結婚の挨拶のため、初めて彼女の両親と会う日が来た。俺は自分の持っている服の中から一番ましなものを選んで、恵の家に向かった。予想通り、そこにはいかにも金持ちが住んでいると分かる大きな一軒家が建っていた。
玄関で深呼吸をして、恵の後ろに続いて家の中に入る。リビングに通されると、すでに恵の両親がソファーに座っていた。母親は恵にどことなく似ていて、父親は細身のいかつい印象の男だった。
俺は背筋を伸ばし、頭を下げた。
「初めまして。古川涼と申します。お忙しい中、お時間をいただきありがとうございます。」
手のひらは汗で濡れていた。肩には無意識に力が入っていたが、恵の父親は意外にも「座ってくれ」と言ってくれた。俺は内心ほっとした。しかし、その次の瞬間に父親が口にした言葉に、俺は面食らうことになる。
「お前との結婚は許さない。」
思わず口を開けたまま、俺は恵の父親を見つめた。すると彼は、俺たちの目の前にあるテーブルの上に、封筒を投げるようにして置いた。
「これは何?」
恵が恐る恐る尋ねると、父親は俺をまっすぐ見ながら言った。
「君の身辺調査の結果だ。」
「お父さん、涼のことを勝手に調べたの?」
「自分の娘の大事な結婚相手だ。調べるのは当然だろう。君の働くホテルの支配人に、いろいろと話を聞かせてもらったよ。」
その言葉を聞いた瞬間、俺は嫌な予感がした。正直、俺は支配人とはあまり仲が良くなかった。あの性格の男が俺のことをよく言うはずがない。
予想は見事に的中した。支配人は俺のことを「バイトを掛け持ちしているフリーターで、長年ホテルで働いているが、正社員にするところまではいかない」とはっきり言ったらしい。
「フリーターの貧乏人に娘をやると思うか。」
父親の言葉に続いて、母親も俺を見下すようにニヤニヤと笑っている。恵は反論しようとしていたが、それよりも先に父親が言葉を続けた。
「君のような貧乏人との結婚は許さん。親の顔が見てみたいものだ。」
ニタニタと笑う父親を見て、恵がついに切れた。
「ふざけないで。私はお父さんが何と言おうと涼と結婚するから。」
俺は、自分の父親に反論してまで俺を守ろうとしてくれる恵の気持ちが、正直嬉しかった。だから俺も悪い印象を挽回しようと口を開きかけた。だが、それよりも先に恵の父親が言った。
「君は逆玉に乗るつもりだったんだろう。どうせ娘のことも金目当てでしか見ていないんじゃないのか。」
さらに父親は、俺を「貧乏人」と見下し、今度は俺の父親のことまで馬鹿にし始めた。
さすがにこれは頭に来た。俺は自分のことを何と言われても我慢できる。だが、自分の親のことを侮辱されて黙っている男ではない。
俺は恵の父親を睨みつけて言った。
「俺の親のことを悪く言うのはやめてもらえませんか。俺の親はちゃんと俺を育ててくれました。俺はそんな親を尊敬しています。」
俺がそう言い返すと、恵の父親はわざとらしいため息をつき、馬鹿にしたように笑った。
「本音を表したか。お前みたいな貧乏人とは娘は結婚させん。」
「そうですか。わかりました。じゃあ、結構です。」
俺はそう言うと、そのまま玄関へ向かった。後ろで恵が両親に何かを言っていたが、俺は一切気にせず家を出た。人の親をあそこまで侮辱する両親とは、付き合いきれないと思った。
歩きながらも、怒りで頭が真っ白になりそうだった。すると後ろから名前を呼ばれる。
「涼!」
振り返ると、恵が悲しそうな顔で必死に走ってくる。俺は自分が言ってしまった言葉を思い返して、恵に対して申し訳なくなった。
「ごめん。あんな言い方しかできなくて。」
俺が謝ると、恵は逆に自分の両親がひどいことを言ったと謝ってきた。さらに、家を出てきたという。理由を聞くと、俺をあんなにひどく扱う親とは縁を切るとまで言い出したのだ。
目から大粒の涙をこぼす恵を、俺はとにかく落ち着かせながら家に帰るよう促した。しかし恵は首を振るだけで、どうしても帰ると言わない。
このままここで立ち話をしているわけにもいかない。俺は一度、父に電話をして事情を話すことにした。父は落ち着いた声で、詳しく話を聞きたいから恵と一緒にホテルへ来てほしいと言った。そのホテルは俺たちが働いている系列のホテルで、父は仕事の関係でそこにいるらしい。
恵は急に決まった父との顔合わせに少し緊張気味だったが、俺たちは父の待つホテルへ向かった。
ロビーで父が手招きをしている。俺たちが近づくと、恵は父を見るなり挨拶をした。声が少し震えている。相当緊張しているのだろう。
そんな恵に、父は笑顔で「緊張しなくていいから」と声をかけた。その笑顔に、恵はほっとした様子を見せた。
俺が事情を話すと、恵は自分の親が失礼なことをしたと、父にまで頭を下げた。父が「君のせいじゃないよ」と笑って言ったので、恵もやっと笑顔を見せた。
その後、ホテルのレストランで三人で食事をした。食事が終わった後、父は恵にホテルのカードキーを渡した。恵が泊まれるように、部屋を取ってくれていたのだ。
恵は「申し訳ないから」と断ったが、父は「勢いで家を出てもいい結果にはならないだろう。だから明日には家に帰ってもらうよ」と言った。しかし恵は、家を出るくらいのことをしないと、自分の父親は分かってくれないと言い張った。
