」

「お姉さんが、自分たちの家に呼ばないのには理由があるんですか?」

「うちは近所付き合いが結構あるからな。人の目を気にしてるんだろう」

さとみは実家に戻ることも考えたが、両親に心配をかけたくないとホテルに泊まることにした。浩司がお金を出すと言ったが、さとみは断った。明日、カメラを回収したら連絡すると言って、電話を切った。

翌日、健一から何度も電話がかかってきた。さとみは出なかった。結局、母の容体が急変したという連絡があって、急いで駆けつけた、と嘘をついた。健一は心配してくれたが、さとみの返答は冷たかった。「次からは帰ってくる前に連絡してほしい」と言う健一に、「なんで?」と問い返すと、「ちゃんと片付いた部屋で出迎えたいからさ」と答えた。その言葉が、どれほどさとみの心を抉ったか、健一は知る由もなかった。

数日後、浩司がエリカを問い詰めた。さとみも立ち会い、健一も呼び出された。

「俺の弟と浮気するなんて大した根性してるな」

「はあ? 浩司とちょくちょく会ってるのは、身内だからよ。あなたやさとみちゃん抜きで会うのがおかしいの?」

「なんで浩司の家に行ったんだ?」

「さとみちゃんが実家に帰ってるでしょ。あなたも出張でなかったし、料理や掃除とか助けになればと思っただけよ」

「朝まで掃除してたのか?」

「お酒飲んだら酔っ払っちゃって、ソファーで寝ただけ」

「夫婦の寝室で一緒に寝てただろう。寝てただけじゃないみたいだけどな」

エリカは言葉を失った。浩司が言った。

「見たんだよ。仕掛けておいたカメラでな」

「盗撮? 最低すぎるんだけど、本当に気持ち悪い」

「どの立場で切れてんだよ。仕方ないじゃない、浩司が誘ってきたんだから」

「お前は誘われたら誰でもホイホイついてくのか?」

「身内だし、今後も会うのよ。空気が悪くならないように気を使ったの」

「そんな気を使う前に、俺に相談しろよ」

エリカは「私が悪かった、ごめんなさい」と頭を下げた。だが、その謝罪は形だけだと浩司もさとみも分かっていた。ウォーキングも、トイレにこもって二十分も話をしていたことも、全部認めたのだ。

「あの子が我慢できないって言うから、仕方なくよ」

「トイレに二十分以上こもって、何を話すことがあるんだ」

「そこまで見てたの? ちょっと引くわ」

さとみは怒りで震えていた。エリカはさらに開き直る。

「別にいいじゃない。今までだって、兄弟でいろんなものをシェアしてきたでしょ。今回もそれと同じだと思えばいいのよ」

「ふざけんなよ。さとみちゃんの気持ちはどうなるんだ?」

「あんな女、知ったこっちゃないわよ」

エリカは、男が浮気する時は大抵妻に原因があると言い放った。さとみは、もう何も言えなかった。涙が止まらなかった。

「ちゃんとさとみちゃんに謝罪しろ。そして責任を取れ」

「責任? それならダブル不倫だから、お互い様でしょ。プラマイゼロなんだから、払う必要なくない?」

浩司は「今後も夫婦でいられると思ってんのか?」と問うと、エリカは「じゃあ離婚でいいわよ」と軽く笑った。

「あなたが許してくれそうにないから、自分から引き下がったんでしょ? 反省してないだろ」

「悪いとは思ってるわよ。もういい? 吐きそう」

さとみは「病院行ったら?」と言い捨てると、エリカは「黙れ」と怒鳴った。

数時間後、さとみは浩司に謝意を伝えた。自分の夫が、こんな人間だったなんて。真面目に配偶者だけを愛してきたのに、なぜこんな辛い目に遭わなければならないのか。二人は同じ苦しみを抱えて、お互いを励まし合った。

