「おい、嫁の分際で親戚の集まりで偉そうにすんな。酒が切れてんだろ。早く持ってこい、このクズが」
酔いが回った義兄のケトが、廊下で立ち止まった私の脇腹をいきなり蹴った。転んだ拍子に顎まで打って、床にうずくまる。痛くて涙が出たが、必死に笑顔を作った。
「ごめんごめん。台所でルミおばさんが特大の船盛り出してくれて、つまみ食いしてたんだ」
「何言い訳してんだ。嫁の分際で俺らを待たせるなんて、何様のつもりだ。サボってたらもう一発蹴るぞ」
「うわ、やめて。痛いのやだよ」
立ち上がって頭を下げると、ケトは得意げに鼻で笑った。
「さっきの件、誰にも言ってないだろうな」
「言うわけないじゃん」
「俺は優しい夫で通ってるんだから、黙ってろよ」
「相変わらず、サッカー選手並みのいい蹴りするね」
「せっかくのめでたい正月に、恥をかかせるから気合を入れてやったんだ」
私は笑顔のままうなずいた。痛い。苦しい。今すぐ逃げ出したい。でも、まだその時じゃない。
「お前の居場所は台所と廊下だけだ。犬以下だろ。飯も作るの遅いし、酒も持ってこない。芸能の一つもできない、試し切り用のゴミだ」
「相変わらずひどい言われようだね」
「俺は酔っ払い連中の酒の相手をしなきゃならないんだよ。お前はさっさと酒を持ってこい。一分遅れるごとに、帰ってから一発ずつ追加で蹴り入れるからな」
「分かった。お酒とお料理、すぐにお持ちします」
「ああ、そうだ。さっき蹴られたところ、北海道の形をした痣になってるよ。写真、見る?」
「いらねえよ。さっさと働け」
その夜、ケトは一時間ほど飲み続けた後、私に先に車へ乗ってエンジンを温めておけと言った。私は運転手として頷いたが、今度はコンビニでアイスを買ってこいと言われた。
「一番高いやつな」
「分かった。ついでに、脇腹冷やすための氷も買っていいかな。なんか腫れてきてるんだよね」
「そんなの唾つけときゃ治る。甘えんじゃねえよ」
私はそのまま車に乗り、コンビニへ向かった。その間、ルミおばさんから電話がかかってきた。
「リッカちゃん、どこ?おせちを用意したのに、どこにもいないから」
「今、車でコンビニに来てます。ケトがアイスを食べたいそうです」
「うちの冷凍庫にいくらだってあるわよ」
「高級アイスしか食べないんですって」
沈黙が落ちた後、ルミおばさんが静かな声で言った。
「リッカちゃん、あのね。ケトは私の息子みたいにずっと可愛がってきたわ。でも、私には隠さないでほしいの」
「何をですか?」
「今日、廊下で思いきり蹴られてたよね。私、見ちゃったの」
「……そうだったんですか。参ったなあ」
「笑い事じゃないでしょ。倒れた後もヘラヘラ笑ってたよね。どうして普段からあんなことをされてるような感じに見えたよ」
「まあ、そうですね。いつものことなんで」
「女性に手を上げるなんてありえない。さっさと離婚した方がいいわ。病院と警察にも行くのよ」
「そうですね。考えておきます」
「何を呑気なことを言ってるの?笑ってやり過ごしたって、何も解決しないわ」
「私だって楽しくて笑ってるわけじゃありません。痛いです。苦しいです。今すぐ逃げ出したいんです」
「だったら今すぐ行動しないとだめよ」
「今じゃないんです。分かってください」
「でも、取り返しのつかない事態になったらどうすんの?」
「そうならないために頑張ってるんです」
「どういう意味?」
「アイスが溶けると怒られちゃうんで、一旦戻ります。話はその時に」
「分かった。気をつけてね」
翌日、ルミおばさんが実家に礼の連絡をしてきた。お酒の土産まで持ってきたことへの感謝だった。ケトは電話の向こうで、なんとなく含みのある態度に気づいた。
「お前、ルミおばさんに何か言ったか?」
「つまみ食い仲間だけど、何も言ってないよ。どうしたの?」
「なんか変なんだよ。珍しくLINEしてきた。『リッカちゃんの笑顔を絶対に奪っちゃだめよ』ってさ」
「私の百万ドルのスマイルで魅了しちゃったのかな?」
「調子に乗んな。お前が笑っていられるのは、俺が養ってやってるからだろう」
「ですね。感謝してます」
「俺は今日から仕事始めだって言うのにお前は呑気でいいな」
「お疲れ様です」
「なんだ、その薄い言葉は」