すると父はこう言った。
「それなら、明日は私も君のご実家に伺おう。私に任せてくれれば、ことは問題なく進むと思うよ。」
不敵な笑みを浮かべて。俺も恵も驚いたが、父の提案を受け入れることにした。
翌日、俺と恵は父を連れて、再び恵の家を訪れた。先に恵と俺が家の中に入ると、恵の父親は俺を見るなり、勝ち誇ったような顔で言った。
「お前が娘を焚きつけたんだろう。娘が私にあんなひどい口を聞くことも、家を出ていくこともなかった。疫病神が。」
下衆な笑みを浮かべる恵の父親。しかし、その顔は次の瞬間、一瞬にして真っ青になった。父が口を開いたからだ。
「疫病神ですか。」
恵の父親はその声に驚き、肩をビクッと震わせた。どうやら父がいることに気づいていなかったらしい。
真っ青になった恵の父親は、震えながら口を開いた。
「も、もしかして…古川社長ですか?」
「聞かなくても分かるだろう。君の親会社の社長のことぐらい。」
「君の名字は古川です。」
俺の言葉を聞くと、恵の父親は勢いよく土下座を始めた。
「も、申し訳ありませんでした!息子さんとは知らずに、大変失礼なことを…」
「話は息子と娘さんから聞きましたよ。結婚に反対しているそうですね。その理由が、バイトを複数掛け持ちする貧乏人だから、ですか。」
父は呆れた目で恵の父親を見下ろしている。
「ち、違うんです!それは…」
脂汗をかきながら必死に言い訳をしようとする恵の父親に、父はなぜ俺がそうせざるを得なかったのか、その理由を話し始めた。
「息子には、いくつものホテルに潜入してもらっていたんですよ。その理由も、あなたなら分かるでしょう?」
「それは…最近売上が悪いからでしょうか。」
「それも理由の一つだ。」父はそう前置きをして、話を続けた。「ここ数年で、全体的にクレームの数が明らかに増えているんですよ。その原因を息子に調べさせていましたが、ようやく判明しました。」
父が話を進めるほど、恵の父親の顔は青ざめていく。父は彼の様子など気にする様子もなく、続けた。
「役職のある立場の人間が、バイトに仕事を押し付け、自分たちは楽をしている。そのせいで、現場の仕事が回っていないんです。」
「その件について、私は支配人に相談したことがあります。しかし、改善されたのは恵が来てからでした。」
恵の父親は滝のように流れる汗を拭いながら「そんな話は聞いていない」と言ったが、その目は完全に泳いでいた。
「聞いていない、ということは、報告がなかったということですか。実は、調査した結果、あることが分かったんです。」
父は調査結果の報告書を、恵と恵の母親に渡した。それは、一部の役員の給料明細と振り込みのデータを記載したものだった。照らし合わせると、金額が合っていないことは一目瞭然だった。
「つまり、給料が減って仕事に見合わないから、バイトに仕事を押し付けるようになった、ということですよ。」
父がそこまで言うと、恵の母親はハッとした表情を見せた。
「もしかして…あなた…」
そこまで言うと、言葉を詰まらせ、涙を流した。相当ショックだったようだ。
恵の父親は土下座をしたまま、許してほしいと懇願する。だが父は冷淡に言った。
「君には責任を取って辞めてもらう。もちろん、横領した分のお金もきっちり支払ってもらうよ。もしそれができないなら、横領罪で訴えるつもりだ。」
「そんな…」
「人として当然ですよね。これ以上、恵さんや奥様を悲しませるようなことはしないでください。あなたはしっかりと償うべきです。」
俺がそう言うと、恵の父親は青ざめた表情で、何も言えなくなってしまった。
恵と恵の母親は、父親の代わりに俺たちに謝罪してくれた。後は家族で話し合います、と恵が言ってくれたので、俺と父はそこで恵の家を後にした。
その後、恵の父親は結局辞めずに会社に残ることを選んだが、もちろん社長の座からは降り、バイトとして働き始めた。横領したお金は、迷惑料と一緒に一括で支払ったらしい。
俺は問題を解決したこともあり、バイトを辞めて、今は本社の課長として働いている。現場にも顔を出すことはあるが、以前のようにバイトとして働くことはもうない。
だが恵はまだ俺のいたホテルで働いているため、俺は恵の働くホテルにちょくちょく顔を出す。
ある日、俺は恵を迎えに行くためにホテルを訪れた。当然、恵の父親もいる。俺は恵に「お疲れ」と声をかけた後、恵の父親にも同じように声をかけた。
恵の父親は、以前のような横柄な態度を見せることなく、深く頭を下げた。俺はそんな彼に言った。
「これから恵が次期社長として就任するまで、恵にいろいろと教えてあげてほしいんです。」
「い、いや、でも私は会社のお金を横領したんですよ。それなのに、私が次期社長のサポートなんかしてもいいんでしょうか?」
「そうしてくれると、俺も助かります。そこはあなたが一番よく分かっているはずです。まあ、嫌なら結構ですが。」
俺がそう言うと、恵の父親は少し考えた後、目を輝かせた。
「ええ、ぜひやらせてください。チャンスをいただけるのであれば…」
俺が「お願いします」と頭を下げると、恵の父親も「ありがとうございます」と深く頭を下げた。肩を震わせながら、涙を一滴、地面に落として。
俺はそんな彼の姿に、恵と顔を見合わせて、静かに笑った。
