「低学歴のくせに、そんな車に乗るなよ」
鋭い蹴り音が駐車場に響いた。蹴っているのは、仕立てのいいスーツを着たエリート然とした男。この会社の部長だ。
「やめなさい」
「うるさいな。あんたみたいな老いぼれに、こんな車は分不相応なんだよ」
直後、鈍い音。磨き上げられた高級車に、男の革靴が容赦なく叩きつけられる。一度、二度、三度。塗装に深い傷が走った。
その車の持ち主である、くたびれたジャンパーを着た地味な老人は、怒鳴りもせず、ただ静かに見つめていた。周りには大勢の社員がいる。だが、誰一人として止めない。
そこへ、一人の異様な雰囲気の男が駆け寄り、老人の前で深々と頭を下げた。
「申し訳ございません。お迎えが遅れました」
ざわりと空気が凍る。男は青ざめた部長に向き直り、静かに告げた。
「それ、会長の車ですけど」
はたして、この地味な老人は何者なのか。人の価値は、学歴でも肩書きでも金でもない。傲慢な男たちは、その日のうちにそれを最も残酷な形で思い知ることになる。
朝の光が、郊外の古い一軒家の縁側に差し込んでいた。郷田幻蔵、六十五歳。庭の畑でしゃがみ込み、トマトの脇芽を摘んでいる。くたびれたグレーのジャンパーに、膝の抜けた作業ズボン。足元は擦り切れた革靴。すれ違っても誰も振り返らないような男だった。
幻蔵の手は節くれ立ち、爪の間には何十年こすっても落ちない油の染みが残っていた。十五の春、中学を出てすぐに町工場へ住み込みで入った。その日からずっと付き合ってきた手だ。
「鈴のやつ、今年もよく実ったって喜ぶだろうな」
妻の鈴を亡くして三年が過ぎた。貧しかった頃、幻蔵が油まみれで夜を明かす横で、鈴はいつも内職の針を動かしていた。幻蔵が初めて自分の小さな工場を持った日、鈴は古い作業着を一着、手縫いで仕立ててくれた。その作業着の擦り切れた襟だけを、幻蔵は今も上着の内ポケットに仕舞っている。指で触れると、妻の手の温もりがまだそこにあるような気がした。
その時、縁側の電話が鳴った。
「はい、郷田です」
「親父、おはようございます。健一です」
「おお、健一か。朝っぱらからどうした?」
親父と呼ぶその声の主を、幻蔵は息子のように思っている。何かあれば、この男はいつもまず一番に幻蔵へ電話をよこした。
「親父、例の件、明日がいよいよなんです。一度だけ親父の目で見ておいて欲しくて、無理を言ってすみません」
「ああ、構わんよ。年寄りの目でよければ、いくらでも貸してやる」
「ありがとうございます。それと、くれぐれも無理だけはしないでくださいね。親父が倒れでもしたら、俺は鈴さんに合わせる顔がない」
「はは。なんだ、俺がぶっ倒れるくらいの話なのか。まあいい。いいか、健一。明日は俺のことを、ただの業者の年寄りだと思っておけ。会社ってのはな、客に見せる顔より、見えないところにこそ質が出るもんだ。名乗るのはそれからでいい」
「そうですね。分かりました」
「人を見るにはな、肩書きも学歴もいらねえんだよ。手と頭をどう使ってきたかだ。お前と出会ったあの日から、俺はそれしか見てこなかった」
電話の向こうで健一が少し黙り、それから「はい」と低く答えた。その声には、随分昔の若かった頃の面影がまだ残っているようだった。幻蔵は電話を切ると、もう一度内ポケットの襟にそっと指を触れた。
「すず。明日はお前が縫ってくれたこの襟を持って、ちょいと出かけてくる。健一のやつが何を抱えてるのか、見てきてやらねえとな」
窓の外を、雲が一つゆっくりと流れていった。
同じ頃、都心のオフィスに立つ星乱テクノ本社。中堅電機メーカーであるこの会社は、ここ数年業績が右肩下がりに傾いていた。社内の空気はどこか張り詰めている。そんな中でも、一際大きな声で人を従わせる男がいた。経営企画部長、日室高幸、四十八歳。仕立てのいいスーツに、手首には海外の高級ブランドの腕時計。歩く度、磨き上げられた革靴がフロアに乾いた音を響かせていた。
「おい、北村。この資料、お前が作ったのか?」
呼ばれたのは北村翼、二十四歳。定時制高校に通いながら工場で働き、独学で専門知識を身につけながら、苦学の末に入社した若手社員だ。
「はい、私です。何か不備が…」
日室は北村が差し出した資料をパラパラとめくると、口の端を歪めた。
「あのさあ、北村君。これ、グラフの単位がもう根本から素人なんだよ。分かる? こういうのはね、ちゃんとした大学でちゃんとした教育を受けてきた人間ならやらないミスなわけ」
「す、すみません。すぐに直します」
「だからそういう問題じゃないんだって」
日室は資料をぽんと北村の机に放った。