さとみは直接会って話すつもりはなかった。顔も見たくない、何をするか分からないから。メールで事実を送ることにした。健一は最初、とぼけていた。

「何言ってんだよ。疲れでおかしくなったんじゃないか?」

「お姉さんは認めたわ。連絡来てるんじゃないの?」

「いや、別に」

「じゃあ、これ見て」

さとみはメールで送った。探偵が撮影した画像と動画。二人の顔がはっきりと分かる、決定的な証拠だった。

「見た? 認めるのね」

「これ、AIだろう。最近のAIはすごいなあ。本当に俺とお姉さんが怪しい関係に見えるわ」

「何言ってんの? まだ認めないつもり?」

「そっちこそ捏造したこと認めてよ。こんなことして誰が喜ぶんだ?」

「じゃあ裁判ね。プロにこれが捏造かどうか判定してもらいましょう」

「ちょっと待ってよ。身内同士で揉めるの、良くないだろう」

「その原因を作ったのは自分たちでしょ」

健一は一度帰ってこいと言ったが、さとみは拒否した。「私のベッドであんなことしておいて、そこで寝ろって言うの、すごい神経してるわね」と。健一は「映像はそういうことをしてるように見えるけど、記憶にないんだよな」と、最後までシラを切り続けた。

さとみは「ゆっくりその証拠を見て。考えが変わったら連絡して」と言って、電話を切った。

数分後、エリカが健一に電話をかけていた。

「ねえ、全部バレたみたいね」

「なんでそんな余裕なんだよ」

「だって、私と新しい家族作れば寂しくないでしょ。私、妊娠したの」

「誰の子だ?」

「あなたしかいないわよ。浩一とは、半年以上そういうことしてないんだから」

健一は言葉を失った。妻とは長年子供ができず、不妊治療までしていた。それが、他の女にこんなに簡単に子供ができるなんて。

「不妊治療だって、自分頑張ってますって顔してたけど、男も辛いのよね」

「うん、辛かった」

「本当によく耐えたよ、浩司君。えらいえらい」

「エリカさん、やっぱりその包容力にメロメロだよ。一生一緒にいたい」

「私もよ。だからさっさと認めて、払うもん払って、別れて一緒になろう」

「ああ、俺もそれがいいような気がしてきた」

翌日、健一はエリカの家で開き直っていた。

「兄嫁を妊娠させたから、責任とって再婚するわ」

「子供まで作ってたの? 信じられない」

「天から授かっただけだよ。俺がどんな思いで不妊治療を頑張ったと思ってるんだ」

「辛かったのはお前だけじゃないだろう」

「そういうところがうんざりなんだよ。注射や検査の痛みに耐えたのは俺だ」

もうそんな思いをすることもない、と健一は言い放った。そして「お前と兄貴には悪いけど、ダブル離婚でよろしく」と、まるで他人事のように言った。

浩司は冷静に問いかけた。

「昨日と随分テンションが違うな。開き直りすぎじゃないか?」

「だって事実だもん。今更隠してもしょうがないし」

「なるほどね。妊娠したお姉さんと一緒に新しい家庭を築くってことか」

「まあ、そうなるかな」

「そんな簡単な話じゃないだろ。お兄さんはどうなるのよ。奥さんだけじゃなく、実の弟にまで裏切られたんだぞ」

「俺からすれば、ざまあみろって感じだけど」

さとみは怒りで震えた。

「どうしてそんなことが言えるの?」

健一は笑った。昔から兄と比較されてばかりだった。やっと兄に勝てた、と。

「人生で一番大事なものを奪えたんだぜ。そして俺にとっても、人生で一番愛する人と一緒になれる。こんな最高なことはある?」

「あなたの最高が、誰かの最低になるのに」

「世界ってそういうもんだろう。持つ者と持たざる者がいるんだよ」

「気持ちはよく分かった。なら、よかったな」

さとみは震える声で言った。

「私も相当切れてるけど、お兄さんが苦しんでる姿を見てきたから、怒りは二倍なの」

「だから何だよ」

「あんたら、地獄を見るよ」

「はっ、そんな言葉で俺がビビると思ってるのか?」

「それはまだ分からないでしょ。だって、まだ何もしてないんだから」

さとみは最後にこう言い残した。

「普段おっとりしてる人間が怒ると、何をするか分からないものよ。楽しみにしてて」

