「実家に帰るなら、二度と戻ってくるな。どうしても行くというのなら、離婚届を書いてから行け。」
夫はそう言って、私の前に一枚の紙を叩きつけた。きっと夫は、私が泣いて謝ると思っているのだろう。けれど私は、震える手でペンを取った。そして迷うことなく、自分の名前を書き入れた。
「わかりました。もう二度と戻りません。」
夫の顔から、みるみる血の気が引いていく。その時、私は長い結婚生活の中で初めて、自分の人生を自分で決めた気がした。
私の名前は麻野ゆみ子。五十五歳。夫の浩司とは大学時代に知り合い、二十五歳で結婚した。夫は昔から人当たりが良く、頭の回転も早い人だった。会社では部長を務め、近いうちに専務になると周囲からも期待されていた。でも、夫は家に帰ると別人になった。
ある日の夕食で、夫は味噌汁を一口飲むなり箸を置いた。
「なんだこの薄い味は。毎日家にいるくせに、飯もまともに作れないのか。」
「ごめんなさい。少し味を足します。」
そう言って立ち上がろうとすると、夫はテーブルを強く叩いた。
「言い訳するな。俺に恥を欠かせたいのか。」
学生時代の友人と電話している時もそうだった。久しぶりに話せることが嬉しくて、私は近況を話し合っていた。すると夫は私の手から携帯電話を奪い取り、
「妻は忙しいので、もう連絡しないでください」
そう言って一方的に電話を切ったのだ。
その夜、夫は私に言った。
「お前みたいな世間知らずが、外の人間と関わったっていいことはない。俺が守ってやってるんだから、余計なことはするな。」
私は専業主婦だった。自分の収入もなく、母は十年前に亡くなっている。父は私が幼い頃に家を出たきりだった。行く場所も、頼れる人もいない。そんなある日、夫の専務昇進が延期になった。夫は帰宅するなり鞄を床に投げた。
「役員どもは何も分かってない。俺がいなければ会社は回らないのに。」
私は黙って散らばった書類を拾った。すると夫は私の手元を見て言った。
「お前はいいよな。何の責任もなく、家にいるだけなんだから。」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが切れた。私は勇気を振り絞って、夫に言った。
「明日、母のお墓参りに行かせてください。」
夫は新聞から顔も上げなかった。
「だめだ。」
「一日だけでもいいんです。もう何年も行けていないから。」
すると夫はため息をついて言った。
「死んだ人間に会いに行って何になる。そんな無駄なことに、俺の金を使うな。」
その瞬間、悲しみより先に怒りが込み上げた。私はどれだけ傷ついても夫に逆らわないようにしてきた。けれど母まで侮辱された時、もう我慢できなかった。
「あなたに、母のことをそんな風に言う権利はありません。」
夫がゆっくり顔を上げた。
「今、何て言った。」
怖くないと言えば嘘になる。足は震え、喉も乾いていた。それでも私は夫から目をそらさなかった。
「私は明日、実家に帰ります。」
夫は立ち上がり、書斎の棚から一枚の紙を取り出した。そして私の前に離婚届を叩きつけたのだ。
「そこまで言うなら、二度と戻ってくるな。離婚届を書いてから行け。」
夫は笑っていた。私が謝ると信じていたのだろう。けれど私はすぐにペンを取った。手先は震えていた。怖かったからではない。この一本の線を書けば、三十年近く続いた牢獄から出られる。そう思うと、涙が出そうになったのだ。
私は自分の名前を書き、離婚届を夫の前に戻した。
「明日の朝、役所に出します。」
夫は私の顔を見つめたまま、何も言えなくなっていた。
翌朝、私は小さな鞄だけを持って実家に向かった。母が残してくれた実家は、長い間誰も住んでおらず、玄関を開けると誇りっぽい空気と懐かしい畳の匂いがした。
仏壇を掃除していると、一番下の引き出しから古い封筒が出てきた。表には私の名前が書かれていた。封筒の中には、母の手紙と一枚の名刺が入っていた。
「ゆみ子へ。あなたのお父さんは、私たちを捨てたのではありません。事業の借金を背負い、私たちに迷惑をかけないため、離れることを選びました。何度もあなたに会いたいと手紙をくれましたけれど、私はあなたが混乱すると思い、合わせる勇気が持てませんでした。これは私の弱さです。あなたがいつか自分の人生を選び直したいと思った時、お父さんに連絡してください。あの人は、今もあなたを大切に思っています。」
手紙を読み終えた私は、しばらく動けなかった。夫から「お前には誰もいない」と言われるたび、私はそれを信じてきた。けれど本当は、私を思ってくれている人がずっといたのだ。
私は名刺に書かれた番号へ急いで電話をかけた。何度か呼び出し音が鳴った後、低く穏やかな声が聞こえた。
「はい、酒井です。」
私は震える声で言った。