「定時制だっけ、君? いや、よく頑張ったとは思うよ。思うけどさ、そういう地頭の部分はね、後からどうにもならないの。はあ、全く。これだから学歴のない人間を入れると、現場が回らないんだよな」
近くの席で課長の里見和彦が、笑いを噛み殺すように肩を揺らした。
「部長、それ言っちゃ可哀想ですよ」
「まあ、本人もそろそろ自分の身の程ってものを分かった方がいいでしょうけど」
二人の声は、わざとフロア全体に聞こえる大きさだった。周りの社員は誰も顔を上げない。聞こえないふりをしてキーボードを叩く音だけが続く。それがこの会社の空気だった。北村は唇を噛んで、机の資料に視線を落とした。握ったボールペンの先が震えていた。それでも言い返さなかった。味方になってくれる人間など、ここには一人もいないと知っていたからだ。
そこへ、出先から戻った後方主任の神野雪、三十八歳が、ヒールの音を響かせて通りかかった。ブランドのバッグを肘にかけ、北村の安物のスーツを上から下までわざとらしく一瞥した。
「北村君、いつも同じスーツ着てるように見えるけど、一週間同じの着てたりしないよね。もうちょっとマシなのないの? 一応うち、お客様の前にも出る会社なんだからさ」
「はあ、はい。気をつけます」
日室は満足げに頷くと、思い出したように声のトーンを上げた。
「ああ、そうだ。みんな聞け。明日、いよいよ大和精密グループから視察が来る」
フロアの空気がわずかに変わった。大和精密グループ。資本提携が傾いたこの会社にとって、最後の命綱であることは社員の誰もが知っていた。
「向こうのお偉いさん、何でも会長が自ら見えられるそうだ。あれだけの大企業の頂点に立つ人間だ。どこかの一流大学を出た、相当なエリートに決まってる。いいかお前ら、明日は粗相のないようにしろ。学歴のない連中は余計なことを喋るな。会社の格ってものが相手に伝わるからな」
「違いないですね」
「まったくですよ。低学歴の連中が余計なこと言わなきゃいいんですがね」
三人が顔を見合わせて笑う。その輪の外で、北村だけがじっと床の一点を見つめていた。
翌朝九時前、星乱テクノ本社の正面エントランスに一台の車が滑り込んできた。黒塗りの大型セダン。流れるようなボディラインに、朝の光が吸い込まれていくようだった。それを窓際に見た社員の一人が、思わず声を漏らした。
「うわあ。あれ、フラッグシップの最上級モデルじゃないか。受注生産で国内に何台も入ってこない外車だよ」
「あれ、内装まで特注してたら軽く五千万は超えるっていうやつだよな。やべえ。うちの社長の車がおもちゃに見える」
一目で別格と分かるその一台が、来客用駐車場へ止まった。ロビーの社員たちがざわつきながら視線を送る。日室もガラス越しにその車を認めて、ごくりと喉を鳴らし、慌ててネクタイを直した。
「だが、大和精密の会長があれほどの車で乗り付けるとは。噂に違わぬ大物じゃないか」
運転席のドアが開いて、降りてきたのは。色あせたグレーのジャンパーに、膝の抜けた作業ズボン。擦り切れた革靴に、しわだらけの顔。どこからどう見ても、その辺の畑から出てきたような地味な老人だった。それから後部座席から誰も出てこないのを見て、日室の顔からすっと表情が抜けた。
「は? なんだあの爺さん。どこの運転手だ?」
「運転手にしては見劣りしすぎませんかね」
「ねえ、あの車、まさか盗んだものじゃないでしょうね。あんな老人が乗る車には、どう見たって見えませんけど」
幻蔵は誰に案内されるでもなく、のんびりとロビーへ入ってくる。受付の前に立つと、人の良さそうな顔で頭を下げた。
「おはようございます。あの、郷田と申しますが」
神野が幻蔵を上から下まで眺めて、嘲笑うように声を潜めた。
「郷田さん? どなたかとお約束ですか?」
「ええ、人と待ち合わせがありましてね。もう少しここで待たせてもらえれば、それでいいんですが」
幻蔵は神野の顔を見ることなく、ロビーをのんびりと見渡した。その悪びれない態度が神野の癪に触った。
「何なの、この爺さん。話が通じてるんだかいないんだか。ああ、もう。あのね、おじいちゃん。ここ、れっきとした会社なの。待ち合わせなら、外のベンチでやってってもらえる? くすっ」
そこへ里見が歩み寄ってきて、幻蔵の足元から頭まで舐めるように見回した。
「おいおい、じいさん。聞こえてんのか? はあ? 止める場所が違いましたかな?」
その物怖じしない態度が、里見の苛立ちを際立たせた。声を一段張り上げる。
「あのさあ、いつまでも居座らないでくれる? あの駐車場ね、企業の来客用なの。あんたみたいな人がうろうろしてると、こっちが恥かくわけ。さっさと出てってくれないかな」
