娘の涙によって銀行一つが揺れたことなど、中央銀行の人事部には知る由もなかった。内定式の朝、二十二歳のみさの手元に渡されたのは一報の内定取り消し通知だった。理由は「身上調査による不備」。母の死後、慌てて記入した保証人の欄。父の名前を書いたのはいいものの、片親であることに銀行は引っかかったのだ。
みさが銀行に就職すると決めたのは、亡き母の夢を継ぐためだった。母はここ、中央銀行の窓口で働いていた。母のいない今でも、みさは同じ場所に立ちたかった。だが、窓口で名札を付ける前に、その夢は無残に砕かれた。
「お母さんと同じ銀行に、って決めてたのに」
夜、布団にくるまって泣いた。声を殺して嗚咽を漏らすと、襖の向こうで父の気配が立ちすくんだ。父の名前は竜像、柏文具店を営む、無口な男だ。みさは母・沢子の顔を知っている。優しくて、よく笑う人だった。その母が病気で亡くなってから、この家は父と娘の二人暮らしだ。娘は盛大に泣いた。そして、声を潜めて父も泣いていた。
翌日、娘がどれほど悔しかったか、父は知る由もなかった。ただ、店の棚の万年筆を一本、娘の部屋の机の上にそっと置いた。父は何も言わなかったが、みさはそれを見た時、母の言葉を思い出した。
「お父さんね、本当はすごい人なのよ」
母の口癖だった。父は店のガラスケースに古い万年筆を飾り、決して値札を付けない。36年前、妻が中央銀行に勤め始めた時、父は初めてそのケースの鍵を開けた。「信用は細部に宿る。仕事道具ほど、誇りを持てる一本を選べ」と。その一本が、今、娘の手元に渡ってきた。
時は流れ、一年後の春。みさは再び銀行に内定をもらい直した。今度は否定のしようもなく、父を保証人にして。今回は抜かりはなかった。三か月間、あの時のように何の連絡もなく、内定式の朝を迎えることができた。
中央銀行本店、大会議室。内定者事前研修の張り紙の下で、三十人の若者が名札を付けていく。灘波銀行、安穏銀行—いや、みさはそんなことはどうでもよかった。みさも名札を受け取り、胸に付けた。隣では佐藤とか田中とかいう、裕福そうな家の子たちが固まっている。
正面のスクリーンに、頭の薄い男が映し出された。取締役の城田だ。テロップ付きのビデオが流れ始める。
「銀行は信用を売る商売です。そして信用とは、選別です。当行が選んだ皆さんに期待しています」
薄い拍手が起きる。その後、人事部長の蒲田という男が壇上に上がった。
「おはようございます。人事部長の蒲田です。今日から三日間、皆さんの本物の実力をじっくりと見させていただきます」
蒲田は名簿を開き、一人ずつ読み上げ始めた。
「青会病院がご実家の佐藤さん。お父様の講演先日拝聴しましたよ」
「県庁の田中さん。お父様には日頃から、ええ」
名簿を読み進める指が、途中で一度止まった。名前の横に書かれた、小さなメモに目を細める。
「柏木さん。ええと、文房具屋の柏木さん、こちらか」
会場から、ひそひそ声が漏れる。みさは聞こえた。「え、文房具屋って」「公務員とか医者じゃないの」「片親の、あれか」。蒲田は咳払いを一つし、名簿を閉じた。
「では、前半グループは銀行概要の説明に移ります。後半グループは、窓口研修の準備に取り掛かってください」
みさは配られた紙を見た。名前は半分に分けられていた。みさの名前は山田ではない。つまり、だ。Aの半分には佐藤、田中、西園寺という医者や官僚、お公家の子息が並び、みさは「その他」のB組に放り込まれていた。同期の一人が言った。
「ねえ、この半分け、親の職業で分けられてる?」
「本当だ。五十音順でもないしな。柏木さん、お父さん、会社員?」
「印鑑屋の店主だよ」
みさはそう言うのが精一杯だった。昼過ぎ、蒲田が手を叩き、みさの名前を呼んだ。
