「清掃員の娘との結婚を認めると思ったら大間違いだ。底辺が調子に乗るな。娘にもう一発平手打ちを食らわせてやるぞ」
義父の怒号が響く。私は一歩も引かずに言い返した。
「娘は妊娠しているんですよ。そのこともご存知でしたよね」
「だからなんだ。関係あるか。顔合わせでも随分な挨拶だったな。結婚式まで済ませたのに、まだ文句が足りないのか」
「あの一撃で娘の顔が腫れ上がりました。これ以上何をなさるおつもりですか」
「掃除ババアの娘がどうなろうと知ったことか」
「私の職業を明かすまでは穏やかに話していたのに、突然怒り出しましたね」
「当たり前だろ。お前みたいな家庭の娘をもらってやるだけで、こっちは一億円も譲ってやってるんだ。それなのに清掃員だと?ふざけんなって話だ」
「清掃員の何が悪いんですか。あなたが普段使うトイレだって、誰かが掃除しているんですよ」
「あんなものは底辺のする仕事だ。そんな奴の娘が身内になるなんて冗談じゃない」
「仕事に上も下もないと思いますが」
「あるだろう。俺は立派な銀行員だぞ」
「あら、自分で立派だとおっしゃるんですか。随分と自己肯定感が高いことですね」
「底辺が生きるなよ。お前の体からはトイレ用洗剤の匂いしかしないんだよ」
「だとしたら誇りです。恥じることはありません」
「とにかく結婚は認めん」
「でしたら、なぜ結婚式が終わった後に反対なさるんですか。式の途中はニコニコと愛想を振りまいていましたよね」
「まだ入籍してないからだ。式は思い出にやらせてやったが、入籍は許可しない」
「それはあなたが決めることではありません。結婚は成人した男女であれば、本人同士の同意のみですることが可能ですから」
「俺の息子は許可なく結婚するような親不孝者じゃない。俺が駄目と言えば絶対に従うんだよ」
「それだけ高圧的に育ててきたなら、お父様が怖いのかもしれませんね」
「お前、その余裕の態度はなんだ。強がってるのか」
「あなたのような立派な方に強がったところで、清掃員の私がどうなるというんですか。ただ、私は人間的にあなたに負けているとは思っていません」
「はあ?」
「ステータスと人間性は別だという話をしただけです。銀行員の犯罪者もいれば、清掃員の善人もいる。それが言いたかっただけです」
「エリートの私をババア呼ばわりするとはな」
「私をババアと言うには、あなたは若すぎますよ」
「お前はああ言えばこう言う」
「そうでもありません。会話は大事なコミュニケーションですから」
「田舎のばあさんが外国語みたいに難しい言葉を使うな」
「私の出身地をご存知なんですか」
「知らないが、どうせ山育ちだろう」
「はい。山でも海でも結構です。あなたにお願いしたいことは一つだけです。若い二人の幸せを邪魔しないでください」
「黙れ。お前の指図は受けん」
「お前という言葉はやめていただけますか」
「お前はお前だろうが。女は根に持つ生き物だということを忘れるな」
「うるさい女だな」
数分後、病院の待合室に大地が駆けつけた。
「どうだった?MRIまで取られたけど、何ともなかったよ」
「良かった。びっくりしたわね」
「うん。精神的ショックの方が大きいかな。この世には言葉が通じない人間が一定数いる。そういう人と分かり合おうとするのは時間の無駄だよ」
「でも大地のお父さんでしょ」
「大地君はあなたのために怒鳴ってくれたでしょ。あれが答えだと思うけど」
「そうだね。二次会はどうする?せっかく集まってくれてるし、顔だけは出そう。具合が悪くなったらすぐ帰るから」
「無理しないでね」
数日後、大地が謝りに来た。
「母さん、うちの父が本当にすみません」
「あなたが謝ることじゃないわ。気にしないで。検査の結果も異常なかったみたいだし」
「僕がもっと早く止めに入っていれば、ナナに痛い思いをさせずに済んだのに」
「ええ、あの瞬間私も目を疑ったわ。娘の方をフルスイングで叩くなんてね」
「親父は剣道部だったんです。手癖が悪くて」
「だから急所に当たったのね。本当に許せない。すぐに警察に行きましょう。傷害事件です。絶縁して治療費と慰謝料も請求します」
「気持ちは嬉しいけど、少し待ってちょうだい」
「なぜですか。あんな奴を許せません」
「警察沙汰にしたら、あの子の傷に塩を塗るわ。まずは心のケアを優先したいの」