ロビーにいた社員たちは、誰によっても誰も口を挟まない。誰もが我関せずと、それぞれの仕事に目を戻すだけだった。あの会社で強い者に逆らうことが何を意味するか。誰もが体で覚え込まれていた。
「あ、あの」
その時、一人の青年が声を上げ駆け寄ってきた。北村だった。
「すみません。もしかして、お客様でしょうか? もし違っていたら申し訳ないんですが。ああ、でも、ご用件だけでも私がお伺いします」
里見の眉がぴくりと跳ねた。
「はあ? 北村、お前関係ないだろ。引っ込んでろ」
「で、でも、ちゃんとご用件聞いてませんし、追い返すのはその、失礼かと」
「何なの、この子。見すぼらしいもの同士、気が合うわけ?」
三人がまた顔を見合わせて笑う。だが幻蔵は、その北村の顔をじっと見つめて微笑んだ。
「いやいや、ご親切に。大丈夫ですよ、坊や。もう少しだけここで待たせてもらえば、それでいいですから」
その穏やかな声が、日室の前での最後の静けさだった。
日室は朝から苛立っていた。今回の視察には、経営企画部長である自分の命運がかかっている。提携が流れればこの会社は終わる。会社の重荷を背負う立場として、胃の奥がきりきりと痛むような朝だった。その張り詰めた神経の矛先が、目の前の老人へと向かう。
「おい、いい加減にしてくれよ、おじいさん。あんた、さっきからここで何なの? 用がないなら帰るって言ってんだろ。今日はこっちは忙しいんだ」
「すみませんね。人を待っておりまして」
日室は、さっきこの老人が自分の給料では絶対に手に入らないであろう高級車の運転席からふらりと降りてきたことを思い出した。その立ち振る舞いに改めて苛立ちが込み上げる。
「はあ、待つ。大体な、あんた。あそこの来客用に止まってる車。あれ、さっきあんたが自分で運転して降りてきたよな。まさか、あんたの車のつもりか?」
「ええ、あれで参りました」
幻蔵が悪びれもせず小さく頷く。その瞬間、日室の口元がみるみる歪んでいき、堰を切ったように笑い出した。
「あのなあ、じいさん。ああいう手の車はな、乗る人間を選ぶんだよ。あんたみたいな、その辺の畑から出てきたようなくたびれた年寄りが似合うと思うか?」
幻蔵は気を悪くする様子もなく、むしろ申し訳なさそうにぽりぽりと頭を掻いた。
「いや、おっしゃる通りでしてね。私は中学を出てすぐ町工場で働き始めた人間でして、ろくに学もない。こんな立派な車は、正直柄じゃないんですよ」
「はあ、中卒。は、やっぱりな。通りでさっきからどこか品が違うと思ったんだよ」
日室は嫌な底意地の悪い笑みを浮かべた。
「いいか、じいさん。よく覚えとけ。学歴のない人間ってのはな、どれだけ金を持っても、その育ちの浅さだけはどうやっても隠せないんだよ。あんたがその車をどうやって手に入れたか知らんが、中身が伴ってねえ。成金が身の丈を張ってるだけ。見ていて吐き気がする」
「違いないですね。学歴のない連中ほど、分不相応なものを欲しがるんですよ。身の程ってものを知らない」
「まさか、盗難車じゃないですよね」
日室の嫌な笑みが消え、目つきが鋭くなった。あと一時間で会社の運命を決める会議が始まる。半年眠れぬ夜を重ねて繋いできた綱渡りが、今日決着する。その極限の緊張の前で、目の前の薄汚れた老人と不釣り合いな高級車が無性に目障りだった。
「盗難車。おい、それ、あり得るな」
「あ、いえ、冗談で言ってみただけなんですけど」
「おい、じいさん。やっぱこれ、盗んできたんだろ? 私の車だと申し上げたが」
「ちっ、まだとぼけやがる。おい、通報するか?」
日室の抑えのない高圧が、怒りの形に変わって吹き出した。日室は駐車場のセダンへずかずかと歩み寄っていく。そして傷一つない磨かれたドアパネルに向かって、おもむろに足を振り上げた。
「それはおやめなさい」
幻蔵が鋭く、しかし静かに声を発し、一歩踏み出す。だが日室はその制止を一蹴し、振り向きざまに吐き捨てた。
「うるさいなあ。もういい歳した老いぼれがよ。いいか? 今は令和なんだよ。学歴のない人間がこんな車にしがみついていい時代じゃねえんだ」
そして日室の革靴が車体を蹴り上げた。ガンッ。一度、ドアパネルが鈍くへこむ。ガンッガンッ。二度、サイドミラーの付け根が嫌な音を立ててきしむ。三度目、磨き上げられた塗装に深い傷が斜めに走った。金属の歪む音が駐車場の静寂を引き裂いた。ロビーのガラス越しに、いつしか何人もの社員がその光景に釘付けになっていた。だが誰も外へは出てこない。ある者は口元を手で覆い、ある者はスマートフォンのカメラをそっと向けた。誰かが小さく「やりすぎだろう」と呟いた声も、すぐに重たい沈黙に飲まれた。
「低学歴のじじいが図々しく会社に来るな」
