病院から電話がかかってきた瞬間、私は自分の耳を疑った。「お母さん、ちょっと大輝に泣きつかないでくださいよ。いい大人が恥ずかしくないんですか?」冗談だろうと思った。でも、その声は紛れもなく、産後で入院しているはずの嫁だった。私はただ、生まれたばかりの孫の顔が一目見たかっただけ。なのに、息子は「お前の金で育ったやつに、孫は渡せない」と言い放った。え、私、何か間違えた?…

病院から電話がかかってきた瞬間、私は自分の耳を疑った。「お母さん、ちょっと大輝に泣きつかないでくださいよ。いい大人が恥ずかしくないんですか?」冗談だろうと思った。でも、その声は紛れもなく、産後で入院しているはずの嫁だった。私はただ、生まれたばかりの孫の顔が一目見たかっただけ。なのに、息子は「お前の金で育ったやつに、孫は渡せない」と言い放った。え、私、何か間違えた?...

お母さん、赤ちゃんが生まれたのね。おめでとう。みさにもお疲れ様って伝えてくれない?

ありがとう。顔は見たいんだけど、産んだばかりで大変だろうから、日程を調整してほしいの。私が直接言うと断りづらいだろうから、先に話しておいてくれない?

ちょっと待って。みさに相談してから決めるわ。

そうね。ちゃんとお嫁さんへの気遣いができてるみたいで安心したわ。

俺だってちゃんとやってるよ。もう父親なんだし。また連絡するから。

翌日、俺は病院のみさにその話を伝えた。

お母さん、話は聞きました。直接言ってくれればいいのに。出産で疲れてるのに、義母の相手なんて嫌でしょ。でも連絡してくれたのは嬉しいわ。

いや、ちゃんと言っておかないとなって。

えっと、はっきり言いますけどね、孫に会いに来たって言われても、いい迷惑ですよ。それにお金が絡んだら困るし。赤ん坊に絶対近づけないでください。

え? お金? お金って、どういうこと?

お母さんって、大輝の子育てに失敗したじゃないですか。聞いてますよ。家庭で結構苦労したって。

それは確かに、たくさん苦労はかけたわ。でも大輝はちゃんと育ったでしょ。立派に働いて、家庭も持って。

でも、育った過去は変えられないですし。大輝が言ってましたよ。幼少期は不幸だったって。

あの子が…そんなことを…。

そういう風に考えてる時点で、幸せじゃないですし。子育て失敗のお金なんて、映ったら困るんですよ。ダメ親の育児なんて参考にならないし、赤ちゃんに悪いでしょ。

失敗って…私なりに一生懸命育てたのよ。

一生懸命? それで大輝が寂しい子供時代を送ったって、散々愚痴ってましたけど。仕事ばっかりで放置されてたって。

それは生活のためだったの。仕方なかったのよ。

言い訳ですね。やっぱりお母さんの育児方針って、完全に時代遅れじゃないですか?

時代遅れ?

今は科学的な育児が主流なんですよ。お母さんみたいな感覚だけの育児は、むしろ害悪です。

確かに、私は胸を張って立派な子育てをしたとは言えないわ。でも、あなたはまだ母親になったばかりでしょ。そんな風に言われる謂れはないわ。

私は私なりに勉強してます。育児書は二十冊読みましたし、専門家のアドバイスも受けてますから。お母さんに教わることなんて、何一つありません。

本と実際の育児は違うのよ。それに私には経験があるわ。

経験? 失敗した経験ですよね。むしろ、お母さんの常識って、昭和で止まってると思うんですよ。今は令和ですよ。

時代が変わっても、子供を愛する親の気持ちは変わらないわ。

愛する気持ち? それで放置してたんですか? 矛盾してますよね。家庭って、やっぱりどこか歪んでるじゃないですか。

ちょっと待って。それは言いすぎじゃない?

とにかく、私はお母さんみたいな失敗を繰り返したくないんです。私の母は完璧な育児をしてくれました。だから私も完璧な母親になれるんです。

完璧な親なんていないのよ。みんな手探りで育てるのよ。

お母さんみたいな中途半端な親とは、レベルが違うんですよ。分かります?