数分後、さとみは浩司にメールで伝えた。浩司は、あいつがそんな風に思っていたのか、と静かに呟いた。

「俺もこれで覚悟が決まった。でも、何をどうするかはまだ考えてない。慰謝料を取るくらいしか思いつかなくて」

「実際にできることはそれくらいだと思う」

「でもな、プライドの高いエリカと甘えん坊の浩司にとって、一番辛いことをしてやろうと思うんだ」

浩司は言った。二人はお腹が大きくなる前に式を挙げる予定らしい。エリカはLINEにロックをかけていない。浩司は健一が寝た後にこっそり見て、証拠を取った。開き直って、式場の下見をしているらしい。

「その式場なんだが、偶然俺の友人が経営してるんだよ」

「そうなんですか?」

「そこで下見に来たあいつらに、とあるサプライズを見舞ってやりたい。二人に関係する人物を全員呼び出すんだ」

「え?」

「同級生、ご近所さん。あいつらを信じてる人たちに、本当の姿を見てもらう」

浩司は言った。健一は昔から母親にべったりで、親戚中に可愛がられてきた。特に、従姉の美紀とは今でも二人で飲みに行く仲だ。

「あの人なら、きっとぶち切れますね」

「地獄を見せてやろう」

一週間後、二人が式場の下見に訪れた。そこには、浩司とさとみが呼び寄せた親族、友人、ご近所さんたちが待ち構えていた。総勢五十人ほど。

エリカは顔面蒼白だった。

「あんた、マジで性格腐ってんね」

「お前に言われたくないな」

「なんで下見の日だって知ってたのよ」

「LINEを見た」

「さとみが式場を許可したのはどうして?」

「たまたま俺の知り合いの会社だった」

「親族やご近所さんまで呼ぶ必要があった?」

「あっただろ。おかげでお前の本性をみんなに知ってもらえたからな」

エリカは「さらし物にして楽しかったでしょうね」と吐き捨てたが、浩司は「ああ、楽しかったよ。お前らの絶望に満ちた顔と、全てを失った瞬間を見届けることができた」と笑った。

「これで俺もさとみちゃんも、前を向いて歩いていける」

「あんた、さとみとできてんでしょ? とことんゲスだな」

「お前らと同じだと思われたことが一番の屈辱だよ」

エリカはさらに言った。

「同じ境遇の二人が慰め合ってるうちに恋に落ちるなんて、少女漫画のお決まりでしょ」

「残念ながら、お前らみたいなクズが登場する以上、漫画としては成立しないな。どちらかといえば成人向けのコミックだ」

「笑い事じゃないのよ」

「俺としては、今日で全てが終わって晴れやかな気分だ。パーっと飲みに行きたいくらいだよ」

エリカは、両親まで呼ばれたせいで里帰り出産すらできなくなったと怒った。だが、浩司は構わなかった。さらに、二人はDNA鑑定を受けることになった。浩司が綿棒を渡して、口の中の細胞を取らせたのだ。

「DNA鑑定だよ。俺の子だと証明して、親権を争うわけだ。戸籍上は一応俺の子になってしまうからな」

エリカは「養育費は払わないの?」と聞いたが、浩司は「なんで俺が払うんだよ」と笑った。

「二人で孤独なスタートか」

「誰と誰のことを言ってる?」

「私と浩司に決まってるでしょ」

「それは無理だろうな」

「どういう意味?」

「それは弁護士と話してくれ。じゃあな」

数分後、健一が浩司に電話をかけていた。

「お前、何してくれてんだよ」

「こっちのセリフなんだけど」

「親族、友達、会社の人まで式場に集めるなんて、正気か?」

「義姉と浮気して子供作るのは正気なんですか?」

「しかも、エリカさんの友達まで。ご近所さんまで。総勢何人いたんだよ?」

「五十人くらい。お祝いするには足りなかったかな?」

「俺らは普通に式の下見に行っただけなんだぞ」

「まだ離婚も成立してないのに、随分先走ってるのね」

「お腹が大きくなる前に、早く式を挙げたいんだよ」

「その式に、誰が来てくれると思うの? 今日来てくれた人たちは全員怒ってたし、ドン引きしてたから来ないわね。でも、その人たちがきっと話を広めてくれるわ。その他の人も来ないね。一体誰に祝福してもらうつもりなのかしら」