「柏木さん、悪いけど、この椅子を並べて、受付の補助をやってくれる? 雑務で悪いね。今日の夕方、新入社員の歓迎会用のパンフレットを袋に詰めてもらうから」
「はい、やりました」
同期たちが名刺の渡し方の講習を受けている間、みさは一人で三十脚の椅子を並べ、ホワイトボードに資料を貼り、会場の空気を整えた。パンプスの底が、微かな音を立てた。ずっと気疲れで、うつむきながら床を拭いていると、夕方の歓迎会の準備が始まった。蒲田がふらりと横に来て、低い声で訊いた。
「柏木さん。書類のことでちょっと確認いい? 身元保証人、お父様お一人になってますけども」
「はい、父です。母は十三年前に、病気で」
「ああ、なるほどね。そういう片親か。よりによった、だな」
「申し訳ありません」
「いや、いいんだ。結構、結構。お父様お一人で、ご立派なことで。銀行ってのは、そういう不器用な人間の誠実さを見る仕事だからね」
「ありがとうございます」
その夜、みさはいつもよりも二割ほど明るい声を出した。
「ただいま。研修、楽しかったよ。同期のみんなも、いい人たちそうだった」
「そうか。飯、できてるぞ」
「わあ、肉じゃがだ。いただきます」
箸を付けたところで、みさの手が止まった。何か、変だ。父は肉じゃがの肉を茶色くなるまで炒めない。それは母のやり方だ。母は肉じゃがに醤油で味を調える、普通の家庭料理を作る人だった。が、今日の肉じゃがは、肉が真っ黒だ。焦げ付いて真っ黒なんだ。父が何かを作る時に、その「焦げ」が常につきまとう。父の最初のお弁当の卵焼きも、真っ黒だった。
「…お父さん、この肉」
「出汁が足りなかったか」
「いや、味はいいけど」
「他のでやろう」
「ううん、いいの。すごく、おいしい」
父は無理して肉じゃがを作った。何が理由で無理して作ったのか、みさには分かる。今日は、みさの晴れ舞台だった。母がいたら、母が作ってくれた。父は必死で作った。そしてみさに言った。
「頑張って」
「…うん」
みさは、日中蒲田に言われた言葉を思い出していた。「不器用な人間の誠実さ」。この夜、父は娘のための「頑張って」を、不器用そうに一言ポツリとくれた。みさは何も答えずに肉じゃがを口に運んだ。嘘のつき方が、母に似てきたと竜像は思った。その姿が、なぜだか嬉しかった。
研修は三日続いた。翌日も、その翌日も、みさの「楽しかったよ」は少しずつ短くなっていった。研修最終日の翌朝、店の電話が鳴った。まだ店のシャッターを開ける前だった。
「はい、柏文具店です」
「中央銀行の人事部でございます。拷鞄さんですか? 身元保証書の件で、不備がございまして。恐れ入りますが、ご本人様に一度ご来店いただけますか?」
「…はい、今から伺います」
行きたくない、という思いはなかった。みさはブレザーを脱ぎ、黒のスーツに着替えた。玄関でパンプスを履き替え、父の方を見た。
「行ってきます」
「ああ、いってらっしゃい」
みさが出かけた後、竜像は店のガラスケースに飾ってある万年筆をじっと見つめた。あの万年筆を、昔、妻に渡した日のことを思い出していた。それが挨拶になるとは思っていない。十三番目の席に立つ時、父は妻の写真に言った。
「今日、みさが銀行の門をくぐる」
みさを待っていたのは、あの頃から全く成長していない織部という男だった。蒲田とは違う男、人事部の冷たい係員だ。執務室に通され、パイプ椅子を勧められた。
「座ってください。…柏木です」
「身元保証書の再提出をお願いします。お父様が、印鑑を作っておられる方で、何だかで、保証人として不十分だということで」
「充分です」
「は?」
「身元保証に、職業は関係ないはずです。ここは信用を取引する銀行の人事部でしょう? それでも尚、本人を信じる資産家と、そうでない人の選別をするんですか?」