「俺だって許せない気持ちは同じです。でも気をつけてください。相手は狂ってますから」
「心配ないわ。ゴミ掃除には慣れてるもの」
翌朝、午前五時。大地のスマホが鳴った。
「大、起きろ」
「なんだよ、まだ五時だぞ」
「俺はイライラして一睡もしてないんだ」
「昨日あんなことしておいて、よく連絡できるな。ナナは一晩中泣いてたんだぞ。もうあんたのことは父親とも思いたくない」
「ああ、俺こそが被害者だ。あの女の顔の骨が硬すぎて、手首を捻挫したわ」
「自分の娘くらいの女性を殴って病院行けよ。頭おかしいんじゃないか」
「親に向かってなんだその口は。誰のおかげで就職できたと思ってるんだ」
「普通に面接して実力で就職したけど」
「馬鹿言え。俺が裏から手を回してやったんだよ。まあいい。今から母親と嫁を再教育してやる」
「やめろ。これ以上二人に関わるな。ナナは絶対安静なんだぞ。余計な口出しをしたら、お前の会社を潰すからな」
「は?どういうことだよ」
「お前の会社の経理部長が先週、うちの銀行に融資相談に来てたろ」
「それがどうした」
「どうやら他の銀行に断られたらしいぞ。確かに資金繰りは厳しいけどな。メインバンクに断られて、うちが最後の頼みの綱なんだよ。融資担当者に、あることないこと吹き込んでやるよ。そうなればお前は職を失う。子供も生まれるのに」
「卑怯だと思わないのか」
「こういうのを権力って言うんだよ。嫌なら、ババアと一緒に殴られてろ。俺様の言うことは絶対だ」
「ナナは妊娠してるんだぞ。昨日のお前の暴力で流産したらどうするんだ」
「大体、結婚前に妊娠とは、恥知らずな女だな」
「結婚を前提に付き合ってたんだ。そんな言い方するな」
「恥ずかしい女のことはどうでもいいが、嫁は嫁いだ瞬間から俺の家の者だ。文句があるなら、会社への融資は止めるぞ。三秒で決めろ」
「父さんにそんな権限ないだろ」
「融資部に同期がいる。そいつが不倫してることを、俺だけが知ってるんだ」
「人の弱みを握るなんて最低だな。でも俺はそんな脅しには屈しない」
「じゃあ、好きにしろ。母さんが病気で苦しんだのは、あんたのせいだ」
「言いがかりもいい加減にしろ」
「本当はあんたにナナを紹介する気なんてなかった。でも母さんが挨拶くらいさせてくれって言うから。縁を切られたくなければ、大人しくしてくれ」
「お前こそ、俺に逆らえば融資を止めるぞ」
「昔からそうやって力でしか支配できないんだな」
「手に入れた力は、使わないと錆びるんだよ。アホが」
数分後、今度は私のスマホが鳴った。相手はもちろん義父だった。
「おい、嫁」
「私は嫁ではありません。母がつけてくれた、名前というものがあるんですが」
「黙れ。昨日の今日で謝罪のLINE一通もないのか。これだから育ちが悪い女は困る」
「謝罪とは、私が殴られた件ですか」
「そうだ。貴様の顔が硬くて手が腫れた。被害者は俺だ」
「被害者は私です。診断書も取りましたよ」
「掃除ババアの娘の顔なんてどうでもいい。それよりお前、週末俺の家に来い」
「お断りします。行く理由がありません」
「たまった洗濯物と掃除をやれ。あと草むしりもだ。嫁が逃げたから、代わりの働き手が必要なんだよ」
「私はあなたの家の人間ではありません。それに、今は安静で動けないんです」
「はあ、安静だと。病気じゃないんだから甘えるな。昔の女は田んぼで産み落として、すぐ働いてたぞ」
「いつの時代の話ですか。知識が古すぎます」
「口答えするな。言う通りにしろ」
「本当にデリカシーがない方ですね」
「俺らの時代は熱があっても働いた。とにかく来い。這ってでも来い。来なかったら嫁の会社を潰すぞ」
「夫の会社への業務妨害ですか」
「融資の話だ。俺の一言で倒産させることもできるんだぞ。お前がサボれば旦那は無職だ。いいのか?」
「お父様の人間性が疑われますね」
「うるせえ。土曜の朝八時に来い。遅刻は許さん」
電話が切れた後、私は大地に LINE を送った。
「大、お父さんから連絡が来た。週末掃除に来いって。行かなかったらあなたの会社を潰すって」
「俺のところにも来てた。マジで狂ってるな」
「悔しいけど、私が行くしかないのかな。私のせいで仕事がなくなるのは嫌」
