夕食の途中、息子の嫁のみさが嬉しそうに立ち上がった。
「私、もう一度モデルを目指そうと思います」
モデル。みさが大学時代に読者モデルをしていたことは聞いていたけれど、突然の宣言に私たちは少し戸惑った。息子の拓也は驚いた様子だったが、すぐに笑った。
「いいじゃん。やりたいなら挑戦してみなよ」
「みささんなら素敵よ。応援するわ」
私も背中を押した。みさは本当に嬉しそうだった。でもこの時はまだ誰も知らなかった。たった数ヶ月後に、同じ口から「もうすぐ収入が入るんです。家族なんて必要ありません」という言葉が出てくるなんて。
私の名前は裕子。六十歳。夫のた志と一人息子の拓也がいる。拓也は三十三歳で、三年前にみさと結婚した。もともと息子夫婦とは別々に暮らしていた。ところがある日、た志が体調を崩して二週間ほど入院した。幸い大事には至らなかったが、退院した夜にた志がぽつりと言った。
「俺たちも年を取ったな」
「そうね」
「また何かあった時、二人だけだと少し不安だな」
その話を聞いた拓也が言ってくれた。
「だったら俺たち、実家に住もうか」
みさも賛成だった。
「私も賛成です。何かあったらすぐ動けますし」
そう言って笑った。同居初日は四人で鍋を囲んだ。
「賑やかになったわね」
私が言うと、た志が「俺の肉まで取られそうだけどな」と不服そうにする。
「早い物がちだろ」
拓也が言って、みんなで笑った。私はこの暮らしが長く続けばいいと思っていた。
同居から一ヶ月。みさのモデル宣言があった。もちろん私たちは反対しなかった。夢があるなら挑戦するのはいいことだ。ところがみさは少しずつ変わっていった。
ある日、大きな荷物が届いた。
「お母さん、これ二階までお願いします」
中身は美容用の運動器具だった。
「ごめんなさい。私、腰が悪いからこの重さは無理よ」
私は二年前、仕事中に腰を痛めている。みさも知っているはずだった。ところが。
「はあ」
大きなため息が返ってきた。
「お母さんって本当に役に立たないですね」
それが始まりだった。夕食を作れば「今日はハンバーグ?私、モデルになるんですよ。もっと美容を考えた料理にしてください」と言われた。
「サラダもあるわよ」
「そういう問題じゃないんです」
家事の分担を頼めば「今日はジムの日です」と断られる。
「でも今日は」
「未来のモデルと普通の主婦じゃ、時間の価値が違いますから」
日に日に口調まで変わっていった。それでもまだ笑える時間もあった。みさが目の前でお菓子を食べないでくださいと言って部屋へ戻ると、た志が小声で言った。
「裕子、お前のせんべいどこに隠した?」
「脳みそじゃないんだから」
私は思わず吹き出した。だから私も、みさも夢に夢中なのよ、と笑って流していた。
そんなある日、みさが興奮して帰宅した。
「私、すごい人に見つけてもらったんです」
モデル事務所の社長だという男性に「千人に一人の逸材。絶対スターになれる」と言われたそうだ。
「やっぱり私には才能があったんですよ」
私は少し心配になった。
「その人、信用できる方なの?」
するとみさは鼻で笑った。
「お母さんに芸能界のことなんて分かりませんよ」
それから高級化粧品、美容サプリ、ジムにレッスン。出費はどんどん増えていった。拓也が「少し使いすぎじゃないか」と言っても、みさは聞く耳を持たない。
「未来への投資よ。私が売れたら、こんなお金すぐ取り戻せるから」
数週間後、私が買い物から戻ると、寝室に置いていた封筒が空になっていた。中には二十万円が入っていたはずだ。嫌な予感がした。
「みささん、ここにあったお金知らない?」
「ああ、それ」
あっさりした返事だった。
「私が使いました」
「何に?」
「事務所の登録料と特別レッスンです」
耳を疑った。
「私のお金よ」
「五十万円必要だったんです」
そしてなぜか得意そうに続けた。
「足りない三十万円は私の貯金から出しましたよ」
「そういう問題じゃないでしょ」
私が声を強めると、みさは面倒そうに私を見た。
「どうせ老後に使うだけですよね。私はこれから何倍にもして稼げるんですよ」
「勝手に人のお金を取るなんて」
するとみさは薄く笑った。
「まあ、もういいじゃないですか。お母さんからはこれ以上お金も取れそうにないし」
「え?」
「ATMとしては役目を終えました」