織部の顔が、みるみる赤くなった。言ってから、後悔した。自分は何を言っているんだ。この人は使えるのだ。ただ、心の何かが、どうしても許せなかった。父を、仕事を侮辱された気がした。
「…失礼しました。再提出すればいいんですね。書類を、いただけますか」
「あの、ええと、ご提出は結構でございます。ただ、済みません、一旦、これはこの辺で預からせていただきます」
「は?」
「今後、あなたではなく、通われたほうがいいパターン出来、ですが。本店人事部にお話を、」
「いえ、これは聞きませんから。ご都合のよろしいうちに。…以上です」
みさはオフィスを出た。すぐにでも辞めたい気持ちだった。銀行は信用を売る商売だ。それが、父を差し出すかどうかで、人の価値を量る仕事だとは思わなかった。昔、自宅を父と訪れた時のことだ。子供だったみさは、銀行の受付の女性に飴をもらったことがある。母と同じ制服の、隣の行員の女性。最近、皆、冷たくなった母の隣を誰も歩いてくれなくなった。父はそれでも、黙って店を守ってきた。母の死後、寄り添ってくれた人。その人を、一番の恥部で、もう侮辱できない。
自宅に戻ると、父は店先のガラスを拭いていた。みさの足音を聞き、振り向いた。
「何か、問題があったか」
「ううん。書類に印鑑もらいたいんだけど、いい?」
「ああ」
父は行って、消えない黒い印鑑を押してきた。それを見て、みさは言う。
「ありがとう。お父さん」
「うん」
「…そっか、そうだね。お父さん、どこを見てるんだよ。ねえ、変だよ、緊張してるとか? 俺、これから一門上がるんだぜ」
「いや、緊張はしてない」
「へえ、何が変なの?」
竜像は、手に持った昼弁当の包みを何度か確認し、みさに渡した。
「…冷凍のご飯、目が覚めるほどパサパサで、上等な弁当じゃない。多分な」
「え? わざわざ買ってきたの?」
「手詰まりだ。すまん」
其れだけ言うと、竜像が工房の奥に戻っていこうとした。みさは、それを引き止めた。
「お父さん、味見だけじゃなくて、一緒に、行く?」
「中央銀行、という意味か」
「うん。最後に、母さんが付き添ってくれたとき、みたいに。頼りになる保証人が、一人、そばにいてくれたら」
竜像は、しばし娘を見つめていた。そして、店の戸棚から、新品のYシャツを取り出した。
「…ちょっと、待て」
そう言って、二階の自室へと消えていった。しばらくして、父はパリッとしたスーツで降りてきた。その胸元には、あの万年筆が飾られていた。みさは、それを見て、泣き笑いのような顔になった。
「お父さん、それ」
「ああ。今日からお前がつける日だ」
みさは、首を振った。
「お父さんがつけてて。父の銀行、俺の改革が終わるまで。店を大きくしたら、返してよ」
竜像は、何も言わず、娘の頭を撫でた。みさは、父の肩に自分の肩を寄せて、二人で家の扉を開けた。十三年前と、同じように。
中央銀行のエントランスは、平日の昼下がりでも、たくさんの人でごった返していた。みさは、あの時と同じ制服で、そこに立っている。いや、あの時と、もう一つの違いがある。それは、隣に自分をない背丈の保証人が、という、堂々とした一人の男が立っていることだ。
窓口の一番角。あの日、母が座っていた席だった。
「すみません、手続きの件で、人事部の織部さんに、予約をしておいた柏木です」
受付の女性が、ファイリングされた名簿を見る。
「柏木みさ様ですね。ただいま係の者を呼びます。あちらでおかけください」
執務室のドアが開き、織部が出てきた。みさの顔を見て、かすかに顔をこわばらせた。その背後から、もう一人の男が現れた。人事部長の蒲田だ。
「…柏木さん、来ていたという話は、人事部長の蒲田です。この辺りが君のコースだな」
みさは、のどに力を入れて言った。
「お騒がせしております」
「いや、かまわんよ。一時的なもので、もう済んだよ」
そう言って、蒲田はにこやかに手続きをすすめる。みさは、最後の窓口に案内された。
