朝の台所に味噌汁の匂いが立っていた。柏正巳、六十七歳。妻のかよが布で弁当箱を包みながら、今日の卵焼きはちょっと焦げたと笑う。正巳はそれでいいんだと言った。四十年かけて研究した味だからな、と。かよは目尻の皺を深くして、研究って言えば聞こえはいいわね、と返した。
正巳は弁当を受け取り、玄関で古い靴の紐を結び直した。務め先は青葉精機工業。機械部品を作る社員三百人ほどの会社だ。そこで働く派遣スタッフとして、正巳の仕事は資材課の事務だった。倉庫で在庫を数え、納品書を整理する。誰もいない事務所の窓を開け、給湯室で湯を沸かす。それが一日の始まりだった。胸ポケットには使い込んだ革の名刺入れがある。角が丸くなり、色も褪せていた。若い社員に随分年季が入ってますねと聞かれた時は、これは私のお守りみたいなものでして、とだけ答えていた。
その朝、営業部の島が騒がしかった。若い女性が一人、俯いて立っている。契約社員の綾瀬みつ、二十六歳。営業部の貿易事務担当だ。学費が続かず大学は諦めたが、英語だけは高校の頃から勉強を続け、働きながら貿易事務の検定も取った。青葉精機に英語の専門家はいない。海外取引先とのやり取りは、この三年、みつの英語が頼りだった。そのみつが、注文データの数字を一つ打ち間違えたらしい。
困るんだよな、こういうので。誰の入力だ。若い社員が声を上げ、みつがすみませんと謝る。確認したつもりだったんですけど、と。正巳は納品書の束を抱えて通りかかり、足を止めた。歩み寄って、頭を下げた。
申し訳ありません。最後の突き合わせは私の仕事でした。私の見落としです。
え、あ、いや、柏さんがそう言うなら、まあ。騒ぎはそれで終わった。昼過ぎの廊下で、みつが正巳を追いかけてきた。さっきのあれ、私のミスです。柏さんは関係ないのに。正巳はもう直していましたよ、と答えた。なら、誰が謝っても同じことです。綾瀬さんはこれから長くこの会社で働く人だ。私みたいなじいさんの評価とは重さが違います。みつは何かを言いかけて、結局深く頭を下げた。
人を年齢や立場で測らないこと。困っている者から目を逸らさないこと。それが、正巳が長い人生で守り続けてきた二つの決め事だった。
この日から、みつは正巳にだけ笑顔で話すようになった。給湯室で会えば、母への仕送りの話も、東洋受験の話もした。正巳は湯呑みを吹きながら、聞き役に回った。
夏の終わりのこと。給湯室に麦茶の匂いが立ち、廊下から社員の話し声が流れてきた。半年前に来た営業部長が、資材課のコストを洗い直しているらしい。正巳は湯呑みを拭く手を止めなかった。
九月の最初の月曜日、資材課の倉庫に見慣れない革靴の音が響いた。営業部長の和尾涼介、四十五歳。半年前に中途入社した男だ。ジムで鍛えた胸板に細身のオーダースーツ。手首で大きな腕時計が光る。役員の前では丁寧に、営業成績も悪くない。ただ、笑っても目は笑っていなかった。後ろには営業課長の谷辺聡、三十四歳。和に似た格好だが、スーツは量販店のものだ。
これから全社で経費を見直します。もちろん、この資材課もね。絞れるところはたくさんありそうだな。正巳は倉庫の棚を一通り見て回り、正巳の前で足を止めた。上から下まで値踏みするように見る。柏さんでしたっけ。失礼ですが、おいくつですか。六十七になります。六十七。いやあ、お元気だ。和は課長を横目で見た。資材課の予算も人数も査定する側だ。課長は書類に目を落としたまま動かない。逆らえば自分が削られる。それを知った顔だった。和は続けた。
ご年齢を考えると、倉庫でのお仕事はご負担でしょう。会社としても、毎日事故があると困るんですよ。心配してるんです、私は。普通そこまで気にしませんよ。良かったですね、柏さん。正巳は頭を下げた。お気遣いありがとうございます、と。若い社員が二人、目を合わせて下を向いた。それとね、これは一般論ですが、上の世代の方はどうしてもデータ入力にミスが出る。会社としてはリスクなんですよ。分かりますかね、柏さん。コスパって。正巳は気をつけます、とだけ答えた。期待してますよ、と和は言った。期待していない声だった。
我慢強いっすね。さすが昭和の人間は違うわ。谷辺が笑い、和が鼻を鳴らした。足音が遠ざかる。正巳は顔を上げなかった。谷辺だけが戸口で足を止め、思い出したように振り返った。