ああ、分からないか。だって失敗した人には、成功が分かりませんもんね。

分かったわ。もう何も言わない。産後ですぐ気が立ってるのね。こちらも配慮が足りなかったわ。

とにかく、お母さんの古臭い価値観を押し付けられるのは迷惑なんで。来ないでくださいね。赤ちゃんのためですから。

その日の夜。みさに言われた言葉が頭から離れない。私はあの子に何か、気に触ることを言ってしまったのかしら。

母さん、何か言ったんだろ? いつも人を傷つけるから。

え? …えって何? 俺が味方すると思ったのか?

どういうこと?

母さんは、俺が寂しがっても仕事ばっかりだったじゃん。そうやって人との関わり合いから逃げてたんだろ。

なら、どうしたらいいの?

だから、今は金を出すくらいしか、母さんの役割はないんだよ。

なんですって。

だって、俺から見ても、お袋への信頼度はゼロなんだぜ。そんな状態で、子供に合わせられるはずないじゃん。

でも、私はあなたのために必死で働いて…

必死で働いた。その結果が、俺の寂しい子供時代だよ。母さんが仕事優先したせいで、俺がどれだけ我慢したと思ってるの?

大輝…そんな風に思ってたのね。

今さら気づいたのかよ。俺、結構伝えてたはずだけど。ああ、母さん忙しくて、俺の話なんて覚えてないか。

そんなことないわ。

でも、結果的にそうなってるじゃん。本当、鈍いよな、そういうとこ。昔のことを反省しても、過去の出来事がなくなることなんてないんだよ。

その時、病院から電話がかかってきた。みさからだ。

お母さん、ちょっと大輝に泣きつかないでくださいよ。いい大人が恥ずかしくないんですか?

どうして…やり取りを見てたの?

今、大輝が病院にいるんで、全部見てますよ。

それじゃあ、あの子が私をATM扱いしているのも、見えたわよね。

ATM? 違いますよ。えっとですね、お母さんは私たちにとって、投資家なんです。

投資家?

うん、まあ、正確にはATMで間違いはないですけど。だって、人として尊敬できないので。投資家であり、ATMです。

そんな風に私を見てたの?

そうですよ。お母さんの存在価値って、お金を出すことだけじゃないですか? 他に何ができるんですか? 育児は失敗してるし、人間関係も下手だし。

ああ、今隣で大輝が「母さん、俺たちにお金を出すのが親としての責任でしょ。昔できなかったことを今取り戻してるだけじゃん」って言ってます。打つのが面倒みたいです。

それが、あなたたちの意見なのね。

今まで大輝に寂しい思いをさせた分、お金で償うべきですよね。それが親の義務ってもんでしょ。お母さん自身が、そういう立場に自分を追い込んだんですから。自業自得です。

ああ、そろそろ赤ちゃんのお世話があるので、失礼します。お金の準備はしててくださいね。

一週間後。私は自分を落ち着けて、もう一度だけみさに会いに行くことにした。電話でもよいかと思ったが、直接話したほうが伝わる気がしたからだ。

お母さん、この前は言いすぎちゃってごめんなさい。やっぱりお母さんも孫には会いたいですよね。

会えるならね。あんなことを言われたのだもの。どうしても会いたいとは思えないわ。

そんなこと言わずに。孫に会いたいなら、もっと投資してくださいよ。

投資?

はい。子供はお金がかかるって、知ってますよね。孫にも同じ苦労をかけるつもりですか? お母さんがケチったせいで、孫が不幸になったらどうするんですか?

つまり、お金を渡せということ?

昨日と言ってること、変わってないわ。

それに、投資するにしても、投資先を一度も確認しないままお金を振り込むなんて、できませんし。退院したんですよね? 家には入らないから、玄関先で顔だけでも見せてもらえませんか?