「酒井正さんですか。ゆみ子です。母の手紙を読んで、電話しました。」
その日の夕方、父は実家へ来た。白髪が増え、背中も少し丸くなっていた。それでも私を見る目だけは、幼い頃の記憶と同じだった。父は私の前で頭を下げた。
「会いに行けなくて、本当に済まなかった。」
その夜、私は父に全てを話した。夫から言われてきた言葉、友人との連絡を断たれたこと、自分には何もできないと思い込まされてきたこと。父は一度も口を挟まず、最後まで聞いてくれた。そして静かに言った。
「ゆみ子、お前は逃げてきたんじゃない。生きるために、ここへ帰ってきたんだ。」
私はその言葉を聞いて、また涙を流した。結婚生活で、誰かに肯定されたことなど一度もなかったからだ。
父はしばらく黙っていた。そして苦しそうに目を伏せた。
「浩司君が、そんなことをする夫なのを知っているのか。」
父はしばらく迷った後、静かに頷いた。
「浩司君が勤めてる麻野正司。その社長である麻野社長とは、昔からの知り合いなんだ。まだ会社が出来たての頃の取引先でね。もちろん、お前が浩司君と結婚したことも知っていた。」
私は思わず父の顔を見た。
「だったら、どうして……」
「お前の前に出ることで、お前の幸せを壊したくなかった。だから朝子さんの社長に頼んで、言わないようにしてもらっていた。」
父は唇を噛しめた。
「年に一度だけ、お前が元気にしているか聞いてたんだ。幸せに暮らしていると聞いて、安心していた。」
そして父は震える声で続けた。
「だが、私はお前が助けを求めていることに、何一つ気づけなかった。」
父はそう言うと、朝子の社長、つまり夫の父で私の義父に電話をかけた。
翌日、父は朝から実家に来てくれた。その少しあと、義父もやってきた。私と夫の事情を聞いた義父は、しばらく黙っていた。私は夫の味方をされるのではないかと不安になったけれど、義父は深く頭を下げた。
「ゆみ子さん、もっと早く気づけなくて、本当に申し訳なかった。息子を守ることと、息子の間違いを隠すことは違う。」
その日の夕方、義父は夫を呼び出した。夫は部屋に入るなり、私を睨みつけた。
「ゆみ子、お前、親父に何を言ったんだ。」
「浩司、まず座れ。」
夫は不満そうに座ると、私を指さした。
「こいつは何もできない女なんだ。俺が面倒を見てやってた。少し厳しく言っただけで、大げさに騒いでるんだよ。」
義父の表情がゆっくり変わった。
「お前は、ゆみ子さんが何もできないから、自分が支えていたというのか。」
「そうだよ。俺がいなきゃ、生活もできない。」
すると義父は机の上に一冊の資料を置いた。
「お前の昇進がなぜ延期になったか、分かるか。役員たちが、お前を後継者として認めなかったからだ。」
「そんなはずない。俺は会社に必要な人間だ。」
義父は首を振った。
「お前の案件は、部下たちが支えていた。問題が起きるたび、周囲が頭を下げていた。それでも、私が息子だからと目をつぶってきた。」
夫は何も言えなかった。
「家庭で一番近くにいる人間を支配し、自分を大きく見せようとする者に、社員を任せることはできない。今日を持って、お前を後継者候補から外す。」
夫の顔が真っ青になった。
「待ってくれよ、親父。ゆみ子、俺が悪かった。やり直そう。お前だって、一人じゃ困るだろ。」
夫は私の手を掴もうとした。私は一歩後ろへ下がった。以前の私なら、その声だけで体が動かなくなっていたかもしれない。けれど今は違った。私は夫の目を見て、はっきり言った。
「あなたは私を失うのが怖いのではありません。自分の世話をする人がいなくなるのが、怖いだけです。」
夫は口を開けようとしたが、何も言葉が出なかった。
「私はもう、あなたに価値を決めてもらいません。あなたがいなくても、私は生きていけます。いえ、あなたがいない人生を、これから行きたいんです。」
夫は助けを求めるように父親を見た。けれど義父は目をそらさなかった。
「浩司。これからは、自分で自分のしたことと向き合え。」
その後、財産分与や慰謝料については、全て弁護士を通した。夫から何度も連絡があったけれど、私は一度も応じなかった。
私は父と一緒に、古くなった実家を直した。庭の草を抜き、破れた障子を張り替え、母が好きだった花を植えた。家が少しずつ明るくなるにつれて、私の心も軽くなっていった。
ある日、父が母の写真を抱えて言った。
「三人で、どこかへ行こうか。」
私たちは、母が生前行きたがっていた京都へ行った。夕暮れの寺で、父は母の写真に向かって言った。
「ゆみ子は、ちゃんと自分の人生を選んだよ。」
私は空を見上げた。夫と暮らした年月を取り戻すことはできないけれど、これから先の時間まで失ったわけではない。私が取り戻したのは、奪われた過去ではない。残りの人生を、自分で選ぶ権利だったのだ。