あ、柏さん。これ、五時までにコピー三十部で。言っときますけど、残業はなしですからね。コスパ悪いんで。返事を待たず、書類の束を棚に置いて出ていった。
数日後の夕方、人気のない廊下でみつが和に呼び止められていた。この三日、数字一つ間違えられない見積もりの束を仕上げたばかりだった。綾瀬さん、あの海外向けの見積もり、英語のやつ直しといたから。あ、ありがとうございます。あの部分を、とみつが言いかけると、全部だよ、と和が被せた。全部。あのさ、契約社員に難しい仕事を振ってやってる俺の身にもなってよ。すみません、とみつは小さく頭を下げた。東洋審査、そろそろだよね。あの審査、現場責任者の評価が一番重いの。お互い賢くやりましょうね。みつの肩が小さく揺れた。和は笑いながら、返事を待たずに歩き去った。
帰り際の給湯室で、みつは湯呑みを両手で包んだまま黙っていた。正巳は棚の茶葉を吹きながら隣に立った。柏さん、私、間違いじゃないところまで間違ってる気がしてきました、とみつが言う。間違いがないなら、間違いませんよ、と正巳が返す。んですか、それ。みつが少しだけ笑った。正巳は窓の外に目をやった。気に入らない相手の間違いを探して回る男。正巳は何人も見てきた。ただ、あの男は少し違う。間違いが見つからない時は、作りに行きそうな目をしていた。
そして週の終わり、営業部から噂が流れてきた。欧州の大手メーカーから、会社をかけた大きな引き合いが来ているらしい。
九月の第二週、全体朝礼で社長が一枚の資料を掲げた。ドイツのワイスマン社から正式な引き合いをいただきました、と。ワイスマン社は欧州でも指折りの精密機械グループだ。売上は年およそ二兆円。そのヨーロッパ工場で使う部品を青葉精機から仕入れたいという話だった。金額は年におよそ四十億、五年の長期契約。決まれば会社の柱が一つ増える。社内が静かに沸いた。真っ先に手を挙げたのは和だった。
この商談、私にお任せいただけませんか。海外案件の経験なら私が一番ですので。社長は頷いた。和部長、頼みますよ。和は深々と頭を下げた。役員に向けるその顔は、どこまでも丁寧だった。
数日後の夕方、みつはワイスマン社から届いた商談条件のメールを訳し終えて、部長席へ向かった。和部長、失礼します。それで、一つ大事な点が。ああ、何だ。最終商談には先方の顧問という方が同席されるそうです。それから、金額と技術の質疑はドイツ語で行いたいと。ドイツ語のできる方の同席を強く求めると書かれています。和はモニターに目をやったまま鼻で笑った。
ドイツ語?あのさ、ビジネスの世界言語は英語なの。向こうだってエリートなんだから英語くらい話すんだよ。こういうのは儀礼的に書いてあるだけだ。で、でも、わざわざ書いてくるということは。はいはい。この件は責任者の俺が判断するの。契約社員が心配することじゃないんだよ。その一言で話は終わった。ドイツ語の件は会議の資料にも社内の共有メールにも載らなかった。外の通訳なんか入れてみろ。手柄に余計な名前が増えるだけだ。和はマウスを鳴らしてメールを閉じた。
週明け、人気のない会議室にみつは呼び出された。霊の条件の件さ、誰かに話した?え、いや、まだ誰にも。なら余計なことを言って回るなよ。それと、これは念のためだけど、この商談で行き違いがあったら、それは訳した人間のミスだからね。分かるよね、綾瀬さん。みつは声が出なかった。分かるよね、ともう一度だけ言って、和は会議室を出ていった。
その夜、残業で人の減ったフロアで、みつは原本のメールと自分の訳を印刷した。二枚を封筒に入れ、机の一番下の鍵のかかる引き出しにしまった。小さな鍵はティッシュ入れの内側に。前にも同じようにミスを着せられたことがある。あの時は証拠がなかった。
帰りがけ、給湯室の前を通ると正巳が湯呑みを片付けていた。あの、柏さん。もしもの話なんですけど、上の人が間違ったことをしていたら、どうしますか。正巳は湯呑みを棚に戻してから答えた。間違いが明らかになる日は必ず来ます。その日まで、事実を捨てないことです。みつはポケットの上からティッシュ入れの硬さに触れた。
こうして事実は誰にも知らされないまま、商談の日だけが近づいていった。
商談まであと一週間。大会議室で本番前のリハーサルが行われた。長机には役員が並び、営業部の面々が壁際に立つ。みつは資料係として末席に着いた。正巳も借り出され、茶を並べて資料を配って回った。いつもの裏方仕事だった。