「駄目だ。絶対に行くな。安静にしてなきゃいけないし、お腹の子もいるんだ。万が一のことがあったらどうするんだ」
「でも、このまま本当に無視していていいの?」
「行く必要はない。今はお腹の子のことだけを考えよう」
「分かった。ありがとう」
翌日、また義父からの連絡。
「おい、底辺ババア、生きてるか」
「早朝から電話とは、ご機嫌ですね」
「娘のせいで手が痛いから、弁償しろ。あと慰謝料百万円用意しろ」
「娘が暴力を受けたのに、こちらが払うのですか?」
「俺の手は超高級なんだよ。エリート銀行員の手だぞ。掃除ババアの娘の顔とは価値が違う」
「相変わらず随分と自己評価が高いんですね」
「嫌ならいいぞ。その代わり、娘の旦那は無職になるだけだ」
「旦那はあなたの息子でもあるんですよ」
「関係あるね。連帯責任だ。あと、娘も教育しておけ。俺の誘いを無視しやがって」
「娘は体調が悪いと聞いております。何に誘ったんでしょう」
「うちの家事をさせるんだよ」
「はあ。妊娠初期の大事な時期ですよ。安静で動けないというのに」
「病気に決まってんだろ。金で払うか、体で払うか選べ」
「体でとは、どういう意味ですか」
「労働だよ。お前、俺の銀行で掃除してるよな。俺も今から行くから玄関で待ってろ。靴磨きさせてやる」
「それは清掃員の業務外です」
「俺がルールだ。文句があるなら、遠藤に取り次いで首にしてやるぞ」
「遠藤さんと知り合いなのですか?それはすごいですね」
「ビビったか。五分後に着くから、玄関で待機してろ」
数分後、銀行に着くと、義父が言った。
「人が見てるから靴磨きは中止だ。三階の男子トイレに来い」
トイレに着くと、彼は清掃をやり直すよう命じた。
「俺が汚したら、掃除しろ。床も便器も全部だ」
「分かりました。他の方の迷惑になりますから、すぐに再清掃いたします」
「あと、さっき廊下ですれ違った時、なぜ挨拶した」
「挨拶は社会人のマナーですので」
「ゴミが人間に話しかけるな。部下に知り合いかって聞かれただろう。次、俺が通る時は壁に張り付いて気配を消せ」
「忍者にはなれませんが、努めます」
数日後、義父がまた送ってきたのは、私がトイレ掃除をする動画だった。
「動画を見たか。掃除ババアが必死に雑巾をかけてる様が面白いんだよ。部下に監視させて撮らせてる」
「こんなことして恥ずかしくないんですか。中学生みたいなことをして低レベルすぎます」
「うるせえ。母親が掃除してるなんて、恥ずかしくて無理だな」
「誰かがやらなければならない仕事です。職業に貴賤はありません」
「でも俺はやらない。なぜなら勝ち組だからだ」
「後悔しても知りませんよ。私は忠告しましたからね」
「負け犬の遠吠えだ。お疲れさん」
翌日、今度はパーティーの招待が届いた。
「週末、俺の家でパーティーをやるんだ。銀行の役員も来る大事なパーティーだ。お前、そこで給仕をしろ」
「私がですか?」
「メイド服を用意したから、来て酒を注げ。若い女がいた方が場が盛り上がるんだよ」
「本気でおっしゃってるんですか。妊婦にメイド服を着せるなんて、どういう神経ですか」
「まだ三ヶ月だろ。エリートたちの相手ができるんだぞ。光栄に思え」
「お断りします。お腹の子に悪影響ですし、常識で考えてありえません」
「はあ。俺の顔を潰す気か。息子の会社がどうなってもいいんだな」
「またその脅しですか?権力を振りかざして恥ずかしくないんですか」
「泣けば済むと思うなよ。当日来なかったら入籍は許可しないし、お前の実家ごと潰してやる。お前の母親は俺のビルで掃除してるよな。清掃業界から締め出してやる。母ちゃんを路頭に迷わせたくなければ、這ってでも来い」
私は母に電話をした。
「お母さん、スクショ見てくれた?メイド服を着て行けって」
「行かなくていいし、着なくていいわ。お腹の子を守ることが最優先よ」
「でも、私のせいで大地の会社が潰れたら」
「大丈夫。お母さんに任せなさい。動画も見たよ。トイレの床を拭いてるやつ。あなたもひどい目に遭ってるなんて、耐えられない。どうしてあんな人の言いなりになってるの?」
「私が考えもなくそうしてると思う?」
「思わないわ」
「私が小学校の頃、みんなに無視された時、お母さんが毎日通学路に立ってニコニコとクラスメイトに微笑みかけてたよね」
「懐かしいわね」
