お母さん、今日はお祝いですけど、これが最後の贅沢ですからね。
最後の贅沢?
はい。皇一さんのお金で贅沢するのは、今日で最後にしてください。
長男の嫁は、きれいに盛り付けられた料理の向こう側で、そう言い放った。目の前には、祝いの席とは思えないほど美しい皿が並んでいる。光一は、信じられないものを見るように妻の霊子を見つめていた。
私は箸を置き、静かに口を開いた。
わかりました。では、今日の食事代は割勘にしましょう。
え?
それから、明日から全部割勘にしましょうか。だって、あなたも自分の分は自分で払うべきでしょう?
霊子の顔から、一瞬で笑顔が消えた。
私の名前はさち子。六十五歳。二年前に夫を病気で亡くし、今は長男の高一とその妻の霊子、五歳になる孫の優太と暮らしている。
ただし、私は長男夫婦の家に世話になっているわけではない。ここは、私と亡き夫が三十年以上かけて守ってきた、私名義の家だ。
夫が亡くなって半年ほど経った頃、高一が言った。
母さん、一人で暮らすのは心配だよ。俺たちがそっちに引っ越そうか。
でも、霊子さんが嫌がらないかしら。
そう尋ねると、高一は笑った。
霊子の方から言ったんだよ。お母さんと一緒なら、優太も喜ぶって。
後日、霊子本人からもこう言われた。
私、お母さんのお料理をもっと教えてもらいたいんです。
そう言われて、私は同居を決めた。
最初の二か月は、本当に穏やかな毎日だった。夕食は私と霊子が交代で作り、手の空いた方が洗濯や掃除をした。霊子が買い物に行く間は、私が孫を見た。
バーバ、一緒に積み木しよう。
優太は毎日のように、私の部屋へ来た。高一も、母さんがいてくれて助かるよと笑っていた。家族が増え、寂しかった家に、再び声が戻ってきた。私はそれだけで幸せだった。
ところが、同居を始めて二か月が過ぎた頃、霊子の態度が突然変わった。
ある日、私は少し寝坊してしまった。慌てて台所へ行くと、食卓には高一と霊子と優太の分だけ、朝食が並んでいた。
ごめんなさい。寝坊しちゃって。
私が言うと、霊子は振り返りもせずに答えた。
お母さんの分はありません。ご自分で用意してください。もう、皆食べ終わりますから、早くしてもらえますか?
理由を尋ねることもできず、私は自分でパンを焼いた。
その日の洗濯も同じだった。洗濯機の横に、私の服だけが残されていた。
霊子さん、私の洗濯なんだけど。
ああ、それですか。霊子はにやりと笑った。私は家族の分だけ洗濯しますので、お母さんの分はご自分でお願いします。
家族の分だけ。
その言葉が胸に刺さった。
私は、家族じゃないの?
そう尋ねたかったけれど、優太の前で騒ぎたくはなかった。
夕食も、私の分だけ用意されなくなった。私が台所に立つと、「うちの家族の分は作らなくて結構です」と止められた。
でも、高一は私の煮物が好きだから。
高一さんも優太も、もっと若い人向けの料理が好きなんです。お母さんの料理は地味ですから。
そう言われ、私は自分の分だけ煮物を作った。その日の夕食は、三人がハンバーグ。私は里芋の煮物だった。
高一が不思議そうに尋ねた。
母さん、ハンバーグ食べないのか?