一瞬、意味が分からなかった。
「嫌なら出ていってもいいですよ。私、もうすぐデビューするし、収入が入るようになったら家族に頼る必要もないので」
私はしばらく黙ってみさを見た。
「そう。じゃあ、今すぐ出ていくわ」
みさの方が驚いた顔をした。もちろんここは私とた志の家だ。でも私は一度離れることにした。これ以上二人きりで話せば、私まで感情的になりそうだったから。必要な荷物だけ持って、近くのホテルへ向かった。
夕方、仕事を終えた拓也にこれまでのことを話した。二人きりの時に言われたこと、二十万円を取られたこと、「ATM」と言われたこと。拓也は絶句した。しばらく黙った後、拓也が言った。
「母さん、ごめん。俺、みさがそこまでとは気づかなかった」
そして付け加えた。
「実は俺も、あのモデル事務所が少し気になってたんだ。会社名を調べてもまともな情報がほとんどない。名刺の住所もどうもおかしい。俺、ちゃんと調べてみる」
翌日、私は家へ戻った。リビングにはた志、拓也、みさ。みさは泣き腫らした顔で言った。
「お母さん、昨日はごめんなさい」
私は椅子に座り、静かに話した。
「みささん、あなたが取った二十万円。あれ本当はあなたたちのためのお金だったの」
みさが顔を上げる。
「私たち、いつか二人に子供ができたら、ベビーベッドでも必要なものでも買ってあげたいと思ってた。もし子供を持たなくても、二人が何か困った時に渡してあげたい。そういう気持ちで少しずつ貯めていたお金よ。私はあなたを本当の娘だと思ってたの」
みさが俯いた。その時、拓也が一枚の紙をテーブルへ置いた。
「みさ、それより話がある。お前が所属するって言ってたモデル事務所」
少し間を置く。
「そんな事務所、存在しないぞ」
「え?」
「名刺に書かれた住所には、全く別の建物があった。社長を名乗る男も、女性を褒めて高額な登録料などを払わせるトラブルを起こしていた人物だった」
「嘘よ。そんなの嘘」
みさはスマホを掴んだ。
「私が直接聞けば分かるから」
何度も電話をかける。でも繋がらない。
「そんな。だって絶対売れるって。千人に一人だって」
みさの顔から見る見る血の気が引いた。た志がため息をつく。
「みささん、夢を見るのはいい。でも知らない相手に五十万円払う前に、少しくらい調べるべきだったな」
みさは両手で顔を覆った。私は静かに言った。
「みささん、あなた私のことをATMって言ったわよね」
みさが顔を上げる。
「その人から見たあなたも」
少し間を置いた。
「同じだったんじゃない?」
みさの唇が震えた。すると突然、みさが叫んだ。
「だったらどうして教えてくれなかったの?」
拓也が呆れた顔になる。
「分かったのは昨日の夜だよ」
私も続けた。
「それに『家族なんていらない』って言ったのは、あなたでしょ」
みさは黙った。しばらくして拓也が口を開いた。
「みさ、夢を持つことが悪いわけじゃない。俺だって本気で応援したかった。でも、その夢のためなら人のお金を盗んでもいい。母さんを馬鹿にしてもいい。家族なんていらない。そう思ってる人とは、もう一緒に暮らせない」
みさの目から涙がこぼれた。
「拓也、ごめん」
拓也は首を横に振った。
「俺が欲しいのは、今だけのごめんじゃない。失った信頼は、泣いたからと言って簡単には戻らないよ」
その後、二人は何度も話し合い、別々の道を歩むことになった。使われた二十万円についても、きちんと返してもらうことにした。
それから数ヶ月後、ある休日のこと。庭ではた志がバーベキューの肉を焼いていた。
「た志さん、お肉焦げてるわよ」
「これは焦げじゃない。香ばしいって言うんだ」
拓也が笑う。
「父さん、それ毎回言ってるよな」
「うるさいな」
私も笑った。みさのことがあって、三人とも傷つかなかったと言えば嘘になる。でも少しずつ、いつもの日常が戻ってきた。
今回のことで思う。夢を見ることはとても素敵なことだ。新しいことに挑戦するのに遅すぎることもない。ただ、自分を持ち上げてくれる甘い言葉だけではなく、毎日そばで「大丈夫」「無理するなよ」と言ってくれる人のことも、忘れてはいけないのだろう。
家族だから何をしても許されるわけではない。でも、本当に自分を思ってくれる人まで、自分から捨てる必要もない。私は今、そんな当たり前の幸せを、以前より少しだけ大切にできるようになった。