「あの時は、怒鳴り込んでくれた方がまだいいのにって思ったけど、違った。敵意を持って接してくる人に対して、敵意を向け続けるのは心理的に難しいんだよね。あれを毎日続けてくれた結果、みんな普通に話してくれるようになったの」
「よく分かってるわね。でもあれは相手が子供だったから通じたの。今回は手ごわいわね」
「だから心配なんだよ」
「今回もお母さんを信じなさい。安心して。私が全部まとめて片付けるわ。あなたはスマホの電源を切って、ゆっくり寝てればいいの」
パーティー当日、母が義父の家に向かった。
「うちの娘を勝手にメイドにしないでいただけますか」
「しつけだよ。しつけ。妊婦にメイド服など言語道断だ。娘は欠席させます」
「はあ?ふざけんな。娘が来ないなら、息子の会社を潰すぞ」
「でしたら、私が代わりに伺います」
「お前がババアのメイド服で来たって、誰が見たいんだよ。目が腐るわ」
「メイドではなく、給仕として伺います。例の慰謝料百万円もお持ちします」
「おお、それなら面白いかもな。銀行の役員の前で底辺清掃員の土下座が拝める。最高の余興になるわ」
「私を見物にするのですか?」
「嫌ならいいぞ。娘を引きずって連れてくるから」
「だから、私が行くと言ってるでしょう」
「よし、決まりだ。格好はもちろん作業着だ。一番汚いので来い」
「承知いたしました。楽しみにしております」
パーティー当日、母は庭に立たされ、恥をかかされた。義父はスマホで動画を撮りながら嘲笑った。
「みんな汚いババアだなって顔してるぞ。これで満足か?俺に逆らったことを後悔してるか?」
「いえ、仕事ですので」
「強がるなよ、ゴミが」
その時、義父の部下が駆け寄ってきた。
「奥田さんが見てます。何かまずいんでしょうか。遠藤さんがこっちに来られます」
「遠藤だと?なぜ呼んでないのに来てるんだ。隠れろ。柱の裏に行け」
義父は柱の影に隠れた。だが、遠藤氏は母の前で深々と頭を下げた。
「おい、お前、あの遠藤がなぜババアに頭を下げてるんだ。何がどうなってる?」
「当然の光景です。母はサクラグループの会長ですから」
「会長?誰のことだ?」
「私の母のことです」
「はあ?グループの会長が、自分のビルのトイレを掃除するわけがないだろう」
「このビルはね、亡き夫と最初に建てたビルで、私たちの原点なんですよ。掃除は全ての基本です。私は初心を忘れないために、毎日自分の手で床やトイレを磨いているのです」
「嘘だ。あんな格好してたら、誰だって清掃員と間違えるに決まってるだろう」
「それでいいんです。その方が、その人の本質が分かるでしょう?あなたの本性も、嫌というほど見えましたよ。遠藤さんとは久しぶりに会ったので、全てお話ししておきました」
義父は顔色を変えた。
「すみません。知らなかったんです」
「あなたほど清掃員を見下す人もいませんよ。仲間のパートさんたちが怒るのをなだめるのが大変でした」
「許してください。靴でも便器でも舐めます」
「そうですか。では明日からお願いします。あなたが職を失うから、清掃の仕事を紹介してあげようとしただけです。許すなんて一言も言ってませんよ」
「申し訳ありません」
「あなたのような父親のいる家に娘をやるのは迷いましたが、大地君も縁を切ると言ってますし、安心しました」
「ちょっと待ってください。大事な一人息子なんです」
「大事なのに、倒産だと脅したんですか?その上、息子が選んだ相手をメイドにして見物にしようとしたのは誰ですか?」
「あれはちょっとした悪ふざけで」
「あなたに命令されたとはいえ、私を蹴った部下もいましたね。その部下たちは明日から来なくていいです。解雇ですから、退職金も出ませんよ」
「俺まで、こんな。定年まであと二年です」
「しつこい。あなたは明日からトイレ掃除を頑張ってくださいね」
義父は肩を落としながら、今度は息子に電話をかけた。
「お前の母ちゃんに言ってくれ。首になりそうなんだ。義父のピンチを救うのも、嫁の仕事だろう」
「私を嫁じゃなくて奴隷扱いしようとしたのに、助ける義理があるでしょうか」
「母さんそっくりの、したたかな女だな」
「母に似てるのは光栄です」
「大地と結婚したいんだろう。俺が認めんぞ」
「あなたの許可は不要です。今までのことは謝る」