「いや、やめてください、部長! 器物破損ですよ!」
たまらず駆け寄った北村に、日室は鼻を鳴らして振り返った。
「器物破損かもな。だがな、北村、よく考えろ。あんな中卒の田舎の年寄りに、この俺を、いや、この星乱テクノの相手どって訴える知恵があると思うか? 法律の知識も、弁護士に頼む金も、大企業に立ち向かう度胸もない。学歴のない人間ってのはな、結局泣き寝入りするしかないんだよ。昔からそうだ。分かったらお前は引っ込んでろ」
そして突き飛ばすように北村の肩を押した。北村がよろけて、アスファルトに膝をつく。ロビーの窓から神野がスマートフォン片手に、くすくすと笑ってその様子を眺めている。他の社員たちは、やはり誰も止めない。関わりを恐れるように、一様に視線を伏せるだけだった。
幻蔵は動かなかった。傷ついた車を見つめ、それからおもむろに上着の内ポケットに指を入れる。妻が縫った、擦り切れた作業着の襟。その感触を確かめるように握りしめた。
「すず。お前ならこういう時、何て言うかな。『幻さん、怒っちゃだめよ』って笑うか」
顔を上げた幻蔵の目には、ただ澄んだ、深い静けさだけがあった。
「分かりました。あなたがどういう人か、よく分かりましたよ」
「はあ? なんだ、その言い方は」
幻蔵は答えず、膝をついた北村に手を差し伸べ、優しく立たせてやった。
「坊や、怪我はないかい? ありがとな。庇ってくれて」
「いえ、何もできなくて」
「そんなことはない。困ってる人間に、誰よりも先に手を差し伸べる。それができるとは。強いな、坊や」
「あ、ああ」
突然自分を顧みない老人にそう言われ、北村は戸惑ったように瞬きをした。日室と里見はその様子を見て、また下品に笑った。
「なんだなんだ。落ちこぼれ同士で絆の確認でもしてるのか?」
「日室さん、と言いましたか。一つだけ言っておきます」
「ああ?」
「人を学歴があるかないかで値踏みする人間はね、いずれ必ず自分が同じ物差しで測られる日が来る。それも、あなたが思っているよりずっと早くにね」
「はあ? 何それ? 脅してるつもり? 笑わせるなよ。中卒のじいさんが説教するなら、せめて大学出てから言えってんだ」
幻蔵はもう何も言わなかった。日室たちに背を向けると、上着の内ポケットから使い込まれた古い携帯電話を取り出す。そしてボタンを押し、耳に当てた。
「ああ、健一か。俺だ。さっき着いたところだ。ああ、会社の質ってものはたっぷり見せてもらったよ。例の数字の件、お前が懸念して睨んだ通りだった。間違いない。ああ、けじめの付け方だけだ。ああ、今日でいい。例の件と合わせて頼む」
その背中を見て、神野がくすくすと笑いながら里見に囁いた。
「ちょっと見て。あの人、ガラケーで誰かに電話してるわよ。会社ごっこのつもりかしら? 哀れね」
「ほっとけほっとけ。どうせボケた年寄りの独り言だ」
幻蔵は黙って電話を切った。そして振り返ると、その顔には相変わらず人の良さそうな笑みが浮かんでいる。
「お気遣い、どうも。ああ、そうだ。私はこれから、この会社の方と大事な約束がありましてね。中で待たせてもらいますよ」
「はあ? 約束? おい、待てよ、じいさん。誰の許可で? ――日室さん、もう放っときましょう。会長はまだ見えられないようです。早く戻って会議の準備を」
だが幻蔵はもう日室を見てはいなかった。傷つけられた車に一度だけ目をやり、本社のエントランスへと歩いていく。その足取りは、まるでこの場所の全てを知り尽くしているように迷いがなかった。
一人本社エントランスをくぐった幻蔵に、ロビーの隅で控えていた数人の黒服の男たちがぞろぞろと駆け寄った。そしてその地味な老人の前で、揃って深々と頭を下げる。
「お待ちしておりました。ご案内いたします」
秘書に案内され、幻蔵は奥のエレベーターへと消えていった。その光景を通りかかった社員が、何とも奇妙そうな顔で見ていた。
「なんだ、あのズタボロのじいさんを、あんなに丁重に」
だが当の日室は会議の準備に追われ、その光景を何ひとつ知らなかった。
そして午前十時。星乱テクノ本社最上階の大会議室。磨き上げられた長机の向こうに、星乱テクノの幹部たちがずらりと並んでいた。今日この席で、大和精密グループとの資本提携が成立し、会社を救う会議が行われることとなっていた。経営企画部長の日室は自信に満ちた足取りで、里見と神野を従えて入室した。ネクタイを直し、口元には勝利を確信する笑みが浮かんでいる。
「さあ、いよいよだ。大和精密の会長を、ご丁寧にお迎えして――」
そこまで言って、日室の足がぴたりと止まった。会議室の最も奥、上座の最も上の席に、先ほど駐車場であれほど見下して嘲弄した、あの地味な老人がぽつんと腰かけていたのだ。