スクリーンの前で和が胸を張った。ワイスマン社との交渉経過は全て私が仕切っております。手応えは十分。この契約、必ず取ってまいります。役員の一人が尋ねた。先方とのやり取りは英語だろう。大丈夫かね。お任せください。前職では海外案件を何本もやっておりました。プレゼンは私が英語でやります。部長の英語はネイティブから褒められたことがあるそうで、と和が得意げに付け加えた。
みつは手元の資料に目を落とした。英語のスライドを徹夜で仕上げたのはみつだった。その表紙に制作者の名前はなかった。正巳が役員の後ろを回って茶を配っていた。そのとき、和の声が飛んだ。
ああ、そこのおっさんじゃなくて、柏さん。お茶はもういいから。こぼされたら資料が台無しなんで。会議室の何人かが遠慮のない笑いを漏らした。そうっすよ、うちの会議室、老人ホームじゃないんで、と谷辺が続けた。みつの唇が白くなるまで結ばれた。正巳は盆を胸の前で持ち直し、頭を下げて壁際に下がった。
ああ、そうだ。いい機会ですから、皆さんにもご報告を。和は正巳の方へ顎を向けた。柏さん、九月末で契約満了ですよね。次の更新はしません。派遣社員さんにはもう伝えてあります。会議室がざわついた。正巳に驚きはなかった。先月末、派遣会社の担当から電話で聞いていた。驚いたのは周りだった。本人を前に、この場で言うことではない。誰もがそう思い、誰も口にしなかった。経費見直しの、分かりやすい成果の第一号です。コスパですね。購入はどうするのかね、と役員が尋ねた。いませんよ。ああいう入力仕事はシステムに置き換えますから。人がやるからミスが出るんですよねえ、柏さん。そうかもしれませんね、と正巳の声は変わらなかった。
みつの頭に、あの日の出来事が蘇った。確認のミスを、迷いもなく頭を下げて庇ってくれた。その人が今、晒されている。あの時助けてもらったのは私なのに。その私が、黙って座ってるの。椅子の足が床を鳴らした。みつが腰を浮かしかけた。自分でも気づかないうちに、体が動いていた。あ、和の目がみつの方へ向いた。綾瀬さん、どうかした?ああ、そういえば東洋審査、来月だっけ。いえ、何でもありません。みつの膝が椅子に戻った。言いたい言葉は、一つも声にならなかった。紙に深い皺が入った。正巳は壁際からその横顔を見ていた。
言いたいことを飲み込んで、頭を下げて黙る側に回る。その顔を正巳はよく知っていた。遠い日のある背中と重なった。あの時も私はこうして黙っていた。また黙って見ているのか。それでも正巳は、盆を持つ手に力を込めただけだった。
リハーサルが終わり、役員たちが出ていく。給湯室で湯呑みを洗う正巳のところへ、みつが入ってきた。目の縁が赤かった。柏さん、なんで平気でいられるんですか。私、悔しいです。柏さんの分まで悔しいです。ありがとう。年の功というやつですよ、と正巳は洗い上げた湯呑みを棚の元の場所へ戻した。みつにはそれが強がりなのか本心なのか、分からなかった。
会議室では和が満足そうに資料を片付けていた。本番さえ決めれば確定だろう。安い人件費も切った。言うことなしだ。
商談まであと五日。午後四時過ぎの営業部で電話が鳴った。海外からの電話だ。英語のできるみつへ回す。それがこの会社の決まり事だ。しかし営業部の面々は商談前の打ち合わせで会議室に出ていた。呼ばれていない契約社員の三だけが島に残って訳の仕事を片付けていた。
はい、青葉精機でございます。ジジ、と受話器の向こうから早口の英語が溢れてきた。書類の英語なら任せろと言われるみつも、電話は別だった。聞き取れた単語をメモに走り書きし、英語でお待ちくださいと言いかけて、その先が続かない。額に汗が浮いた。
各部の棚へ夕方の郵便を配って回るのも正巳の仕事の一つだった。営業部の棚の前で郵便物を仕分けていた正巳の手が止まった。受話器を握りしめるみつの背中が、目の前にあった。
代わりましょうか。受話器を耳に当てた正巳の口から、流れるような英語が出た。低く落ち着いて、相手の早口を一度も遮らない。要点をメモに書き取り、最後に相手の名前を呼んで丁寧に礼を言った。受話器が置かれるまで、みつは固まっていた。相手はワイスマンの秘書室だった。商談条件の最終確認の電話だった。