はあ。玄関先も無理ですけど。家に近づかないでください。

家の頭金を出してくれたことは感謝しますけど、もうこの家は私たちのものなんで。お母さんが入る権利はありません。

なら、せめて写真だけでも。

写真ならいいですけど、その代わり、仕送りを増やしてくださいよ。今、十五万でしょ? 二十万にしてくれたら、考えます。

二十万? そんな…。

私の母は、毎日手伝いに来てくれて、ベビー用品も三十万分買ってくれたんですよ。お母さんは何もしてくれないくせに、会いたいとか図々しいじゃないですか。

お手伝いは、あなたが拒否してるんじゃない。私に気を使うから嫌だと思うし。その辺りは、仕方ないのだけど。

お母さんこそ、私のこと、前から嫌ってましたよね。私、知ってるんですから。

嫌なんてないわ。

だって、お祝い金も少なかったじゃないですか。普通、初孫なら百万くらい包むもんじゃないですか?

さすがに百万は…ねえ、大輝。

大輝は何も言わず、スマホを弄っている。それを見て、私は全てを悟った。この子たちは、私の気持ちなんて微塵も考えちゃいない。私は、この子たちにとってのATMなんだ。

分かったわ。二十万でいいのね。月々、二十万、必ず振り込むわ。だから、その代わり、一枚だけでいい。孫の顔を見せてくれない?

みさは一瞬、大輝を見た。大輝は無言で頷いた。

…いいですよ。写真、撮ってあげます。ただし、振り込まれたのを確認してからですよ。先に。

先に? そんな…。

私は取引先じゃないんだから、と言おうとして、やめた。言っても無駄だ。この子たちには、私の言葉は何も届かない。

分かったわ。じゃあ、明日、振り込むわね。通帳は見せられないけど、振り込みの控えを写真で送るわ。それで、写真を一枚だけ送って。

みさは鼻で笑った。

いいですよ。振り込み確認できたら、ちゃんと送りますから。

私は家に帰ると、鞄から通帳を取り出した。残高を確認すると、私はパソコンを開き、ネットバンキングにログインした。振込先の口座を入力し、金額を打ち込む。二十万。慎重に、二度確認した。

このお金が、孫に会うための、ただの代金になるなんて。私は知っていた。このお金を払ったところで、彼らは何も変わらない。今日のように、私は都合のいいATMだ。

それでも、私は振り込んだ。孫の顔を、一目でいいから見たかった。息子がどんなに歪んでしまっても、それでも、生まれたばかりの小さな命には、罪はないのだから。

三週間後。私は毎日、スマホを確認した。振り込んだのに、写真は送られてこない。催促のメッセージを送っても、既読すらつかない。

大輝に電話をした。何度かけても、出ない。LINEを送ると、「写真はいいから、もう振り込まなくていいよ」とだけ返ってきた。

一瞬、何が起きたのか分からなかった。そして、その次の一文で、全てを理解した。

「みさが、お袋の金で育ったやつを育てたら、子供が不幸になるって言っててさ。もう連絡してくるなよ。俺たちの子供に、お前の呪いを押し付けないでくれ」

電話は、そこで切れた。プープーという虚しい電子音だけが、部屋に響いた。

私はスマホを握りしめたまま、しばらく動けなかった。悲しみよりも先に、ある感情が込み上げてきた。私は何のために、お金を払ったんだろう。孫に会うために払ったんだ。それなのに、結局、何も手に入らなかった。

私は何度も自分の息子を信じようとした。みさに言われたから、あんなことを言ったんだ。きっと、大輝は心のどこかで私を必要としているはずだ。そう思った。しかし、スマホの画面に表示された「既読無視」の文字が、その希望を打ちいた。