「は?」
幻蔵はくたびれたジャンパーのまま、湯呑みのお茶を旨そうにすっていた。
「あのな。なんであんたがそこに? おい、誰だ? あのじいさんをなんで上座なんか座らせたんだ? つまみ出せ!」
その時、会議室の扉が再び開いた。入ってきたのは仕立てのいいダークスーツに身を包んだ五十代の男。その姿を見た瞬間、星乱テクノの幹部たちが弾かれたように立ち上がった。
「た、立花社長!」
大和精密工業社長、立花健一。今日の提携の相手方の責任者であり、星乱テクノの命運を握るその人だった。日室の顔にようやく安堵がよぎる。しかし、見ずぼらしい老人が紛れ込んでいることの言い訳をなんとか考えなければと焦っていたところ――健一は稲武幹部たちには目もくれず、まっすぐに――目の前の老人へと歩み寄ると、その地味な老人の前で深々と腰を折った。
「親父。お待たせして申し訳ありません」
会議室から、物音という物音が消えた。稲武の幹部たちは、星乱テクノの面接を握るはずのその人物が、あの薄汚れたジャンパーの老人に向かって深々と頭を下げた。その一点を、瞬きも忘れて見つめていた。
「お、親父?」
幻蔵は湯呑みを置くと顔を上げた。先ほどまでの人の良さそうな老人の表情。だがその奥に、底知れぬ何かが潜んでいた。健一が慌てふためく幹部たちに向き直り、よく通る声で告げた。
「ご紹介が遅れました。こちらが、大和精密グループ創業者にして会長、郷田幻蔵です」
その瞬間、里見が椅子にぶつかってよろめいた。神野の手から資料がぱさりと滑り落ちる。そして日室はその場に棒立ちになったまま、顔面蒼白になった。
「う、嘘だ。あの中卒の、畑から出てきたようなじいさんが、大和精密の会長? じゃあ、俺は、俺はさっき、この人に何を……」
「ああ、日室さん。一つお伝えするのを忘れていました」
ひ、ひの……。
「さっきあなたが蹴って傷つけたあの車、あれね」
幻蔵はまるで世間話でもするように穏やかに続けた。
「あれはね、私の柄じゃないからと固辞したんですがね。健一が、いや、そこの立花社長が『会長をそんな見すぼらしい車でお迎えするわけにはいきません』と。わざわざこの私のために車を用意してくれましてね。もっとも、運転手までつけるというのだけは断らせてもらいましてね。この年でも、ハンドルくらいは自分で握っていたいもんですから」
日室の喉がひゅっとなった。そこで健一が静かに一歩前に出た。日室を見据え、低くはっきりと告げた。
「日室さん、もうお分かりですね。あなたが先ほど蹴りつけていたもの。それ、会長の車ですけど。何か言うことはありますか?」
その瞬間、日室の膝ががくんと折れた。立っていられず、長机に手をつき、それでも崩れる体を支えきれずに、ずるずるとその場に崩れ落ちた。
「あ、ああ、ち、違うんです! これは何かの間違いで! 私は知らなくて! その車が会長の車だって、知らなかったか、ら……!」
「知らなかった? ふっ」
健一の声は静かだった。だが、その乾いた笑いは、逃げ場を探す日室の胸の真ん中をまっすぐに貫いた。
「あなたは相手が学歴のない無力な年寄りだと思ったから、あれをやったんでしょう。『どうせ訴えられない』と、そう侮って。人を何で値踏みするか。それがあなたという人間の全てだ」
「あ、私は、ああ……」
会議室にはもう、老人を嘲る声はなかった。あるのは、自らの手で奈落の蓋を開けてしまった男の、震える呼吸の音だけだった。
健一が一歩前に出た。大和精密工業社長としての、よく通る声が凍りついた会議室に響いた。
「では、星乱テクノの皆さん。本日の本題に入らせていただきます。まず結論から申し上げます」
幹部たちがすがるような目で健一を見た。千五百億円の資本提携。この会社の最後の命綱。
「この資本提携は、白紙に戻させていただきます」
「そ、そんな! 社長、お待ちください! その話がなければ、うちは、うちの資金繰りは――」
「ええ、存じております。本社が来月末に迫った社債償還資金を、この提携の前払い金で賄うおつもりだったことも、全て調べがついております」
別の幹部が、へなへなと椅子に沈み込んだ。提携の白紙撤回。それは星乱テクノにとって、直ちに資金ショートと倒産を意味していた。だが健一の言葉はまだ終わらなかった。
「それともう一つ。本日付で、大和精密グループから本社へ供給している超精密制御ベアリング及びセンサーユニット。その全量の供給を停止いたします」
「ま、待ってくれ! あの部品がなければ、うちの主力製品は一つも組み立てられない。工場が止まる!」