柏さん、今の、すごいペラペラじゃないですか。昔、仕事で少しだけ。それより綾瀬さん、私が電話に出たことは、内緒にしてもらえますか。え、で、でも、この内容、部長に報告しないと。報告は綾瀬さんからお願いします。電話を受けたのも綾瀬さん、ということで。みつは一瞬迷って、メモを受け取った。また助けられちゃった。でも、今度は私がこの人の秘密を守る番だ。
みつはメモを手に部長席へ向かった。和部長、昨日の夕方、ワイスマン社から条件確認のお電話がありました。その際、ドイツ語の件も含まれていたんです。もう一度だけ、ご確認いただけませんか。和の指が机を鳴らした。またその話か。しつこいんだよな。綾瀬さんも、向こうの確認にこっちがお茶を濁してみろ。準備不足だと思われて、恥をかくのは会社なの。分かるでしょ。この件は俺が判断すると言ったよね。審査、来月だったよね。みつはそれ以上言えなかった。
その日の昼、廊下で和とすれ違い様に、正巳が足を止めた。和部長、差し出がましいようですが。大きな商いほど、先方の条件書は隅まで読み直せと、昔の和薬がよく申しておりました。和は正巳を上から下まで見て笑った。説教ですか。そういうの、老害って言うんですよ。失礼しました、と正巳は頭を下げた。警谷は鼻で笑われて終わった。
その夜、柏家の居間でかよが茶を入れていた。おつめさん、今月までなんでしょう。ゆっくりすればいいのよ。あなた、働き詰めだったんだから。うん、そうだな。何その顔?お茶、さっきから一口も減ってないわよ。なんでもない、と正巳は言った。風呂を使うかよの足音を聞きながら、正巳は胸ポケットから革の名刺入れを出した。角の丸くなったそれを親指でなぞる。
三十年前の秋を思い出していた。長い海外赴任から、家族揃って日本へ戻った時だった。新しい社宅の廊下で、夜、かよが電話に頭を下げ続けていた。はい、申し訳ありません。私どもがそのようなことを。相手は夫の上司の妻だった。社宅の集まりでの言葉が、一つだけ耳へ入ってきた。海外帰りだからって、調子になってらっしゃるのよ。娘の靴が、雨でもないのに濡れて帰る日が続いた。娘は水溜まりを踏んじゃった、と言った。小学三年の娘は、笑い方だけ大人になっていった。かよも娘も正巳には何も言わなかった。心配をかけるまいと、隠し通しているつもりだった。正巳は全部知っていた。知っていて、戦う代わりに逃げ場を作った。翌週、海外畑を降りる異動願いを出した。家族には会社の都合だと嘘をついた。外国語はそれきり、家の外で話さなかった。目立てばまた家族が標的になる。あの頃はそれしか思いつかなかった。あの時は、守り方を一つしか知らなかった。
名刺入れを胸に戻す。風呂上がりのかよが麦茶を持って戻ってくる。正巳はいつもの顔でそれを受け取った。
商談まであと四日になった。
商談当日の朝。大会議室のテーブルには、人数分の席札が並んでいた。並べたのは正巳だ。お茶出しと雑用のため、部屋の隅での待機を命じられていた。そこに立ってろ。座るなよ。余計な口も聞くな。和は資料を配り、みつは記録係として末席にいた。社長の姿はない。まずは実務の商談ですから、と和が一人で同席を断っていた。社長はいいんだよ。決まってから報告すりゃ、全部俺の点数だ。谷辺にだけ聞こえる声だった。
十時、ワイスマンの入りが入ってきた。技術部長と秘書。そして最後に、白い顎鬚の老紳士。こちら、我々の顧問です。本日は同席のみいたします。名は紹介されなかった。飾りのないグレーのスーツに、節の目立つ大きな手をしていた。正巳が全員に茶を出して回る。老紳士の前に湯呑みを置いた時だけ、低い声が返ってきた。ダンケ、と。正巳の手が半ばだけ止まった。頭を下げ、何も言わずに隅へ戻った。
名刺交換が済み、和が立ち上がった。その時だった。
始める前に、一つ確認を。流暢な英語だった。みつが小声で日本側に伝える。本日の説明と質疑は、事前にお願いした通り、ドイツ語で伺いたい。確認のお電話も差し上げたはずですが。会議室の空気が変わった。和の顔から営業の笑みが剥がれた。ど、ドイツ語?いや、あの、その。泳いだ視線が、末席のみつの上で止まった。担当の者が翻訳を謝っておりまして、ご依頼が私に正しく伝わっておりませんでした。