私が答えるより先に、霊子が笑った。
お母さん、脂っこいものは控えたいんですって。
そうなのか。母さんも健康には気をつけないとな。
悪気なく笑う高一に、私は何も言えなかった。
後になって分かったことだが、霊子は高一にこう説明していたらしい。お母さんは自分のことは自分でやりたいみたい。台所に二人で立つと気を使うから、一人で料理したいって。
そうか。
息子夫婦を揉めさせたくない。私さえ我慢すればいい。そう考えて、私は黙っていた。
しかし霊子の態度は、日に日に冷たくなっていった。私が台所にいると「お母さん、お疲れならお部屋で休まれたらどうですか」と追い出され、私が掃除を手伝おうとすると「勝手に触らないでください」と止められた。
それなのに、夜になると霊子は高一に言った。
今日も一日中忙しかった。お母さんは何も手伝ってくれないし。
高一から「母さんも、少しくらい霊子を手伝ってやってくれよ」と言われた時は、さすがに胸が痛んだ。けれど、私は笑って「そうね、ごめんなさい」と答えた。
やがて、私は自分の部屋で過ごす時間が増えていった。
そんなある日、優太が私の部屋へ入ってきた。
バーバ、これあげる。
差し出されたのは、折り紙で作った小さな花だった。
ありがとう。綺麗ね。
バーバ、元気ないから。
子供にまで気を使わせてしまったと思うと、涙がこぼれそうになった。
その時、玄関でチャイムが鳴った。また霊子宛ての荷物だった。このところ、ほとんど毎日のように宅配便が届いていた。
優太は無邪気に言った。
ママ、またバッグ買ったんだよ。ネックレスも指輪もいっぱいあるよ。パパには内緒なんだって。
私は胸騒ぎを覚えた。そういえば、郵便受けには何度か、カード会社や消費者金融から高一宛ての封書が届いていた。当然、中身を開けたことはない。けれど、家計を全て霊子に任せている高一が、複数の金融会社を利用しているとは思えなかった。
数日後、友人と喫茶店へ行って帰宅すると、霊子が玄関で待っていた。
また遊びに行っていたんですか?
ええ、昔からの友人と少しだけ。
霊子は大きくため息をついた。
高一さんのお金を使って、随分楽しそうですね。
どういう意味?
とぼけないでください。毎月、高一さんからお金をもらっているんでしょう?
私は高一から、一円ももらっていないわ。
そんなわけないでしょう。年金だけで、そんなに遊び歩けるはずありません。
私は自分の通帳から生活費を出している。家に入れている食費や光熱費も、毎月かなりの金額だ。それでも霊子は、私が高一の収入に頼っていると思い込んでいた。
いや、思い込んでいたのではない。自分の浪費を隠すため、私を金食い虫に仕立てようとしていたのだ。
私はその日から、家計に関する領収書を整理し始めた。固定資産税、水道代、食材費、優太を預かった日に使ったお金。同居が始まってから私が負担した金額を、全て一覧にした。
そして高一にも、さりげなく伝えた。
あなた宛てに、金融会社から郵便が届いているけど、大丈夫なの?
金融会社? 高一の表情が変わった。俺、そんなところから借りてないよ。
一度、通帳やカードの明細を確認した方がいいんじゃない?
その夜、高一が明細を確認しようとすると、霊子は「今度まとめて見せる」と言って、話をそらしたらしい。
そんな中、私の誕生日が近づいた。
母さん、生活も落ち着いたし、改めて誕生日を祝わせてよ。
高一が高級料亭でお祝いをしようと言ってくれた。それだけで、私は嬉しかった。
そんな高いところじゃなくてもいいのよ。
母さんにはずっと助けてもらってるから、これぐらいさせてよ。
意外にも霊子も笑顔で賛成していた。私は少し不安だったが、息子の気持ちを受け取ることにした。
そして当日。
料理が半分ほど運ばれた頃、霊子が突然言った。
お母さん、今日はお祝いですけど、これが最後の贅沢ですからね。
最後の贅沢?
はっきり言わせてもらいます。高一さんのお金で遊んだり、高いものを食べたりするのはやめてください。
霊子、何を言ってるんだ?
高一が止めたが、霊子は続けた。
同居してから、毎月いくらもらっているんですか? お母さんに渡すお金がなければ、私たちはもっと貯金できるんです。
私は静かに箸を置いた。
わかりました。では、今日の食事代は割勘にしましょう。
は?