「じゃあ、海外で二人で式を挙げる」

「それは構わないけど、慰謝料請求地獄に陥るあなたとエリカさんに、その余裕があるの?」

「は?」

「あなたには二百万請求するわ。貯金もないから、借金するはめになるわね」

「俺には新しい生活があるんだぞ」

「私も生きていかないといけないの。お兄さんたちはエリカさんの浪費で貯金はほぼゼロ。あちらも慰謝料でマイナスよ。残金マイナスの二人が、海外で式なんて挙げられると思う?」

「今後、俺が働いて稼げば問題ない」

「それは勝手だけど、決して楽な結婚生活じゃないわね」

「なんでそう言い切れるんだよ」

「浪費家のエリカさんと、お金の管理を私に任せっきりにしてきたあなた。どうなるか、火を見るよりも明らかでしょ」

さとみは続けた。

「まず、エリカさんは全く料理ができないの。ほぼ外食か、デパ地下だったわ」

「そんなはずない。俺に美味しい料理を作ってくれた」

「デパ地下のお総菜を、鍋にぶち込んだだけよ。お兄さんはそれを知った上で結婚したのよ。あなたにその覚悟がある?」

「嘘だろ…」

「私の料理については、あなたが一番知ってるわね。洗濯機のボタンを押すことしかできないらしいわ。お兄さんは、それでも明るくて前向きなところが好きだったんだって」

「それはちょっと話が違うかも…」

「子供が生まれてみなさいよ。ミルク作れ、離乳食作れって命令されるようになるわ。お米一つ炊かないあなたに、できるかしら?」

「できないな…」

「あなたは、エリカさんの何が好きだったの?」

「なんか、引っ張ってってくれるところとか、頼りがいがあるところとか…」

「見間違えてたみたいね。エリカさんは、お兄さんに引っ張ってもらって、頼りまくって生きてきただけの人よ。それを自分の力だと勘違いして、あなたにいい格好をしてみせただけなの」