みつの目が見開かれた。二度確かめた。二度とも握り潰された。その事実が、今目の前で塗り替えられていく。違う。私、二度も確認したのに。声は出なかった。ここで叫べば、東洋審査が壊れる。それが分かるから、出せなかった。正巳は部屋の隅から、みつの白くなった指先を見ていた。
では、ドイツ語の対応者は、いないのですね。え、英語であれば、私が逐一ご説明いたします。前職では海外案件を数多く手掛けていましたので。では、英語で。ただし、技術の質疑に正確に答えていただけるなら、ですが。
和の英語のプレゼンが始まった。暗記してきた冒頭の挨拶までは形になっていた。だが技術部長の最初の質問で止まった。部品の耐久試験の数値とその根拠を問う英語だった。みつが単語を拾って必死に繋ぐ。だが専門用語の壁に、書類の英語は追いつかない。そ、その件は、後ほど資料で。質問が重なるたび、答えは同じになった。後ほど確認します。持ち帰ります、と。海外案件を数多く手掛けたはずの男の英語は、質問の前では紙のように薄かった。顧問の老紳士が腕時計に目を落とした。時間の無駄のようだ、と。椅子の引かれる音がした。ワイスマンの一行が立ち上がりかけていた。和の額から汗が顎まで伝った。ま、まずい。ここで潰れたら、俺の役員の道が。
その時だった。みつが部屋の隅の正巳を見た。正巳は視線を受け止め、一つ頷いた。椅子を鳴らしてみつが立ち上がった。
あの、柏さんが。柏さんなら、英語が話せます。
はあ?和の声が裏返った。ふ、ふざけるな。バカも休み休み言え。こんなじじいに何ができる?雑用係のただの老害だぞ。怒鳴り声に先方の一行が眉を潜めた。言葉は分からなくても、響きで分かる声だった。
本当なんです。この前のワイスマン社からの確認のお電話、受けたのは私だと報告しました。でも、本当は私には対応できませんでした。代わりに受けてくださったのが、柏さんです。流暢な英語で、一度も聞き返さずに。和の目が正巳とみつの間を往復した。で、泥沼は違うんだよ。遊びじゃねえんだぞ、と和が叫ぶ。決められないのなら、我々は失礼する。英語の声は、もう半分席を立っていた。
みつは正巳に向き直った。そして深く頭を下げた。柏さん、ごめんなさい。内緒にするって約束したのに。でも、お願いします。柏さんしかいないんです。震える声だった。審査も立場も、もう頭になかった。約束を破ってでも、頭を下げるしかなかった。
和は汗の浮いた顔で二人を見比べた。待てよ。しくじれば契約社員の伝達漏れに、派遣の暴走。うまくいけば俺の采配だ。どっちに転んでも、俺は損はしない。追い詰められた男の目に、ずるい光が戻った。
いいぜ。おい、おっさん。英語でプレゼンよろしく。言っとくが、しくじったら全部お前の責任だからな。派遣が勝手にやったことだ。
部屋の隅で、正巳がまっすぐに立った。承知しました。その一言だけが、凍った会議室にはっきりと響いた。和は慌てて先方に向き直り、作り笑顔で英語を絞り出した。実は、こういう時のために経験豊富な者を控えさせております。たどたどしい英語だった。今思いついた嘘だと、誰の目にも分かっていた。技術部長は返事をしなかった。腕を組み、座り直しただけだった。最後に一度だけ聞いてやる。そういう座り方だった。顧問の老紳士が湯呑みを置いた。その目は、部屋の隅の地味な老人に向けられていた。
正巳は盆を窓際の台に置き、上着の襟を直した。歩き出す。会議室中の視線が、部屋の隅の老人に集まっていく。正巳は何も言わない。スクリーンの横に立ち、深く一度だけ息を吸った。和が鼻で笑い、谷辺に目配せした。ほら見ろ。声も出せない。年寄りの常套手段ってやつだ。その口元が、固まった。
流れるような英語が、会議室の空気を塗り替え始めていた。挨拶、資料のページの流れ、説明の順序。無駄が一つもない。昨日まで納品書を数えていた老人の声が、商談の声になっていた。
技術部長が身を乗り出した。試すように、さっきの質問をもう一度ぶつける。部品の耐久試験の数値と、その根拠。正巳は資料を見ずに答えた。正巳は誰よりもこの会社の部品を数えてきた男だった。倉庫で指で目で、この二年半、触ってきた頻度と数字が、そのまま口から出てくる。それだけではない。三十部のコピーを取り分け、茶を配り、部屋の隅で聞いた。あの雑用の日々の間に、商談資料は最初のページから最後のページまで頭に入っていた。読むつもりがなくても、目が数字を拾ってしまう。長い空欄の作業が染み込ませた、抜けない癖だった。