「音社の製品の心臓部は、全てうちの部品です。他社には同じ精度のものは作れません。つまり、明日から本社の全ラインが停止するでしょうね」
幻蔵が興した、世界で唯一の技術。それを失った会社は、もはやただ倒れるのを待つだけの存在だった。そして、幻蔵がようやく口を開いた。
「日室さん。音社のことを、隅から隅まで調べさせてもらいました」
健一が、分厚いファイルを長机の上に滑らせた。
「音社の主力製品の性能試験データ。その大半が改ざんされていました。本来の基準値に満たない製品を適合品と偽って、何年も出荷し続けていた。提携にあたっての事前監査で、数値の不自然な食い違いには早くから気づいておりました。あとは幻蔵さんの一言で、最後の裏付けを取るだけのことでした」
会議室の幹部たちがざわめいた。健一はページをめくる。
「指示を出していたのは、経営企画部長、あなたですね。日室さん、あなたの署名入りの指示メール。そして実際にデータを書き換えていたのは、里見和彦課長、あなたですね。改ざんの操作ログに、あなたのIDがはっきり残っています」
里見の顔が髪の毛のように真っ白になった。その瞬間、日室が弾かれたように里見を指さして叫んだ。
「そ、そうだ! やったのは里見だ! こいつが勝手にやったんだ! 私は、私は知らない!」
「ふ、ふざけるな! あんたの指示でしょうが! 『数字なんてちょっといじればいい』って笑いながら言ったのは、部長、あんたでしょう!」
「黙れ! 課長の分際で、上司に責任をなすりつける気か!」
「上司? あんた、たった今、私に全部押し付けようとしたじゃないか!」
見苦しい怒鳴り合いが始まった。さっきまで一枚岩で弱者を見下していた二人が、今は沈む船の上で互いを突き落とそうと、見苦しく掴み合っている。その横で神野が震える声で後ずさった。
「あの、わ、私は関係ありません! 私はただ、上司に言われた通りに……前に一度外部から問い合わせが来た時も、上に言われるまま『事実無根です』ってコメントを出しただけで……」
「ええ。その『事実無根』というコメントこそが、虚偽情報の流布にあたります。神野さん、あなたの名前もしっかり記録されていますよ」
「そ、そんな……」
会議室に並ぶ他の社員たちは、もう誰も口を開けなかった。そこで健一が止めを刺すように、静かに付け加えた。
「それと、申し上げておきます。この件の証拠一式は、我々が事前監査で掴んだ時点で、すでに所管の当局へ報告を済ませております。製品の安全に関わることです。黙っておくわけにはいきませんのでね。なに、私どもが音社との縁を切るより先に、事実は事実として表に出る。それだけのことです」
「そ、そんな……」
その時、会議室のドアがノックもなく乱暴に開いた。駆け込んできた若い社員は、手にしたタブレットを握りしめたまま声を震わせていた。
「た、大変です! さっき当局が、うちに立ち入り調査に入るって! データ改ざんの件、もうニュースに出てます! 一階のロビーに報道関係者が! もう止められません!」
会議室の壁際のモニターが、ニュース速報のテロップに切り替わった。『星乱テクノ、性能データ改ざん。主力製品、大規模リコールの可能性』。キャスターの早口の声が、静まり返った会議室に異様に大きく響く。幹部の一人が震える指でリモコンを探したが、音を消すことすらできなかった。窓の下、先ほどまで静かだった正面ロータリーに、白い中継車が次々と乗り入れてくる。一斉にこのビルを見上げるレンズの群れ。マイクを握った記者たちが警備員を押しのけ、ガラスの自動ドアに殺到していた。
会議室の壁際の株価ボード。その緑の数字が、一つまた一つと赤に裏返っていく。
「おい、嘘だろ」
誰かが掠れた声で呟いた。株価は二桁の数字が目で追えない速さで下落していき、やがて数字そのものが点滅したまま凍りついた。ストップ安。売り注文ばかりが膨れ上がり、もう買い手がいない。時価総額二千億と言われた会社のその四分の一が、午前のわずか数分の取引で音もなく溶けて消えた。それを合図にしたように、稲武の幹部たちの携帯電話があちこちで一斉に鳴り出した。
「はあ? 契約を白紙に?」
「ま、待ってください! 融資の件は話が違う! もしもし? もしもし?」
切られた電話を、その男はただ呆然と見つめた。取引先が、銀行が、一社また一社と。沈みゆく船から先を争って縄を切っていく。その日のうちに、主要取引銀行が引き上げを通告した融資枠は合わせて五百億。会社が明日を生き延びるための最後の血液が、堰を切ったように失われていく。つい二十分前まで、この部屋は千五百億円の提携を祝うはずの席だった。それが今は、鳴り響く電話の音全てが悲鳴にしか聞こえない。組織という巨大な建物が、土台から軋みを上げてゆっくりと傾いでいく。その音が、確かにこの会議室には聞こえていた。
