お母さん、この家、本当に素敵ですね。
新築したばかりの我が家に、長男夫婦が遊びに来た日のこと。長男の嫁のみさは嬉しそうに家の中を見回していた。
キッチンも広いし、この部屋もいいなあ。
そして笑いながら振り返って、私もこんな家に住みたいです、と言った。
私はその時、ただ褒めてくれているのだと思っていた。
ところが数日後、仕事から帰ると家の前で夫と長男夫婦が私を待っていた。そして夫のかずやが言ったのだ。
まり子、お前にはこの家は似合わない。
似合わない?
そうだ。これからは若い奴らの時代だ。この家は直樹たちに譲ることにした。家は長男が受け継ぐものだしな。
みさは腕を組みながら夫に続けた。
あと、お母さんには広すぎますから。早めに出ていってくださいね。
そして長男の直樹まで。
母さん、親父の言う通りにしろよ。
私は3人の顔を見た。そして分かった。
そこまで言うなら、出ていくわ。
3人の顔が一気に明るくなった。でも3人はまだ知らなかった。自分たちが欲しがったこの家に、何がついてくるのかを。
私の名前はまり子。62歳。20代から着付けの仕事を続け、今は講師として働いている。夫のかずやは65歳。結婚してから今年で38年になる。
息子は2人。長男の直樹は40歳。少しだらしないところがあり、仕事はなかなか長続きしない。現在は妻のみさが働いて家計を支えている。次男の優太は37歳。会社員として働き、妻のさおりと穏やかに暮らしている。
子供たちが成人して独立した頃、私にはずっと叶えたかった夢があった。自分の好きな家を建てることだ。
小さな和室に、使いやすいキッチン。そして和室では、いつか小人数の着付け教室を開きたい。
私は家の図面を見るだけで胸が踊った。ここに帯を置こう。この窓から庭が見えたら素敵ね。
何度も業者さんと話し合い、ようやく完成した日、玄関に立った私は思わず涙ぐんだ。
やっとできた。
夫のかずやも、その時は良かったなあと笑っていた。
そんな夫は数年前に仕事を辞めている。幸い蓄えはそこそこあるものの、それ以降、生活費の多くは私の収入で支えてきた。決して楽ではない。
それでも、長年頑張ってきた自分への最後のご褒美。私はそう思っていたのだ。
新居での生活は、最初のうちは穏やかだった。朝起きて庭の花を見る。仕事から帰ってお気に入りの椅子でお茶を飲む。かずやと夕食を囲み、この年になってやっと落ち着けたわね。
そんな時期もあった。
そして長男夫婦が初めて遊びに来た日、長男の嫁のみさは大喜びだった。
お母さん、この照明も素敵ですね。収納もいっぱいできるし。あ、この部屋、ベッド置いたらちょうど良さそう。
少し気になる言い方ではあったが、私は悪く受け取らなかった。むしろ以前よりみさと話しやすくなったことが嬉しかったのだ。
別の日は、今日は私がやります、と言って食事の準備まで手伝ってくれた。4人で食卓を囲み、直樹がくだらない冗談を言い、かずやが笑う。みさも、お母さん、この煮物美味しいです、と笑ってくれた。
その光景を見ながら、私は、家族ってこういうものなのかもしれない、そんな風に思っていた。
でも、少しずつ違和感が増えていった。なぜかみさは、私が仕事で留守の日に限って家へ来るのだ。
夫に聞くと、
今日、みささん来てたの?
ああ、来てたよ。
何かあったの?
別に何もないよ。
かずやはそれ以上話さない。
実際には、私のいないところでみさはかずやにこんな話をしていた。
お父さん、将来、私たちと一緒に暮らしません?
俺が?
もちろんですよ。お父さんを1人にしたくないですし。
みさはにっこり笑う。
私、お父さんのお世話なら全然嫌じゃないです。そもそも長男の嫁なら、介護だってしないといけないですし。
かずやは嬉しそうだったそうだ。
そしてみさは続けた。
家って、後になればなるほど手続きも面倒らしいですよ。
そうなのか。
相続とか名義とか、役所にも行かないといけないし、大変ですよ。
かずやは昔から面倒なことが大嫌いだ。
じゃあ、どうすればいいんだ?
みさは待っていたように言った。
元気なうちに整理しておけばいいんですよ。面倒なことは、私たちが全部やりますから。
本当か?
本当です。だって家族ですもん。
その言葉でかずやは完全にみさを信用したのだろう。長男の直樹も、みさに任せとけばいいって、と夫を後押しした。
少しずつ、私の知らないところで3人だけの話が進んでいった。
ある夜、突然かずやが言った。
直樹と一緒に暮らすのもいいと思わないか?
ここで?
そう、ここでだ。みさも俺たちの老後を心配してくれてる。
私は少し考えた。
もっと先なら、そういうこともあるかもしれないわね。
するとかずやは、
先じゃなくてもいいだろう。
え?
2階を直樹たちに使わせる。台所はみさに任せる。お前は和室があれば十分だろう。
私は思わず首を横に振った。
いやよ。
なんでだ?