「マジかよ…」

「でも、祝福するわ。幸せになってね」

「ちょっと待って。それは何?」

「責任とって再婚するわって、偉そうに言ったのは誰だっけ?」

「あれは、実際に子供はできてるわけだし、責任は取るべきでしょ」

「本当に俺の子かな?」

「今更、何言ってるの?」

「だって、お前とも何年も子作りしててできなかったし。他の女性ならできるって話が、うまくいきすぎてるかなって」

「DNA鑑定の結果を楽しみに待ちなさいよ」

「もし俺の子じゃなかったら、より戻してくれる?」

「ふざけないで。私は二人分の怒りを抱えてるの」

「誰だよ」

「お兄さんに決まってるでしょ」

「なんでそこまで兄貴に肩入れするんだ? あ、もしかして、お前らもそういう関係なんじゃねえの?」

「あなたたちクズと一緒にしないで。お兄さんは私にすごく気遣いしながら、真実を究明しようと励ましてくれたわ」

「ほら、それが下心あるって言ってんだよ」

「人の浮気を疑う前に、自分の始末をつけなさいよ」

健一は親や親戚から絶縁宣言されたという。美紀にもブロックされた。友達も会社の人も、ゴミを見るような目で言葉もかけてくれないらしい。

「良かったじゃない。ゴミだって、使い方によっては肥料にもなるわ」

「ひどいこと言うね」

「あなたが浮気してると知って、ショックだった。何のために辛い不妊治療に耐えてきたか、分かってる?」

「子供が欲しかったからだろう」

「違う。あなたと一緒に、温かい家庭が作りたかったのよ」

「だから、悪いと思ってるって」

「苦しくて辛くて、人間不信になりながらも戦ってきてよかったと思えたのは、あなたとエリカさんの絶望的な顔を見れたからよ」

「何もかも失った人間に言うことか」

「それだけのものを失うことをしたのは、自分でしょ」

健一は「お前とよりを戻したら回復できないかな」と聞いたが、さとみは冷たく言い放った。

「できないし、協力する義理もないわ。さようなら」

「待って」

「何?」

「なんかさ、何もかも失ってまでエリカさんと一緒になりたいかって言うと、微妙だなって」

「は?」

「俺の勘なんだけど、多分俺の子じゃない気がするんだ」

「何言ってるの?」

「旦那の弟に手を出すような人だぜ。多分、他の男とも遊んでたと思うんだよな」

「じゃあ、本人にそう言えば」

「やだ、怖い」

「今更何なの?」

「俺と一緒に、家族作りたいんだよね? さっきそう言ってたじゃん」

「過去よ。今は、詰まれても無理」

「さとみさえ許せば、親も親戚も許すと思うんだよね」

「じゃあ、一生許さない」

「待ってよ。美紀姉ちゃんだけでも、仲直りしたいんだ」

「美紀さん、言ってたわよ。身内に手を出すキモい甥を可愛がってた自分が許せないって」

「そんな…」

「お正月もお盆も、あなたは里帰りすらできない。お祝い事もお悔み事も、参加は許されない。親の葬式もね」

「当然よ。そこにはお兄さんがいるんだから」

健一は「土下座するし、何でもするから許してほしい」と言ったが、さとみは一顧だにしなかった。

「本当に懺悔するなら、勝手にすればいい。あなたが悪人でもゴミでも、私には関係ないんで」

「そんなことを言わないで。やっぱりさとみが好きだ」

「気持ち悪いから、二度と話しかけないで」

翌日、さとみと浩司は落ち合った。

「お疲れ様。やっと終わったね」

「はい、お疲れ様でした」

「しかし、父さんの切れっぷりはすごかったね」

「お父さんがあんなに怒ってるの、初めて見ました」

「美紀さんも怒っちゃってたし。可愛がってた甥だからこそ、悔しかったんでしょうね」

「俺と弟の共通の知り合いも結構多かったからさ、意外と集めやすかったけど、さとみちゃんは大変だったんじゃない?」

「浩司さんの会社の上司の方には、連絡してもらったんで。私も交流があったんです」

「そっか。そうだよね。結婚式も新婚旅行も思い出も、全部無駄だったか」

さとみは静かに首を振った。

「お兄さん、私はそうは思ってません。確かに腹が立ったし、今も恨んでますけど。楽しかったのと、好きだったのは事実なんで、そこを否定したくないんです。じゃないと、数年分の自分を否定するのと同じだから」

「うん。そうだね。好きだった人を嫌いになった。それでいっか」

「はい」

「さとみちゃん、どうか幸せになってほしい」

「お兄さんも。あ、いや、健一さんも」

「ありがとう」

「さ、これから頑張りますか」

その後、あの日から半年。要望通りダブル離婚は成立し、浩司とエリカは再婚した。だが、そこにあったのは真実の愛ではなく、地獄の押し付け合いだった。料理も洗濯も一切できないエリカに、浩司は早々に愛想を尽かした。しかし、親族から絶縁され、会社でも兄嫁を寝取った男として居場所を失ったせいで、逃げ場はなかった。

さらにダメ押しだったのはDNA鑑定の結果。お腹の子は浩司の子だった。もし他人の子なら喜んだかもしれないが、紛れもなく浩司の子供だった。責任から逃れることもできず、さとみと健一への慰謝料四百万の支払いに追われる毎日。二人とも実家や親戚から見放されており、一切頼ることもできないようだった。慣れない育児と極貧生活で、かつての威勢は見る影もなかった。

健一さんは転勤して、九州で暮らしているそうだ。たまに連絡をするが、「再婚はまだまだ先だね」と笑っていた。さとみも、傷が癒えるにはもう少し時間がかかりそうだった。それでも、人生も幸せも子供も諦めていない。いつかあいつらと道ですれ違った時、眩しいくらいの笑顔でいられたらと思っている。

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