膝をついたまま、日室は鳴りやまない電話と落ち続ける株価のボードを虚ろな目で見つめていた。築き上げたはずのものが。信じてきた肩書きも学歴も、何ひとつ彼を助けてはくれなかった。その幻想の中で、健一がふと低い声で語り始めた。
「日室さん。私はね、高校も出ていないんですよ」
「え……」
信じられないという顔で、日室が健一を見た。
「学歴も何もなく、ある工場で『高校も出ていない奴にこの仕事は無理だ』と追い出されかけていた。あなたがさっき幻蔵さんにしたように、私も笑われ、見下される側の人間でした」
健一は幻蔵を見た。その目には、二十七年分の深い感謝が滲んでいた。
「そんな私を拾って、一から仕事を、そして生き方を教えてくれたのが、この人です。幻蔵さんは、一度も私の学歴を聞かなかった。ただ、私の手と目だけを見てくれた。私が今ここに立っていられるのは、そのたった一つの信用のおかげなんです」
幻蔵は何も言わず、ただ内ポケットの上に手を当てていた。亡き妻の作業着の襟。その場所に。そして幻蔵は、最後に呆然とする日室に向かって告げた。
「勘違いしないでくださいね。私はあなたの会社を潰したわけじゃない。潰す力なんて、私は使っちゃいない。人を学歴で値踏みし、製品の安全を数字でごまかし、弱い立場の人間を踏みつけにする。そうやって自分たちで少しずつ信用を捨ててきた。信用を失った会社が、自分の重みに耐えきれず、勝手に崩れただけです。私はただ、その背中をほんの少し押しただけだ」
それは勝ち誇りでも、説教でもなかった。長い人生で何百という会社の栄枯盛衰を見てきた男の、ただ淡々とした事実の言葉だった。
「ああ、そうだ。最後に一つ」
幻蔵はドアの方へ視線を向けた。そこには、騒ぎを聞きつけ、心配そうにこちらを覗き込む北村の姿があった。
「さっきあなたが『低学歴』と呼んで突き飛ばしたあの若者。あの子だけが、誰一人助けなかったこの場所で、見ず知らずの年寄りに手を差し伸べてくれました。学歴があるかないかじゃない。人として、どちらが上か。もう分かるでしょう」
幻蔵はそこで一度言葉を切った。そして次に口を開いた時、その声からこれまでのよそ行きの丁寧さが、すっかり剥がれ落ちていた。喉に残ったのは、油の匂いの染みついた町工場の男の、飾らない低い声だった。
「いいか、日室さん。わしはな、学歴があるとかないとかで、人を上だの下だのと測ったことは、ただの一度もない。その手で、その目で、何をどう見てきたか。わしが見てきたのは、ずっとそれだけだ。それがわしの生き方ってもんだ」
その時、ずるずると日室の体が動いた。膝をついたまま幻蔵の足元へと這い寄り、色あせた作業ズボンの裾を両手で、すがるように掴んだのだ。
「お、お願いします! 何でも! 何でもしますから! もう、もう一度だけチャンスを! この通りです!」
額をフローリングの床に何度も擦り付ける。ついさっきまで『中卒の老いぼれ』と嘲った相手の足元で、名門大卒を誇ったエリートが、醜態も構わず額を打ちつけていた。だが幻蔵は、その手を振り払いもしなかった。ただ静かに一歩足を引いて、ゆっくりと解いた。
「お上げなさい。矜持なんてものはね、人に差し出されるものでもないし、ましてや自分から捨てるものでもない。あんたが今、その膝で踏みつけにしたのは、あんた自身の、たった一つの誇りだ」
日室にはもう、責任を擦り付け合う里見と神野の声も、鳴りやまない電話の音も、何ひとつ耳に入っていなかった。幻蔵は席を立った。会議室を出る際、立ち尽くす北村の前で足を止めた。
「坊や。名前は?」
「き、北村です。北村翼と言います」
「翼か。いい名前だ」
幻蔵は節くれだった手で、北村の肩をぽんと叩いた。
「いいか、翼君。学歴ってのはな、あった方がいい。だが、それは人を見下すために持つもんじゃない。困ってる誰かに手を伸ばすために使うもんだ。今日のお前さんは、この会社の誰より立派だったよ」
「は、はい……!」
北村の目に、みるみる涙が滲んでいく。ただ深く、深く頭を下げた。幻蔵はゆっくりとした足取りで会議室を後にした。窓の外には、よく晴れた空が広がっている。幻蔵はふと立ち止まり、内ポケットの襟にそっと指を触れた。
「すず。今日も、お前との約束は守れたよ」
それから五年の月日が流れた。星乱テクノという会社は、もうどこにも存在しない。データ改ざんの発覚からわずか三ヶ月で倒産。製品は全リコールとなり、会社は解体された。日室は不正競争防止法違反の罪に問われ、有罪判決を受けた。執行猶予はついたが、彼が経営企画部長という肩書きを取り戻すことは、二度となかった。