「では、用が済みましたら、あちらの担当者が呼びます。今日からが本番ですよ。ご健闘を祈ります」
名刺を交換した後、みさが執務室を出ようとした時、蒲田が呼び止めた。
「柏木さん。それは、御自分で選んだ仕事だろう? 大事にしなさい」
「…はい」
その時、入り口のドアの向こうから、なぜか遠慮がちに手を挙げている男が見えた。父だ。ソファーに座っている。みさは、何も知らないふりをして、執務室を出た。
休憩時間のチャイムとともに、みさは歩いてきて、パンプスの先で父の足を軽くつついた。
「ねえ、お父さん、何ガッツリ本なんか読んでんの」
「ああ、これか。今日の晩飯の研究をな」
「何それ」
「銀行の仕事、何が難しいんだ。世の中の金の流れを教える本だ」
「はあ…、どうせあんた、昔から口ばっかりだよ」
「うるさい。目の前の一仕事が、金の信用を生むんだ」
「はいはい。で、書類はどうするの?」
「ああ、これ、全部むだだった」
「は?」
みさは、書類の束を持ち上げてクシャクシャに丸めた。
「うそ。中身、空っぽ」
「お前な、さっきから」
「決めたんだ。私は文房具屋の娘だもん」
「は? いや、今日は内定時に挨拶に来たんだろうが」
「うん。世の中、実は、ってやつを思い知るのも、悪くないと思って」
「何が言いたい”
「やっぱり、父の店で働く」
みさは、にっこり笑って言った。
「私、銀行むいてないよ」
竜像は、手に持っていた本をじっと見つめ、それから娘の顔を、もう一度見た。
「ようし、ならば、お前の口には、これだ」
「何々?」
竜像の胸から、あの万年筆を取り出して、みさの胸に差し出した。
「この教訓を胸に、一回でいいから、銀行の中で走ってきな」
「は?」
「俺がかつて持っていた、そして、お前が今から取り戻しに行く、最初の仕事道具だ。店のものだ。取りに来い」
みさは、万年筆を受け取ると、おもむろに、こちらの座っていたパイプ椅子の背にぶつからずにはいられなかった。涙をこらえて言った。
「お父さんのイメージ、崩れるんだけど」
「イメージなんて、二桁も三桁も稼いだら、張り替えればいいんだ。明治以来、紙とペンと人間をバカにした銀行は、ことごとく潰れていった。今日の教訓だな」
「…うん、教訓に、する」
それから、店の電話が鳴って、みさが受話器を取った。
「はい、柏文具店です」
「ああ、もしもし、中央銀行人事部の蒲田です。柏木みささんでいらっしゃいますか?」
「はい、私ですけど」
「よかった。内定の承諾確認です。来週から、ですかね。今週末、最終面接です。…ご家族に、以前も、嵐が、」
父からの電話だった。銀行の人事部が、どうやって柏文具店を放り出したのか。蒲田は、何を思い直したのか。翌日、みさは辞退の電話を入れようとした。だが、その前に、取引先の銀行から、一通の封書が届いていた。それは、採用取り消し解除の通知だった。
そこには、冷たい事務的な文面にはそぐわない、誰かの心遣いのような、一言が添えられていた。
「あなたの入行を、心から楽しみにしています。あなたがご自分を深く見つめられますように、そう書いてあるパンフレット同封」
みさは、その言葉と、父がくれた万年筆に、深く頭を下げた。
時は支店内、新人配属前の最終研修。同期の士が高い部屋の隣で、みさは燦々と笑っていた。新入行員の中で一人だけ、胸元にささやかなどこにでもない、ぴかぴかではない石のような光る万年筆ではなく、父がくれた、こすれて艶の出た古い万年筆が光っていた。それを見ていた蒲田は、若かりし日、自分にもこんな時があったと思い、微笑んだ。採用を取り消した憂き目を、この銀行の人事部は、永久に忘れないだろう。そして、文房具屋の娘は、今日も信用を売る、そして、父の教えを胸に、本当の信用を、背負ってゆく。