私は決めた。もう、こっちからは連絡しない。あの子たちが望むなら、私は消える。それが、親としての最後の役目なのかもしれない。

それから数ヶ月が過ぎた。ある日、突然、実家に大輝から電話がかかってきた。

「あのさ、母さん。金、貸してくんない?」

その声は、以前にも増して掠れていた。私は黙って、窓の外に目をやった。紅葉が美しい季節だった。

「頼むよ。みさが、子供を連れて実家に帰っちまって。仕事もクビになってさ。家賃も払えないんだ。勘弁してくれよ」

私はスマホを耳に当てたまま、何も言わなかった。かつて、この息子が私に向けた言葉を、私は思い出していた。

「俺の寂しい子供時代は、お前のせいだ」

「お前の金で育ったやつに、孫は渡せない」

「お前の呪いを、押し付けるな」

「死ね。死んでしまえ、この野郎」

最後の言葉が、頭をよぎる。私はその時、確かに理解した。この息子は、私が産んだ子ではなく、私が生まなかったことにしたかった子なんだと。そして、私もまた、この子の親であることを、とうの昔にやめていたのだ。

「母さん? 聞いてるのか? 頼むよ、今回だけだ」

私は、ようやく口を開いた。

「ごめんなさい、大輝。私、あなたに二十万も包んだじゃない。もう、あなたにあげられるお金は、何もないの」

「は? 何言ってんだよ。あれは孫のための…」

「孫? 私は、あの子の顔も知らないわよ。あなたとみさに、一方的に拒絶されて、ただのATM扱いされてるおばあちゃんの顔も、知らないんでしょ? 私は、もうあなたたちに何かを渡すことはできない」

「ふざけんな! 親のくせに!」

「親のくせに、じゃないわ。私は、あなたにとって、ただのATMでしょ? ATMにお金を入れて、引き出すことしかできない、ただの機械よ。機械に、そんなに偉そうな口を聞く権利があるの?」

電話の向こうで、何かが弾ける音がした。大輝が何かを叩きつけたのだろう。

「あ、もういい! もう二度とかけてくるな! クソババア!」

そう言って、一方的に電話を切られた。私は静かに、スマホを机の上に置いた。

涙は出なかった。代わりに、妙な爽快感があった。長い間、鎖につながれていた犬の首輪が、ようやく外れたような、そんな気分だった。私はもう、誰かのATMになる必要はない。私は私の人生を、これからは自分のために使おう。

翌日、私は貯金の整理を始めた。通帳には、二十万もの振り込み記録が並んでいる。私はそれらを確認しながら、同じ日付の振込の横に、「宛先:みさ・大輝(元息子)」、「用途:孫の顔写真代(だが、写真は一度も届かず)」と鉛筆で書き込んだ。

その夜、私は友人に電話をかけた。久しぶりの、心からの会話だった。

「もしもし、私。うん、やっと目が覚めたみたい。ありがとう、心配かけて」

「今度さ、一緒にどこか行かない?」

友人は一瞬驚いたように沈黙した後、優しい声で「いいわよ」と応えてくれた。

一か月後。私はマンションの一室で、段ボールに荷物を詰めていた。引っ越し先は、この街から少し離れた、海の見える小さなアパート。日に当たるのが好きな私には、ちょうどいい環境だった。

スマホが鳴る。大輝からだ。二回目の着信だけど、私は出なかった。三回目の着信が鳴り、やがて止む。不在着信の通知を見つめながら、私は通話履歴を開き、大輝の登録名を「息子」から「元・借金」に変更した。

その操作を終えた時、窓の外から潮風が入り込んできた。目の前に広がる海は、陽の光を受けてキラキラと輝いている。私は深く息を吸い込んだ。

この海辺の街に、あの二人を知る人は誰もいない。子育てに失敗した母親も、ATM扱いされる祖母も、ここにはいない。

私は、ただの私だ。

生まれて初めて、肩の力がするりと抜けるのを感じた。そして、私は決意した。この何年か、私は生き方を間違えていたかもしれない。でも、これからは違う。

「ありがとう、大輝。あなたたちから、一番大事なことを教えてもらったわ」

私は誰に言うでもなく呟くと、段ボールのテープを、力強く引きはがした。中からは、趣味で集めていた古いレコードが現れる。私はそれを抱え上げ、笑みをこぼしながら、プレーヤーの前に歩いていった。

Thumbnail