「銀行員の退職金がいくらか知ってるのか。それに息子の会社に口利きしたのは俺だぞ。今すぐ首にさせることだってできるんだ」
「その件ですが、大地が上司に確認しました。そんな事実はないし、あなたのことも知らない。実力で入ったんだと言われたそうです。それに、大地は出世コースから外れてますよね。それなのに、どうしてそこまで偉そうにできたのか。私たちは不思議に思ってたんですが、虚勢を張ってただけだったんですね」
「ふざけやがって」
「あれだけのことを言われたんです。最後に、これくらい言わせてもらってもいいですか?」
「良くない」
「私には随分と強気なんですね。さっき母にはペコペコしてたのに。LINEのスクショもらってます。便器を舐めるほど反省してるように見えないので、そのように母に伝えておきますね」
「待ってくれ」
「母と遠藤さんは、月に一度ワインを飲む仲です。今更言い訳しても無駄ですよ」
「な、ナナちゃん。出産祝いは何がいいかな」
「気持ち悪いんですけど。銀行員としての道が閉ざされたからって、義父経由で近づこうとしないでください。安静にしてるので、妊娠中はトイレ掃除しないでください」
「マジで体調が悪化します。二度と連絡してこないでください。母の許可が降りたので、やっと夫婦でブロックできます」
「待ってくれ、ナナちゃん」
「ああ、吐きそう」
数分後、大地に電話が入った。
「終わった。息子からも嫁からも絶縁されたよ」
「本当にお気の毒なことです」
「本当にそう思うなら、どうにかしてくれよ」
「思いません。社交辞令でした。大体、俺を騙したのはそっちじゃないか」
「清掃員だと名乗ったのは、あなた自身でしょう」
「仕事をしてるのかと聞かれたから、清掃員だと言ったまでです」
「その嘘のせいで、俺は全てを失ったんだ」
「経営に関わる実務は優秀な部下に任せています。私はグループの顔を守るために、各所に清掃員として潜入してるだけです」
「意味が分からないよ」
「あなたもそうだったように、この制服を着てるだけで相手の本音が透けて見えるんです。見下す人、感謝する人。本当に、それぞれで面白いものですよ」
「それで、今まで何人首にしてきたんだ」
「まあ、それなりにはいましたね」
「悪趣味じゃないか」
「バケツで水をかけた社員がいましたが、それは犯罪です。相手が私だろうとパートの仲間だろうと、許しませんよ」
「それと、先ほど清掃の仕事を紹介すると言いましたが、あれは間違いでした」
「は?今さら何を言ってるんだ」
「あなたは、娘への傷害罪で逮捕されます。結婚式の日の殴打事件です」
「証拠がないだろう」
「二人の目撃証言がありますし、診断書もあります」
「ここまでするか。俺は向こうの父親だぞ」
「こういう時だけ身内の顔をしないでください。被害届を出すのは、大地君のたってのお願いなんです」
「嘘だろ?息子が言ったのか?」
「最後くらい、親父が正しいことをする背中を見たい。そう言ってましたよ」
「俺だって、大地が十七歳の時に妻を失って、そこから頑張ってきたんだ」
「お涙頂戴を語られても、奥様を亡くした後すぐに女性と交際して、家にはほとんどいなかったと聞いております」
「本当に、同情の余地がない方ですね。おかげでこちらもスパッと切り捨てられます」
翌日、義父は警察に送られた。調べが進むと、銀行時代の横領も発覚した。被害総額は八千万円。懲役七年の実刑判決で、冷たい独房に叩き込まれた。退職金はゼロ。賠償金とローンで借金は一億五千万円。すべてを失い、刑務所暮らしとなった。
刑務所では「泥棒銀行員」と受刑者からいじめられ、彼が一番嫌っていたトイレ掃除を毎日させられているという。俺は偉いんだと泣き叫んでも、誰もビビらないし、助けてもくれないだろう。絶縁した大地はもちろん、部下からも嫌われていた彼のもとに、面会に来る人は誰もいなかった。誰からも愛されず、孤独に朽ちていく惨めな道だった。
一方、大地は父との決別を糧に、仕事に励んだ。母の銀行からの融資も受け、会社で高く評価されて給料も上がった。私も無事に女の子を出産した。母も夫も娘にメロメロで、大地は「あんな親父にはならない」と育児に協力的だ。母が磨いた床のように曇りのないこの幸せを、家族みんなでずっと守っていきたいと思う。