ある冬の朝。日室は郊外の小さな町工場の前に立っていた。油の匂いの染みついた古い鉄骨造りの建物。手にした履歴書には、かつて誇った一流大学の名と、華々しい職歴が並んでいる。だがそれを面接で差し出した時、作業着姿の年配の社長は、ちらりと見ただけで首を振った。
「悪いね。うちは頭で世代より、油で手を汚せる人間が欲しいんだ。あんた、機械回せるかい?」
「え、ありません」
日室は答えられなかった。五十を過ぎて、彼には自分の手で何かを作った経験が、ただの一度もなかったのだ。帰り道、底の浅いアパートに戻ると、ポストに離婚届が入っていた。エリートの肩書きと給料に輝いていた妻は、その肩書きが消えた夫の元に、もう留まる理由を見つけられなかった。一人、息子も妻も連れて行った。がらんとした部屋で、日室はただ膝を抱えて座り込んでいた。
「俺は、どこで道を間違えた?」
かつて自分が『学歴のない無力な人間』と呼んで、踏みつけにした。その立場に、今彼自身が立っていた。
同じ五年後の春。幻蔵は麦わら帽子をかぶり、畑仕事をしていた。郊外の古い一軒家の畑では、今年もトマトがよく実っていた。あの会議室での出来事など、まるでなかったかのような、穏やかな朝の時間が流れていた。
その時、門前に一台の車が止まった。あの日の黒い大型セダンではなく、品のいい国産車だ。降りてきたのは健一だった。
「親父、おはようございます。またトマトですか?」
「おお、お前も持ってけ。会社のお偉いさんが、トマトをぶら下げて帰るのも、たまにはいいだろう」
「美味しそうですね」
幻蔵はもいだばかりのトマトを、健一の手に握らせた。二人は縁側に並んで腰かけ、しばらく何を話すでもなく春の庭を眺めていた。ふと、幻蔵が健一の胸元に目をやって、ふっと笑う。
「お前、まだその安物のネクタイピンつけてるのか?」
健一は少し照れたように、その古びたピンに触れた。
「これは外せませんよ。親父のところで働いて初めてもらった給料で買ったものですから。これを見るたびに思い出すんです。学歴も金もなかった俺を、人として扱ってくれたあの日のことを。俺がどこから来たのか。それを忘れたら、俺はあの日室と同じになる。だから、これは一生つけ続けます」
「そうか。いい心がけだ」
幻蔵は何も言わず、ただ嬉しそうに目を細めた。その時、門先で明るい声がした。
「幻蔵さん! ご無沙汰してます!」
スーツを着た若い男が駆け込んでくる。北村翼だった。あの日より、随分顔つきが凛々しくなっていた。あの後、星乱テクノの倒産で職を失った北村を、幻蔵は健一に託した。「あの子のことを頼んだぞ」と。北村は大和精密の現場で一から技術を学び、今では若手のホープとして立派に育っていた。
「幻蔵さんに教わった通りです。困ってる人がいたら、上司でも先輩でも後輩でも関係なく、まず手を伸ばす。そうしてたら、いつの間にか俺の周りにも、信じてくれる仲間が増えてました」
「そうか。そりゃ何よりだ」
幻蔵はあの日と同じように、北村の肩をぽんと叩いた。学歴という物差しで世界に弾かれかけていた一人の若者が、今自分の足でしっかりと立っている。それは二十七年前の、健一の姿とふと重なって見えた。
その日の午後、三人は連れ立って墓地を訪れていた。幻蔵の妻の眠る墓だ。幻蔵は墓石の前にしゃがみ込むと、上着の内ポケットから、あの擦り切れた作業着の襟を取り出した。
「すず。見えるか? お前がいつも気にかけてた健一は、立派な会社のトップになった。それでも、お前が縫ってくれた俺たちの原点を、ちゃんと忘れずにいてくれてる。それに、新しい若いのも育ってきた。俺たちが貧乏のどん底で誓ったあの約束。『人を見た目や生まれで踏みつけにしない』。その約束は、こうやってちゃんと次の世代に繋がっていってるよ」
春の風が墓地の桜を、ふわりと揺らした。花びらが一枚、幻蔵の手の中の古い襟の上に舞い落ちる。健一と北村は、少し離れた場所から、その小さな背中を温かく見守っていた。
「さて、帰るか。トマトを収穫しなくちゃな」
立ち上がった幻蔵の顔は、どこにでもいる穏やかな老人のものだった。莫大な資産も、業界の頂点という肩書きも、その表情には何ひとつ出ていない。この男が長い人生をかけて本当に積み上げてきたもの。それは、誰かを信じ、誰かに信じられた、その時間の確かな重みだった。そして、それだけが何があっても、決して誰にも壊せないものだった。
三人の影が、夕暮れの道に長く伸びていく。その後ろ姿は、どこまでも静かで、温かかった。