質問が二つ、三つと続いた。正巳の答えは短く、数字は一度も揺れなかった。技術部長が隣の秘書に何かを囁き、頷き合った。谷辺の口が、半開きのまま動かない。う、嘘だろ。コピー三十部のおっさんが。
やがて技術部長が体を起こした。納得した顔だった。その時、低い声がテーブルの端から響いた。老紳士が立ち上がった。
では、伺いたい。納期が守れなかった時、貴社はどう責任を取るのかね。
みつが凍った。分からず、目だけを泳がせた。正巳は老紳士へ向き直った。一拍の間。返ってきたのも、ドイツ語だった。
守れないことがあります。機械は壊れ、船は遅れる。だから私どもは、遅れると分かった日に正直に申し上げます。遅れた一日は、信用の十年を壊しますから。
南ドイツの訛りが、柔らかく混じっていた。顧問の背中が、ゆっくりと椅子から離れた。老紳士が立ち上がっていた。
あなたの名前は。
柏と申します。柏正巳です。
大きな手が胸の内ポケットに入る。取り出されたのは、古い革の名刺入れだった。触れる指が中から一枚を抜いた。幾ばくか、角のすり切れた日本の名刺だった。
三十年、探した。技術は国境を超える。先師も、この言葉を私に残して消えた人だ。名刺の裏にドイツ語の手書き文字が残っていた。正巳柏。あなたか。
会議室が真となった。誰も息の音すら立てない。正巳は差し出された名刺を見た。三十年前、自分が工房に置いてきた自分の名刺だった。それから目を閉じ、長い息を一つ吐いた。
エルリヒ。あの小さな工房が、ここまで大きくなったのか。ドイツ語だった。
老紳士、エルリヒ・ワイスマン。ワイスマン社の総裁、その人だった。ワイスマンもドイツ語のまま返した。工房どころか、あなたが支払いを待ってくれたあの半年がなければ、ワイスマンの名は跡形もなく消えていた。
技術部長が弾かれたように立ち上がり、秘書が続いた。総裁の同行を知らされていた二人ですら、総裁が他人にこんな目を向ける姿は初めてだった。ワイスマンは日本語に切り替えた。たどたどしさの残る、けれど丁寧な日本語だった。
日本語は、この三十年で覚えました。この人ともう一度話す日のために。ですが、商内の数字だけは、私の国の言葉でしか信じない主義でしてね。ワイスマンは会議室を見渡した。
三十年前、私の父の工房は潰れる寸前でした。大口の取引先にも見放され、従業員も逃げた。この人だけが残ってくれた。彼は本社を説得して、支払いを半年待ってくれた。週末の度に工房へ来て、油まみれで検品を手伝って。そして帰り際に、この名刺を置いていった。私はこの言葉で商売を覚え、この言葉で会社を大きくした。先生を探し続けていました。手紙も何度も書きました。答えはいつも、海外の部門には柏正巳はいない、と。二度と会えないと思っていました。
みつは口を両手で覆っていた。その静寂の中で、和の頭だけが別のことを考えていた。使える。この話は使える。和は作り笑いを張り付け、両手を揉むような声を出した。
ええ、これはこれは何というご縁でしょう。実は私も柏さんの語学の才能は買っておりましてね。本日はこういう場面のために、あえて控えてもらっていた次第で。
そうっすね。全部仕込んだんすね、柏さんは。谷辺が続けた。正巳は答えなかった。ワイスマンの目が和に向いた。柔らかさが消えていた。
そうですか。では、一つだけ確認しましょう。ドイツ語の依頼は、なぜ届かなかったのですか。
それは、その、担当の翻訳ミスがございまして。声はまだ営業の形を保っていたが、額の汗が一筋、頬を伝った。
少しだけお待ちください。言うが早いか、みつは会議室を飛び出した。廊下を走る足音が遠ざかり、また近づいてくる。戻ったみつの手に、白い封筒があった。鍵のかかる引き出しで、この日を待っていた封筒だった。
取引先の前で、社内の恥をさらすことになる。分かってる。それでも柏さんが言ってくれた。間違いが明らかになる日は必ず来る。その日まで、事実を捨てるなって。今日が、その日だ。
みつは封筒を差し出した。手は震えていた。それでも引っ込めなかった。
お取引様の前でお恥ずかしいご報告になります。それでも、嘘を事実のままにする方がワイスマン社様に失礼だと思いますので。こちらが頂いた条件の原本です。それから、私が訳を部長にお送りした訳文です。その日付も残っています。ドイツ語のご依頼は、確かに届いています。私は二度、確認をお願いしました。これが事実です。