高一のお金を使うなと言うなら、あなたも自分の分は自分で払うべきでしょう。
霊子の顔が引きつった。
それから、この家の家賃も光熱費も固定資産税も、全て割勘にしましょう。
家賃って、何を言っているんですか? 家族なのに。
私を家族の食事や洗濯から外したのは、あなたでしょ。
霊子は黙り込んだ。
私は用意していた封筒をテーブルに置いた。
あなたたちが同居を始めてから、私が負担した費用がまとめてあります。
高一が書類を見て、目を見開いた。
母さん、こんなに払ってたのか。
あなたから生活費をもらったことは、一度もないわ。この家も、私の名義です。
霊子の声が震えた。
それより高一、今すぐ自分の口座とカードの明細を確認しなさい。
高一がスマートフォンを取り出すと、霊子が慌てて立ち上がった。
こんな場所でやらなくてもいいでしょう。
どうして? 確認されたら困ることでもあるの?
しばらく画面を見ていた高一の顔が、青ざめた。
霊子、これは何だ?
何って?
毎月のキャッシング。カードのリボ払い。知らない買い物が、何十件もある。
霊子は目をそらした。
見積もりを含めた総額は、二百八十万円を超えていた。高一の給料が振り込まれる口座から、毎月のように高額な買い物代金が引き落とされ、不足した分をキャッシングで補っていたのだ。
俺が渡していた生活費は、どこに行ったんだ。
仕方ないでしょ。
霊子は突然、声を荒げた。
お母さんと暮らすのは、思った以上にストレスだったのよ。
母さんが何をしたんだ。
何をするにも遅いし、古臭い料理ばかり作るし、見ているだけでイライラするの。
私はようやく理解した。霊子が私を家事から外した本当の理由。宅配便や郵便物を見られたくなかった。高一と私が話す時間を減らしたかった。そして、自分の浪費を疑われる前に、私をお金のかかる厄介者にしておきたかったのだ。
だから、私を家族から外したのね。
私が言うと、霊子は吐き捨てた。
だって、本当に邪魔だったんです。
その時、それまで黙っていた優太が、泣きそうな声で言った。
ママ、バーバは邪魔じゃないよ。
全員が優太を見た。
バーバも家族だよ。バーバの煮物、僕好きだもん。
霊子は何も答えられなかった。
高一はスマートフォンを置き、低い声で言った。
霊子、今日は実家に帰ってくれ。
待ってよ。もう買い物しないから。
問題は買い物だけじゃない。母さんを傷つけ、俺にも嘘をついた。
家族でしょ。一緒に借金を返してよ。
すると私は、霊子の目を見て答えた。
都合のいい時だけ、私を家族にしないでちょうだい。
その後、高一が家計を詳しく調べると、霊子の使い込みは予想以上だった。話し合いの場でも、霊子は「霊子さんと同居が悪かった」と責任を押し付け、最後まで反省しなかった。
数か月後、高一は離婚を決断した。借金は霊子自身が返済することになり、今は実家近くのアパートで働きながら返しているそうだ。
私たちは、誕生日祝いをやり直した。高級料亭ではない。家の食卓に、私の作った煮物と、高一が作った唐揚げを並べた。
優太は煮物を口いっぱいに頬張りながら言った。
やっぱりバーバのご飯が一番美味しい。
高一は申し訳なさそうに頭を下げた。
母さん、気づけなくてごめん。
私は首を振った。
もういいの。これからは、ちゃんと話をしましょう。
一人で暮らす寂しさよりも、家族の中で一人にされる寂しさの方が、ずっと苦しい。
けれど、私はもう我慢して黙ることはやめた。今では三人で食卓を囲み、同じ料理を食べている。そこには、誰か一人だけの皿が残されることも、「家族の分だけです」と言う人もいない。
この家は今日も、優太の笑い声と、温かい料理の匂いに包まれている。