「気持ちは込めたつもりなんだけど」
「むしゃくしゃする。今夜も覚悟しておけ」
「脇腹はやめてね。折れてるから」
「ああ?病院行ったのか?」
「うん。あまりにも痛くて我慢できなかった。医者には何も言ってないよ。いつも通り、転んだことにしておいた」
「ならいいが。その病院には二度と行くな。毎回転んだって言うと怪しまれるだろう」
「じゃあ、もう蹴るのやめてよ」
「お前へのいら立ち具合で力加減が変わるんだよ」
三日后、私はルミおばさんに電話をかけた。
「ルミおばさん、ちょっと予定を前倒しなんですけど、一旦避難させてもらっていいですか?」
「リッカちゃん、どうしたの?何かあった?」
「昨日、機嫌がかなり悪くて、起き上がれないほどやられちゃいました。おでんを作ったんですけど、辛子を買い忘れたんです」
「たったそれだけで?だからすぐに逃げろって言ったでしょう。救急車を呼ぶわ。まずは病院よ」
「お願いします。もうこれで最後なので」
五時間後、病院のベッドで目を覚ました私を、ルミおばさんが涙ながらに抱きしめた。頭を強く打っていて、脳震盪と診断され、そのまま入院が決まった。ケトには、ルミおばさんが直接電話をかけた。
「あなた、リッカちゃんに何をした?」
「いや、普通に仲良くやってるけど」
「普段から手をあげてるわよね。私は見たの。正月、うちの廊下で蹴ってるところを」
「あれは教育だから。俺ら流のコミュニケーションってやつだよ」
「それを世間や警察が納得してくれるといいわね」
「警察って何だよ。これは夫婦の問題だろ。部外者が口を出すな。民事不介入ってやつだ」
「まさか民事不介入とでも言いたいの?これは民事なんかじゃない。刑事事件よ。証拠ならあるわ。山ほどね。今まであんたが家でやってきたことは、全て撮影されてるの」
「嘘だろ?あいつ、俺を警察に突き出すつもりでそんなもの取ってたってこと?」
「それもあるけど、そんな単純な話じゃないわ。それはリッカちゃんから聞いた方がいい」
「リッカは危ないのか?」
「頭を強く打ってるのよ。なぜ無事だと思える?」
「俺はそんなつもりでやったんじゃない。勝手に吹っ飛んだのはリッカだ」
「じゃあ、同じことを警察や裁判所でも言いなさい」
「そこまで大事にするのか?」
「当然でしょう。絶対に逃さないわ」
「身内から犯罪者が出て困るのはおばさんだろう。不動産会社を経営してるんだし、悪い評判が立てば仕事がしづらくなる」
「私とあんたは今日から他人よ。何の影響もないわ。義理の母さんも怒ってるし、縁を切ると泣いてたわ」
「どうして母さんにまで言うんだよ」
「悪いのはリッカちゃんを苦しめたあんたよ。会社も首になるわ。高徳寺さんにはもう知らせてあるから」
「うちの社長のことか?嘘つけ、はったりだろ」
「メールを見てみたら、解雇通知が届いてるはずよ」
ケトは職場のメールを確認し、声を震わせた。
「なんで本当に届いてるんだ……今日付けだ」
「これで信じてくれた?」
「なんでルミおばさんが、社長の元彼なの?」
「三十年以上前の話よ。今はビジネスパートナーとして、たまにお茶をするくらい。そんな私が言うのもなんだけど、あんたは親にも叩かれたことないはずよ。なのに、なぜこんなことをしたの?」
「理由なんかない。スカッとするんだ」
「最低ね。リッカはいつも笑ってた。俺のストレス解消になればと思って我慢してたんだ。これは夫婦の共同作業なんだよ」
「ふざけたこと言ってんじゃない。リッカとは話がしたいわ。病院を教えてちょうだい」
「だめよ。何をするか分からないもの」
「どの道、話し合いは必要だろ。回復したら連絡するよう伝えるわ」
二日後、私は退院し、ケトの病院への面会を拒否した。代わりに、ルミおばさんを介して連絡が来た。
「お前がベラベラ喋るから、おばさんが騒ぎ出して大事になったじゃねえかよ。しかも社長にまで話が行って、首になったんだぞ」
「それは大変だったね」
「他人事みたいに言うな。俺のピンチだぞ。全力でどうにかしろよ」
「そろそろ私も解雇を出そうかな」
「あ?何の話だ」
「離婚しよ」
「は?ふざけんな。俺は認めねえぞ。お前みたいな便利なサンドバックを手放すわけねえだろ」
「うん、だよね。サンドバックだもんね。お前だって楽しかっただろ。ニヤニヤ笑ってたじゃん」