技術部長が原本を確かめ、ワイスマンに深く頷いた。担当の翻訳ミスという言葉が、その頷き一つで音もなく消えた。翻訳に誤りはない。では、謝っていたのは誰か。記録の不備ということも、十分に考えられる。技術部長が英語で付け加えた。確認の電話も差し上げた記録が、と。
和の呼吸が、営業の形を失っていった。視線が和に一人に集まる。張り詰めていたものが切れた。椅子が後ろに倒れた。
ふ、ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。高が派遣と契約社員が寄ってたかって、俺を嵌めやがった。最初からグルだったんだな。この野郎ども。おい、谷辺。警備を呼べ。こいつらをつまみ出せ。
誰も動かなかった。え、おい、谷辺さえ。谷辺は和から離れた。社長はご自分が何を言ったか、分かっていますか。和の口が開いたまま止まった。
ワイスマンは正巳に向き直った。柏さん。この契約、年四十億、五年で進めたい。それともう一つ。まだ公表していないが、日本に技術拠点を置く計画がある。投資額は三百億。その相手を、この商談で見極めるつもりでした。ただし、条件が一つ。ワイスマンは言葉を切り、正巳を見た。伺いを立てる目だった。正巳は小さく頷いた。
節の目立つ指が、まっすぐ和の方を向いた。嘘をつく責任者がいる会社と、私は仕事をしません。正式なお返事は、貴社の社長から伺いましょう。
三百億の話が音を立てて、和の頭の中を通過していった。和の膝が崩れかけ、机の縁を掴んで耐えた。うわ、私は会社のために。そのおっさんは。正巳が初めて和に向き直った。
和部長。あなたは私をおっさんと呼びましたね。構いません。事実ですので。私は六十七のただのおっさんです。だが、一拍置いた。次に出た声は、腰の低い派遣の老人の声ではなかった。私は四十年、言葉を商いにしてきた。あなたが今日、この部屋で失くしたものは何か。言葉を軽んじる者は、言葉より大事なものを失う。それは、信用です。
和の膝が、今度こそ床を打った。上手いスーツの膝が、絨毯の上で折れていた。誰も助け起こさなかった。倉庫で部品を数えていた老人が、スクリーンの横に立っている。その姿が、会議室の誰の目にも、今一番大きく見えていた。
商談の後、社長が会議室に呼ばれた。事情を聞いた社長は、テーブルに両手をついて頭を下げた。ワイスマンの出した条件に、異存は一つもなかった。和は別室で待機を命じられた。会議室に、もう和の席はなかった。
張り詰めていた空気が溶けると、ワイスマンは正巳の隣に椅子を寄せた。ミュンヘンの店はまだありますよ。あなたが好きだった、市場の角の焼きソーセージの屋台も。ああ、あの店主はお元気ですか。大病しましてね。今は孫の代です。三十年ですからね。二人は少しだけ笑った。三十年の空白が、屋台一つ分だけ縮んだ。
ワイスマンは帰り際、社長に言い残した。綾瀬さんでしたね。あの訂正には勇気が要ったはずです。ああいう人のいる会社を、私は信用します。みつは廊下の隅で頭を下げたまま、顔を上げられなかった。
見送りの後、みつは正巳に追いついた。柏さん。どうして今まで、ずっと黙っていたんですか。正巳は足を止め、少しだけ考えて笑った。長い話です。それに、さっきあなたは事実を捨てなかった。私の四十年より、よほど立派な話です。今日はそっちの話をしましょう。みつは何かを言いかけて、やめた。聞いてはいけない何かが、その笑顔の奥にある気がした。
その日も正巳は定時に帰った。倉庫の鍵を、いつも通り確かめてから。
一週間後、社内調査が終わった。取引先への虚偽の説明、社内への虚偽の報告。そして部下たちが次々に証言した、日々の理不尽な言動。和に下ったのは、諭旨解雇だった。段ボール箱一つを抱えて、和はエレベーターに乗った。見送る者は誰もいなかった。磨き上げた腕時計だけが、箱の上で無意味に光っていた。
はめられただけだ。俺は何も間違ってない。閉まる扉に、その声だけが残った。