この家は私がずっと夢見て建てた家なの。今すぐ全部譲るなんて考えられないわ。
かずやは不機嫌そうに口を閉じた。
その頃、みさは電話でかずやに言ったそうだ。
やっぱりお母さん、嫌なんですね。
何が?
私たちと暮らすこと?そんなことは言ってない。
でも、家は絶対渡したくないって。
そして少し寂しそうな声を作り、
お父さんより、家の方が大切なんでしょうね。
それからだ。かずやの態度が少しずつ変わっていった。
お前は考えが古いし頑固なんだよ。若い人間に譲る気持ちはないのか?いつまで家にしがみつくつもりだ?
私は驚いた。ほんの少し前まで、2人でこの家を眺めて笑っていた人とは思えない。
そして数日後、ついに夫から言われた。
お前にはこの家は似合わない。直樹たちに譲る。
みさは勝ち誇った顔で、
若い私たちが住んだ方が、家も喜びますよ。
と言った。直樹まで、
母さんだけだよ。空気読めてないの。
と笑った。
私は諦めた。でも、諦めたのは家のことではない。その人たちと家族でいることを諦めたのだ。
分かったわ。
そう言って、私は荷物をまとめ始めた。みさは我が者顔で、すぐに家の中を歩き始めた。
直樹、この棚、私が使うね。この部屋、私たちの寝室にしよう。
そして私に、
家具、置いて行ってもいいですよ。
と言った。
私は振り返った。
そんなにこの家が好き?
もちろん。
私は笑った。
それなら、大事に使ってね。
そのまま私は次男の優太の家へ向かった。玄関を開けた優太は、大きな荷物を持つ私を見ても、何も聞かなかった。
母さん、入って。
さおりもすぐに来て、
お母さん、お腹空いてません?
と言った。
その日の夕食は、3人で囲む鍋だった。豪華なものではない。でも、不思議なくらい温かかった。
母さん、と優太が言った。
とりあえず、ここにいればいいよ。
でも、迷惑でしょ。
家族に迷惑とか言うなよ。
私は次男夫婦の前で、涙を流しながら笑った。
それから2ヶ月、私は着付けの仕事を続けながら、少しずつ新しい生活に慣れていった。もちろん、あの家を思い出すことはあった。でも、戻りたいとは思わなかった。
そんなある日の夕方、スマホが鳴った。かけてきたのは直樹だった。
直樹の電話に出た瞬間、
母さん!怒鳴り声。毎月18万円ってどういうことだよ。
私は一瞬考えた。住宅ローンのことだ。
住宅ローンだって。ええ、まだ残ってるのか。聞いてないぞ。
聞かれなかったわよ。
俺たちが払うのかよ。
私は首をかしげた。
その家を引き継いだんでしょ。
18万なんて払えるわけないだろう。
少し間を置いて、
だったら、売ればいいんじゃない?
と言って、そのまま電話を切った。
翌日、仕事から優太の家へ戻ると、玄関には見覚えのある靴が散乱していた。リビングには、夫のかずやと長男の直樹、そして嫁のみさの3人が並んでいた。
私と目があった夫が口を開いた。
まり子、助けてくれ。
みさも、
こんな高いローン、聞いてません。
と言った。
私はみさを見た。
それがひどいじゃないですか。私たち、騙されたようなものですよ。
騙した?と私は聞き返した。
みささん、最初にあの家を見た時、何て言ったか覚えてる?私も住みたいです、だの言ってたわよね。それは願いが叶って、住めたでしょ?
みさの顔が引きつった。
かずやが声を荒げる。
とりあえず、家族なんだから助けるのが普通だ。
私は静かに返した。
助けるって何?あと、家族については、私を追い出した日に、あなたたちが終わらせたでしょう。
慌てた直樹は、
俺は親父に言われただけだよ。
と言った。私は直樹を見た。
早く出ていけって言ったのは、あなたよね。
かずやも、
俺だって、みさに言われたから。
と言った。私は首を横に振る。
お前にはこの家は似合わない。そう言ったのは、あなたでしょう。
そして直樹もかずやも、何も言えなくなった。私はみさを見た。
家は欲しい、でも支払いは要らない。そんな都合のいい話があると思ったの?
誰も答えることはできなかった。
その後、私は夫のかずやと正式に離婚した。家は結局3人では維持できず、手放したそうだ。ただし、ローンの支払いで、お金は残らなかったらしい。
私はしばらく優太夫婦の家で暮らした後、小さな家を借りた。1部屋を着物の着付け教室にしている。前の家よりずっと小さい。素敵な庭もなければ、豪華なキッチンもない。
でも、朝から怒鳴る人もいなければ、私の人生を勝手に決める人もいない。
ある日、長男夫婦の優太とさおりが遊びに来た。優太が家の中を見回し、
いい家じゃん。
と笑った。
前の家よりずっと小さいわよ。
優太は首を振った。
別に大きさじゃないだろう。
私は笑った。家が広ければ幸せというものではない。豪華であれば豊かというものでもない。大切なのは、安心して帰れること。そしてそこにいる自分が、自分らしくいられること。
あの人たちは、私には似合わないと言った。でも今なら分かる。本当に私に似合わなかったのは、あの家ではなく、私を大切にしない人たちと暮らす生活だったのだと。