「どうして私があんなに蹴られても罵倒されても笑っていられたか、分かる?」
「俺の愛の鞭を喜んでたからだろ」
「違う。あんたを確実に刑務所にぶち込むためよ。あゆみって名前、覚えてるわよね」
「誰だそれ?」
「とぼけないで。あなたが三年前に付き合ってた彼女よ。彼女は中学時代からの大親友なの。ずっと行方不明で心配してた。二年前、やっと見つけたけど、精神科の閉鎖病棟にいたわ。あなたのせいで心が壊れて、言葉も話せなくなってた」
「なんだよそれ。俺は関係ない」
「彼女が回復して、全てを話してくれたの。サンドバックにされた日々のことをね。あゆみは警察に行ったけど、証拠が足りなくてあんたは不起訴になった。だから、それを確かめるために私があなたの妻になったのよ」
「偶然だと思ってた……」
「全部計算よ。あなたの好みの女を演じて近づいたの。ニコニコして、男に尽くして、従順な私。どうだった?」
「嘘だろ?じゃあ、俺と結婚したのは?」
「あゆみの復讐。それだけのためよ。親友の人生を奪ったあなたを地獄に落とさないと、バランスが取れないじゃない」
「狂ってやがる」
「あなたが切れてくれたおかげで、証拠のストックがどんどん増えてったよ。極めつけは全治三ヶ月の重症。これでもう言い逃れはできない」
「ちょっと待ってくれ。一旦話し合おう」
「私はもう十分すぎるほど耐えたと思う。最後の蹴りも痛かったけど、これで終わりだと思ったら、自然に笑みがこぼれたわ」
「だから、あの時笑ってたのか。……いくら払えば許される?金額を言え」
「百兆円」
「ふざけるな。現実的な金額を言え」
「本気よ。国家予算規模のお金じゃないと納得しない。心の底から反省しなさい。そして二度と誰も愛さず、一人で孤独に朽ちて。それが私とあゆみの願いよ」
「そこまで恨まれる筋合いはない。俺の自由だろ。優秀な弁護士をつけて、逃げ切ってやる」
「私、たくさんの証拠動画を持ってるでしょ。そのコピーを全てルミおばさんに送ったの」
「どうせ親戚に見せて、俺を非難するんだろ。身内から縁されるんなら上等だよ」
「身内だけで済めばいいけどね。ルミおばさんが言ってたわ。データをもらったのはいいけど、スマホもパソコンもよく分かんないから、流出したらどうしようって」
「あのババア、バリバリパソコンで仕事してんじゃねえか」
「私に言われても困るわ。まあ、将来あなたの大事な人がその動画を見ないことを祈るしかないわね。一生残るってことか」
「それはちょっとまずいな」
「まあ、七、八年後のことを今心配しても仕方ないけど」
「何の話だよ」
「過去の判例よ。あなたは上昇性があるし、反省の色もない。実刑は免れないわね」
「嘘だろ。刑務所なんて行けるかよ」
「大企業の社長だって、悪いことをすれば檻の中よ」
「助けてくれ。俺が悪かった。何でもするから」
「悪いけど、サンドバック係はもうやめたの」
「頼む。人生も人間も一からやり直すから助けてくれ」
「無理よ。あなたが蹴り飛ばしたのは、私じゃなくて自分の人生だったのね」
電話はそのまま切れた。数年後、ケトは傷害罪で逮捕され、八年の実刑判決を受けた。ルミおばさんが誤ってアップロードした動画が拡散され、彼の過去の悪行は全て世間に晒された。会社は正式に解雇、退職金はゼロ。出所後も、DV男のレッテルは一生消えず、まともな職には就けないだろう。
義理の両親は真実を知ってショックを受けていたが、「息子とは縁を切るから、あなたは幸せになって」と涙ながらに謝罪してくれた。
私は今、ルミおばさんや高徳寺社長のサポートを受け、新しい生活を始めている。あゆみも退院を目指して頑張っている。ケトが刑務所にいることを伝えたら、あゆみは安心したように笑ったが、私の話をすると怒り苦しむので、そのことは墓場まで持っていくつもりだ。
心と体の傷はまだ癒えないけれど、今は本当に心から笑えている。男らしさって、力を誇示することじゃなくて、大切な人を守ることだと思う。そんな当たり前のことにも気づけない男に、明るい未来なんて来るはずがない。
最近、キックボクシングを習い始めた。ある人物の顔を思い浮かべると力が自然と入り、「いい蹴りだね」とトレーナーに褒められている。