三ヶ月後、和は雑居ビルの小さな輸入商社にいた。履歴書には、大手メーカーで海外事業を統括、と書いた。ワイスマン社の名前も実績の欄に足した。面接ではそれなりに通った。新しい職場でも、和はすぐに指導を始めた。年下の社員のやり方を鼻で笑い、確認を求める部下を、細かいんだよ、と叱り飛ばした。いちいち確認すんな。ビジネスはスピードなんだよ。俺は大手で海外を回してた人間だぞ。その口癖が出るたびに事務所の空気が引いていくのを、本人だけが気づかなかった。
そして、その時は案外早く来た。会社が欧州の機械メーカーとの取引に手を挙げた。相手はワイスマンの系列だった。和は胸を張って窓口に名乗り出た。ワイスマンなら、私の得意先ですから。先方からの返事は、翌日に届いた。短い英文だった。取引はお受けできない。理由は一文だけ添えられていた。貴社のご担当者を信用できないため。
社長室に呼ばれた和は、机の上の一枚の紙を見た。自分の履歴書だった。小さな会社の社長は、電話を一本かけただけで全部知っていた。業界は狭かった。違うんです。あれは派遣のじじいと契約社員がグルになって、俺を。もういい。これで終わりにしよう。その日のうちに、和は二度目の段ボールを抱えた。今度は光る腕時計はなかった。とっくに金に変えていた。
夜のアパートで、和は求人サイトの画面をめくり続けた。はめられた。俺ははめられただけだ。同じ言葉を繰り返す男を、画面の光だけが照らしていた。
その頃、青葉精機では谷辺に資材課への異動の辞令が出ていた。和の解雇と同じ日付だった。新しい持ち場は倉庫番。かつて自分が、コピー三十部、残業はなしだからね、と押し付けた正巳の場所だった。辞令の日の昼、谷辺は人事の部長に言われた一言が耳から離れなかった。営業に君を残す理由がなくてね。ほら、君の好きな言葉で言うと。コスパだよ。倉庫で在庫を数える谷辺に、雑談を振る者はいない。人生をコスパで測ってきた男が、コスパで測られる側になっていた。
十月、ワイスマン社との契約書に両者のサインが交わされた。年四十億、五年。そして、日本技術拠点の候補地に青葉精機の隣接地が選ばれたという発表に、社内は沸いた。社長は正巳を社長室に呼び、相談役への就任を頭を下げて頼んだ。正巳は言った。格好いい肩書きは結構です。倉庫の帳簿の面倒と、若い人の相談役。週に三日。それで十分です。十月の辞令で、正巳は資材課相談役になった。名刺入れに、三年ぶりの新しい名刺が入った。
同じ日、みつの正社員登用が決まった。その夜、みつは一番に母へ電話をかけた。
冬の始め、みつは新しい商談の席で、英語の質疑を堂々とこなした。準備の資料は隅から隅まで頭に入れた。分からないことは、分かるまで確かめた。誰かの教え通りだった。その頃、資材課に六十代の派遣の女性が新しく入った。初日、入力の画面の前で固まる女性に、みつはお茶を入れて隣に座った。分からないことは何でも聞いてください。私も、そうしてもらったので。
年の暮れ、正巳の元にドイツから分厚い封筒が届いた。ミュンヘンの本社工場と、春の招待状だった。宛名には、ご夫妻で、と添えられていた。
夜のこたつで、正巳は封筒をかよの前に置いた。かよ、お前に話せていなかったことがある。三十年前のことだ。かよは湯呑みを両手で包んだまま、笑った。本当はね、全部知ってたの。正巳の言葉が止まった。あの秋、あなたの背広から異動願いの控えが出てきたの。会社の都合だなんて、嘘。全部、私たちのためだったんでしょ。あなたが黙っていてくれたから、私も黙っていようって決めたのよ。知っていて、三十年。三十年前。あなたが名刺入れを撫でてる夜はね、昔の話がしたい夜なんだって、ちゃんと分かってたのよ。何度、声をかけようかと思ったか。正巳は湯呑みを置いた。それから深く頭を下げた。
すまなかった。謝らないでよ。守ってもらってたの、知ってたんだから。なら、別の言葉で。正巳は顔を上げた。声が、少しだけかれた。ありがとう。こちらこそ、ありがとうございます。四十年連れ添った夫婦の、笑い声が湯気の向こうで重なった。
翌日、娘から電話が来た。話を聞くなり、受話器の向こうで声が弾んだ。私も行く。お父さんのドイツ語、初めて聞けるんだもん。
春。ミュンヘンの空港に、ワイスマンが自ら迎えに来ていた。ワイスマンはかよの前に立ち、深く頭を下げた。三十年前に置いてきた名刺は、今も彼の名刺入れの中にある。技術は国境を超える。先師も、その言葉通りの景色の中を。正巳はかよと娘と、ゆっくり歩いていった。
